フリースペース「したいなぁ~松戸」&松戸-登校拒否を考える会「ひまわり会」
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会報より

安心体験と自己肯定
25号 97年10月 代表 松村正子

 松戸-登校拒否を考える会を創めて4年、新松戸の共同事務所スペース点に移転し若者たちが集まるようになって、今夏で満2年が過ぎ3年目に入りました。

 最初は無口だった子が今では身体中で笑うようになりました。松戸の会の経済的部分は自立にほど遠いのですが、若者たちは確実に自立・自律の道を進んでいます。雑誌などでバイトを積極的に探し出し働く若者が増えてきました。したいなぁ~の行事やイベントのなどの話し合いも、自発的に会合を持ち松村が留守でも若者仲間だけで話を進めています。

 1,2年前の様子は意見をいう人が固定していましたし、空白の時間が生じがちでした、何よりも話の途中からだんだん人数が少なくなっていました。久し振りに話し合いの場近くで聞いてると(話に参加しているのではない時も)、それぞれが自分の意見をいい、人の考えもよりよく理解しようとする姿勢がはっきり見られます。なぜなら、
a 特定の話し手に固定しない。
b 他の人の意見に質問がとぎれなく続く。
c 途中で席を立つ若者が激減した。
 そして松村が何より「ステキ」なことだと思うことは、
d 自分の意見への反論も冷静に聴きさらにお互いの意見交換を続ける ことです。

 言葉にすると簡単ですけれど大人でも難しいと思います。職場やPTA、町会、スーパーの立ち話でも自分への反対意見を最後までしっかり聴き、さらに会話を続けるためには途中で席を立ったり仲間と一緒にいるだけで聞いてるふりではだめ。想像する以上の集中力が必要だし何よりも大きな忍耐が不可欠です。したいなぁ仲間たちの経験値は確実に上がってきています。

 とにかく、「ゆっくり休む」「まわりでゴチャゴチャ言わない」「進路は子ども自身が見つける」のだと、全国の居場所の若者が実例で教えてくれています。

 先月号でもお知らせしましたが、「不登校に学ぶ船橋の会」などおおぜいの親や先生の前で自分の体験を話したいと言うようになりました。11/2に予定されているフリーマッケットの出店も、親の会と共同ではなく若者たちだけでやりたいと言い出すようになりました。このような話をすると親ごさんの中には「したいなぁ~の子どもは元気でいいですね」と言われる方がおられます。でも、仲間たちが始めから元気だったわけではありません。

 したいなぁ~仲間で一番長いSさん(15歳)は4年目、Mさん(16歳)、Mさん(16歳)は3年目、Aさん(18歳)Aさん(22歳)は2年目、O君(16歳)とH君(19歳)Y君(19歳)、Cさん(12歳)は1年目です。どの子も当初はほとんど口を開きません。今では毎回来ている仲間たちも最初の頃は毎回来るのは少数で、ほとんどの子は来たり来なかったりの繰り返しでした。毎回欠かさずに来るのがいいと言うつもりはありません。居場所の出欠も含め「自分の行動は自分で決める」ことを大事にしてほしいのです。

 家族には勝手気ままに自由な生活をしてるように見えますが、子どもは誰でも例外なく、大人が想像する以上に気を使って生活しています。学校に行けないこと(行かないではなく)をしていることで、自分の存在までも否定しています。不登校しているだけでも家族に迷惑を掛けていると、強く自分を責めていることを賛成でなくても理解してください。

 不登校の自責に加えて、さらに転校、進路変えなどをした子は経済負担もさせてしまったと自責の重みを増やしています。子どもが気持ちの整理ができていない(疲れが癒されてない)時期は、家族の意向に添った(進路など)選択をしがちです。「高校に行きたい」とか「大検を受けて大学に行くんだ」という若者は多くいますが、たいていはこの時期の発言です。

 心底、進学を希望している子もいますけれど、進学・学習関係なら家族も喜んで受け入れてくれると思っていますし、やはり学校に行くことしか子どもの生きる道はないと切羽詰まった気持ちが言わせる場合もあります。ですから、高校進学しても休みがちになり中退の結果になる例が少なくありません。

 こう言うと、やっぱり不登校する子は我慢力がないとか意志薄弱だ、と思われる保護者がおられますがそうではありません。

 本当は何をしたくて何をしたくないのか? 自分の意志確認をする前に反対されないと思う範囲内で選択するのです。嫌だと思うことを正直に言って、認めてもらえない経験を学校内外で数々体験してきています。周囲の感覚と自分の想いが違うときでも、態度や言葉に出したらハズサレる恐怖体験が強く残っているため言わなくなってるのです。その意味では不登校の子は人一倍、我慢力が大きいといえます。

 そんな体験をしてきた若者たちですから正直に自分の感情を言い出すまでには、素直に言っても否定されないという安心体験が恐怖の記憶を追い越し、今のままの自分でいいんだと自己肯定するまで、ある程度の時間が掛かるのです。

 特に「俺はそう思わないよ」とか「それはやりたくないなぁ」というように、相手に否定的な気持ちを伝えるようになります。それには安心体験を数多くして学校以外にも生きる道があるんだと、自己肯定できるまで長い時間が必要なことをご理解ください。

 言い方を変えれば、今までの疲れをゆっくり癒している休養期間でもあります。しかし、この休養期間中でも若者の気持ちと周囲のおとな(家族・教師・身内の人たち)とボタンの掛け違いが起こりがちです。

 世間にある誤解の一つに、家庭(両親)がしっかりしていれば不登校にはならないというものがあります。できることなら不登校はしない方がいいと思うのは親として自然な感情ですが、「学校に行かないと将来生きる道が狭くなる」とか、「最低、高校卒業していないと就職できない」など、まったく根拠のない不安を家族が持っていると子どもは今以上に否定感覚を深めます。不安定な雰囲気の中では何か月、何年休んでも休養(エネルギー補給)はできません。

 これらの「ボタンの掛け違い」は、どの家庭でも通過する恒例行事(笑)のようなもので我が家でも体験しました。それだけに一人でも多くの親ごさんに早い時期からご理解いただきたいと思うのです。親ごさんの我が子を思い心配する気持ちはよくわかります。13年前の私がそうでしたから‥‥。しかし、親が不安を抱いて叱咤激励しても望んでいる好結果はえられません。悪影響は必ず出てきますけれど‥‥。まず親が元気だして、安心できる体験談をたくさん聞いてください。「カウンセリングだ病院だなんてことより、母ちゃんの笑顔が一番安心できたよ」という若者(現在20歳 中学不登校後 高1で中退)の言葉をかみしめてほしい‥‥。

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親と子の感覚のずれ
36号 99年10月 代表 松村正子

ある女の子から弾んだ声で電話がありました

 (父が)出掛けるときは母を送っていくだけって言ってたから、帰ったら車で連れてってもらおう(この子はまだ1人では外出できない)と待っていた。「初めはブスッとしてたけど、(父が)安心して休みなさいって、今まで悪かったって‥‥」と声をつまらせましたが、すぐ後どこにも行けなかった不満も忘れ、お寿司のお土産を二折も食べた。「太っちゃうかなあ?」と声を立てて笑ってました。

 保健室登校から適応教室に。「もう頑張れない‥‥」

 ご両親も子ども自身も教師の言う通りに出席の努力をしていました。卒業認定に出席日数は全く関係なく、子どもを苦しみを長引かせるだけなのです。父親に休むことを認めてほしいと言いたいが、「絶対、許してくれないと思う」と蚊の鳴くような声で言っていました。その理由は小学生の頃に、登校しぶりでグズグズしていて父親に強く叱られた。普段はやさしい父に怒られた一度の経験から怖くて登校した。「頑張って努力しないと社会に出てお前が困る」とやさしく言われ続け、<自己否定感>を強くさせていた。ガンバり続けて身体も精神もエネルギーを使い果たしてダウン。ダウン後も親へ申し訳ないし怖い思いがあるから家でも落ち着いて休めないと言っていた子です。

 1年ほど前、この子からの電話が始まりでした。多いときは週に2、3回電話がありました。最初は保健室の頃で、一通り保健室の居心地の悪さを言った後で「苦しいけどガンバります」と、ため息で吐き出すように言うのを聞くだけでした。お母さんと会ったのは適応教室に移った後で前記のいきさつが判りました。適応教室に行く前後から松村から親に自分のつらい気持ちを伝えてほしいと言い続けていましたが、いきなり会いに行っても話を聞いてもらえるかどうかわかりません。「お父さんが自分から私と会ってみようと思わなければ、話しても判ってもらうのは難しいのよ」と答える私もため息でした。そのお父さんがやっと仕事を休んでしたいなぁ~に来てくれた。半年間、母娘で言い続けた結果でした。母より父にベッタリだった1人娘さんが元気を失っていく日々。お父さんは「学校はもういい。ただ、笑顔で“お帰りなさい”と迎えてくれた、以前の元気を取り戻してほしいだけ」と言われました。

 娘さんの後でお母さんから連絡があり、今までは部屋へ運ばないと食べないし、量も細かった娘が寿司折を二つも食べた。何よりも娘と一緒に食事できたのがうれしい。父親がしたいなぁ~に行ったのがよほど嬉しかったのでしょうと言われました。でも娘さんが嬉しかったのは、自分を理解してくれている事を確認できたことです。したいなぁ~に来られたことは「確認材料」の一つにすぎないと思います。

 父親と娘さんの「感覚のずれ」にお気付きだと思います。このような親子感覚のズレは不登校に関係なくどの家庭でもみられます。しかし自分の想いと相手の想いがズレてることになかなか気付きません。この例で言えば、子どもは父親が「学校はもういい」と思ってることを知りません。お父さんも子どもが「怖くて言えない」なんて全く知りません。まず「ズレがある」のは、自分の家庭にもあることなのだと認識してほしいのです。次にズレを修復しようとするとき、ズレが誰のせいかと犯人捜しするのは無意味です。ズレを生じた原因は、子どもの感覚がおかしくなったせいだと思うのも、親の対応の悪さのせいだと落ち込むことも問題解決には何の役にも立ちません。前者の感覚の方は特にですし、後者の対応の後始末のやり方が判らないと思われた方も「赤沼先生と親の学習会」をオススメします。

 他にも父親と会話もなくなっていた子ども(中学2から不登校・現在16才)から「赤沼先生とまちゃこ(子どもたちは松村をこう呼びます)に会って話してほしい」という手紙をもらい、親の学習会に参加されたお父さんもおられます。
「妻や子どもから何度も参加してくれと言われていた。でも父親として、アレコレと注意されると思ってまして、コワイと言うとちょっと違いますが、何かこう、腰が引けるような感じがして‥‥でも来て良かったです」と言われました。似たようなことを言われる方は他にもおられます。注意・小言をと思われるのは、自分でアレコレ反省しておられる真面目な人柄の証拠だと思います。学習会だけでなく、誰もいない日を選んで話しにこられる親ごさんは皆さん、初めは涙目で話される方々が多いですが、落ち着かれると笑顔で次のように言われます。
「息子の言葉や態度が荒れ始めた頃は(子どもが)悪化したと思っていた。でも全く話さなかった子どもが話出したのは、良いことなのだと今なら判ります」
「子どもが不登校になってから、親として大事なことを教えられました」
「親の方が常識(学校)から離れられなかったんですよね」
「親が変われば子どもも変わるって本当なんですね」と。

