フリースペース「したいなぁ~松戸」&松戸-登校拒否を考える会「ひまわり会」
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心療内科 赤沼医師のコラム

親のせい 2012.1.15

 母親が言った何気ない言葉で、子どもが荒れてしまいました。子どもは「全て親のせいだ」と言いました。それを聞いて母親は腹を立てましたが、自分を押さえて「辛いね。ごめんね。お母さんが悪かった。」と謝りました。

 もしこのとき母親が怒ったら、母と子どもの間の信頼関係を壊してしまいます。子どもはひどく荒れまくったでしょう。子どもは死ぬほど辛かったのです。辛さは潜在意識から生じますから、子どもには辛くなる理由が分かりません。そこで辛さの原因を親の責任にして少しでも楽になろうとしているのです。母親が「そうだね。ごめんね。」と言ってくれると、子どもの心がとても楽になり、子どもは母親を信頼して元気になっていきます。

 「子どもから学ぶ」と言う言葉があります。子どもと大人の常識から見るのではなくて、子どもの一挙一動を子どもの心に沿って理解しようとするものです。子どもの行動を拒否したり、怒ったりしたら、「子どもから学ぶ」ことになりません。子どものあらゆる行動をそれで良いと受け入れたなら、子どもは親を責めることが無くなります。親を信頼してその子どもなりに社会と関わろうとします。

 母親の対応が子どもの心に沿うとは、その対応で子どもが落ち着くようになることです。多くの子どもは母親の前で良い子を演じることがないからです。子どもが辛くて、その責任を「親のせい」と言っている間は、子どもが親を信頼していないという意味にもなります。

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あ、そうだ! 2012.1.21

 娘が不登校引きこもりになって五年がたちました。最近母親が常識を捨てて、娘の非常識な要求を叶えるようにしだして、娘と母親との関係がどんどん変わってきました。娘と母親との会話が増えてきました。

 ある日、母親が相談しているカウンセラーを娘が訪ねて行き、カウンセラーと話をしました。その会話の中でカウンセラーから
「今のまま不登校、引きこもりをしていて良い。何もしなくて家の中でごろごろしていて良い。何かしたくなったら、何か楽しいことがあったら、親が反対してもそれをしなさい」
と言われました。

 その後で娘は私に
「私には何もしたいものがないし、何も楽しいものもない。」
とがっかりした様子で言っていました。私はその話を相づちだけ打って聞き流しました。その娘が突然
「あ、そうだ。料理をしてみたい。今日はチョコレートケーキを作りたい。」
と言いだして、すぐにレシピーの本取り出して作り始めました。私としては台所を占有されて迷惑なのですが、娘が何か言い出すまでぼけーっと見ていました。
「母さん、チョコレートとバターがないから買ってきて。」
と娘が言ったので、私はすぐに買いに出かけました。

 このことを契機に、娘は私からだんだん離れていきました。それまでは私が側にいないととても不安がったのですが、昼間一人で出かけていきます。夜は私と同じ部屋で寝ていたのに、今は自分の部屋で寝ています。今の私は何か寂しさも感じてしまいます。娘の不登校がなければ、きっと過干渉の母親、管理だけの母親を続けていたと思います。娘を苦しませ続けていたと思います。

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つまらなそうにしている子ども 2012.2.13

 ある不登校の子どもを持つ母親から
「子どもがつまらなさそうに朝から晩までテレビやゲームを惰性でこなしている。そんなにつまらないならテレビやゲームをしなければ良い。もっと健康な遊びをして欲しい、元気に遊んで欲しい」
と言っていました。

 これは不登校の子どもの心を知らない人の発想です。その子どもはテレビやゲームがとても楽しいです。しかしテレビを見ても、ゲームをしても楽しくしていると表現できないのです。それはその子どもの心が登校刺激を受けて、学校を意識していると死ぬほど辛いからです。その辛さをテレビやゲームで埋め合わせて差し引きゼロにしようとしています。差し引きゼロにしようとしても、十分にゼロにならないとき、まだ少し辛さが残っているとき、子どもはごろごろとしていて、活力がありません。

 子どもには大人と同じ考える心と、大人では考える心で調節されている情動の心とがあります。子どもでは考える心から言葉を発しますが、大人と違って子どもの行動は子どもの本心である情動からなされます。情動の心には何かを得ようとする楽しさの機能と、何かから逃げようとする辛さの機能とがあります。そして楽しさの機能と辛さの機能はお互いに打ち消して、残った方の機能から行動をすることになります。

 不登校の子どもでは学校を意識すると辛くなります。テレビやゲームをするとその辛さを打ち消すことができますから、どうにか自分を維持できます。不登校の子どもを元気にするには学校を意識しなくて良いようにしてあげることで可能です。子どもは学校という辛さがなくなって、テレビやゲームで楽しさが残って、子どもの情動は何かを求める楽しさになります。子どもは元気に活動をし始めます。大人はそのままテレビ漬け、ゲーム漬けになって何もしなくなると考えますが、そうではありません。元気になった子どもはテレビやゲームを必ず卒業して、その子どもなりの建設的な活動を始めます。

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精神科早期介入政策について 2012.2.19

 子どもの心の問題に精神科が早期に介入することへの問題点を指摘したいと思います。子どもは大人と違って成長します。成長には身体的な成長と、心の成長があります。心の成長について現在の精神科医療の問題点です。

 子どもの心に大人が持っている心の概念が当てはまるかどうかの問題点を指摘しておきます。大人の心は精神身体二元論で説明されています。それは大人の心について今のところ説明可能なのです。ところが子どもの心は精神身体二元論では説明がつかないところが多いです。精神身体一元論だと説明つく場合が多いです。

 特に心の問題を抱えている子どもの心は精神身体一元論の方が説明がつきます。その意味で精神身体二元論に基づく精神医学が子どもの心を扱おうとすると、間違えてしまう場合が多いようです。現実に精神科医療を受けていた子どもについて、その薬を止めて、子どもへの対応を変えることで、子どもの精神症状が解決しています。

 子どもの心は脳の成長とともに成長をしていきます。精神科医療でも心の成長を考えています。精神科医療で用いる薬は脳に作用してその効果を発揮しています。しかし脳の成長を配慮した薬は今のところありません。脳の成長には解剖学的な脳の成長と脳が持つ情報つまり心という意味での成長があります。そのどちらも今の精神科領域の薬は配慮していません。

 現在の薬は大人の心についての効果ばかりが強調されて、子どもの心についての副作用は全く分かっていません。特に長期に使われた場合には、子どもの心の成長に悪影響を与える可能性が考えられます。子どもの人権に関わる問題を生じてしまう可能性を排除してから、薬を使う必要があります。

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自己主張 2012.3.3

 ある母親とのカウンセリングの際に、母親が
「子どもが幼いときから自己主張が強かった。だから他の子どもと学校生活がうまくいかなくて不登校になった」
と言いました。

 常識的には自己主張が強いと、他の人の主張を受け入れられなくて孤立したり、他の人から攻撃を受けやすいと考えます。事実そのような子どもをしばしば見かけます。けれど自己主張が強くて他の人の主張が受け入れられなくても、上手に他の人と自分との距離をとって、自己主張を続けて実現していく子どももいます。この子ども達の違いは、辛くて自分を守ろうとしているのか、心が生き生きしているかの違いです。

 心が辛くて自分を守る必要から自己主張をしている子どもは、自己主張ばかりをしていますから目立ちます。それ故に自己主張が強いと他の子どもと学校生活がうまくいかないと言われるようになっています。心が生き生きしていて自己主張が強い子どもは、上手に他の子どもとの距離をとるために、単に良い子としか大人は理解しないようです。

 不登校になった自己主張の強い子どもは、親に向かっても自己主張を続けます。学校に行きたくないという自己主張が認められないと、壁やドア、窓ガラスを壊したり、親兄弟に向かって暴力をふるう傾向があります。不登校の子どもが物を壊したり、暴力をふるう場合には、学校に行けないのに行くようにと周囲から責められていると理解できます。

 不登校が認められた自己主張の強い子どもは、自分の成長の仕方、生き方にも自己主張をします。それは自分の心の奥底から沸いてくる自己主張ですから、それが認められると自己主張を実現して、その子どもなりの生き方を積極的にしていきます。親の生き方を参考にして、苦難をその子どもなりに乗り切り、社会へ出て行こうとします。

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「思春期精神病理の疫学と精神疾患の早期介入方策に関する研究」の報告書について 2012.3.10

どの報告書も決めつけの物ばかりです。具体的なフィールドリサーチのデータはありませんから、どのような統計処理がなされて、書かれている結果が出てきたのか全く分かりません。報告書を信頼できない理由の一つです。これらの報告書からの印象を述べます。

子どもの精神病様症状体験から精神障害への移行した場合の経過、回復した場合への経過、の検討が全くなされていません。適切な対応と言う言葉で濁してあります。適切な対応が何か、適切でない対応が何か、を明確にしないと、早期介入をどのようにするのか分かりません。現実に医療現場では早期介入の具体的な方法がないと言うことになります。具体的な方法がないのに、早期介入を主張する報告書には矛盾があります。

早期介入の中には投薬の例もあるはずです。使われる殆ど全ての向精神薬は効果、安全性について、子どもへの投薬を保証していません。その安全性や効果が認められていない薬を現実に発達段階にある子どもに投与するのが医療として認められている社会制度に、医療に疑問を感じます。現在の保険制度は病名と薬の適応が一致していれば使用可能です。子どもにとって効果があるとは分からない薬、子どもにとって安全であることが分からない安全性を保証されていない薬を使っても、医療として公に許されている現実があります。

精神科医療では子どもの精神病様症状体験を精神障害の前駆症状と判断しています。これは心身二元論の大人の精神疾患を子どもにまで拡大した物です。これは精神科医の先入観と言って良いです。科学的な保証はどこにもありません。科学的に子どもの成長期の脳と大人の脳とその機能において大きく異なっています。脳を考えない心身二元論を子どもに当てはめては間違いになります。

心身一元論で言うなら、精神科医療で言う精神病様症状体験とは、嫌悪刺激から回避できないときに子どもが出す症状です。ですから、嫌悪刺激がなくなるとこの症状がなくなります。それは子どもを素直に観察していれば分かることです。しかし精神医療では先入観から、精神障害の前駆症状と規定して、子どもが出す生理的な反応症状であることを無視し続けてきています。

子どもが出す精神病様症状体験は、心身一元論から言うなら、回避できない嫌悪刺激に反応をして出している症状です。適切な対応とは回避できない嫌悪刺激から子どもを守ることです。嫌悪刺激から子どもが守られたなら、子どもは精神病様症状を出さなくなり、それ以後何もなかったかのように育ってくれます。

しかし現在の精神科医療は精神病様症状体験があると、精神障害の前駆症状、又は精神障害として、投薬を始めてしまいます。嫌悪刺激から子どもを守ることをしません。ですから、子どもは精神病様症状を出し続けます。薬でその症状が軽減する場合もありますが、それと一緒に薬の副作用で苦しむことになります。その結果子どもが嫌悪刺激に反応してこれらの症状を出していることが分からなくなります。全ての精神科医が先入観にとらわれて、見落としている事実です。

