フリースペース「したいなぁ〜松戸」&松戸−登校拒否を考える会「ひまわり会」
ホーム代表者と顧問医師のコラム

子どもの心に寄り添って(21) 2011.1.2

 不登校の子供を持つ母親が、「母親が作った物を子どもが食べてくれない。インスタントラーメンばかり食べていて、栄養が心配になる。成長が心配になる。」と訴えました。

 この子どもは親に怒りを感じています。この子どもはその怒りを直接的に表現しなくて、親を否定することで表現しています。この子どもは母親に怒りを感じていますから、母親が作ってくれた物に怒りを感じて、食べたくないのです。しかしお腹がすくから食べやすいインスタントラーメンばかりを食べようとします。

 母親はこの子どもの心の心配をしないで、この子どもの体を心配しています。この子どもが求めているのは、体の心配ではなくて、この子どもの心の理解です。心が今とても辛いと、この子どもが訴えています。母親の対応が違うよと言うサインです。母親がこの事実を理解してこの子どもの心を守ろうとすると、この子どもは母親の作った食事を喜んで食べるようになります。

 母親に必要な対応は、母親の作った物を食べさせようとするのではなくて、子どもの心を辛さから守る対応です。母親がこの事実に気づくまで、子どもがインスタントラーメンを食べ続けても、子どもが病気になることはないです。栄養の偏りができるかもしれませんが、現実問題として子どもの体の成長に支障を来しません。

千葉県の教育行政 2011.1.12

 学校でのいじめが問題なので、千葉県教育委員会は道徳教育を強化しようとしています。人を思いやる気持ちを育むことでいじめを減らそうとする考え方は正しいです。しかし人を思いやる気持ちは日々の生活の中で育まれます。道徳教育として教室で教えると知識として身に付いても、気持ちとして育まれません。

 子どもの立場から考えるなら、道徳教育の強化で子どもらしさを否定されて、子ども達の心の締め付けになります。子ども達の心を締め付ければ締め付けるほど、教師の前では良い子を演じます。教わった道徳教育に沿って行動をしようと振る舞います。しかし教師がいないところでは全く別な行動をするようになります。時には全く逆な行動をすることを、教師は気づくべきです。

 今日まで、子どもの問題行動を解決するために、道徳教育が強化されてきています。子ども達はますます良い子を演じますから教師は安心します。しかし教師が居ないところで子ども達が無気力になったり、いじめなどの問題行動をしてしまいます。教師は良い子を演じる子どもを褒めますが、その良い子を演じる子どもの中からいじめなどの問題行動をする子どもが出て来て、教師は困っています。

 人を思いやる気持ちは日々の家庭生活や学校生活の中で作られます。親は学力ばかりに捕らわれないで、思いやる気持ちを実践してみせる必要があります。学校生活の中でも教師が実践してみせる必要があります。家庭でも、学校でも、言葉による指導は行われても実践はされていません。それは子ども達にとても根深い不信感を生じています。

子どもの意志を確かめる 2011.1.19

 学校に行き渋る子どもに、子どもが何故学校に行こうとしないのか親はその理由を知りたがります。そこで親は子どもに「何故、学校に行こうとしないのか?学校で何かあったのか?」と問いただします。すると子どもは「学校に行きたい」と言いますが、学校に行こうとしても行けません。子どもは学校に行けない理由を「いじめる友達がいる」などの子どもが理解している言葉で説明します。

 子どもは親にとても優しいです。親の悲しむ顔をみたくありません。また学校には行かなくてはならないという知識をしっかりと持っていますから、子どもは言葉では「学校に行きたい」と言います。けれどなぜか分からないのですが、学校を考えたり、学校に行こうとすると、体の奥底から辛い物がわき上がってきて、学校に向かって体が動かないのです。

 そこで親は子どもが学校に行きたがっているのに学校に行けないのは問題だと考えるようになります。子どもの意志を尊重して、どうにかして学校に行かせてあげようと思います。子どもが言う学校の問題点を解決して、子どもを学校に行かせようとします。その親の子どもを学校に行かせようとする対応がますます子どもを辛くしてしまいます。

 子どもには知識の心(建前の心)と知識の心では知り得ない(潜在意識にある)本心とがあります。大人では知識の心が本心を調節してくれますから、知識の心だけを考えれば心を理解できますが、子どもでは大人では配慮しなくて良い本心を中心に考える必要があります。子どもでは知識の心からの行動が大変に難しくて、ほとんどの場合本心で反応をしてしまいます。また、本心は命に直結しますから、子どもの本心に沿った考え方をする必要があります。