 20年以上も前から、前出の“親と子の感覚のずれ”が全国の家庭で繰り返されています。成功例は千差万別ですが、我が家も含めて失敗例には共通する基本パターンがあります。
それは、親が頭の中で想像したことに捕らわれているからです。

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親が「頭の中で想像したこと」に捕らわれる
37号 99年12月 代表 松村正子 2004.2.12追記

 松村には3人の子どもがいます。3人とも同じ地元中学出身ですが卒業し高校ヘ進学したのは長女だけ、長男と次女は中学から不登校です。
 (2004年)現在、長男32歳、長女29歳、次女は24歳になりました。20年前、中1の5月に長男が学校にいかなくなったとき、子どもを学校にいかそう(変化させよう)と私も夫も悩みました。しかし、子どもを変化させようと思っていた頃は親子の感覚のずれに気付くことができませんでした。
 現在も12年前でも初めて相談に来られる方は“学校に戻れる”ことしか考えられない、他の考えを思う余裕がないのです。松村もかつてはそうでした。20年以上も前から、前出の“親と子の感覚のずれ”が全国の家庭で繰り返されています。成功例は千差万別ですが、我が家も含めて失敗例には共通する基本パターンがあります。それは、親が頭の中で想像したことに捕らわれているからです。

 親が我が子の不登校に気付くのは、子どもが学校に行かなくなってからです。でも子どもは休みがちになる(不登校)する前から何らかの違和感を学校で感じていたはずです。それでもガマンして通学していた。その“ガマン”が限界点に達して動けなくなった。ですから不登校することで違和感とガマンしていた疲れを癒しているのです。つまりマイナスになった工ネルギーを休むことで充電しているのですから、工ネルギーの充足ができれば必ず動き出します。

 しかしこの疲れを癒す期間を“そっと”しておくのが難しいのです。おとな(親・教師・親戚)たちが“そっと”しておきません。<どうしたら学校に行かれるようになるか>を、おとなは真剣に悩みます。その結果、子どもに学校に行かないとこんな不利益になる、こんな苦労が生まれると言って聞かせてしまいます。
大人の視点では“子どもへの愛情”ですが、子どもの視点では“叱られる”、あるいは“脅かされる”です。それも毎日毎日イヤになるほど、教師、親、親戚、クラスメート、近所の人たちなどから繰り返し<学校に行かないことは悪いことなのだ>を毎日毎日言われ続けます。これではマイナスになったエネルギーを充足することなどできません。
 子どもにとってイヤなことは“叱られる”“脅かされる”だけではありません。不登校の理由を何度も聞かれます。親は“不登校の理由(障害)を排除して学校に行かれるようにしよう”と思っているから理由を聞いてくるのだ、と子どもには手に取るように判ります。学校に違和感や疲れる原因があるから休んでいたいのに、安心して休めない危険は回避します。つまり学校に行かない理由を聞かれる状況を回避するために、部屋に閉じこもる・家族が寝静まってから階下に降りてくる・学校とは関係ない話でも家族から話し掛けられると逃げてしまう…などなど、家族から見ればますます心配のタネが増えてきます。ですからこの時期に不登校の理由探索は百害あって一利なしです。カウンセリング・病院に連れていかれることも同じ理由で子どもにとって安心できるものではありません。

 私も20年前は<学校に戻す>ことが問題の解決だと勘違いしていた時期がありました。大人には学校に戻れることが最大目標になっていますが、子どもはエネルギーの充足が目的で、学校に戻るかどうかは二の次、三の次の目的です。これも“親子の感覚のずれ”の一つです。
親の感覚では、学校に行かないと子どもの人生は真っ暗になる、と信じ込んでいる時期があります。今でも「高校卒業しないと就職できないから」と言われる親ごさん多くがおられますが、事実は全く違います。

★ 学力が付かない → 進学できない → 就職できない → 自立できない
★ 社会性が付かない → 人とつきあえなくなる → 自立できない

以上の誤解を真実と思い込んだ家族がこのままでは“生きていかれなくなる”…と言われるのです。でも上記の不安材料は、“すべて事実無根”です。 世間の、不登校はもちろん、モト不登校の子たちの、安定したその後を知らない人々がかってに並べている“誤解と偏見”にすぎません。

 高校卒業資格がない…中卒資格のままで就職(正社員)・バイトしている子も、大検をとって進学した子もたくさんいます。 しかし、これらの話をすると「そのお子さんは特別優秀な子でしょ」と、多くの親ごさんは言われます。親ごさんの気持ちは理解できます。我が子の「いまの状態」からはバイトや進学する姿が想像できないのでしょう。

 まず、休む・充電する・疲れを癒すことの大切さを理解してほしいのです。本人にすれば、動きたくないのではなく“エネルギー不足で動けない”のです。本人から動こう、出かけたいと言いだすまでは、バイトも友達作りも親の方からは言わないでほしいと思います。「閉じこもってばかりでは身体が心配」の気持ちは理解しますが、身体の心配より心の傷を心配してほしい‥‥。これが「親子のズレ」の根源だと思います。

 上記のことはすべて私の失敗談です。今だから判ることばかりですが、失敗談の数々を『成功のモト』にしてほしいのです。今の状態からは無理だとしてもエネルギーが充電されたら必ず動けることを信じてください。どうしても信じられない方々は、東京シューレ(東京)・したいなぁ~松戸(千葉県松戸市)などの他にも、登校拒否を考える全国ネットなどでは、親の会と一緒に子どもの居場所を併設している仲間がスベテの都道府県にあります。 お問い合わせください。

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一番の専門家は子どもたち
代表 松村正子 2004.2.7追記

 「不登校・引きこもりの専門家(相談先)は?」と問われたら、どんな人・場所を選ぶでしょうか?

(1) 行政機関/児童相談所・保健所・青少年相談所(警察)

(2) 教育関係/学校・担任・スクールカウンセラー、教育相談所など。

(3) 医療機関/病院・カウンセラー・精神科医など。

(4) 似た体験をした親たち。

(5) 体験した若者たち、あるいは本人。

 (5) 若者たち・本人を選ぶ方は少ないでしょうが、『一番の専門家』は体験した子どもたちです。保護者・教師・児童相談所など各種の職員、相談員「それぞれの立場で相談先は違う」と言われるかも知れませんが、どんな立場でも「子どもが一番」は不変です。

 (1) ~ (4) には子どもの視点が入っていません。 周囲の大人(家族・教師)たちが、解消しようとする問題点はもちろん、解消したい方向や方法を当事者の視点で検証できません。そのため、どこまでが子どもの問題でどこからが大人の問題なのかわからなくなます。多くの場合は「子ども問題」から「子ども問題」となり、子どもの異常を治さなければ‥‥の視線が痛くて、子どもの苦しさは解消せず言動も荒れ始めますから、親子ともに精神的不安定が増加します。

 相談を受ける側も相談する側も、子どもが異常だ・おかしくなったという偏見視点から出発します。動けなくなるにはそれだけの理由(原因)があるのに、学校・医療関係者の多くは、身体も精神(心・気持ち)も動けない状態を人間として<正常な生理反応だ>と説明しないケースが多いです。最初は休ませましょうといいますが、家族の不安に同調してしまい、を悪循環させ本人と家族を苦しめる結果になります。その連鎖を断ち切るのは正しい解説ができる人を探せるか、おとなたち(医師・教師・家族)に精神的余裕があるかどうかです。医師・カウセラー・相談員・教師たちが「専門家だ」と過信されすぎています。そんな意味でも一番の専門家は体験した当事者だと申し上げたいのです。だからと言って動けなくなった本人に問いただすのはやめてください。自分のことを話し出すには時間が必要です、本人が話せない時期にアレコレ質問すること、また大人の感覚で良かれと思ったことでも「こうしたら…」「こんな方法もあるよ」などなどは、ますます子ども(若者)を精神的に追いつめる結果になります。これらは松村の失敗談でもあり20年以上の期間で不登校の子どもたちや動けなくなった若者たちから学習させてもらったものです。(くわしくは面談を申込みください。問い合わせは、月・水・金の12~18時にお願いします。電話・メール先はトップページの最後にあります)

★必要な人に、情報や経験が届いていない!?

 中学で休んだり行ったりしていたA子さんとB君。担任も保護者も通信制高校を薦めたが、同じ中学からは誰も受験しない遠い高校を希望した。「本人が選んだ高校なのに、また休みが続いて」と二人のお母さん。「放課後に車で連れて行ったり、保健室登校をしてなんとか中学を卒業させていただいた」とAさんのお母さん。「中学のときは担任の先生がほぼ毎日来てくださって、なんとか登校拒否にならないですんだ」とB君のお母さん。中学では担任やカウンセラーに親は相談できたし子どもも家庭訪問や先生に会うのを喜んでいたと二人の母親は言いました。進学した高校は遠いし親も行きづらい。卒業した後だが中学カウンセラーに相談したら病院を薦められたが本人は行きたくないと言う。

 高校だけは卒業したいと言う子ども、親も卒業資格がないと就職が心配。あまり強く叱ると中学のように行かなくなるのではと不安が強い。通信制(サポート校)へ再受験させた方がいいのかと迷う。

 母親の気持ちは痛いほどわかる、私も同じ時期があった。でも今は子どもの苦しさもわかるように学習させてもらった。これを読んでいる方はいくつの不安を察知したのだろうか。5? 10以上? それは保護者の不安ですか? それとも子どもの不安でしょうか?