嫌悪刺激で精神病様症状を出し続ける子どもに適切な対応として言って、薬を投与し続けても精神病様症状を出し続けます。精神病様症状を出し続けると、心身一元論では精神病様症状を出し続ける神経回路が強化されて、嫌悪刺激にも過敏に反応して、程度の差はあっても絶えず精神病様症状を出し続けることになります。成人型の精神障害に移行していきます。

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母と子のスキンシップ、男の子には言葉だけで良いのか? 2012.3.23

 子どもと母親との関係は、心が辛い子どもは何歳になっても幼稚園や小学校の子どものような感じ方をしています。男だから、女だからと言う性差はないと考えた方が良い結果を得られます。大人年齢の男性でも母親は抱きしめたり、手を握ってあげたり、背中をさすってあげる必要があります。

 常識に反しますが、常識的に考えれば気持ち悪いかもしれませんが、子どもが求めれば一緒に布団を並べて寝たり、一つの布団に一緒に寝ても良いです。一緒に入浴した例もあります。母親の方から先回りをして提案をしても良いです。ただし心が辛い子どもに限っての話です。スキンシップに必要な物は暖かくて、柔らかくて、動きのある肌です。

 大切なのは子どもがどのように感じているかです。それを母親ですら知ることができません。辛い状態の男の子でも、母親なら上記のようなスキンシップをして良いです。上記のスキンシップは母親しかできないスキンシップです。母親だからして良いスキンシップです。そして子どもにとって最高の癒やしです。

 子どもにとってこれ以上の癒やしはありません。心が元気な子どもは母親のスキンシップが必要ないので、子どもの方から拒否をします。心が辛い子どもでも、もし子どもの方で必要なければ、子どもの方で逃げていきますから、母親は子どもが母親から逃げていくまで、スキンシップを続けて下さい。

 子どもの辛い心に共感する言葉が大切です。しかし言葉だけでは不足です。母親でなくても、子どもの辛さが感じられたら、他人の大人でも共感の言葉に手を握ってあげる、背中をさすってあげるなどのスキンシップができるでしょう。しかし同じスキンシップでも、母親と他人とでは子どもが受ける癒やしは大きく違います。母親だけは共感の言葉と一緒に母親しかできないスキンシップを先回りをしてでも与えると、子どもの辛い心が楽になり、子どもが元気になってきます。

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同じ迷惑行動でも 2012.4.4

 A君は不登校で家にいます。昼夜逆転していて、時々荒れて壁に穴を開けたり、ドアを蹴ったりします。

 B君は不登校ですが、今は幼いときから好きだったテニスを再開して、週二回テニス教室に行きます。生活は昼夜逆転していますが、テニス教室には朝自分で起きて出かけていきます。何かあると直ぐにイライラして大声を上げたり家具を蹴飛ばしたりしています。

 この二人の姿は同じように感じられますが、心の中は大きく異なります。A君は不登校で辛い心を、両親から癒やされないから、それどころか辛い対応を受けるから、その辛さの回避行動として、荒れたり、壁に穴を開けたり、ドアを蹴ったりします。

 それは見方を変えると、両親にA君の辛い心を癒やしてくれ、学校に行かないA君を、それで良いと認めてくれという意味になります。両親から”学校に行かなくて良い”という対応を求めていますし、両親はA君が学校に行かないで成長をする生き方を認めると同時に、先回りをしてでも、辛いA君の心を積極的に癒やす対応が必要です。

 B君は両親から”不登校をしていて良いと認められている”と判断をしています。学校や学校に関する物にして辛くならないから、自分の生き方を求めて家の外に出られるようになっています。学校に行かないことから生じる葛藤が無いので、好きなテニス教室に通うエネルギーがたまってきています。

 テニス教室を通して、B君なりの生き方を求めていますが、まだ得られていないので、イライラしやすく、大声を上げたり、家具を蹴飛ばしたりします。テニス教室でB君なりの物が見つからないなら、そのうちにテニス教室を止めて他のことを始めます。両親は何も言わないで、B君を信じて待っていれば良いです。

 親から”不登校をしていて良い”と認められていなくても、B君のように家の外に出て行く不登校の子どもがいます。そのような子どもは家の中にその子どもが安心して過ごせる居場所が無いか、家に引きこもっていたいのに家の外に親によって押し出されている子どもです。そのような不登校の子どもは家の外で問題行動をしてしまいます。親が困るようなことをしてしまいます。

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兄弟仲の悪さの解消法 2012.4.11

 ある親から兄弟の仲が悪いので、その解消法を相談されました。兄は高校一年生でしたが今は退学して、これから通信高校に転入の予定です。弟は中学二年生です。学校で楽しかったことをしばしば母親に話しています。

 兄は不登校で学校に行けない状態です。それでも学校に行こうとしていますから、とても心が辛くなっています。兄は弟が登校刺激になっているので、弟を許せないのです。弟に辛いことをしてしまいます。兄に弟をいじめないように対応をすると、かえって兄は辛くなり、ますます弟をいじめてしまいます。兄弟仲の解消になりません。

 兄を通信高校に行かさないで、安心して不登校にさせたなら、兄の心はとても落ち着きます。それだけでも兄は弟をいじめなくなります。それに加えて、兄は兄なりの成長の仕方、生き方を認め、弟には弟なりの成長の仕方、生き方を認めるなら、兄は弟から登校刺激を受けなくなります。兄弟が仲良くなり、兄なりの、弟なりの、成長が可能になります。

 兄弟仲の悪さを親は解消しようとするのでは無くて、兄弟仲の悪さは兄に加わっている登校刺激の強さだと理解して、兄に登校刺激が加わらないような対応を親はする必要があります。兄に加わっている登校刺激をどの程度排除できているかの指標として、兄弟仲を見ていくと良いです。

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もっと大切なこと 2012.4.12

 息子は休み休み高校に通学して、やっとの思いで卒業しました。その後直ぐに某大学に入学しましたが、まもなくめまいや腹痛を生じて、大学に行けなくなりました。母親が
「体が大事だから」
と言って大学を止めさせようとしましたが、息子は大学に固執していました。それでも秋になると留年か退学を決断しなくてはならなくなり、大学を中退することになりました。

 大学を中退した息子が
「このままじゃあいけないから、就職したい。働いて家を出たい。このままじゃあ自分がだめになってしまう。」
と言い出しました。母親は息子が就職できないだろうし、もし就職しても直ぐに働けなくなり、自分を責めてもっと辛い状態になると判断していましたから、
「仕事をしなくて良いのよ。今はあなたができることだけをしていて欲しいの。必要なお金は母さんが必要なだけ全て用意するから。」
と言いました。
「母さんはいつもお金は出すから仕事するなって言うけど、母さんは一生僕にお金を出し続ける気?それだけお金を持っているの?そんなに僕を甘やかしていいの?」
と言うので、母親は
「今のあなたは就職よりもっと大事な事をやってると、お母さんは思ってる。だから今はお金の心配をしなくて良いと思っている。今のあなたで良いと思っている。」
と言いました。すると息子は
「それじゃあ、今からお金がいるようになったら母さんから貰うからね。」
と笑顔で言って、どこかへ出かけました。

 それ以後就職すると言わなくなりました。表情や言葉遣いも明るくなり、昼間はどこかに出かけて何かをしているようですが、母親には分かりません。お金もお小遣い以外のお金を要求してきていません。

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不登校の原因 2012.4.23

 学校に反応して辛さを生じる条件反射をトラウマと表現しておきます。トラウマにも直ぐに消えてしまう物から強く反応して死ぬほど辛くなる物まで、その反応の程度はいろいろです。トラウマが軽いとその辛さに耐えて、子どもは学校に行きます。

 トラウマが重くなるとその辛さに子どもは耐えられなくなって、子どもは学校に行けなくなります。それでも無理に学校に行かそうとすると、トラウマが反応して、子どもは暴れたり、病気の症状を出すようになります。

 直ぐに消えるトラウマは放って置けば良いです。また家庭で、特に母親に癒やされたなら、多くのトラウマは素早く消えてしまいます。母親と子どもとの生活が楽しいと、学校に反応するトラウマは素早く消えて、子どもは不登校になりにくいです。

 既にあるトラウマで辛い子どもに、トラウマが反応するような新たな辛い経験を子どもがすると、トラウマは以前よりもより強く反応してしまいます。消えにくになります。それ以後のトラウマの反応も強くなります。不登校になる子どもは学校で繰り返し辛い経験をしています。その辛さを家で十分に癒やされていないので、トラウマができて、その後トラウマが重症化していきます。

 トラウマを持つ子どもはそれ以上辛い経験をしないために、学校で良い子を演じています。その良い子を演じている姿から、教師は普通の子ども、多くはすばらしい子どもだと理解してしまいます。良い子を演じている子どもだと、教師は考えません。見かけと違って子どもの心が辛いことに気付きません。子どものためと考え、能力をより伸ばしてあげようとして、教師は子どもが辛くなることを子どもに求めてしまいます。

 がんばれがんばれと、子どもを励まし押し続けて、子どもの辛さに気付こうとしません。それは子どものトラウマを強めて、ますます子どもを学校に行きにくくさせてしまいます。子どもに辛さを生じる条件刺激の汎化を生じてしまいます。学校以外のことに反応して辛くなるトラウマを作ってしまいます。

 子どもが学校に反応して辛さを生じるトラウマを受ける(不登校になる)原因はいろいろです。いろいろなことが複雑に関係しています。子どもが言う原因や、教師が見つけた原因も不登校になる原因の一つに過ぎず、それを解決しても意味が無い(不登校問題が解決しない)場合が多いです。

 つまり不登校の子どもが学校に行けなくなったと考えられる個別の原因を解消しても、子どもの不登校問題は解決しないです。しかし不登校の子どもに必ず存在する事実は、学校に反応して辛くなるトラウマを子どもが持っている((登校拒否)という事実です。

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父親に良い子を演じる 2012.5.5

 不登校で物を壊したり、父親に向かって暴力をふるったり、暴言を吐いたりする娘が「お父さんのこと、大好き」と母親に向かって言ったり、「お父さん、お仕事をしてくれてありがとう」と言ったりします。これは娘が父親のことを本心から好きなのか、それとも良い子を演じているのか、その区別をする方法を教えて欲しいという質問を受けました。

 物を壊したり、父親に暴力をふるったり、暴言を吐く子どもの心はとても辛い状態です。このように心が辛い子どもが父親に向かって暴力をふるったり、暴言を吐くのは、父親が子どもの心に沿わない対応をしてしまうからです。父親を拒否している姿です。決して父親を求めようとしません。

 父親が子どもに常識的な対応をしなければ父親を拒否しないのですが、父親が常識的な対応をするような人でないと、社会の中で働けないのです。お金を稼げないのです。社会で常識的な行動をして、家で子どもの心にそう、非常識な対応を求めることは無理なのです。これらの事実を元に、父親は心が辛い子どもの心に沿わない、常識的な対応をする物だと考えて大丈夫です。不登校などの心が辛い子どもは、基本的に父親を拒否していると考えて間違うことはないです。