 大人から質問をされると、子どもは知識の心から答えます。しかし子どもは大人のように知識の心(理屈)で反応をしません。子ども特有の感情を伴った反応の仕方があります。それは子どもが持って生まれた本能と、乳幼児頃までに親を真似して確立した情動(これらを全て合わせて情動と表現します)です。この情動に沿って子どもが成長できたなら、子どもの本心はとても安定しています。この本能や情動に反する対応を受けたなら、子どもはとても辛い状態になり、命の危険すら生じます。

 子どもが乳幼児の時期を過ぎますと、子どもの本心である情動を基本的に変えられません。そのまま一生続きます。しかし本能を変えられませんが、難しいけれど乳幼児までに学習した情動を変える事はできます。それは条件反射の学習です。そして登校拒否、不登校とは、条件反射で学習した、学校や学校に関する物に拒否反応を起こすように、子どもが条件反射から学習をしてしまったのです。

 このように登校拒否不登校とは、子どもの潜在意識にある本心で生じる学校への拒否反応です。ですから登校拒否不登校の子どもは学校に行かなくてはならない、学校に行きたいと思っていて、それを言葉にできるのに、何故自分が学校に行けないのか分かりません。親や大人から、学校に行くと言っているのに、何故行こうとしないのかと尋ねられても、子どもはその理由が分からないのです。

 理由を聞かれれば聞かれるほど、子どもは混乱をしてしまいます。何故学校に行けないのかという理由を尋ねる親子の話し合いは、子どもにとって拷問になっています。拷問を避けるために、子どもが「明日は学校に行く」と言いますが、翌日になっても子どもは学校に行けません。親が子どもに言った言葉に責任を持ちなさいと言っても、子どもには無理な要求なのです。言った言葉に責任を持てるのは大人だけです。

子どもの心に寄り添って(22) 2011.1.28

 不登校の子供を持つ母親が、「子どもが何も話してくれない。誰か子どもの話を聞いてくれる人が欲しい。」とか「かかっている医者が子どもの話を丁寧に聞いてくれるので、良かった。」と言っていました。

 子どもは自分の辛さを母親に訴えて、自分の心を楽にしたいのです。ですから、母親が子どもの言うことを聞く耳を持っていれば、子どもは子どもの思いを全て話してくれます。しかしこの母親に子どもは話したくないのです。子どもが母親に話をすると子どもが辛くなるからです。きっと子どもが母親に話をすると、その話を聞くだけでなく、子どもを辛くするようなことを言ってしまうから、子どもは母親に話をしなくなっているのでしょう。

 もちろん母親は子どもを元気にするために一生懸命です。子どもの話を聞いて母親として子どもの問題を解決しようとします。勿論子どもの問題を解決して、子どもが楽になれば子どもは母親を信頼して全てを話してくれるようになります。けれど多くの場合、母親は子どもの心を理解しているつもりでも理解をしていません。母親が子どもの問題を解決しようとすると、それは子どもの心に沿っていなくて、かえって子どもは辛くなってしまうのです。

 子どもは母親に話を聞いて欲しいだけです。今は子どもは辛くて自分の問題を解決する余力がなくても、母親に自分の辛さを訴えて心を楽にして、自分の問題を自分で解決しようとしています。自分の問題で子どもが苦しんでいる話を母親に聞いて欲しいのです。それなのに子どもの問題を解決しようとする母親に、子どもはかえって辛くなり、「うざったい」と感じて、何も話さなくなります。

 子どもは医者の前で必ずしも本心を話すとは限りません。この子どもが医者の前でいろいろと話したのは、聞かれたら答えないといけないからと感じて話しています。本当ならこの子どもは医者にも話したくないです。医者の前では話さないと後が面倒になると思われるから話しています。良い子を演じたのです。ですから子どもの話は本心ではありません。話して楽にもなっていません。

教師が親を提訴 2011.2.7

 小学校の女性教諭が、女子の母親からのクレームで不眠症に陥ったなどとして、両親を訴えました。子ども同士のけんかの仲裁をきっかけに連絡帳などで再三にわたってクレームをつけられたほか、警察に被害を訴えられことなどから、女性教諭は不眠症に陥り、慰謝料を求める訴えを起こしたのです。