 登校拒否を考える・全国ネットワーク(以下、全国ネットと表記)代表、奥地圭子さんは、日本で草分け的な居場所「東京シューレ(NPO法人)」の代表理事でもありシユーレは満20年を迎える。 松戸-登校拒否を考える会(以下、松戸の会と表記)も満11年目を過ぎ,延べ参加数は八百人を超えるが約7割は奥地さんも東京シューレも初めて聞くと言う。松戸の会に出会うまでは、学校・行政の相談所以外に相談できる場所はないと思っていた…といわれる方々がほとんどなのです。

 20年以上も前から様々な解説や安定情報を登校拒否を考える会(各地の会)は発信しているが、親も子も「我が家だけ」と思い込む。「もっと早く登校拒否を考える会を知っていれば、今ほどひどくならずに済んだのに‥‥学校でも病院でも教育委員会でさえも教えてくれなかった」と、何人もの保護者から言われた。ココにも学校や医療関係者こそが専門家だと思ってしまう「落とし穴」が大きく広がっている。

★専門家(?)の誤解と偏見

 医師・教師たちの多くは誤解したまま対応しています。誤解のすべては載せられないが、三つだけ挙げると、1、不登校状態になったとき学校に戻すことを最優先に考えていた。それを本人も強く言っていた。2、小・中学の時は学校と役所内の教育相談所、高校は医療機関しか相談先はないと思っていた。3、家族は「もういいから休みなさい」と言っても子どもが「~したい」あるいは「~が苦しい」「~なのに体が動かない」と言う。そこまで言う希望をかなえて(不安を取り除いて)やりたい。

 これらは単独に出てくるのではなく、の期間があり(中にはの相談所に通いながら)、の希望・不安が出てくる。でも、気持ちはあるのに意思通りには体が動かないから強迫感が増してくる。本人は無意識だが、世間(家族)に対して「いい子」でいる場合がある。方法論でなく見分ける心(ハート)を学んでほしい。

 で「心から」休めば閉じこもり・引きこもりでも不安はない…はずです。これは理屈でなく過去の事実(数々の実例)が語っています。(詳細は、赤沼侃史医師の「登校拒否・不登校と医療、その医学的解釈」をご覧ください)

 最近は「無理しないで休ませて」という医師・教師が増えてきた。しかし休む期間や内容が人により違う。6ヶ月~1年くらい過ぎると「勉強だけは」とか「生活リズム(昼夜逆転)は‥‥」「病院は行きましたか」と言われる。行政専門家の影響で家族が余裕を失い子どもはより苦しくなるのですが、家族も自分の不安が大きくなりすぎて余裕を失いがちです。松村も自分の不安が大きくなった時期がありました。

 「親へ対応の方が本人(子ども)の対応より難しい」と、我が子の不登校体験を持つ医師と学校の先生は言います。何よりも子どもの状態を「よくないもの」と見てしまうのが最大の元凶です。親の不安が子どもをより不安にしてしまうのですが,親の不安を増大させる「世間の誤解と偏見」があるのです。子どもの悩みと親の不安はまったく違う次元にあることを市ってほしいと思います。松村の失敗談だけでも聞いてください、情報は多いほどいいのですから。

★うちは不登校ではないんです

 全国ネットで10年ほど前から大学生や就職後に引きこもる相談が増えました。犯罪報道に元不登校や引きこもりの文字が、すべてのケースに当てはまるかのように誤解を生んでいます。マスコミや一部の精神科医の言葉が一人歩きして不安を煽っていますが、報道されるようなケースより家族の信頼で幸せな閉じこもり(引きこもり)を自認する若者の方が圧倒的に多いのです。

 学校に疲れ(心の傷)の原因があることが、多くの教師や医師には理解できないようです。しかし文部科学省は2003年8月に、小・中学の不登校数(30日以上)は13万人以上と発表しました。子ども総数は減少中なのに不登校は増加し続けます。集計数は減少したと大文字で新聞には載っていますが、文科省発表の数は数字のマジックがあります。適応教室にいる子、保健室・特別教室登校の子たち、高校生(15歳)以上は13万の計算には入っていません。 高校中退や大学生、成人後に動けなくなる人は、小・中で不登校できた子どもたちより、疲れ(心の傷)の蓄積が深くて長いのです。

 松戸の会で出会った18~30歳以上の若者全員が、子どもの頃に休めなかった、あるいは休んでいても安心できなかったと言います。子どもは病気以外は学校に行くものと思われていますし、学校で疲労したり心に傷をうけるなど思いもしません。しかも心の傷は見えませんから「ないもの」として扱われさらに疲労も傷も深くさせてしまうのです。

 不登校・引きこもりなどの「穏やかなその後」を知らない人の誤解と偏見にだまされないでほしいです。「精神病院から離れて元気になった」「薬で心の傷は癒せない」と言う若者も想像以上に多くいます。中卒でバイト・正社員になった子や大検で進学した子、家庭内暴力だった子もおだやかに体験談を語るようになりますが、そんな実例を「特別な子ども」と多くの医者や教師は受け容れません。特別の反意語は普通・一般ですが、フツーの引きこもりや不登校は一生そのままだと思っていたいのだろう。マスコミ報道する記者や学校・医療関係者の中で「穏やかなその後」を知っている人はゴクゴク一部に過ぎない。「99.99%の医師は実態(穏やかなその後)を知らない」と、引きこもり体験がある医師は言いました。

★本当の専門家は?

 松戸の会も全国ネットの会も月例会が中心で、同じ立場の親同士が経験を聴き話すことに重点を置いています。将来の予測や家庭内暴力への不安想像など大きかった不安が、安心実例を知ることで我が家だけではない「ホッと感」が持てるようになって親の元気回復になります。松村の経験では,20年前に少しだけ先に体験した若者たちが、我が子(当時12歳)の気持ちを代弁し解説してくれたことで私自身が落ち着くことができました。

 体験者から教えてもらった要点を間違えずに語りかけたことで、子どもとの会話が復活しその後の勘違いは本人に教えてもらいました。その子が20年後の今、「子どもの苦しみと、その苦しみを見て悩む家族のつらさは別のもの」と保護者に語りかけています。松戸の会を発足後に自然発生した居場所、したいなぁ~松戸で出会った小・中不登校の子どもたちも20歳過ぎ自分の体験を、悩む大人たちに話せるようになった若者はたくさんいます。「不登校は親のせいじゃないし子どもの弱さでもない。学校の先生ダケのせいでもないって最近わかってきた。それを子どもだ親だ先生だって言うのは、文科省の陰謀だぁ~」と不登校経験の若者たちは笑って言います。元気を取り戻せた若者たちと話してみてください。

 数多くの体験から得た安心感を、専門家(相談員・教師・医師・カウンセラー)にこそ届けたい‥‥けれど、教育行政・学校現場・保健所などは、全国ネットや親の会が紹介したくない病院関係者を講師に招いて講演会を開催しています。千葉県内のある市で行政外郭団体が指定した講師が、不登校の我が子を守るために学校長とタタカッた経験のある親だったため、講演会直前に学校から邪魔されたこともある。しかし千葉県内でも「体験した親と若者」が教員組合主催の講演会に連続して招かれたり、松戸市立小学校へ、したいなぁ~松戸の若者・代表が招かれ話したことも少しずつだが出てきた。あきらめることはない少しずつだが変化は確実にある。

 2003年度中には千葉県内の親の会・居場所の若者たちや代表者が力を合わせて,不登校・引きこもりのNPOネモを申請した。ネモの若者もしたいなぁ~の若者も呼んで下さればどこでも話しに行きます、遠慮なく声を掛けてください。問い合わせはトップページの最後(最下段)に電話・メールアドレスがあります。

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登校拒否・不登校・引きこもりと医療、その医学的解釈
顧問医師 赤沼侃史

「潜在意識の反応」

 登校拒否、不登校の子どもを観察していると、決して意識的な行動ではないことが解る。子どもは登校したいのに体が反応して学校に行けない。その結果、自分がおかしい、ダメな人間だ、病人だと判断している。

「恐怖の条件反射」

 恐怖の条件反射とは、古典的条件反射の内で恐怖を生じるものである。大脳辺縁系扁桃体が恐怖の条件反射の中枢と考えられる。扁桃体は情動を具体的に表現する脳幹の各神経核へ情報を送っている。恐怖に遭遇したとき体に現れるいろいろな変化や反応は、この神経路でなされている。ラットでの恐怖の条件付けで、音や光に強く感作されているが、入れられていた籠やその周囲にあるものにも恐怖の条件反射を生じる。人間でも思わぬ物に感作される恐怖の条件反射が見られる。この事実は、本人や周囲の人達に気付かれることはほとんどない。原因がないのに異常行動をすると、周囲の人達に判断され病気だと考えられてしまう。

 恐怖条件の複雑な刺激は、大脳新皮質の感覚野とその連合野で処理され、扁桃体と前頭葉に送られ前頭葉で主観的な認知が行われる。扁桃体は他の神経核やホルモン影響による修飾を受ける。青班核、縫線核、前頭葉の影響が大きい。それは恐怖の条件反射が修飾を受けることを意味する。現在の心理学は成熟した人間の前頭葉があることを前提にしている。子どもの脳は体と同様にまだ成熟してはいない。子どもに当てはめる心理学は、動物と共通の大脳辺縁系扁桃体と、発達過程にある前頭葉を持つ存在として考える必要がある。動物と人間は違うと言われるかもしれないが、人間の脳と動物の脳は延長線上にあり、人間の子どもの脳は類猿人の脳に近い関係にある。

「トラウマ(心の傷)」

 体の怪我だと出血する。トラウマでの出血は不適応な行動にあたる。体の怪我だと痛む、トラウマの痛みは自律神経の症状となる。トラウマを神経生理学的に言うなら、恐怖を生じる条件反射(恐怖の条件反射)である。

 条件反射は学習する段階と確立した段階に分かれる。学習する段階をトラウマを受けると言い、確立した状態をトラウマがあると表現し、恐怖の条件反射そのものをトラウマと表現する。

 条件刺激がなければ条件反射は起こさない。トラウマがあっても刺激するもの(恐怖の条件刺激)がなければ何の問題もない。ところが恐怖の条件刺激は普通の人には恐怖を起こさないが、トラウマを持つ人は恐怖を起こす。恐怖の条件刺激が普通の社会に存在するものでは、それを避けることは大変に難しい。

「性格の変化、登校拒否、不登校」

 子どもが集団生活を開始するのは、保育園、小学校である。多くの子どもは学校へ行くことを好む。それは本能的な行動のようである。子どもは家庭を基盤として集団と関わり社会性を得ていこうとする。社会性を得ることは子どもには喜びのようである。しかし、集団でつらい体験をすると子どもは家庭に逃げ帰る。家庭内で問題を解決して子どもの社会へ出ていく。しかし、子どもが回避できない嫌悪刺激に出会い、恐怖の条件反射を学習(体験)したときには、性格の変化として現れることが多いようである。

 一般に不適応行動に走る性格の変化は、子どもに問題があると考えられがちである。保護者の「しつけの問題」にされるが、子どもは回避できない嫌悪刺激により、不適応行動をとることを学習させられたのである。恐怖を用いた親の躾も子どもを不適応行動に走らす方向へ性格の変化を生じる。子どもの性格が変化したとき、集団や管理する大人から様々な拘束を受ける。その結果、子どもは回避行動をとらざるを得ない。集団が幼稚園なら登園拒否、学校なら登校拒否となる。

 学校で恐怖の条件反射を学習(体験)した子どもは、人間として自然な反応である回避の(学校に行きたくないという)行動をする。しかし、保護者との力関係(登校刺激)から回避行動を取れなくなる。子どもの心では、恐怖から逃げたい気持ちと行かなきや怒られるという気持ちが葛藤する。それが学校へ行き渋る姿である、この状態は嫌悪刺激に対する恐怖の条件反射を強化させていく。