 不登校などの心が辛い子どもが父親に思いやりのある言葉をかけたときでも、子どもの本心は父親を意識してとても辛い状態です。本来なら物を壊したり、父親に向かって暴力をふるったり、暴言を吐いたりしたいところが、周りの人が気づかない何かの理由から、言葉の上で父親を受け入れるような言葉を子どもは言っています。決して父親を求める姿ではありません。子どもが良い子を演じている姿だと判断できます。

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子どもが母親を求めるとき 2012.5.14

 心が辛い子どもが母親を求めているときは、可能な限り母親は子どもの求めに応じて、子どもの側にいた方が良いです。子どもの求めに応じている内に、子どもが母親を求めなくなるので、その時になってから、母親は子どもから離れるほうがよいです。ただし、心が元気な子どもには、このような考え方は必要ないです。

 母親が子どもの側に絶対にいなければならないときとは、子どもが荒れて物を壊したり、暴力をふるっているときや、子どもが病的な症状を出しているときです。母親は子どもの側にいて、積極的に子どもの辛い心を癒やす必要があります。子どもが母親に向かって荒れているときこそ、母親は子どもの側にいて、子どもの辛い心を癒やす必要があります。子どもの辛い心を癒やすとは、子どもの辛さに共感をして、子どもとスキンシップをすることです。それ以外の対応は、ほぼ間違いなく良い結果をもたらしません。

 心が辛い子どもが荒れなくなったり、病的な症状もないときは、母親は子どもを信頼して待つ対応が良いです。心が辛いもどもは母親に信頼されていると、子どもの方で自分の問題を解決して、心が元気になっていきます。子どもを信頼しているという母親の思いは、言葉で表現するだけでなく、子どもを見ない、子どもに言わない、母親の笑顔で、子どもに伝わります。

 母親が子どもの側にいると、どうしても必要ない心配をしてしまいます。それは予期しない母親の行動や表情に表れますから、そのつもりがなくても子どもに伝わります。子どもは母親に信頼されていないと潜在意識で反応して、なかなか子どもの心が元気になれません。母親が子どもを信頼しているという思いを子どもに伝えるには、母親が子どもから離れて、母親にとって楽しいことをすべきです。そうすれば必然的に母親が子どもを見ない、子どもに言わない、母親の笑顔ができます。

 子どもが荒れなくなり、病的な症状も出さないのに、子どもが母親を求めるときは、母親を求めるときだけ、母親は子どもの側にいれば良いです。子どもは特に母親を必要としなくても母親を求める場合があります。それは子どもが母親をテストする場合です。どれだけ早く子どもの要求を叶えてくれる母親かを見て、母親がどれだけ子どもを信頼しているのかを判断しています。

 心が元気になってきた子どもが、また今まで母親にべったりだったという子どもの習慣から、ふとした瞬間にその習慣を思い出して、母親を求める場合もあります。そのような場合が考えられるときには、母親はいっぺんに子どもから離れないで、子どものの反応を見ながら、少しずつ子どもから離れている時間を増やしていくと良いです。しかしこの場合でも、子どもが母親を求めたとき、母親が直ぐに子どもの要求を叶えてくれたと子どもが判断するような時間内に子どもの側に戻れば、それでも大丈夫です。

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障害と病気 2012.5.27

テレビ朝日は14日放送のクイズ番組「Qさま!!」中で、先天的な脳の機能障害と考えられる自閉症を病気として扱ったとして、同番組の公式ホームページにおわびと訂正を掲載した。
テレビ朝日広報部によると、14日の放送中に、「ここ10年で患者数が増えている病気を選びなさい」という問題を出題、自閉症を正答の一つとした。視聴者から放送中に指摘があったことから誤りが発覚した。

殆ど全ての医者は障害=病気と理解しています。そして一般の人も障害=病気と理解しています。私に言わせればテレビ朝日がよくぞ障害を病気として扱った間違いを認めてくれたと思います。いわゆる発達障害も精神疾患も、全て障害であり、病気ではないです。それは世界の医者が認めていることなのですが、現実の話となると病気として扱ってしまうし、病気としての治療が認められています。

子どもと精神科医療について 意見交換会 が平成24年6月3日(日)14:00から、東京シューレ葛飾中学校 で行われます。多くの方が参加されることを願っています。

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子どもに話させる(母親は最高のカウンセラー) 2012.5.30

 不登校や引き籠もりの子どもは、母親が話を聞こうとしないと、何も話してくれません。話をしてくれない子どもが問題だと間違って考えてしまいます。母親が話を聞こうとする姿勢を子どもが感じると、子どもの辛い思いをどんどん話してくれます。母親が相槌と共感だけで話を聞き続けてくれたら、子どもが辛い思いを十分に話せたら、子どもは心が楽になり、子どもなりの何かをし出します。不登校や引き籠もりの問題を自分で解決しようとします。

 子どもが過去の自分が辛かったことを話す時、子どもは辛かった事件を再体験して辛くなりますから、基本的に子どもは自分のトラウマに触れることを話しません。子どもは母親に、自分の思いでトラウマに触れることのない部分を、次から次へと言葉にして話してくれます。母親は子どもの話を遮ることなく、相槌と共感の言葉だけで聞き続ける必要があります。

 大人が子どもに過去のことを聞き出そうとすると、子どものトラウマに触れてしまいます。子どものトラウマが反応して、子どもはとても辛い状態になります。子どもは荒れてしまい、それ以後大人に話そうとしなくなります(それでも子どもが話すときには、子ども通いを演じていると考えられます)。また、子どもの話に大人の理解を言うと、子どもは話すのを止めてしまいます。子どもは自分の思いを言いたいのであり、大人の意見を聞きたいのではないからです。

 子どもが話せば話すほど、子どもの心が楽になってきます。母親は相槌と共感の言葉だけで聞き続ければ良いです。決して聞き出そうとしてはいけないです。決して子どもの話を遮断してはいけないのです。子どもの話が明らかに間違っていても、そのまま聞き続ける必要があります。

 子どもの話を遮断することなく聞き続けることは、子どもへのカウンセリングそのものです。子どもへのカウンセリングは大人へのカウンセリングと異なります。子どもへのカウンセリングには、分析や答えが必要ないです。その意味で”母親は自分の子どもの最高のカウンセラー”になれます。

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抗精神薬は本当に病気を治すのか? 2012.6.11

 薬の効果と副作用は、薬に添付される効能書に書かれています。その添付書には{効能・効果}の項目があり、そこには投与して良い疾患名が書かれています。投与して良い疾患名であり、”治癒を保証しているのではない”です。医者は患者についている診断名に基づいて、その診断名で許可されている薬を投与しています。薬を投与することで自覚的に、他覚的に症状が軽減するとか、臨床検査で検査データが良くなっていると病気が良くなってきている。病気が直ってはいないけれど、日常生活の中で問題ないようになっていると判断します。

 体の病気に投与される薬の多くは、薬を投与することで症状が軽減すると治癒の方向にあると考えられますし、現実に病気が治癒します。体を生理的な状態に保つことができます。薬自体が病気の原因を解決する場合もありますし、薬が症状を軽減して時間を稼ぐと、体の生命力が病気を治してしまうからです。

 向精神薬(精神科領域の薬)の内でも抗精神薬(統合失調症の治療薬)に限定しての議論です。しかし他の向精神薬にも基本的に当てはまります。統合失調症は脳の機能の病気です。薬を投与することで症状が軽減できる薬を抗精神薬と言います。抗精神薬で症状が軽減しても統合失調症が治りません。抗精神薬で症状が軽減した状態を維持したとしても、統合失調症が治りません。

 統合失調症と診断された症状が軽減すると、患者の周囲の人が助かります。しかし当人は病識がない場合が多いので、必要ないことまたは嫌なことをされると判断して、治療に抵抗をすることが多いです。患者自身から見たら、飲みたくない薬を飲まされるのですから、人権侵害になります。しかし法律的には周囲の人の便宜性が優先して、法律違反になりません。

 抗精神薬の効果は、薬を投与することでどれだけ統合失調症の症状が改善するかで判断されます。その判断も医者の主観でなされます。統合失調症の症状を測定する方法がないです。どうしても医者の主観は、薬が効果的であるような先入観を持って症状を判断してしまいます。例え二重盲検試験で抗精神薬が有効と判断されても、その症状の改善効果は限定できである可能性を十分に含んでいます。薬の効果が無い場合もあります。まして抗精神薬が統合失調症を治癒させるという保証になりません。それなのに医者は、抗精神薬で統合失調症が治せると患者に説明しています。

 抗精神薬の問題点で注目しなければならないことは、抗精神薬の症状軽減効果に比べて、副作用が出す症状が強いという事実です。効能書にはいろいろな副作用が書かれていますが、薬の効果と副作用との関係を比較した文献を見たことがありません。統合失調症に抗精神薬を投与する場合、統合失調症の症状が消失するほど投与したとき、副作用も強く出て(その副作用がまるで新たな精神疾患を生じさせたように思える場合もあります)きます。その副作用を消すために、新たな薬が投与されて、患者は多種多量の薬を飲まされてしまいます。

 周囲の人は統合失調症の人が出す症状への対応に苦しまなくてよくなりますが、統合失調症と診断されている当人は、薬の副作用で苦しむことになります。薬で人格が変わったようになる場合もあります。特に子どもの場合、人格形成に悪い効果が出ることが推測されます。医者は統合失調症の症状が消えさえすれば治療がうまくいっていると判断して、副作用の有無にはそれほど配慮しません。

 子どもは心の発達期にあります。脳の中で基本的な神経回路が確立していく時期にあります。子どもに抗精神薬を投与すると、その薬の持つ副作用から子どもを苦しめて子どもの性格を変化させてしまいます。子どもの大人になったときの人格に良い影響を与えないはずです。また、抗精神薬が脳の機能に直に、又は長期に与える副作用については全く分かっていません。

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早期介入、支援の危険性について 2012.6.13

 多くの体の病気は早期診断早期治療が病気を早く治します。それは子どもの体の病気でも同じです。大人の体と子どもの体と殆ど同じで、大人の治療法が子どもの治療法と共通するからです。

 子どもの心の問題を扱っている私たちで、現実に気付くことです。不登校の子どもを無理矢理学校へ行かせる対応をすると、子どもは直ぐに暴れたり、病的な症状を出します。病的な症状は自律神経の症状から、精神症状まで多岐にわたります。この子どもに、学校へ行かせる対応を止めると、子どもはこれらの症状を出さなくなるか、出していても遙かに軽くなります。そこでまた学校へ行かす対応をとると、これらの病的な症状が直ぐに強くなります。学校へ行かす対応を止めると、子どもはまた病的な症状を出さなくなるか、出しても軽度です。このことは、不登校の子どもが出す病的な症状は病気から出しているのではなくて、学校に反応して出していると判断されます。

 この不登校の子どもが病的な症状、特に精神症状を出していている状態で医療にかかると、殆ど全ての医者は病気だと診断して、投薬による治療を開始します。この投薬による治療で子どもが出す症状が解決した例を私たちは見ていません。かえって悪化するか、副作用で苦しむ子どもをしばしば見かけます。その子どもに学校へ行かす対応を止めて、様子を見ていると、子どもは自分から薬を止めて(嫌がって飲まない子どもも多いです)病的な症状がなくなるか、軽くなっていきます。