 子どもは恐怖に慣れることはできない。さらに回避行動がとれないと、いろいろな精神症状を出すようになる。最終的に意識上では学校に行こうとしても、潜在意識の領域では行けなくなって不登校になる。登校拒否の段階で恐怖の条件刺激を取り除くのが早いほど、問題の解決は早くなる。恐怖条件の刺激性が低いし、条件刺激の汎化も起こしていない。

 恐怖刺激に出会わなければ、時間とともに恐怖の条件反射が消失していくのは動物実験でも確かめられている。実際に登校拒否の子どもを学校から隔離すると問題の解決を見ることができる。一般に、対応する人(先生や保護者)は不登校になった前後の問題を取り上げて解決しようとする。しかし原因は、もっとはるか以前の時点にある。不登校時点の出来事を解決してもほとんど役に立たない。加えて子どもは過敏になっており、神経症状や精神症状を出すために病気にされてしまう。

 先生や家族は登校刺激をする。それは新たな恐怖の条件反射を生じる要因となる。子どもが学校に行くと先生も家族も安心するが、その間に子どもは新たな恐怖の条件反射を学習し続けている。その結果、恐怖の刺激に対して感受性が増加し、学校以外の何かを新しい恐怖の刺激として学習し不登校になってしまう。だから不登校になると、子どもが何に恐怖を感じるのか解らなくなってしまう。性格の変化、精神疾患と解釈されてしまう。

「子どもに精神疾患は存在するか」

 子どもに恐怖刺激を与え続けると、いろいろな神経症状、精神症状を出すことを述べてきた。この事実から子どもには神経疾患や精神疾患は無い、あるのは人間としての自然な生理反応だけである。医師としての経験から言うと、周囲の大人達が対応を変えれば子どもの症状をなくすことができる。子どもを精神疾患だとして治療することは、子どもの虐待に相当すると考えている。

「昼夜逆転」

 1日のリズムは視交叉上核にある、松果体からのメラトニンはこのリズムの表現である。現実に覚醒するか眠るかとは直接には関係ない。情動が睡眠に大きな影響を与えている。ストレスにさらされている人では、夜になると周囲からの刺激がなくなり、心身共に楽になる。昼夜逆転を問題視する必要はない。子どもは必要なときには、きちんと起きてくる。

「子どもが自立する日はいつか」

 保護者にとって子どもが自立して巣立ってほしいものである。傷ついた心を子どもが保護者のもとで癒すことを家族が認めていても、子どもが自立しないのではと不安になる。その不安が逆に子どもの不安を増加させ傷ついた心を癒せない。子どもが自立することを願うなら家族は子どもを信頼して支えることである。そうすれば、子どもは自分で自分の心を癒して可能な限り早く自立していく。いつになったら癒せるか、それは家族の信頼(支え〉と子ども次第である。

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心(こころ)シリーズ
36号 99年10月 顧問医師 赤沼侃史

登校拒否に関連して、いろいろと感じたり、考えたりしたことを連載してみたいと思います。しばらくおつきあいください。

心(こころ)その1 「信頼」

 あるお母さんが私に手紙をくれました。そのお母さんの三人の子供は喘息やアトピーで苦しんでいました。お母さんは自分の持病と戦いながら、三人の子供の病気の看病をしなくてはならないために、精神的にたいへん追い込まれていました。

(手紙の内容)
 最近肩こりがひどくなり、長いものさしで背中をたたいていました。それを見ていた小学一年生の長男が「肩もみ券」を発行してくれました。期限無しで何度も繰り返し使える券だそうです。そこで私はさっそくその肩もみ券をつかわしてもらいました。
長男「患者さん、ここに下向いて寝て下さい。」
私 「先生、かなり苦しいのですが、どうでしょう?」
長男「あぁー、これはかなりこっていますね。子ども達を怒ってばかりいるから、肩がこるのですよ、患者さん」

 どう考えても肩こりとは関係ないと思うのですが、子どもっておもしろいことを言いますよね。私は大笑いしました。長男が肩もみをしているのを見て、次男はテーブル拭きと布団敷の手伝い、3才の娘は長男のまねをして、肩をもんでくれました。

 先日、体がとても辛かったので、しばらく横になっていましたら、台所でガシャガシャ音がしたので見に行くと、流し台に山にしておいたお茶碗を、娘が洗剤をつけて洗っていました。とても驚きました。まだ3才の娘です。泡だらけのまま茶碗かごの中に入れていました。私を気づかって、少しでも役立とうと思ってしてくれれたのだと思うと嬉しくて、愛らしくて、「ありがとう、ありがとう」と抱きしめました。ちゃんと私のやることを見ているんですね。だんだんと子ども達なりに私を助けてくれるようになりました。
私は子供達に「わぁ!ありがとう!」とおうげさに言っています。すると子ども達は満面の笑みを浮かべて喜び「今度はね‥‥」と、次は何をしようかと考えています。「本当に産んで良かった!」と子ども達にとても感謝しています。

 私にはこのお子さん達が特殊だとは思いません。どのお子さん達も、このような優しさを持っています。ただ、親が気づかないだけだと思います。

 どの子どもも皆、まっすぐ伸びていこうとしています。その子どもなりの大人になることを目指して、どんどんと伸びていこうとします。それは草木が空を目指して伸びていくのに似ています。動物の子どもも皆、その環境に即して素直に成長して大人になります。それなのに、人間の子どもにはなぜ不適応を起こす子供が生じるのでしょうか?

 それは他の植物や動物にない人間の大人の欲が、子どものまっすぐ伸ようとする芽を摘んでしまうからだと思います。素直に成長しようとするのを、じゃまするからだと思います。それはまるで種から発芽した苗が踏み倒されてしまったように、強い雨風で倒されてしまったように成るのだと思います。しかしそれでも苗は又空を目指して伸びようとします。

 これは人間の子どもも同じです。傷ついた子どもも、その子どもなりに一生懸命伸びようと成長しようとします。その子どもをそれ以上傷つけたら、もう子どもはまっすぐ伸びれなくなります。しかし逆にその傷を治すことができたら、子どもはいままで以上に強い子どもになり、まっすぐでないまでも、大人を目指して元気に伸びて行きます。元来、子供は優しくて素直なのです。信じて見守っておれば、自分で大人になって行きます。

心(こころ)その2 「登校拒否とは」

 登校拒否をしている子供が「学校へ行きたい」「学校へ行かなくてはならない」と言うのを聞いた人は多いと思います。この言葉が子供の本心ならば、その子供は登校拒否をしていないことになります。ところがその子供を学校へ行かせようとすると、頭が痛い、おなかが痛いと言って学校へ行こうとはしません。そのときの様子を良く観察してみると、その子供はいろいろと思案を巡らしている内に、これらの症状を出して学校へ行けなくなっているのではないことに気づくと思います。

 その子供は学校を考えると、学校へ行く必要を感じると、直ちにこれらの症状を出して苦しみだし、学校へ行けなくなっています。反射的にこれらの症状を出しています。医者としてこの状態の子供を診察してみますと、本当に頭やおなかが痛くなっています。本当に嘔吐や下痢をする子供も多いです。演技でこれらの症状を出していません。このことは何を意味するのでしょうか?

 人間には思考と感情との、二つの心があります。ほとんどの動物では感情しか持っていません。つまり感情とは、人間でも、動物として持つ大元の心であり、思考は動物の進化の頂点に立つ人間として獲得した物です。つまり人間では、表面的には思考で行動し、感情は心の奥深くにあり、生命と密着した関係にあります。それ故に、感情の変化は体の変化として現れやすいのです。登校拒否の子供の出す症状はこの感情から来るようです。思考では「学校へ行きたい」と考えますが、心の奥深くの感情では、「学校が辛い」と感じ、これらの症状を出すようです。当然、生命に密着していますから、行動としては「学校へ行かない」が優先されます。

 このことを高所恐怖症で考えてみましょう。高所恐怖症のない方は分からないかも知れませんが、女性でほとんどの人でみられますから、分かっていただけやすいかと思います。高所恐怖症の人でも、普通に高いところを考えただけでは何とも有りません。高い所についての話もする事ができます。ところが高いところへ行かなくてはならなかったり、高い所に近づいて行くと、体にいろいろな症状が出てきます。胸がドキドキします。足がふるえてきます。高い所に到達すると、立っておれなくなります。気持ちが悪くなったり、気が遠くなります。冷汗が出ます。いくら頭で大丈夫だ、平気だと考えても、体は言うことを聞いてくれません。恐怖の条件反応を起こしてとても辛い状態になります。逃げ出すしか方法がありません。

 学校と高所では違うよと言う人がいるかも知れません。しかし高所でも幼いときから木登りなどをして、高所に慣れていると高所恐怖症を起こしません。ところがそのような人でも、高いところから落ちるなどの恐ろしい思いをしたときには、高所恐怖症を生じるようになります。

 これらの事実をまとめますと、登校拒否の子供はいろいろと考えて学校を拒否しているのではありません。多くの登校拒否をしている子供は「学校へ行きたい、行かなくてはならない」と考えるのですが、学校を見たり、意識しただけで、反射的に、感情的に、学校へ行けない状態になっています。そのような意味では、登校拒否と言う言葉よりも、学校恐怖症と表現すべきなのかも知れません。その内容は、子供が学校を恐怖の場所と学習したと考えられます。学校からの恐怖から逃げ出せないときに、いろいろな症状や親に理解できない行動を取ると考えられます。

心(こころ)その3 「登校拒否は病気だろうか?」

 登校拒否を起こした子供の大半が、その初期に、頭が痛い、おなかが痛い、足や腕が痛い、吐き気、下痢、等の症状を出して、病院を受診しています。場合によってはいろいろな神経症状を出して、まるで病人のようです。病院ではこれらの症状に対して、薬を投与して症状を改善しようとしています。ところがこれらの症状を出す子供達を、不登校を認めて好きなことをさせると、全ての症状が消えてしまいます。

 例えば、朝おなかを痛がっていた子供が、学校を休んでよいと親から許可が出ると、たちまち元気になって、部屋の中を飛び回ったり、ファミコンに熱中する姿を良く見ます。親には、子供がずる休みをしたがっているのだと思う原因になります。登校拒否が病気だったら、子供が学校を休んでよいと言われても、症状がそう簡単に無くなるわけが有りません。よく分析してみますと、学校へ行かなくてはならないと言われることの有無が、症状のあるなしを決定しています。

 私の対応した登校拒否の高校生の中にも、まるでうつ病の様だった子供がいました。その子供は本人の希望でアルゼンチンの田舎へ行き、そこでたちまち元気を出して、一年後に日本に戻り、高校一年生からやり直しています。この例でも、本当に病気なら、日本でも、アルゼンチンでも同じ様な症状が出て良いはずです。日本には何かこの高校生をうつ病のようにさせた物が有ったと言えます。