 この事実から、不登校の子どもが出す病的は、子どもが心の病気でなくても出すことが分かります。不登校の子どもへの早期に医療にかけることの危険性を表しています。不登校の子どもの病的な症状は、子どもを学校へ行かそうとする対応を止めるのが一番良い方法だと判断されます。医療の早期介入は、不登校の子どもを病気でもないのに心の病気としてしまい、必要ない投薬を受けることが多くて、かえって子どもの問題を解決できなくなる可能性が高いことを指摘します。

 心に関しては大人の心と子どもの心と大きく違うことを殆ど全ての人は知りません。大人の心とは大脳新皮質、前頭前野の機能から成り立っています。しかし子どもの心は大脳新皮質、前頭前野の機能が不十分なために、大人の心で成り立つことが子どもの心で成りたたないことが多いです。子どもの心で成り立つことが大人の心で成り立たないことも多いです。つまり大人は子どもの心を知っているつもりでいるけれど、本当は全く知らないという意味です。

 大人の心の治療法や支援法は大人の心に対して行われたことから得られています。それをそのまま子どもの心に当てはめたら、子どもには間違った治療法や支援法になります。今の精神医療、心理学などは全て大人の心から得られた知見から成り立っています。その大人の精神医療や心理学を子どもの心に当てはめようとしています。当てはめられた子どもは、大人が正しい治療法だと思っても、間違った治療法になっていて、かえって子どもの心を苦しめ、症状を悪化させてしまいます。

 子どもでも、子どもの本心(それは決して子どもが発する言葉の内容ではないです)に沿った対応なら、早期介入、支援が好ましいです。しかし現在の早期介入、支援は大人の心に沿っていても、子どもの心に沿っていません。早期介入、支援を実行する前に、大人の心とは全く異なったとも言える子どもの心に沿った精神医学や心理学ができあがってからでないと好ましくないのです。それは今の精神医療や心理学とは大きく異なっていて、場合によっては全く逆になっている場合もありそうです。

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心の健康とは何か? 2012.7.10

 心の健康とは何かを考える前に、心とは何かを考えておく必要があります。どの人も、心という言葉を知っていますし、人の行動を説明するときにとてもよく使われます。しかし心とは何で、人間のどこにあるのと言うと、正確に答えられる人は殆どいないと思います。最近では、心とは脳にあるという人もいますが、現実に脳の中に心は存在していません。脳の中には心という実体がないです。

 現在の心理学や精神医学では、心とは精神世界を指しています。人間(人間に限らず、他の動物や自然界の物)の外にある精神世界が人間の脳と関わって、その人の心として機能をするという考え方です。これを心身二元論と言います。現在の法律や教育はこの心身二元論に基づいて行われています。つまり精神世界とは言葉で作られる世界のことですから、言葉で表現する限り、どのようなことも可能になります。心を考える人が自由に心のあり方を決めることができます。

 心身二元論では、心を考える人がその人の思いで心を決められますから、心の健康も、その心を考える人が、心の健康とはこのようなことだと決めることで成立します。つまり心の健康を考える人が、その人に都合の良いことを心の健康とし、その人に都合の悪いことを心の不健康とします。その心の考え方に、多くの人が従っているだけです。

 心とは脳の機能だと考える考え方があります。それを心身一元論と言います。心身一元論では、人間の全ての反応は、行動は、脳の機能として説明できます。ですから心身二元論で心が健康だと考えられる反応や行動の仕方も、心が不健康だと考えられる反応の仕方や行動も、生理的に脳が反応をしただけであり、その反応結果が他の人にとって好ましいか好ましくないだけのことであり、脳の機能として、すなわち心として、不健康な状態ではないです。

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僕の居場所は? 2012.7.12

 僕は学校でいじめられていた。先生に相談しても、僕が悪いからだと言って何もしてくれない。両親に相談しても、「いじめなんかに負けるな。がんばれ!」と言って、それ以上、話も聞いてくれなかった。学校に行くのが辛くて朝起きないでいると、親が来て布団から僕を引きずり出した。「なぜ、学校に行かないのだ!」と酷く怒鳴られた。学校に行かざるを得なかったのだ。

 学校では授業時間が一番楽だった。後ろからつつかれたり、消しゴムが飛んできたけれど、それ以上のことはなかった。休み時間になるといつもの連中が「遊ぼうぜ」と言ってやって来た。無理矢理に教室の後ろやトイレ、校舎の陰に連れて行かれて、殴られたり蹴られたりした。学校に支払うお金を巻き上げられたりもした。勝手な理由をつけられて、お金を持ってくるようにも言われた。

 教室を移動するときや、体育の時間、放課後は最高に辛かった。仲間は僕と遊んでいるようなふりをして、僕を殴ったり蹴ったりして、笑っていた。僕も笑ってされたままになっていた。されるのが嫌だと言ったら、その後どんなことをされるのか。それはとても想像すらできないことをされたからだ。

 両親は僕が学校に行っていると安心している。一度学校に行かないで、遠くの公園で過ごしたことがあった。学校から連絡があって、その後父親からこっぴどく叱られた。「学校に行かないなら、家から出て行け!」と言われた。だから無理でも、僕は学校に行き続けている。しかし限界が来た。もう、学校に行けない。学校に行かなければどこに行けばよい?僕の居場所はどこ?

 家を出て、学校と反対の方向に歩いていた。アパートがあった。通路の階段を上がって屋上に出た。すると僕の居場所が見えた。僕は柵を越えて、僕の居場所に、僕だけしか知らない居場所に向かって、必死で踏み出した。

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大津虐め自殺について(1) 2012.7.13

 昨年、十二歳の男の子が虐めを受けたと記録を残して自殺をした。その自殺から半年以上たって、現在大きな社会問題になっています。男の子が虐めを受けていたと記録を残さなかったら、原因不明の自殺として葬られたはずです。学校も教育委員会も、何事もなかったかのように存在し続けたはずです。

 虐めによる自殺は理解しやすいです。しかし虐めは客観的な虐めの証拠を残さない場合が多いです。今回もアンケートという形での生徒の証言はあっても、客観的な証拠はなさそうです。それ故に学校も教育委員会も必死でその事実を隠して、何事もなかったかのように責任を回避したかたのでしょう。これだけマスコミが学校と教育委員会をたたくので、やむをず道義的な責任を認めようとはしているようです。

 大人の証言は証拠能力があります。けれど12歳の子どもの証言には証拠能力がありません。教師が虐めを証言しない限り、子ども達の証言に基づく客観的な証拠が見つからない限り、最終的に証言で終わってしまう可能性が高いです。父親が裁判に勝つ可能性はきわめて低いです。

 傷害や窃盗の形を取らない限り、虐めと遊びとの区別は不可能と言って良いです。後から振り返って、虐めと思ってみると虐めですし、虐めで無いと思ってみると単に子ども同士の遊びです。虐める子どもも虐めを意識していない場合が多いです。虐められている子どもで遊んでいると理解しています。

 虐められている子どもは、虐められているから辛いと発信しています。けれど親を含めて周囲の大人には、子ども同士の遊び、時には少し度が過ぎた遊びと理解されてしまいます。きっと父親も子どもが自殺をして、初めて子どもが虐めを受けていたことに気付いたのでしょう。

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大津虐め自殺について〔2〕 2012.7.14

 虐められる子どもは既に学校に行きにくくなっている子どもの場合が多いです。子どもは意識していないけれど、学校に行きづらくて、孤立しています。そこに遊び相手が現れるので、その遊び相手の遊びに取り込まれます。遊び相手と遊んでいて、虐められている感じもあるようですが、いつの間にかその遊び相手から逃げられない思いにされてしまいます。虐めがだんだん強くなっていきます。

 虐める子どもがいないときに、虐められている子どもは辛さを親や教師に話します。しかし遊び仲間での出来事として、虐めと理解して貰えません。時には「子ども通しの遊びだから、自分で解決しなさい。それができないおまえが悪い」と虐められている子どもが非難されてしまいます。子どもは虐めについてだんだん話せなくなります。

 虐めで明らかに酷いことをされても、それも遊びの範囲と考えられてしまいます。虐める子どもへの注意で終わってしまい、虐められている子どもを守ろうとする対応を受けられないのです。

 虐められないために学校から逃げ出すと、教師から叱られます。虐めの場に行かないために学校を休もうとすると、親から無理矢理に学校に行かされます。虐めで子どもがいくら苦しんでいても、虐めは容赦なく行われます。虐めがますます強くなる場合が多いです。子どもの心が安まる場がなくなります。子どもは心が安まる場所(シェルター)を求めています。決して虐めがなくなることを求めているのではないです。虐めがなくなることは不可能だと感じているからです。

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大津虐め自殺について〔3〕 2012.7.14

 一般的な考え方として、悪いことは悪いから、悪いことを正さなければならないと考えます。その悪いことの裏にある物を考える人は少ないようです。虐める子どもも虐めは悪いことだと知識として知っています。知識として知っていても、無意識に虐めをしてしまっています。自分がしていることを楽しいことだと感じて、虐めだと認識していないです。虐めている子どもは虐めをしないと自分を維持できない、自分がおかしくなってしまうと言う事実が隠されています。

 虐めている子どもも学校が楽しくなくて、学校に居づらいのです。学校に居続けるためには、何か楽しいことがなければなりません。しかし学校には遊び道具や遊び場がありません。そこで仲間を遊び道具にして遊ぶようになります。遊ばれる方も楽しければ虐めになりません。

 普通に遊んでいるだけでは十分に楽しくない子どもがいます。度の過ぎた遊び、結果的に虐めをしてしまっています。度が過ぎたときには他の人も酷いと気付きますが、それでも遊びの延長上に考えて、虐めだと気付きません。但し後から指摘されて、あれは虐めだったと分かる場合はあります。

 周囲の人が虐めだと気付いて、虐めをなくそうとする対応をしたときには、虐めがますます酷くなる場合があります。虐めが人目につかないところでなされるようになるからです。人目につかなければ虐めはとても酷くなります。虐められている子どもは耐えきれない虐めを受けることになります。

 学校が辛くて学校に行くのを拒否する子どもが不登校です。学校が辛くて学校内で暴れたり授業を妨害をする子どももいます。学校が辛くて、仲間を遊び道具にして解消しようとする子どもが虐めをします。ですから、学校から虐めをなくするには、子どもに合わせて、学校を楽しくするしか方法がありません。

 今のように子どもを締め付けるような学校のあり方である限り、虐めはなくなりません。教師が学校内で虐めがないと判断していても、程度の差はあっても教師の知らないところで虐めが行われています。現在ある虐めをなくするには、虐める子どもが卒業をするか、虐められる子どもが不登校になるしかないようです。

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大津虐め自殺について〔4〕 2012.7.15

 多くの親は子どもが学校に行って欲しいです。親は子どものため、子どもの将来のため、などといろいろと理由を言うでしょう。言葉で言う親の理由は何であれ、親の本当の思いは、学校に行かない子どもを見ると、親が不安になってしまうからです。その不安も子どもの将来を気遣う不安でなくて、親が知っている子どもの姿と自分の子どもの姿を異なっていることから生じる葛藤です。

 子どもが学校に行きたくないというと、学校に行かない子どもの姿を見ると、親は原因が分からない不安に襲われます。その不安を解消するために子どもに説得をして学校に行かせようとします。その理由の多くは子どものために良いから学校に行けというものです。子どもは今が辛くて親に助けを求めているのに、親が子どものためという理由で助けを拒否すると、子どもは何も言えなくなります。子どもは親の前でも良い子を演じて、自分の辛さについて何も言わなくなります。

 ニュースで得られるところによると、この男の子は親に自分の辛さを訴えていたようです。親はそれにどのように答えたのか、ニュースから伝わってきていません。現実に子どもは学校に行き続けて、最後に自殺をしています。目の前の子どもを守ろうとしないで、どんなに苦しんでいても学校に行っている子どもを、親は選択していたのだと考えられます。

 義務教育だから親に子どもを学校に行かせる義務がある。子どもが死んでしまうほど苦しめた学校に責任があると、親は考えているのだと思います。義務教育は子どもが学校に行ける環境を作る大人の義務です。学校が子どもに好ましくないときに、子どもを学校に行かせなくても、義務教育違反になりません。親は子どもに学校を休ませて、子どもが学校に行けるように、親がそれなりの行動に出るべきだったのです。子どもが死んでからでは、死んだ子どもから見たら遅すぎです。

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大津虐め自殺について(5) 2012.8.3

 学校の立場は管理する教育委員会や校長により大きく異なります。概して学校の維持(自分たちの職場である学校を維持して、汚点を残したくない)、職員の維持(自分たちの生活を可能にするため)が優先されて、子どもの立場は無視される傾向にあります。先生方は子ども達のための学校と言いますが、学校を維持するために子どもの存在が必要、子どもを利用している、という形になっています。

 学校を維持するために、子ども達は管理されて、学校に合わされます。学校に合う子が先生にとって良い子です。成績が良い子ども、教師の指導に従順な子どもが認められて、そうでない子ども(近年このような子どもが増えてきている)にはいろいろな圧力(教師が叱ったり親が叱る)をかけます。その圧力に耐えきれない子どもが虐めをしたり、不登校になったり、学校で暴れたり授業を妨害するようになってきています。

 学校は子どもが波風が立たない学校生活をして卒業をしてくれることを求めています。学業が良い子ども、運動などで活躍する子どもが出ると、それは先生方の誇りになります。それに対して、虐めや不登校など、学校内での問題は先生方の汚点になり、先生方の出世や収入に影響をしてきます。あっても隠そうとする傾向になります。問題の子どもが卒業をしてしまえばそれで学校としての問題解決になるからです。 

 今回の中学校と大津市の教育委員会はまさに問題を隠して、関係者の卒業を待つ対応でした。虐められた子どもが虐めの記載を残していなかったら、学校側のもくろみは成功したと思います。教師と生徒でなり立つ学校内には、虐めの証拠がないからです。子ども達の証言も子どもという観点から、証拠能力が弱いからです。今回のように子どもに何か事件が発生しても、知らなかった、気付かなかったで、切り抜けることができるからです。

 先生方の中にも良心がとても強い先生がいます。そのような先生は現在の子どもの素直なあり方を無視して、管理を第一とした学校教育、見かけだけを優先して、問題点を隠蔽し続ける学校のあり方に疑問を感じてて悩み続ける先生も出てきます。先生を維持することができなくなる先生も出てきています。

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いじめをなくするには 2012.8.6

今日(八月六日)の朝日新聞 9面 声の欄に 「指導でなく共感持ち聞こう」という題で、私の解決法の私の提案が載っています。是非読まれてみてください。なお、原稿とかなり異なっていますので、原稿を掲載しておきます。

いじめをなくするには

 滋賀県大津市内の自殺した中学生が通っていた中学校は、09年から10年にかけて文部科学省から「道徳教育実践研究事業」推進校に指定され、道徳教育については先進的な取り組みをしていました。現在も「ストップいじめアクションプラン」と言って「いじめをしない、させない、見逃さない、許さない学校」のスローガンを掲げて、教職員のアクションとして「いじめ等の問題行動の早期発見早期対応(月一回のアンケート調査の実施)」「機会をとらえた適切な指導」を実践しているとのことでした。その中学校で酷いいじめがあり、生徒が自殺をしました。

 この事実は何を意味するのかを考えてみる必要があります。つまり、道徳教育の専門家、いじめ対策の専門家の対応法で、いじめはなくならないばかりか、場合によっては自殺者が出るほどいじめが酷くなるという事実です。アンケートや面接で、学校や専門家は子どもからいじめについて話を聞き出そうとします。そのときの子どもたちはほとんどすべてよい子を演じてしまい、ほんとうのことを話さない場合が多いです。

 いじめをしている子どもですら、いじめは悪いことだと知識として知っています。しかし自分たちがしていることがいじめだと認識していない事実があります。自分たちがしたことで何かの事件になって、振り返って、初めていじめであったと分かるのです。子ども達がしていることをその場で判断するのでは、大人でもいじめか遊びなのか分かりません。

 いじめをなくする方法の一番は、教室の中に学校とは関係ない大人が絶えずいて、子どもの話を丁寧に聞く必要があります。決して子どもたちを指導するのでなく、子どもたちに共感しながら聞き続ける必要があります。子どもたちは無条件で話を聞いてくれる大人を求めているからです。また、同時に子どもたちの姿を大人自ら見て、理解しておく必要があるからです。

 授業中も教室にいて、子どもたちが一体感を感じる必要があります。学校と関係している大人、一時的にしかいない大人、子どもを指導しようとする大人には、子どもがよい子を演じてしまい、心の内を素直に表現してくれなません。

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子どもが安心して居られる場所 2012.8.17

 心が元気な子どもでは、または心が元気になってきた子どもでは、安心して居られる場所は、家庭か、不登校の子どもの居場所か、フリースクールか、学校を含めた教育機関か、既に日本でもいろいろとあります。どの居場所で子どもが成長するのか、それは子どもが決めれば良いです。子どもが選択できるいろいろな種類の子どもの教育機関がもっとあって良いと思います。子どもに代わって、親が子どもに適した居場所探し、教育機関探しをしても、子どもはそれを受け入れられます。その子どもなりの成長をすることができます。

 不登校のような子どもの心が辛くなって学校を拒否して家に引きこもった経験のある子どもでは、子どもに動きが出てきても、学校や勉強に強い拒否反応を持っています。それらの拒否反応は高校生年齢になるまで、ほぼ例外なく、なくならないと考えた方が良いようです。この事実を多くの親や大人は気づいていないようです。子どもに動きが出てきたら、子どもに合った学びの場を見つけてあげるのが、親としてしなくてはならないことのように考えています。

 子どもの方でも勉強をしなくてはならないというしっかりとした知識を持っていますから、親が自分のための学習場所を探していると、それに協力してよい子を演じてしまいます。親が見つけた子どもの教育機関に、子どもはよい子を演じて、まるでそれを喜んでいるかのように参加しますが、本心では学校や勉強を拒否していますから、無理を重ねることになります。心の元気が続かなくなります。せっかく子どもの心が元気になってきても、元気な大人として社会へ出られなくなります。いわゆるニートフリーターという形で社会とつきあうことになります。それも間違った生き方ではないですが、せっかく人間として生まれてきたのですから、その子どもとして納得がいく生き方をさせてあげるのが、その子どもの親だと思います。

 不登校のような子どもの心が辛くなって、学校を拒否して引きこもったような子どもでは、まず心を元気にして、学校や勉強に対して拒否反応を起こさなくなる必要があります。学校や勉強に拒否反応を起こさなくなると、社会が用意した教育機関や居場所を利用して、心が元気な大人になって社会へ出て行ってくれます。社会が用意してくれた教育機関や居場所を利用できるほど心が元気になったかどうかを判断できるのは子ども自身であり、親などの大人ではないです。その理由は上記のように、親などの大人は子どもがよい子を演じている姿を見て、子どもの心の元気さを誤解してしまいますから。

 私が指摘したいことは、子どもが自ら動いて自分の学習所を探すのでない限り、しない方が良いと言うことです。親が子どもの学習場所を探すのは、親が社会が子どもに社会が用意した学習場所やフリースクールなどを与えようとするのは、大人から見たら良いことのように思えますが、不登校で学校や勉強を拒否していた子どもでは、それはかえって子どもの心の元気さを奪い、子どもを元気な大人に成長させるのに逆効果だと言うことです。

 不登校で学校や勉強を拒否した子どもでは、安心して居られるのは母親のそばの家庭です。その母親が子どもが元気に動き出したからといって、家庭での学習、家庭以外での教育の場所や居場所を探し出したら、子どもにとって家庭が安心して居られる場所でなくなります。

 不登校になった多くの子どもでは、学校や勉強を拒否しています。その子どもが何らかの動きを強めていったときには、それは決して学習の場を求めているのではないです。その子どもなりのより心を元気にするものを求めているだけです。子どもは言葉で学習の場所を求める場合もありますが、それはよい子を演じているのであり、本心は言葉と異なります。その子どもが学習をしてやろうという意欲が心の奥底から湧いてくるまで、親は子どもを家庭で学校や勉強から守ってあげる必要があります。

 多くの親や大人は学習の遅れを心配しますが、子どもは必要を感じたら、学習の遅れを短い時間で取り戻します。心が元気になったら、自分で社会性を身につけます。ですから、親は家庭を学校や勉強から子どもを守ることが最優先されます。子どもは学校や勉強から守られて、心が元気になり、学校や勉強、社会性を求めたくなったときには、親が反対をしてもそれを押し切って、自ら自分が加わる学校や勉強を探し求めます。親が子どもに変わって探す必要がありません。「社会もこの事実、子どもが学校に行かない、学校の学習をしない成長の仕方を認めた方が、かえって子どもが早く心を元気にして、学校や学習を求めるようになります。社会もその方が得です。」

 不登校で学校や勉強を拒否して引きこもった子どもの多くは、その本心では親が自分の学習をしない生き方を認めてくれることを求めています。それは潜在意識ですから、子ども自身も知ることはできません。けれどそのような子どもに家庭内で、家庭以外で、学習の場を求めたなら、一時的に子どもはよい子を演じて、親のしていることを肯定的に動きますが、限界が来て、子どもは親を拒否するようになります。

 この事実から私が政府に希望することは、子どもが教育を受けるいろいろな場所を作るのでなくて、子どもが安心して、学校を忘れて、勉強を忘れて、成長をすることにも教育予算を用意してほしいことです。政府が日本中で一律の学習を求めるのでなく、政府が求める学習をしないという子どもの成長に、予算面でも保証して欲しいのです。それがオルターなティブ教育の根幹だとおもいます。子どもの心を見据えた教育のあり方だと思います。

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よい子を演じるという概念 2012.8.25

8月18日朝日新聞30面に大津の虐め自殺の記事が載っていた。そこの副題に「笑顔の向こうは」という言葉が書かれていました。本文に自殺した中学生が自殺する前の姿が書かれていました。その姿で気づくことは、ムードメーカー、面白いやつ、元気に過ごしている、皆を笑わせ、などの言葉です。少年がこれらの言葉で表現される、とてもいじめを受けていたと思えない姿です。この少年の姿がいじめに気づくのを難しくしていました。