 登校拒否は病気ではありません。それ故に薬で治すことはできません。ただ薬を投与すると一時的に症状が改善します。そこで医者はそのとき投与した薬が効くと判断しがちです。たしかに薬が症状を改善するのに効果があったかも知れません。しかしそれ以上に、病気として学校を休めたから症状が改善したのです。また学校へ行かなくてはならなくなると、ほとんどの場合症状が悪化します。そのため医者はより多くの薬を投与しますが、今度は効果がなくなります。そのために不必要な薬を大量に飲まされる羽目になります。そればかりでなく、登校拒否の原因が、子供の出す症状や性格など、子供に原因が有ると言う形にすり替えられて、登校拒否の本質を見失う事になります。

 登校拒否は病気ではありません。しかし子供達が出す症状から、病院では風邪や急性腸炎、自家中毒症、神経症、うつ病などの診断の基に、検査や、投薬や、注射や点滴が行なわれています。治療が長期間続けられると、子供も親も、病気と信じ込んでしまい、病気であるという意識から逃れることができなくなります。不治の病人として一生悩み続けたり、社会から見捨てられることになりかねません。

心(こころ)その4 「安全な場所」

 登校拒否とは子供の心の奥深く、感情と言う心の中に、学校への恐怖を反射的に生じる性格を持つ状態だと言えます。子供は自分の考える心では、学校へ行かなくてはならないと思っています。自分の大切な両親も学校へ行けと言います。学校からも来るだけでよいから来なさいと言われます。ところが意思で学校へ行こうとすると、自然と、反射的にいろいろな症状がでてきます。そのためにその子供は、意思で学校へいこうとしても、学校へは行けません。その現実に子供は悩み続けます。悩めば悩むほど、症状が強くなり、ますます学校へは行けません。そのために悩むことでより自分が苦しくなり、余計に悩むと言う悪循環に入って行きます。その結果は人格の破壊にまで至る可能性があります。

 登校拒否の解決の第一は、この悪循環を断ちきることです。そのためには学校へ行かなくてはならないと言う刺激を与えないことです。学校へ行かなくてはならないと言う刺激を断ちきると、登校拒否を起こしている子供は自分を取り戻せます。自分と向い合い、自分を整理して、新しい自分を見つけようとします。中には自分の意思で学校へ戻ろうとする子供もいます。心(1)の「信頼」でも触れましたが、子供は本質的に伸びようとします。その環境にいちばん良いように伸びようとします。そこが大人と違うところです。現実をふまえて、その子供なりに伸びるためには、子供は安全な場所で自分を取り戻す必要があります。

 親はこの子供の伸びようとする性質を信じる必要が有ります。子供を信頼する必要があります。登校拒否を起こした子供を信じられないで、親の思いで子供を刺激し続けると、子供はいつまでも自分を取り戻せません。その結果親を拒否して、自分の部屋に閉じ込もらなくてはなりません。自分の部屋に閉じ込もって、親からの辛い刺激に耐え続けなければなりません。とじこもれない時には、子供はいろいろな神経症状や不適応行動をする事になります。それは子どもが自分自身を守りきれなかった現れです。

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心(こころ)シリーズ
37号 99年12月 顧問医師 赤沼侃史

登校拒否に関連して、いろいろと感じたり、考えたりしたことを連載してみたいと思います。しばらくおつきあいください。
今回は連載の第2回目 心(こころ)その5 からです。

心(こころ)その5 「母親と登校拒否」

 子供の成長には、身体的にも心の上でも支えとなる人が必要です。このことは後ほど「猿の実験」からお話しますが、経験的にも多くの、登校拒否の子供を持つ母親や子供を支えている人たちには既に分かっていることです。ここでは多くの場合、母親が子供の心の支えになっていることが多いので、母親と登校拒否と言うようなタイトルにしました。ここで母親と書いたのは、登校拒否の子供を一番に支える人、その多くは母親と言う意味に解釈して下さい。

 多くの母親に取って、子供の成長は嬉しいものです。それは肉体的にも、心または精神的な面の上でも、言えます。社会システムの中ではっきりと示せて、親やその他の大人が成長と考える目安としやすいのが学校です。多くの親にとって、子供の進級、進学ははっきりと形に現われる子供の成長です。その進級、進学の先には就職があり、生活の保証につながります。子供が十分に生活できるようにする、それは親の存在価値の最も大切なところと考えている親が多いのは、止むを得ないことなのかもしれません。一般常識として、親は子供の成長を願うものと考えられていますから。それ故に、子供が登校拒否を起こすと言う事実は、親にはとても許せないことです。親は子供を学校へ押しだそうとする理由です。

 心に傷を帯びた子供は本能的に安全な場所に逃げます。これは人間だけではありません。恐怖の条件反射を学習した動物はすべて安全な場所に逃げます。人間では安全な場所は家庭であり、母親の側です。母親の母性による、子供の全てを認めて支える行動、母親の側に安全な場所を作ろうとする傾向は、子供の心を癒し、肉体的にも、心の上でも、子供の成長するのに好都合なのです。ところが母親の常識が強く、子供の登校拒否を認められなくて、子供を学校へ押しだそうとすると、子供は母親を拒否して、自分の部屋に閉じ込もらなくてはならなくなります。母親を拒否しても、母親から逃れられないとき、子供は母親に攻撃をします。このときに子供は母親に学校への恐怖を感じ、母親を攻撃しています。母親に関連するもの(例えば食事)をも攻撃します。心理分析で表現するなら「母親に、学校の恐怖を感じて辛いのだと訴えている」と言っても良いかも知れませんが、子供がそのように考えて、感じて行動しているわけではありません。

心(こころ)その6 「父親と登校拒否」

 一般的に父親は、法律や常識で成り立っている社会の中で働いているため、母親とは違った性格、経験、思考形態をもっています。家庭の中でも母親とは異なった役割分担をしています。それが良いか悪いかは各夫婦が決めれば良いことであり、場合によっては父親が家庭を省みないで仕事をする事もあり得ても良いと思います。どの父親も母親も、自分の思考により自分自身をコントロールして家庭を維持しているようです。それ故に各家庭はその家庭なりの営みをしていくのが、その家庭ではいちばん正しいあり方だと私は考えています。

 ところが子供が登校拒否という形でその家庭のあり方に異議を唱えたとき、時間の経過とともに母親は子供の苦しみを感じとり、一般に子供の立場に立とうとするのに対して、父親が子供に対して自分の主義主張を貫こうとする態度はごく自然の成りゆきだと思います。一個の生物の雄としての主張、人間社会の中で自分が担っている責任感からの主張、これらは父親にない方が不自然です。それを自分の子供に押しつけようとすることも、私にはうなずけます。ただそれも程度の問題であり、その境界をどこに見いだすかはその父親の人間性によるものではないかと思います。

 登校拒否は子供の甘えでも、怠けでも有りません。
間違いなく子供が子供なりに一生懸命生きて、どうにもならなくて、最後の手段として親に訴えていく形態です。もちろんこの事実を理解できる父親には以上の、または以下の議論は不要です。しかし父親としてすぐにこの事実を認められなくても、自分の子供の登校拒否を認められなくても、それは決して父親として間違いではないと思います。常識の固まりの社会で働いている父親には、やむを得ないことだと思います。

 登校拒否と言う自分の知らない状態にある自分の子供を見ることは、父親としても大変に辛いことです。それ故についつい子供を動かして学校へ行かせようとします。それは登校拒否を認めて、子供を家庭で暖かく見守ろうとする母親には大変にじゃまで迷惑なことです。父親が辛くて、自分の子供を見れないのなら見なくても良いと思います。子供を母親に任せて働いていても、一家を経済面で支える父親の役割は計り知れない大きさが有ることには変わり有りません。

 ただ登校拒否という訴えている子供と、この子どもを必死で認め支えようとしている、母親のじゃまだけはしないで欲しいとお願いしたいと思います。父親が登校拒否を理解できない状態で子供や母親に関わると、自分も傷つき、子供や母親に大きな心の傷をつける可能性がきわめて大きいからです。そしてそれは登校拒否の子供を支えようとする母親の願いでも有るようです。もちろん、登校拒否の子供やその母親を認め支えられればもっと良いことも事実です。子供にとって、母親は子供と一緒に登校拒否の問題を悩んでもらいたい存在です。

 でも、父親は他で大切なことをしているから、登校拒否の問題に関わらなくても良い場合が多いです。もちろん子供と母親だけで登校拒否の問題を解決できない場合もあります。私が知る限りの事ですが、母親が登校拒否の子供を認め支える限り、家庭内での父親の直接的な役割は必ずしも必要ないようです。子供は父親の存在価値を十分に知っています。子供が、お父さん助けてと言ったとき、その時子供の希望に沿った対応をすれば、それでも良いようです。

心(こころ)その7 「トラウマ(心の傷、心的外傷)の概念と登校拒否」

 私たちは、「心を傷つけた」とか「心を傷つけられた」とか、表現することがあります。その際に、私たちがそれらの言葉で意味したものは、「嫌な思い、辛い思いをさせた、させられた」と言うものだと思います。大地震や事件、災害で死ぬような思いをしたときには、トラウマを受けたと表現する事が多いように思われます。そのトラウマを受けた結果、いろいろな神経症状を出したり、社会生活の上で不都合な行動をするようになったとき、トラウマがある、トラウマを持っている、と表現しているようです。

 ではトラウマとは何かと言う問題が有ります。トラウマは目では見えません。単に人間の刺激に対する反応の仕方の問題です。そこでトラウマを概念的に捕らえてみます。体の中には血管が有り、その中に血液が流れています。その体に傷をつけて怪我をさせると、傷から血液が吹き出し、痛みを感じます。この事実から、心と言う目に見えないものを、あたかも見えるかのように、具象化して体に例えてみます。

 正常に動く情動の動き方を血管に例えます。情動そのものを血管の中の血液に例えます。この具象化した心の中には血管に相当するたくさんの情動の動き、流れがあります。この心に傷をつける事を考えてみます。すると血管が切れるので、血管に相当する情動の動き方が遮られて、情動がいつもの現れ方をするところにたどり着けなくなります。その結果、心がいつもの心の機能をしなくなります。この状態がトラウマです。体の怪我ですと血液が流れだします。トラウマでは不適応な行動がそれに相当します。体の怪我ですと痛みを感じます。トラウマですとそれは自律神経の症状となります。

 トラウマを神経生理学的に言うなら、それは恐怖を生じる条件反射(恐怖の条件反射と表現します)です。条件反射ですから、条件反射を学習する段階と、条件反射が確立した段階に分かれます。恐怖の条件反射を学習する段階を、トラウマを受ける、人の心を傷つけると表現します。恐怖の条件反射が確立した状態をトラウマがある、心の傷があると表現し、その恐怖の条件反射自体をトラウマ、心の傷と表現します。