なぜ少年はいじめを表現しないで、このようないじめに気づきにくい姿をしていたのかを考えてみる必要があります。その答えは「よい子を演じる」という概念です。いじめを避けるために、いじめによる被害を最小限にするために、いじめをする少年たちに取り入った行動をせざるを得なかったのです。それも無意識にですから、当人もよい子を演じているとは気づいていなかったはずです。

子どもでは辛い経験から逃れるために、よい子を演じる場合があります。周囲から見て辛いどころかそれを喜んでいる姿です。子どもが周囲から見て好ましい姿をしているときには、子どもが本心から好ましい姿をしているのか、よい子を演じているのか、大人は見分ける必要があります。よい子を演じている場合には、どこか不自然なところがあるので、大人なら気づくことができます。

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学校を応援 2012.9.5

 私は学校で辛くなった子どもの立場から、学校を見ています。決して学校を否定しているのではないです。今の学校制度が好ましい子どもが多くいます。私も校医として学校に協力をしています。しかし今の学校制度が好ましくない少数の子どもがいることを、学校が気付いて欲しくてこのような活動をしています。

 今の多くの学校は、今の学校制度が好ましくない子どもについて、子どもに問題があると考えています。なぜ子どもが今の学校制度に合わなくなったかを考えようとしていません。子どもが今の学校制度に合うように変わることを、子どもやその親に求めています。今の学校制度に合わない子どもがどんなに学校で苦しんでいても、学校の問題を考えようとしていません。学校が辛い子どもに、辛い学校に行かない選択を認めていません。

 子どもが学校で苦しんでいても、その苦しさから子どもを守る対応を、教師は言葉では子どものためと言いながら、子どもの立場からしません。教師の立場からします。苦しんでいる子どもの立場から子どもを守ろうとしません。それでは学校で苦しむ子どもはますます苦しくなります。学校にそのつもりがなくても、学校が加害者になりなります。学校で苦しむ子どもには学校が存在している意味がないばかりか、学校が子どもの心を破壊してしまいます。その事実に学校は気付こうとません。

 義務教育である限り、大人は子どもに子どもが安心して通える学校を用意する必要があります。決して子どもを苦しめる学校に子どもを行かせるのが義務教育ではないです。学校に安心して通えるかどうか、それを判断するのは子ども自身です。学校が辛い子どもには、その子どもに合った学校が用意されるべきです。子どもが安心して通える学校です。

 そのような学校がないときには、家庭で子どもを安全に育てられるようにするべきです。ただし現実には、学校も親も、学校が辛い子どもを学校に行かせる対応を続けますから、これ以上子どもが学校に行けないと親が気づいたときには、子どもはどのような学校でも拒否をする傾向にあります。

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再度いじめ 2012.9.6

 5日早朝札幌の男子生徒は自宅マンションから飛び降り自殺しました。「いじめられていて死にたい」と記された遺書と思われるメモが見つかったそうです。札幌市教育委員会はありきたりの対応策、全校生徒に緊急アンケートを実施するとともに、同級生ら約85人から聞き取り調査を行ったそうです。

 今までの経験で、このような形の調査では、子ども達の本当の姿は見えてこないことが分かっています。それしか考えられない教育行政が悲しいです。また社会もいじめをなくそうと言いながら、行政側の形だけの調査を鵜呑みにして、いじめが行われる学校について何も改善を要求しないのがとても歯がゆく感じられます。

 この男子生徒についても、いじめがあるとは全く考えられていませんでした。5月31日に実施した校内アンケートでは1年生10人から「いじめがある」との回答があったが、男子生徒に関する記述はなく、報告などもなかった。担任も男の子の変化について気づいていません。大人はいじめをなくさなくてはならないと言います。しかし大人が子どものいじめを見つけることは不可能に近いです。

 いじめをなくする努力は必要です。しかし他人同士からなる集団ではいじめをなくせません。子どもの場合いじめを受けても安心して逃げる場所があったら、いじめから逃れて、その子どもなりの成長が可能です。本来なら家庭が逃げる場所として一番良いのですが、家庭すら学校化して、いじめられた子どもの逃げる場所になっていないという現実に、親たちは気づくべきでしょう。

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札幌男子生徒の自殺 2012.9.11

2012年9月5日、札幌市の自宅マンションから飛び降り自殺した市立中学校1年の男子生徒(12)が、生徒手帳に記載していたことを、この男子生徒の立場で解釈をします。

>「死んだらどうなるか知りたい」と書き残して
男子生徒が自殺をしたら、親や同級生がどのような反応をするのかを知りたがっていたのでしょう。いじめについて親が気づいてくれるかどうか、いじめを同級生が謝ってくれるかどうかを、意味していたと思います。そしてきっと、どれだけ自分が辛い思いをして学校生活を続けていたのかを親に気づいて欲しかったのです。

>家族に向けて「ありがとう」とも書いていた
家族思いの本当に優しい子どもだったのです。家族を思うあまり、いじめの事実を言えなかったのだと思います。言うことにより両親が苦しむ姿を見たくなかったという意味でしょう。

>明るい性格だった
男子生徒がよい子を演じていたので、誰も気づかなかったのです。男子生徒はよい子を演じて学校生活に耐えていました。その見かけと違って、心の中は地獄だったのです。

”よい子を演じるという概念がもっと一般化する” と、このような見落としが少なくなると思います。

中学校は今年5月、いじめについてのアンケートをしましたが、自殺した生徒に関する記述はなかったと報告しています。この生徒達へのアンケートは決まり切ったように学校がする子ども達からの情報収集です。教育関係者からのアンケートでは、子ども達は本当のことを話さないと思います。子ども達がアンケートに男子生徒のことを書いたとしても、よい子を演じていた男子生徒の姿しか気づいていないのです。


<よい子を演じる>

子どもがよい子を演じている姿を、大人は子どもの本当の姿だと考えます。よい子を演じている姿を喜びます。子どもが無理をしている姿だとは考えません。もちろんよい子を演じ続けられれば、問題はないです。無理なくよい子を演じ続けられたら問題ないです。よい子を演じることで、子どもの能力をより伸ばして行かれます。

ただ、よい子を演じ続けられなくなったとき、子どもはよい子を演じていたときの姿と逆の姿になります。 よい子を演じ続けられなくなった子どもも、その親も、とても辛いことになります。

いつまでよい子を演じられるか、それは子ども次第です。よい子を演じる子どもの辛さを、親が(子どもの辛さに気づいても気づかなくても)解消してくれるなら、子どもはよい子を演じ続けられます。親にとって嬉しい子どもの姿になれます。

子どもがよい子を演じているとき、よい子を演じる辛さをどこかで解消する必要があります。子どもの辛さを親が解消しないなら、子どもはどこかでその辛さを解消しようとします。昔の日本なら、野山を駆け巡ることで、友達どうして遊んだりけんかをすることで、解消できました。現在の子どもはこの辛さを自分で解消する方法を持っていません。親任せなのです。その親は子どもがよい子を演じていることに気づかないのです。子どもに要求ばかりを強めています。

よい子を演じることもは知的な子どもに多いです。知的な子どもがよい子を演じると考えても良いでしょう。よい子を演じて辛くなった子どもには、素直な自分で反応し行動をして良いことを親は伝える必要があります。一時的に社会常識に反する行動をすることを許す必要があります。社会常識に反する行動を親が許していると子どもが理解すると、子どもの知的な能力が機能をして、社会常識に反さない範囲で、素直な自分で行動をするようになります。心が元気になっていきます。

この事実を多くの大人は子ども時代に経験して大人になっています。しかし大人になってしまうとこの事実を忘れてしまっています。自分が子どもの時一番嫌だったこと、親が子どものよい子を演じた結果だけに注目して、子どもがどれだけ辛い思いをしてその結果を出したのかを考えるのを忘れてしまっています。子どもの時一番配慮して欲しかった子どもの心に配慮をしません。社会常識だけから子どもを見るようになります。社会常識に反する子どもを許そうとしなくなります。

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これでいいのだ~ 2012.9.19

 高校生だった娘の不登校をきっかけに、子どもたちに対して、「こちらから話しかけない。話しを聞く時は、黙って話しを聞き、私の意見は言わない。私がニコニコしていること」を、ここ数年心がけてきました。このように対応しているうちに、「空気のような存在」になりたいと思うようになりました。話しを聞いてほしいときや、食事の時は、目の前にいるけど、他の時は、いるけど、いない。「子どもが必要とするとき以外は透明母さん」のような存在です。部屋に籠もって荒れていた娘は、今サッカーに夢中になっています。試合を見に行ったり、地区のサッカーのチムにも参加しています。

 大学を退学して帰ってきた息子にも、早速「息子を見ない」を初めました。そうすると、私自身が、より楽になった感じがします。当初、息子はいつも自分の部屋に引きこもっていましたが、最近は丸一日、リビングでテレビを見たりゲームをして、楽そうに過ごしています。死人のような表情だった息子が、昔の明るくて快活な息子に戻っています。自分に必要な物を買い物に行くようになっています。息子が楽になるには、まず私が楽になっていることが肝心かと思います。

 必要な時以外、私の存在が気にならないことは、息子にとって楽なことだと思います。常に母親の視線を感じているのは、黙っていても、何ともいえない、圧力を感じていたと思います。必要なとき以外、息子の視界に私がいないということは、私の視界にも、必要な時以外、息子を入れない。ということに気がつきました。

「西からのぼったお日様が東にし~ず~む~~。これでいいのだ~~~これで~いいのだ~~~♪」
「何があっても、これでいいのだ」と感じ、見ざる、言わざる、笑顔で、母親の私は過ごしていきます。

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励ましと自己否定の悪循環 2012.9.24

 以前のニュースで、40歳以上の人を含めると、引きこもりの人は70万人又はそれ以上と報道されました。鬱病などの心の病として治療を受けている引きこもりの人はこの数に入っていませんから、その数を含めるとすごい数の人が引きこもっていることになります。医療は鬱状態を鬱病とを区別しませんから、引きこもりの人が医療にかかると、鬱病として治療をされてしまうからです。

 引きこもりの人は、原因が何であれ、社会活動をする意欲を失っています。多くの人は、引きこもりだした人を激励して引きこもらないようにします。そのような対応が常識です。激励された人は無理をして引きこもらないようにしますから、激励の効果があったと多くの人は考えます。激励の意味があると多くの人は考えます。行政もそれにそって対応をしています。

 けれど激励された人の無理は長く続きません。限界が来てますます引きこもってしまいます。自分としてあるべき姿、激励されて求められている姿と、現実の自分の姿の違いから、強い葛藤状態に陥り、ますます引きこもることになります。多くの人で自己否定からの鬱状態になります。

 引きこもりへの対応は、大人と子どもとで異なります。子どもは、心を楽にして引きこもらせてあげると、子どもの方で解決してくれます。子どもには引きこもりを止めて社会へ出ようとする本能が働くからです。大人の引きこもりの対応は、社会へ出たい、働きたいという意欲をどうやって強めてあげるという周囲からの対応が大切です。自己肯定感を持たせる対応が大切です。励ましは多くの場合自己否定感を強めてしまいます。

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不登校、引きこもりと心の病 2012.9.29

 今まで不登校はいろいろな理由をつけて説明されてきています。不登校(正確には登校拒否または学校恐怖症)を脳科学的に表現すると、学校や学校の概念、学校に関する物を条件刺激とした、辛さを生じる条件反射です。条件刺激の学校を見たり意識すると条件反射を生じて、体中に子どもには理解できない辛さを生じます。学校に向かって子どもの体が動かないばかりか、子どもは学校を回避する回避行動を無意識にとります。その回避行動として子どもが学校に行こうとしない姿を不登校と言います。

 子どもが学校でいろいろな辛い経験をすると、子どもの周囲にある物に、特に学校の建物や教師、友達、勉強道具などに、その経験した辛さを生じる条件刺激を学習します。その学習速度は、経験した辛さの回数や辛さの程度で異なってきます。学校内で辛い経験を重ねれば重ねるほど、条件反射で生じる辛さはだんだん強くなっていきます。当初その辛さがあっても子どもは学校に行き続けます。学校に行き続けると、その辛さはだんだん強くなって、子どもがその辛さに耐えきれなくなったとき、その回避行動として、子どもは学校に行こうとしなくなります。

 哺乳類が辛くなるような刺激を周囲から受けると回避行動として、その刺激を受けた場所から逃げ出します。その辛い場所から逃げられないとき、その哺乳類は暴れます。暴れても辛くなるような刺激を与え続けると、その哺乳類はすくみの状態になります。大脳新皮質がより人間に近い類人猿ではすくみの状態よりも、人間の心の病の症状に近い症状を出します。人間の子どもはその脳の機能は類人猿にとても近いです。人間の子どもでも、逃げ出すことも、暴れることも、心の病の症状を出すことも、回避行動です。

 不登校の子どもを観察していますと、登校刺激を与えたときに暴れる子どもがいます。その暴れるのを大人の力で押さえつけると、いろいろな形の心の病の症状を出します。子どもによっては登校刺激を与えると、暴れることを経験しないで、心の病の症状を出す子どももいます。つまり、不登校の子どもが登校刺激を受けたとき、暴れたり、心の病の症状を出すのは、子どもを辛くする刺激に対する、ごく自然な脳の反応なのです。

 引きこもりの子どもについても同様なことが生じます。引きこもりの子どもに引きこもりを否定するような言葉や対応をすると、子どもは荒れたり親にとって問題行動をします。その荒れたり問題行動をすることを力で押さえつけたり、子どもの性格として暴れたり問題行動をできない子どもは、心の病の症状を出します。引きこもりの子どもを否定する言葉や対応で、子どもが暴れたり問題行動をするのも、心の病の症状を出すのも、ごく自然な脳の反応なのです。

 現在の医学では、子どもが荒れたり問題行動をしたり心の病の症状を出すとき、それらを生じる原因が子どもの外にあると判断されたら、心身症とか自律神経失調症と診断されます。その原因を取り除こうとする対応と投薬が行われます。その原因が無くなったり、取り除かれると、子どもの心はとても元気になります。その子どもなりの解決を子ども自身がしてくれます。

 子どもが荒れたり問題行動をしたり、心の病の症状を出すとき、それらを生じる原因が子どもの外にあっても、医者がその原因を原因だと認めないと、原因を取り除く対応は行われません。心の病(発達障害や精神障害)として投薬や心理検査やカウンセリングがされます。子どもが荒れたり問題行動をしたり、心の病の症状を出す原因は子どもの外に無くて、子どもの中にあると判断されてしまうからです。子どもの中にある原因を無くする治療が必要だと医者は考えています。

 医者が子どもの中に原因があると判断しても、原因が子どもの外にあるのなら、運良くその原因が無くならない限り、いくら治療をしても治療の効果が出てきません。それどころか、治療としての薬や対応に伴う副作用で子どもはより辛くなり、子どもの荒れや問題行動、病的な症状を強めてしまいます。新たな病的な症状を出すようにもなります。子どもの荒れや問題行動、病的な症状が強まると、医者は病気が悪化したと判断して、薬の種類や量を多くします。その結果人格が変化したようになる子どもも出てきます。

 不登校や引きこもりの子どもが暴れたり問題行動をしたり、病的な症状を出す原因は子どもの外にあって、その子どもの外にある原因に反応して、子どもはこれらの辛い症状を出しています。薬は子どもの出す症状を軽減できても、原因が子どもの中にありませんから、解決することはできません。薬で症状が軽減しているとき、薬を止めるとまた元の辛い症状が出てきます。場合によっては投薬や検査対応からの副作用から服薬開始時より症状が強くなっている場合がありますから、服薬を止めると服薬開始時よりも強い症状が出る場合があります。

 この事実から、医者は「服薬を止めたら大変なことになる。薬のリバウンドで、命も危なくなる」と子どもやその親に服薬を止めないように言います。上記のように確かに服薬を止めると服薬前の症状が出ますし、場合によっては服薬前の症状よりも強い症状が出ますが、決して薬のリバウンドではないです。不登校や引きこもりの子どもが苦しむ原因を子どもの外に見つけられたら、親がその原因を取り除くことで、子どもは自分から服薬を止めてしまいます。その子どもなりに工夫をして、自分自身の症状に合わせて減薬していきます。

 殆ど全ての医者は子どもが心の病の症状を出すと、その症状を出す原因が子どもの外にあるとは考えないで、子どもの中にあると考えます。精神疾患だと考えてしまいます。精神疾患としての症状が整っていなくても、精神疾患の前駆段階だから、将来精神疾患になるとして、投薬を開始します。このような治療のあり方を絶対に間違っていないと信じ込んでいます。医者に反対する人には、知らないくせに文句を言うなと言うような感じです。その実、その医者が間違った医学知識を信じ込んでいるだけです。

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トラウマと精神疾患 2012.10.12

 子どもは学習した辛さを生じる条件刺激(他の人では何でも無いもの、時には喜びでもあるもの)で、辛さを生じる条件反射(トラウマが反応)を生じて辛くなり、回避行動を取ります。その回避行動は辛さを生じる条件刺激から逃げようとし、辛さを生じる条件刺激から逃げられないときには、暴れたり問題行動をしたり、心の病の症状を出します。しかし辛さを生じる条件刺激が無くなったら、子どもの辛さは無くなり、子どもはその子どもなりの生活をすることができます。

 子どもが辛さを生じる条件刺激で辛さを生じる条件反射を生じて辛くなったとき、その時その子どもの周囲にあった物を、新たな辛さを生じる条件刺激として学習します。これを条件刺激の汎化(新たなトラウマを作る)と言います。辛さを生じる条件刺激が一つで無くなり、複数になります。最初に学習した辛さを生じる条件刺激が無くても、その後学習した辛さを生じる条件刺激で辛くなってしまいます。子どもを辛くする条件刺激がどれだか全く分からなくなります。

 本当は辛さを生じる条件刺激があるのに、その事実が分からないから、辛さを生じる条件刺激が無くても、辛さを生じる条件反射が生じているように理解されやすくなります。引きこもりの子どもが家の周囲の物や近所の人に辛さを感じて、外出を拒否するようになるのも、この辛さを生じる条件刺激の汎化です。部屋の中に引きこもり、親を拒否するのも、この辛さを生じる条件刺激の汎化です。

 子どもが汎化した辛さを生じる条件刺激から守られていないと、親に理解できない原因で、子どもが暴れたり問題行動をしたり、心の病の症状を出してしまいます。不登校の問題を対応している人も、子どもが学校に行こうとしないのは、学校が辛くて学校に行けないことを理解します。そこで学校に行けないなら、適応指導教室、フリースクールなどに行くことを勧めてしまいます。しかしこれらの人は、子どもがこれらの学校以外の場所に行けないことを理解できません。

 子どもが汎化した辛さを生じる条件刺激で辛くなり、その条件刺激から逃れられなくて、暴れたり問題行動をしたり、病的な心の症状を出しても、その汎化をした辛さを生じる条件刺激の存在に気付きませんから、原因がないのに子どもが暴れたり問題行動をしたり、病的な心の症状を出していると理解します。子どもに問題があるから、子どもの中にある問題を解決する必要があると考えます。子どもが精神疾患だと理解します。

 現在の精神科領域で精神疾患とされている人たちは、医者が気付かない汎化した辛さを生じる条件刺激にさらされ続けている人たちの姿です。辛い心の病的な症状に苦しみ続けている人でも、時にその症状が軽くなるのは、その気付かない汎化した辛さを生じる条件刺激が無くなっているときです。その気付かない汎化した辛さを生じる条件刺激から、精神疾患とされている人たちを守るだけで、その精神疾患とされている人たちを辛い症状から守ることができます。

 辛さを生じる条件刺激に辛さを生じる条件反射(トラウマ)が反応して、辛い症状を体中に表現します。その過程は神経反応で、f-MRIで見ることができます。神経回路は条件反射が反応すればするほど強化されて、消失しにくくなります。f-MRIで見られる像が強く、特徴的になってきます。

 また、条件反射が反応すればするほど、条件刺激に対する刺激閾値が低くなります。辛さを生じる条件刺激に敏感に強く反応するようになります。これを逆の見方をするなら、辛さを生じる条件刺激に敏感に反応する人ほど、辛さを生じる条件反射(トラウマ)が強く形成されていて、辛さを生じる条件反射(トラウマ)が強く反応する人ほど、脳内に構造的に強く神経回路が作られて、回復に時間がかかります。

大人の精神疾患と言われている人たちは、気付かれない複数の辛さを生じる条件刺激に長さらされ続けているので、多数の辛さを生じる条件刺激にも敏感に反応し、脳内にf-MRIでも観察可能な強固な神経回路ができていています。この神経回路が働くために必要な神経伝達物質が過剰に作られたり、過剰に消費されて、精神疾患と見なされない人の脳内伝達物質と比較して、神経伝達物質についてある物は過剰に存在し、ある物は枯渇しています。この病的な心の症状を出す神経回路を構造的にも強固にするために必要な物質を作るため、脳内の遺伝子情報が異なってきていると言われています。


補注
 私たちの周囲には辛さを生じる条件刺激はいろいろとあります。例えば高所恐怖症、閉所恐怖症、重要な場面での緊張(あがる)、蛇や蜘蛛を嫌う、お化けなど、本能的に辛くなる痛みや強すぎる五感、非存在感(しかとはこの本能を利用したいじめ。無重力空間での不安感など)以外の辛さを生じる物は全て辛さを生じる条件反射と考えて良いです。但しトラウマではありません。辛さを生じる条件刺激が他の人でも理解できる物なら、それは単にその人にとって嫌な物です。

 トラウマとは辛さを生じる条件刺激が、他の人では辛さを生じると理解できない物が辛さを生じる条件刺激になっている場合です。登校拒否不登校の学校や先生、友達、学用品や勉強などを辛さを生じる条件刺激とした条件反射です。引きこもりなら、家の周囲の物や人、両親などです。落語にある「饅頭怖い」が本当にあったとしたら、饅頭に反応するトラウマを主人公は持っていることになります。子どもでは落語にあるような演技をできません。大人ではあたかもトラウマがあるように演じられます。