 トラウマの分かりやすい例として、暴力教師と生徒との関係をあげてみます。暴力教師に殴られた(あるいは誰かが殴られているのを見た)生徒は、それ以後その暴力教師を見て逃げだします。逃げ出すことには登校拒否も含みます。これを神経生理学的に解説します。暴力教師(元来は無関刺激)が殴ったと言う痛み(恐怖を生じる無条件刺激)で恐怖を生じ、その際に、恐怖と連合して、暴力教師(元来は無関刺激)を恐怖の条件刺激として学習します。その後、この生徒が暴力教師(恐怖の条件刺激)を見ると恐怖を生じます。(恐怖の条件反射)、この暴力教師に見つからないように、会わないように、逃げだします(恐怖の条件反射の反応)。この暴力教師を見ただけで、何も考えなくても自然と、反射的に逃げだそうとする脳内の神経活動を、トラウマと言います。このトラウマは意識で感じたり、調節したりできる心の中にはありません。もっと深い、潜在意識の中に、トラウマはできます。

心(こころ)その8 「心の傷と登校拒否」

 神経生理学からの登校拒否の説明をします。

 子供達は学校内でいろいろなストレスに何回も晒されています。時には子供達は体罰やいじめなどの強い侵害刺激に晒されると考えられます。人間も動物です。そこで恐怖による条件反射が成立します。其の際に、周囲にいつもあるもの、例えば学校そのもの、先生、友達、教科書などを、条件刺激として学習します。その際に何が条件刺激として学習されるのかは、その個々の子供によって異なります。その子供にとって、その場で受けた恐怖刺激以外の大きな刺激になっているものが条件刺激に選ばれると考えられます。そこで脳内にその条件刺激が記憶され、恐怖の条件反射が成立します。

 一度この恐怖の条件反射が成立すると、以後条件刺激となった物、例えば学校の建物や先生や教科書などを見るだけで、子供は恐怖を生じるようになります。例えば学校の建物が条件刺激になったとします。子供は学校の建物を見ると、大脳辺縁系の扁桃体では恐怖の条件反射を起こして、逃避行動や、頭痛、腹痛などの自律神経の反応症状を出します。しかし前頭葉では単に学校の建物を認識するだけで、それ以上のことは何も起こりません。

 例えば「学校に嫌な先生や友達がいて、その人達が自分を辛い思いにさせるかもしれないから、学校の中へは入りたくない」と、考えたりしていません。学校の建物を見た瞬間、恐怖の情動反応を生じています。そして学校の建物が自分の逃避行動や自律神経の反応症状の原因だとはまったく気づかない可能性があります。当然周囲の人も学校の建物が恐怖の原因だとは気づきません。もし子供が学校や友達が自分の恐怖の原因だと知っていた場合でも、そのことを親や先生、周囲の大人に訴えたとしても、これらの大人には子供の恐怖に気づかないか、子供の恐怖の原因が些細なことに思えて、子供の訴えを無視したり、否定したりします。

 それが繰り返されると、子供は自分の訴えで逆に自分が苦しくなるため、自分を守るために子供は恐怖の原因を、自分の恐怖自体を訴えなくなります。恐怖を認識しない、恐怖を訴えない学習をします。これらの諸々が組合わさって登校拒否を生じています。

 登校拒否でもそうですが、心の傷の症状は、人間が恐怖を感じた時に示す自律神経の反応症状です。それらは血圧上昇、心拍数の増加、呼吸数の増加、未梢血管の拡張などを起こします。これらの症状を出すことは生得的な反応で、恐怖から動物や人間が逃れるために獲得した物です。これらは自然界で動物が危険に出くわしたときには、とても有効だと考えられます。

 ところが人間同士の関係では、必ずしも人間には有効とは思えないふしがあります。特に恐怖から逃れらないときには、これらの自律神経の反応症状はとても強くなります。いわゆる恐怖におびえる状態と言えると思います。頭痛、関節痛、筋肉痛、嘔気、嘔吐、腹痛、下痢などがあげられます。これらの症状の出方も、その個人の過去の経験とかなり関係しているように思われます。引き起こされた恐怖自体、およびこれらの強く出る自律神経の反応症状が逆に人間を苦しめるようになることが多いです。

 そのために人間は、これらの苦しめる強い自律神経の反応症状から逃れる行動に出ます。ひきこもりは物理的に恐怖の条件反射から逃れる方法です。心因性の聾、心因性の唖、心因性の盲も恐怖の条件反射から逃れるための、一種のひきこもりだと思われます。

心(こころ)その9 「ひきこもり」

 登校拒否を心の傷の考え方から理解すると、登校拒否をしている子供達の出すいろいろな症状や行動が説明できます。ひきこもりについても、その原因についていろいろと説明がなされていますが、心の傷の考え方で説明すると簡単で子供達に沿った解釈ができます。

 登校拒否の子供は学校に対する、心の傷を持っています。それ故に学校を見ると、意識すると、心の傷がうずき出します。それは頭が痛くなったり、おなかが痛くなったり、気持ち悪くなったり、いらいらしたり、とても辛い症状です。そのため子供は学校から刺激から逃れるために、安全な場所へ逃げだそうとします。子供にとって安全な場所は家庭です。

 子供は家にひきこもり、学校からの刺激を避けようとします。学校からの刺激がないと子供は元気になります。心の傷がうずかないときは普通の子供と同じです。元気に遊び回ります。親は「こんなに元気なのに、なぜ学校へ行けないのだろう」と不思議に思う原因です。ところが学校から印刷物が届く、友達が来る、先生が来ると子供の心の傷がうずき出します。子供の状態が悪くなります。中には少し感情の抑制のきく子供がいます。その子供達は、友達や先生が来たときには、喜んで迎え入れますが、友達や先生が帰った後、大きく状態を悪くします。

 家庭にひきこもっている子供は、学校からの刺激が無くなると家の外へ出てきます。昼間は家庭の外には学校に関するものが多いので、寝て過ごすことが多いです。夜になると学校に関するものが少なくなるので起きてきます。自動車で出かけるときも、学校に関するものを見ると、うつ伏せになって隠れます。そんな状態の子供を家の外に無理やりに引き出すと、子供の心の傷がうずいて、子供は大変に辛い状態になります。心の傷をより深くしてしまいます。ひきこもりの子供を強引に引き出すことは大変にまずいことです。

 家庭にひきこもって、子供が心の傷を癒せるかどうかは、両親の対応にかかっています。両親が登校刺激をしたなら、子供は学校からの刺激を避けて、自分の部屋に閉じ込もります。学校からの刺激となる親に攻撃をします。親に関するものを破壊します。それは家のガラスだったり、壁やドアだったり、食事だったりします。ところが、親が登校刺激を止めると、子供は親に対する攻撃を止めます。子供は自分の心の傷を癒すのに、親の支えが必要なことを、本能的に知っています。

 子供の心を癒すのに、両親が共に子供を支える必要は必ずしも必要ではないようです。これはあくまでも経験上の事ですが、一般に母親が子供の登校拒否を認めて支えれば、それで十分なようです。ただ、そのためには母親には大変に大きな負担が強いられます。父親も協力できればもっと良いのですが、少なくとも母親のじゃまをしなければ、子供は母親のもとで心の傷を癒して、元気に社会へ出て行きます。

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心(こころ)シリーズ
38号 00年1,2月 顧問医師 赤沼侃史

登校拒否に関連して、いろいろと感じたり、考えたりしたことを連載してみたいと思います。しばらくおつきあいください。今回は連載の第3回目「心(こころ)その10」からです。

心(こころ)その10 「登校刺激」

 ある親の会で、なぜ親が子供に登校刺激をするかと言うことが話し合われました。ある母親が、「子供がいないとほっとして自由な時間ができる」と言いました。それは昼ご飯を作るとか、ついつい子供が目について、子供に小言を言ったりする必要がないから、それだけの時間を自分のために使えると言う意味だったそうです。確かに日曜日や祭日には、母親はかえって忙しいと言います。

 しかし、それは子供が元気に家庭内で遊び回る時の話です。子供がしょげかえって、頭が痛い、おなかが痛いと言っているとき、親はそんなことを考えて子供に「学校へ行きなさい」と、あれやこれや理屈をつけて言うでしょうか?やはりそれは親が子供に「学校へ行け」と言わざるを得ない状態にあるからだと思います。すなわち親は子供が学校へ行かないと不安になるからだと思います。子供を学校へ押し出すことで、心の安定を得ています。

 ではどんな事に不安を感じるのでしょうか?

 その内の一つは、子供はみな学校へ行っているのに、自分の子供だけ行かないと言う不安でしょう。人並なことを子供にしてあげたい、子供は人並な者になって欲しい、と言う世の中の流れに乗って流されるだけの、自主性の無い生き方から来ていると思います。世の中の流れに乗っていると、その先に目的地が見えているような気がするのでしょう。世の中の流れに乗って、それなりの夢や希望も涌いて来るのでしょう。ただ金のためあくせくと生きて、自分自身に何の夢の無い現在の親達にとって、子供に乗せて描く夢が唯一の夢なのかも知れません。その夢が壊れる不安は大変に大きいと私は思います。

 もう一つは子供の成長でしょう。

 子供の身長が増える、体重が増える、それは子育てをしている親には途轍もなく嬉しいものです。それと同じように、知識が増える、能力が増える、これも親にとっては途轍もなく嬉しいものです。そして学校はそれがはっきりと具体的に見ることのできるところです。学年が進む。進学する。すべて子供の能力のはっきり目に見える成長のように思われます。その能力が停滞するのですから、親にとっては大変に辛いことになります。学校へ行かないことはすなわち能力の停滞と親は感じとっているようです。

 能力の停滞が有れば、社会に出ても何の職業も得ることができないと考えてしまうのです。子育ての失敗と考えてしまいます。それ故に子供に能力の停滞があってもらっては、親は困るのです。そこで子供を学校へ押しだします。

心(こころ)その11 「子どもは現在に生きる」

 以前教育テレビの放送で、学校における問題点を文部大臣と子供達とが話し合う番組がありました。その中では、文部大臣は子供達の訴えに見事と言えるほど流暢な答弁をしていましたが、その議論が見事なほどすり替えられていて、がっかりしました。その余りの流暢な答弁(子供達への真摯な答えでなく、国会の答弁を思いだしますので)にどれだけの子供が狐につままれた気持ち、理に化かされた気持ちになったでしょうか?

 あの番組の中で子供達は現在を訴えていました。現在を大切にしたいと言っていました。だから現在をどうにかしてくれと言っていました。しかし文部大臣は、「だからこれからはこうしましょう。こうするつもりだから、今はまだ問題の多い学校だけれど、学校へ来なさい」と、答えています。それでは今訴えている子供達にとっては間に合わないことに気づいていません。

 確かに長期のビジョンも大切です。けれど現在を生きている子供達には、今が一番なのです。今をどうにかして欲しいのです。しかし、今何かをして、今の子供達が満足して学校へ行ける方策については全く答えてくれませんでした。

 大人と違って、子供達の行動の大半は情動に支配されています。その子供を説得するのに、大人の論理を用いても、子供は理解できません。子供の行動、発達には情動の安定が第一に必要なのです。現在、子供がおかれている状態が、その子供に悪くないことが絶対に必要なのです。もちろん子供がおかれている状態がその子供に良いと、もっと良いことも事実です。

 つまり子供達にとって今現在がとても大切なのです。
それを子供達は本能的に知っています。そしてそれを要求して行きます。それにより情動が安定すると、子供はその環境に自分を適応させようとするようです。

心(こころ)その12 「義務教育ではなくて権利教育」

 義務教育と言う言葉があります。それは憲法に明記してあります。それによりますと、義務教育とは親や国家の義務であり、子供からは(教育を受ける)権利です。しかし、子供にとっては、義務教育と言われるとほぼ間違いなく子供の義務だと理解するようです。これは子供としてのごく自然な発想であり、大人はそれを全く無視し続けています。現在でも義務教育という言葉は子供ばかりでなく、大人も誤解させ続けてきた、いや、まだ誤解させ続けている言葉です。

 子供の立場から
子供の発想から考えるなら、権利教育と名前を変えて、大人が、大人の立場から言うと義務教育だと翻訳して、解釈すべきではないでしょうか?憲法に書いてあるからと言う理由で言葉を変えれないのなら、必ず、義務教育(子供からは権利教育)とせめてもかっこ付きで書いて欲しいと思います。

 現在小、中学校は子供の全てが通学するたてまえになっています。しかし現在かなりの子供が学校へ行っていません。それは学校が子供に合わないために、子供が登校を拒否しているからです。そのために学校の改革が言い続けられています。しかし例え理想の学校ができたとしても、理由がなんであれ、学校へ行きたがらない子供が出てきて不思議では有りません。子供ばかりでなく、大人でも人間には性格の上で広いばらつきがあり、そのいろいろな性格の子供の集団をいろいろな性格の大人が教育する限りにおいては、学校が万能ではありえないのです。別の言い方をすれば、絶対に今の学校が変わらなくてはなりませんが、変わったから解決するかと言うと、そうではない、問題が少なくなるだけか変わるだけで、無くなるわけではないと言う意味です。この様な事を言いますと、解決しないことを前提に問題解決の議論はできないと言われる人が多いと思います。しかし、子供は物ではありません。人間である以上、子供の権利を認める以上、枠からはみでた子供の事も考えておく必要があります。

 現在確かにスクールカウンセラー、適応指導教室など、対応が取られていることは事実ですが、いずれも子供を学校へ戻すことを目的としており、学校へ戻りたくないと言っている子供達には、好ましい対応とは言えないと思います。最も好ましい対応は、一度学校から縁を切って、子供の自主性に任せることではないかと思います。

 今一度、今の学校の問題の根本原因とはといくら英知を絞っても、学校が全ての子供に好ましいものにはり得ないこと、必ずはみ出して来る子供が出て来ることです。この事実を認めない限り、学校を改革してもその都度、その改革に合わない子供が出て来ます。学校を嫌う子供が、そのまま学校に行かないで成長して良いと私は思うのです。学校に行かないで成長した方が幸せな子供も、現実にたくさんいます。

心(こころ)その13 「就学前教育」

 就学前の子供の教育を主張する小学教師がいます。今の子供の問題点を理解しないで、教師の都合からの発言と言えます。小学校で学級崩壊が言われているのは多様性に富む子供に対応できない教師の問題です。それを多様性に富む子供に原因を求めるとは、単に教師の責任逃れです。

 多様性に富む子供が生じることは自然の成りゆきです。原因はいろいろと言われていますが、(多様性に富む子供がいることは)現実であり、かつ(子どもという)人間の良さです。(一人一人の個性を伸ばす教育は)今の教育の目的でもあるはずです。もし教師がプロの意識を持っているなら、就学前で、保母さんでも対応できる多様性に富む子供への対応を、なぜ放棄するのでしょうか?

 確かに学校では、就学前の子供にしなくてはならない事よりも、たくさんの事をしなくてはなりません。生徒と教師との割合も小さくなります。教師の仕事が多くなり、授業が難しくなることも分かります。それだから、就学前に子供を教師の扱い易い型にはめ込んでしまえと言う議論は、教育ではないと思います。そしてもっと大切なことは、学校におけるいろいろな子供達の問題の多くは、子供達をある枠に押しこまないでという、子供達の訴えであることに気づいていないことです。

 最近幼稚園や保育園における子供の問題も注目され出しています。特に幼稚園における園児の不適応行動です。以前も無かった訳ではないのですが、以前では保母さんでどうにか対応できたのに、最近では保母さんでは対応できない子供が増えてきたとの報告です。その原因として、子供の性格の多様性として片づけて良いかどうかは今後の問題です。ただし、問題行動を起こす子供の中に、早期教育、きびしい躾を受けている子供が多い傾向があることから、子供の心がこの時点で既に傷ついている可能性を指摘しておきたいと思います。

心(こころ)その14 「共感とカウンセリング」

 ある教師の方からこのような手紙を頂きました。希望とやる気に燃えて教師になられたのだと思います。

 (前略)
 最近、私自身の中にあった「他の教師に勝ちたい」とか「見返してやりたい」というような気持ちが、本来私が取り組みたいこととは異質であると気付くようになりました。するとその分、子どもたちが異常なほど、私の周囲に集まってくるようになりました。その結果、2年前までは子供達にあだ名なんかで呼ばれたことなど一度もなかったこの私が、30代の後半を迎えた現在、5つのあだ名で呼ばれるようになろうとは、私には想像もできなかったことです。

 一昨年「他の教師に勝ちたい」と思った私は、“初級産業カウンセラー”の養成講座を受講し、修了証書もいただくことができました。ところが、この時になって、資格を取ることに意味を感じなくなったのです。すでに私は“教師”だし、資格にこだわる必要など何もないと思うようになりました。その理由を私なりに分析してみましたら、私が資格取得の気持ちがなくなった最大の理由は、この講座を通して自分自身を見つめられるようになったからと思えます。講座を受けている間中「どうやれば、いいカウンセリングができるだろうか」とばかり考えていたのですが、結局のところ、カウンセリングをするということは、他ならぬ自分自身を見つめ直すことだと、私には思えたのです。子供達が私の側に寄ってくるようになったのは、それからでした。

 子供達との会話の中で私がもっとも気持ちを集中させているのは、相手の気持ちを推し量ることではなく、目の前の相手の行動や話が、私の心をどう動かしているかと言うことです。まさに自分自身のことなんです。

 そういう中で一番変わったのは、上司に対してなど、いきなりキレることが多かった私が、「今の私は、すごく腹が立っています」と、自分の気持ちを相手に伝えることができるようになったという点です。不思議なことに「腹が立っている」という気持ちを、笑顔で伝えられるようになったんです。これが、これまで引き起こしていたトラブルのほぼすべてを打ち消してくれました。

 今、教師が「カウンセリング」や「カウンセリングマインド」を語るようになりましたが、教師にとって最も大切なのは、自分の生の感情を、正面から見据える力量でしょう。かなり、つらい作業ではありまが‥‥。(後略)

 カウンセリングとは共感そのものだと思います。相手の訴えをそのまま情動で受け取ってあげると、相手はそれだけで自分自身を見つめなおし、自分で答えを見つけて動きだします。知識はいりません。かえってない方が、相手を操作しないですむので、良い結果を生じる可能性が高いかも知れません。

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心(こころ)シリーズ
42号 01年7月 顧問医師 赤沼侃史

登校拒否、その心
登校拒否に関連して、いろいろと感じたり、考えたりしたことを連載してみたいと思います。しばらくおつきあいください。

心(こころ)その19 「物質的に豊かな社会 と 多様性のある子供」

 子供数の減少にも関わらず、登校拒否の子供の数は増え続けています。子供達のいじめや非行も依然として続いています。子供の凶悪な犯罪も起こって、政府を中心として心の教育が叫ばれています。いろいろな人から「最近の子供達は我慢ができない、とてもひ弱だ」と言われています。学校の先生達からも、「宇宙人のような感じの子供がいる」との言葉が聞こえます。これらの事は、今の学校の仕組みに合わない子供達が増えてきていることを示しています。以前とは違って、いろいろな性格の子供が増えてきていることを示しています。それらの原因として、親の躾が行き届いていないことや、親がわがままに子供を育てていること等があげられています。そのために心の教育や、就学前の躾が問題にされだしています。本当にそうでしょうか?

 私は型にはまった心の教育や、就学前の躾がかえって事を悪くするのではないかと考えています。その理由は、「多様性のある子供が生まれるのは、豊かな物質社会のためではないか」と考えているからです。この「物質的に豊かな社会と多様性のある子供」の関係に気づいている人もすでにいるようですが、その理由をはっきりと述べている人はいないと思います。

 「物質的に豊かな社会と多様性のある子供」の関係の根拠は、Adelman & Maalsch 以後Wager、Daly らの欲求不満性無報酬の実験にあると思います。つまり、欲求性無報酬は罰の効果があると言う動物実験です。

 欲求性無報酬とはある欲求に対してそれが満たされ続けていた時に、突然その欲求が満たされなくなったとき、それは罰を受けたと同じ様な事が脳内で生じると言う意味です。お小遣いに例を取ってみます。毎月1000円の小遣いをもらい続けていた子供が、ある月突然お小遣いを貰えなくなったとき、子供は殴られたと同じ様な罰の効果が心(大脳辺縁系=感じる心)に生じると言う意味です。

 次に子育てを考えてみます。

 物質的に豊かな社会では子供が生まれ落ちたときから、両親や其の周囲の人は、子供にいろいろな物を与えてきています。食べ物、衣類、おもちゃ、そして思いやり(私は愛情とは言えないと思うのです)などです。子供の数が少ないだけ、余計に大切に子供を育てます。集中的に物や思いやりを与え続けています。子供は当然の事として、これらの事を受け入れて続けています。ところが大きくなるにしたがって、いろいろと制限を受けてきます。その主なものが躾です。それから幼稚園や学校における制約があります。それらが子供達の物や人に依存し続けていた心に、欲求不満性無報酬の状態を作ります。心に罰の効果として働き、大きな恐怖を生じさせ、心に傷を作り、いわゆる性格を曲げて、大人の予想しない行動を取る、多様性のある子供を作っています。

 ある人に裏切られた時を考えてみて下さい。人は誰でも裏切られたとき激しい怒りを感じます。こんな当り前の事を、と言われるかも知れませんが、脳科学的には、その裏切った相手に裏切られた人は激しい怒りを、場合によっては恐怖を感じていることになります。 欲求性無報酬は罰の効果ですから、恐怖として逃げだしたり、怒りとして攻撃したりします。怒りは攻撃する動機づけとなります。ただし人間では、一般に怒りと恐怖とは別の感情として考えられていますが、脳内で起こっている反応は、罰の効果の表現として、その人のその時までの学習により恐怖や怒りとなって表現されます。