 トラウマがあってもトラウマが反応しなければ、トラウマが無い人と同じように生活ができます。トラウマがある問題点を指摘する人が多いですが、それはトラウマが反応をしている場合です。トラウマが反応する限り、トラウマは強化されて敏感になり、ますますその人を辛くしてしまいます。トラウマの消去が難しくなります。トラウマがあっても反応しなければ、トラウマは時間とともに弱くなって、最終的に消失してしまう場合もあります。但し神経学的には、トラウマに相当する神経回路を機能させなくなる神経回路が新たにできるのです。 

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つまらなそうにゲームをする 2012.10.19

ある母親から、
「不登校で家に引きこもっている子どもが、つまらなそうにゲームをしている。そんなにつまらないなら、ゲームをやめて、もっとほかの楽しいことをすればよいと、子どもに言ってよいかどうか?」
という質問を受けました。

 不登校で家に引きこもっている子どもは、家の外がとても辛くて家の中に引きこもっています。引きこもった家の中も辛いからゲーム以外のことができません。別の表現をすれば、子どもはとても辛過ぎる辛さとゲームなどの楽しさとのせめぎ合いの中にいます。そして辛さの方が強いから、より楽しさを求めてゲームに没頭しています。ゲーム以外に楽しい物が子どもにあれば、その楽しさにも子どもは没頭しようとします。けれど家の中にはゲーム以外に楽しい物がありません。

 母親は「もっと他のことをすれば良い」と思われていますが、他に楽しいことが無いからゲームに没頭して、辛さを解消しようとしています。この母親は、「子どもにとってつまらないゲームをしていると理解しています。ですからもっと楽しいことをすれば良い」と考えています。これは原因と結果とを間違えいます。繰り返しますが、子どもは辛いから、楽しいゲームをして辛さを解消しようとしています。楽しいゲームをしても辛さを解消できないから、つまらなそうにしています。他に楽しいことがあって、それで辛さを解消できるなら、子どもはその他の楽しいことをします。

 母親にして欲しいことは、子どもが辛すぎる辛さを感じていることに気付いて欲しいのです。子どもが辛すぎる辛さを感じる原因は、義務教育年齢の子どもでは”学校”です。義務教育年齢以上の子どもでは”自己否定”です。高校生ぐらいだと、両方の要素があります。ですから、義務教育年齢の子どもでは、子どもに学校を忘れさせてあげさえすれば、安心して不登校をさせてあげられれば、子どもは納得するまでゲームをして、その後その子どもなりに成長をして社会へ出て行こうとします。学校にも戻ろうとします。

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励ましと自己否定の悪循環 2012.11.13

 40歳以上の大人を含めて、引きこもりの人は70万人又はそれ以上と報道されました。鬱病などの心の病として治療を受けている引きこもりの人はこの数に入っていませんから、その数を含めるとすごい数の人が引きこもっていることになります。医療は多くの引きこもりの人が表す鬱状態を鬱病とを区別しませんから、引きこもりの人が医療にかかると、鬱病として治療をされてしまい、引きこもりの人から除外されているからです。

 心が辛い状態の引きこもりの人は、原因が何であれ、社会活動をする意欲を失っています。多くの人や対応機関は、引きこもりだした人を激励して引きこもらないようにします。日本ではこのような励ましの対応が常識です。それにより激励された心が辛い状態の人は無理をして引きこもらないようにしますから、激励の効果があったと多くの人は考えます。激励の意味があると多くの人は考えます。行政もそれにそって対応をしています。

 けれど激励された心が辛い人の無理は長く続きません。限界が来てますます辛くなり、引きこもってしまいます。自分としてあるべき姿、激励されて求められている姿と、現実の自分の姿の違いから、強い葛藤状態に陥ります。その辛さを回避するために、ますます引きこもることになります。多くの心が辛い人は、励まされたことから自己否定を生じ鬱状態になります。

 引きこもりへの対応は、大人と子どもとで異なります。子どもは心を楽にして引きこもらせてあげると、子どもの方で引きこもりを解決し、その子どもなりの成長をしてくれます。元気に社会へ出て行ってくれます。子どもには引きこもりを止めて社会へ出ようとする本能が働くからです。心が辛い大人への引きこもりも、その人の心を元気にする対応が最優先されます。その人を励ます対応は、上記のように逆効果になります。

 心が元気になってきた大人の引きこもりの対応でも、その人が必ず社会へ出て活動をしてくれるという信頼感を持って待ち続けてあげる必要があります。しかし40題、50代の人は心が元気になっても、自発的に社会へ出て行こうとする意欲が弱い場合があります。そのような人へは、その人が社会へ出たい、働きたいという意欲をどうやって強めてあげるという周囲からの対応が必要になってきます。心が元気になってきた人には常識的な対応が可能になります。

 心が辛い子どもにも大人にも、心を元気にする対応が最優先します。特に心が辛い大人には、自己肯定感を持たせる対応が大切です。励ましが好ましいと常識ではなっていますが、心が辛い子どもや大人への励ましは、多くの場合自己否定感を強めてしまいます。かえって心が辛い子どもや大人をより辛くしてしまいます。

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本当にお母さんの子ども? 2012.12.10

不登校状態の8歳の男の子が母親に言いました。
「お母さんは本当に僕のお母さんなの?僕をどこかからさらってきたのじゃあないの?」
と言います。
母親は言われるたびに、
「あなたの本当のお母さんだよ。あなたはお母さんから生まれたのよ。」
と、繰り返し言っていますが、子どもは納得しません。同じ言葉を繰り返します。相談機関では発達障害だから、治療が必要だと言われました。

 これを男の子の立場から解説します。男の子は何もしていなくても辛い物が体中に湧き上がってくるので、苦しんでいます。死ぬ思いをしています。その死ぬ思いを一時的にでも忘れられるゲームをしています。ゲームをしていても、母親の視線を感じたときには
「ゲームばかりをしていてはいけない。学校に行かなくてはならない。」
と言う思いが頭をよぎって、その瞬間から体中に辛い物がわき出してきます。ゲームのボタンを機械的に操作するだけになってしまいます。ゲームをする楽しさがなくなってしまいます。

 母親は男の子が不登校を続けていることを許可しているつもりです。しかし男の子には母親の思いが届いていません。男の子は安心して不登校になっていられないのです。その原因として一つは母親から学校に行って欲しいというオーラが出ている場合、もう一つは男の子がしっかりと学校に行かなくてはならないという知識を持っている場合です。母親から学校に行きなさいとオーラが出ているとき、子どもは母親を拒否します。その母親を拒否する言葉の一つが、「僕は本当にお母さんの子ども?」という言葉になっています。

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15年の月日 2012.12.18

 診察室に35歳の女性が入ってきました。入って来るなり
「私にはもう未来がない。死にたい。」
と、泣き出しました。

 女性の説明では、女性が大学時代に大学に通学できなくなって、家で酷く荒れました。困り果てた両親が病気ではないかと思って、女性を病院に連れて行きました。女性は薬を飲みたくなかったのですが、両親から薬を飲むと治って大学に行かれるようになるからと言われて、薬を飲み出しました。薬を飲み出すと、しばらくして女性は荒れなくなりましたから、両親は大喜びでした。薬を飲めば女性の問題は解決すると考えたのです。

 女性も大学に行き就職して結婚したいと希望していました。薬を飲むと大学に行かれると信じて、決められた日にきちんと通院して、医者の面談を受け、薬を飲み続けました。薬を飲んでいても調子が悪くなることがありました。それを医者に訴えると、医者は薬の量や種類を変えてくれました。そして大学に通学できないけれど、近所で買い物ができるようになり、好きなライブなどにも出かけられるようになりました。女性もこれで必ず元気になれて社会に出られると信じていました。

 病院に通院しだして15年がたちました。医者が
「ぼつぼつ障害者手帳を貰って、自分で生活をすることを考えてみたら?」
と言いました。女性は障害者手帳の意味を知らなかったようですが、自分の病気が治らないと言われたと理解して、主治医に不信感を生じて、当院を受診したのです。そこで通院時代の診断名を尋ねると、女性はこの15年間診断名も教えられないで8種類の薬を服用していました。飲んでいた薬の処方箋を見ると、リスパダールが投与されていました。女性はリスパダールを数年飲み続けていたようです。

 「リスパダールは統合失調症の患者に出す薬です。統合失調症の人に出して、その症状を軽減できるけれど、統合失調症を治す薬ではないです。」
と女性に説明すると、女性は絶句してしまいました。
「治ると言われたから一生懸命通院して薬を飲んだけれど、治らない病気だった。」
という女性に、経過から言って誤診の可能性が高いことを伝えて、減薬に挑戦することになりました。

 現在女性は未だ精神安定剤を一種類だけ少量服用しています。普通の女性と同じ生活ができています。未だ就職をしていませんが、職探しを始めています。治療を受けていた15年を返して欲しいと言っています。

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傷を嘗め合い 2012.12.22

 不登校、引きこもりの子どもは、母親が不登校の親の会に、又はそれに関連する講演会などに参加するのを嫌がります。母親はそれらの会に参加して、安心感を得たいのですし、子どもの将来を見通したいのです。それらの会に参加して、笑顔で家に帰れば子どもの心も楽になるのではないかと母親は考えます。

 不登校、引きこもりの子どもにとって、母親が落ち込んでいるととても辛いです。母親が楽そうにしていてくれると、子どもはとても助かります。母親に笑顔があると、自分の楽しみに安心して耽ることができます。母親が子どもの本心に沿った対応をしてくれていると、子どもは母親が不登校の親の会などに参加するのを嫌がりません。子どもは自分の心の内を母親に話してくれるようになります。

 不登校、引きこもりの子どもの母親に笑顔があっても、母親の対応が子どもの本心に沿っていないと、母親が不登校の親の会などに参加するのを嫌がります。母親に問題行動をぶつけます。母親との心の距離を取ります。母親の心が楽になり、子どもの心に沿う努力を忘れてしまっている場合があります。それはついつい忘れてしまう場合と、一生懸命子どもの心に沿う対応をしようとしていても、子どもの心に沿っている対応かどうかの判断を母親の都合で勝手に行ってしまう場合です。つまり母親の心が楽になったため、子どもから母親の対応が違うよと言うメッセージが弱くなり、時には気付かなくなって、母親に都合良く解釈してしまっている場合です。その結果もう一息のところで、問題解決が長引く場合です。

 不登校、引きこもりの子どものカウンセリングを行っていると(基本的にはしてはいけないのですが、子どもの方からの要求を無視できなくてする場合)、親は子どもに隠れて不登校の親の会に参加していても、子どもはそれに気付いている場合が多いです。そして子どもがふと漏らす言葉は「自分たちばかりが傷の嘗め合いばかりをしやがって」と言う言葉です。不登校、引きこもりの子ども達は母親の笑顔を欲しいけれど、それだけでは不十分であり、子どもの心を子どもの本心に沿って理解して欲しいと言っています。子どもの問題行動や病的な症状が落ち着いて来ていても、今ひとつ子どもの心の理解を子どもの本心に沿って進めることを求めています。

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