 当然罰の効果、恐怖や怒りの程度はその子供の大人や物への依存度により異なります。依存度が高ければ高いほど、怒りも大きくなります。そのことも動物実験から示せます。ただ、人間の大人では、前頭葉の思考が、思考の脳が、大脳辺縁系、感じる脳の怒りを調節できますから、必ずしも依存度と怒りとの関係は比例しません。ところが子供は思考の脳で感じる脳を調節できません。そこで子供は怒りをそのまま表わします。すると親は子供を叱ることで子供の怒りを押さえつけます。躾と言う名目で、当然の事として子供を叱ることは、それは子供に新たな恐怖を与え、その恐怖でそれまでの怒りの反射を押さえつけるのです。

 当然その結果、親が子供に与えた恐怖は、欲求不満性無報酬から受けた怒りや恐怖よりもはるかに大きな恐怖になっています。しかしこの際に、親は良いことをしたとして、子供に与えた恐怖は親の記憶に残りません。親はごく普通に、常議的に子育てをしていると考えていますが、子供には大きな恐怖を受けたことになっています。子供には恐怖を感じる子育てになっています。

 人間を含めて、ほとんどの動物は恐怖を感じた際に、恐怖の条件反射を学習します。その学習した恐怖の条件反射の条件刺激は、人間の場合、一般の人には特に意味の無い刺激です。その恐怖の条件刺激に出くわしたとき、動物は思わぬ恐怖の行動を取ります。それと同じ事が、子育ての際に子供達が学習しています。

(条件反射・条件刺激については、No.37('99年12月)の心シリーズその7「トラウマ(心の傷、心的外傷)の概念と登校拒否」と、心 その8「心の傷と登校拒否」をご覧ください)

 それは心の傷と表現される物です。心の傷は恐怖の条件反射です。
その恐怖の条件刺激に注目しなければ、気づかなければ、一般の人間で言う、子供の性格の変化と言うことになります。恐怖の条件反射を持った子供、それは不適応行動を持った子供と言うことになります。つまり多様性のある子供とは、心が傷ついて、いろいろな不適応行動を持った子供と言うことになります。豊かな物質社会に子供が生まれて育つ中で、人間社会の拘束で子供が心を傷つけられた結果、不適応行動を示す多様性のある子供が生まれてきています。

心(こころ)その20 「選択的な登校よりも すっぱりと断つ」

 多くの登校拒否の子供を持つ親が、子供が学校へ行って欲しいと思う気持ちは、3人の子供の登校拒否を経験した私には痛いほど良くわかります。しかし学校へ行けないで苦しんでいる子供の本当の気持ち(それは子供の潜在意識の中にあり、子供も認識していないことに注意しなければならない)を、親は理解してあげて欲しいと私は思います。子供は潜在意識の中の情動(情動を認識したときには感情と言う)で学校への恐怖を感じて学校へ行こうとしていません。それでいて親の気持ちを感じとった子供は無理して時々学校へ行っています。いくら親が「無理までして学校へ行かなくてもよい」と言っても、その他の言葉や行動で学校へ行って欲しいと暗に示せば、子供は無理して学校へ行かざるをえないのです。またその時まで学校へ行くことを当り前(習慣)としていた子供にとって、必然的に無理してでも学校へ行こうとします。親からみれば「行きたいときに行く」と理解しての選択的な登校ですが、子供からみれば「無理して行けるときに学校へ行こうとする」と言う意味で選択的な登校です。

 この親の「無理してまで学校へいかなくてもよい」と言う言葉は、登校拒否の子供にとってまだ「学校へ行きなさい」と言う意味になり、登校刺激になり、子供をたいへんに苦しめている言葉であることに気づいて欲しいと思います。はっきりと「学校へ行かなくてもいいよ」または「学校を休みなさい。行かなくて良いよ」と言ってあげることが大切です。それに言葉の上(思考)での納得と、本心(情動)からの納得と、子供の場合異なることにも気づいて欲しいと思います。子供は言葉の上での納得で行動することは大変に難しいのです。子供は潜在意識の中の情動で行動することに気づいて下さい。

 多くの学校へ行けない子供には、言葉の上では学校は楽しくて行きたい所なのですが、潜在意識の中の情動では学校が怖くて行けないのです。

 いくら学校の先生が理解があると親が考えても、学校へ行けない子供に取っては、学校の先生は理解が無いと感じているから、学校へ行けないのです。

 以上の論理は登校拒否を起こした子供達の、学校との関係にはっきりと答えを与えてくれます。多くの親は子供が登校拒否を起こしても学校とのかかわり合いを無くそうとはしません。それは親達が学校を信奉して育ってきたのだからやむを得ないことです。しかしその結果、登校拒否を起こした子供達が学校との関わりを要求される限り、子供達には潜在意識の中の恐怖から逃れるための自律神経の反応症状が出てきます。それはとても辛い反応症状です。

 そのため子供達は親からも逃げだそうとします。自分の部屋の中に、自分の心の中に逃げ出さなくてはなりません。ところがすっぱりと学校との関わりを断ち切ってあげると、自立神経の反応症状はなくなります。心が落ちついて子供は子供としての自然の成長を再開します。学校が存在しない形での成長をします。時には成長の過程で学校の必要を感じ、学校へ戻る子供もいます。このように登校拒否を起こした子供達の論理は、学校で心の傷を受けたために、学校とすっぱりと縁を切って欲しいのです。そうして子供達なりの成長をしたいのです。

 それに対して「すっぱり切る」よりは「学校との関わり方を考えたい」と言う言葉は、子供の心を知らない大人の論理であり、子供はそれに従えないのです。そして「すっぱり切る」ことで、その子供なりの成長をする事ができた子供達の中には、子供自身の要求から学校へ戻ることを選択する場合もあることなのです。

 今までの登校拒否などの、子供の不適応行動を議論するときに良くあることですが、対応している大人の感じたことと子供の感じたことが異なることに気づかれないために、問題の解決をみていないことが多いです。問題の解決をみないときには、大人の思いを子供に当てはめてはならないと、大人は理解すべきだと思います。

心(こころ)その21 「本当の親切とは」

 親切の定義ははっきりしません。辞書を見てもわかるようなわからないような表現です。親切は、親切をできる人がすれば良いのであり、決して要求される物でも有りませんし、しないから非難される物でも有りません。親切は以下に分析するように、余裕のある人、能力のある人がすれば良いものだと思います。決してすべての人に要求される物ではありません。

 親切には親切をする側と、される側があります。親切をする側から言うなら、その人のためになる(倫理的に)と思うことをする事です。その際に見返りを求めては親切になりません。される側から言うなら、されて感謝する気持ちになれる場合と、気がつかない場合もあります。この親切をする人の気持ちとされる人との気持ちが一致した時が、親切ではないでしょうか?

 ただし、この関係は短時間で終わらなければなりません。親切が続くと、される人の感謝の気持ちが依存に変化し、打算の気持ちになったときには、それは親切ではなくなります。

 親切をされる相手が、感謝の気持ちの分かる人間だったら、感謝されることが親切を行なった一応の目安になります。しかし、感謝の気持ちの分からない、小さな子供だったり、動物だったり、自然界の物だったりしたらどうでしょうか?そのときは親切にしたつもりの相手の様子から、判断するしかありません。その判断もその場限りの物でなく、長い目で見なくてはなりません。

 このように考えると、親切ほど難しいものは有りません。相手次第で親切が迷惑になります。又、親切で行なったことが、ある人には親切だったけれど、同時に他の人には迷惑だったと言うこともあります。つまり、親切とは、迷惑だと思われることを覚悟してからでないとできないことになります。親切なことをすると言葉で言うことは優しいことですが、実際上は相手の様子を、その結果を見て、親切だったかどうかを判断することになります。親切だと思ってしたことでも相手の様子を見て、すぐに引き下がる必要もあります。相手に親切にするには、自分が親切だと思って行なっている行動を止める勇気も必要です。

 またこのようなことが言えると思います。すなわち、ある人が自分から親切心であることをしたとします。その時に相手がそれを迷惑だと思ったとします。その際に、相手が人の心を理解しないとその人が怒るのも悪くは無いのですが、その人も相手を理解しなかったのだとも解釈する必要があります。確かに相手は人の心を理解していないことは事実ですが、その人も相手の心を理解しなかったことは事実です。

 このように考えると、続いて次のような事が言えると思います。「相手の要求が良くわからないときには、親切をしなくてもよい」です。相手の要求を理解して行動するのが親切と言えます。ある意味では無難な親切とも言えるかも知れません。ただいくら相手からの要求に答える場合の親切でも、短期間で終わらせないと依存を生じ、かえって相手を傷つけることになることを忘れないで下さい。 最短期間で終わらせないときには、相手に依存が生じたときには、相手が要求し続ける間はその要求に答え続ける必要があります。それは親切をしている人にはたいへんな負担になります。

 「本当の親切」とは、相手の要求がわからなくても、行動を起こして、その結果として、相手に感謝されることだと思います。相手に感謝されるかされないかは一種の賭けになります。場合によっては自分も大きな被害を被る可能性も有ります。多くの場合相手の要求を正確に知ることはできません。親切でしたことが相手から恨まれることは良くあることです。このように条件を付けないで、自分の犠牲を省みないで、有る行動を起こして、その結果が相手に感謝されたときには本当の親切と言えるでしょう。相手が感謝しなければお節介であり馬鹿を見たことになります。

 馬鹿を見ることを厭わないで、自分の損を省みないで、行動に出なければ本当の親切はありえないと思います。例えば、電車が来ているのに、踏切で遊んでいる子どもを救出するというようなものが考えられます。ただこのような本当の親切をしなくてはならないときを経験する人は多くありません。多くの場合、親切とは相手の不可能なことについて、相手の要求を無条件で満たしてあげること、それを短時間で終わらすことです。相手の要求しないことはしないことです。

 幼い子供が転んだとします。けがをしたようすもありません。それなら無視しておくのが親切でしょう。もし子供が痛みに耐えかねて動けないなら、側に行って痛みを共有してやるのが親切でしょう。大けがをしていたら、ほとんどの人はその子のために対応するでしょう。けがをしていることがわからなかったら、わかるまで見守っておくのも親切だと思います。

 足の悪い人が転んだとします。転んでも自分で起きあがるのがいちばん良いことは、おわかりだとおもいます。なかなか起きあがれなくて困っているときは、側に行って助けるのが親切でしょう。そのときの状況で親切な行動は変わってきます。老人が転んだ場合には、その老人に残っている能力によるので大変にむずかしいです。無難なのは、老人が何か言って来るまで待つか、声を掛けてみれば良いでしょう。そしてその老人の要求に答えてあげることが親切です。

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