 母親は一生懸命子どもを育てています。子どもの訴えに耳を傾け、子どもを守るために学校と関わるのは、母親としてしなくてはならない対応です。義務教育だから、学校に協力的でない親がいることも教師は知っているはずです。たとえ母親からの訴えが良識の域を超えていても、教師は親が納得するように良識的に対応をすべきです。担任で対処しきれないときには、学校全体、教育委員会などで対処すべきです。現実にそれができないで、全て担任に任されているから、教師の中に耐えきれなくなって、心の病気になったり、今回のように親を訴える事になってしまいます。

 学校内は教師と子ども達だけの世界です。日々の学校生活を親は子どもの言葉からしか知る事ができません。学校で子どもが辛い思いをしていても親はその現場を見る事ができません。子どもの訴えを信じて、どうにかして解決して貰おうとして学校に訴え続けるのは、親として必要な事だと思います。今まで親は子どもの言葉を信頼しないで、教師の言葉を信頼して、子どもを否定しがちでした。学校もそれが当たり前だと、未だに考えているようです。時代の変化に対応しようとしていない学校。昔からの学校のあり方に安住して、学校に協力的でない親をモンスターペアレントと呼び、責任を親に転嫁しているのは学校があまりに独善的すぎます。

 教師は子どものために、子どもを良い子にしようとして、一生懸命働いています。その一生懸命が現在の子ども達を苦しめている場合が多いです。一生懸命だから教師が生徒を苦しめている事に気づきません。それを気づいて欲しいと訴える親を教師は問題視する傾向があります。子どもに教科書を教える技術には長けていても、子どもの心を子どもの心に沿って知る事ができない教師が多い事も事実です。テレビの報道の中で母親が提示した録音には、教師の感情的な指導が録音されていました。教師が子どものために努力をしている事実は良く伝わってくるのですが、そこにいる子どものためでなくて、教師のため、学校のためからの指導である事に気づいていないから、教師は感情的にならざるを得ないのでしょう。

 心の病に陥る教師の数が増えてきているという報道を見聞きします。子どもの心に沿った教育をしないで、教師が信じる教育を続ける限り、学校内でいろいろな問題を生じます。その問題の責任を学校は子ども達に求めています。教師が一人では対処できなくなってきているのは、今の学校教育のあり方に問題があるからです。100年来の学校のあり方に固執していると、100年前とは大きく異なった子ども達に合わなくなった学校内では、100年前とは違った問題を生じ、そのために子ども達が苦しみ、それを守ろうとする親が苦しみ、一方では学校の矛盾に気づいた教師が苦しんで病気になるのは、当然の成り行きです。

 ここで義務教育という観点から法律的に考えてみます。義務教育とは子どもの親や学校に子どもが学校に行けるような段取りをする義務を言っています。ですから子どもが学校に問題があってそれを親に訴えたなら、親はそれを解消して子どもが学校に行けるように対応をする必要があります。学校も子どもが学校に来られるように対応をする必要があります。その観点から見たら、親は子どもが学校に行けるように、必死で対応しても、法的には全く問題ない事だと考えられます。学校も子どもが学校に来られるように、学校内の環境を整え、子どもが納得して来られるように、当然その親も安心して子どもを学校に送り出させるように、納得させる義務があると考えられます。その義務を放棄する事は学校に許されないはずです。

 学校側が親を訴えるとは、親が子どもを学校に行かそうとする対応を否定する事になり、親は子どもを学校に行かせ辛くなり、子どもも学校に行き辛くなり、義務教育の理念に反する学校側の対応になります。

 学校側が親を”モンスターペアレント”と表現するのは、学校側が学校内での問題を解決しないで、子どもが学校に来られるように対応をする事を放棄して、その責任を親に押しつけるという意味です。昔からの学校のあり方に固執して、子どもが学校に行き辛いと訴える親に責任を転嫁しています。義務教育である限り、学校側はどのような親に対しても、親に納得して子どもを学校に来させられるようにする義務があります。その義務を学校が放棄する事になります。

 報道された内容から子ども達の問題に対応してる医者としての推測ですが、この教師のクラスは既にいろいろな問題を抱えていたのではないかと思います。その結果として子ども達がけんかをし、子ども達がいじめられて、それに手をこまねいていた教師の心がとても不安定になっていたと思います。そこにこの母親からの連絡帳で教師は耐えきれなくなってしまったのだと考えられます。私の経験の範囲で、これだけベテランの教師が一人の母親からの連絡帳に書かれた非難の言葉だけで、これだけ病的な症状を出すようにはならないと推測されます。

ネットに書かれている文章の例は
http://news.tbs.co.jp/20110118/newseye/tbs_newseye4627899.html
を参照しました。


>母親が担任を訴えている場合、子どもは、「母は自分を守ってくれている」と感じることができるでしょうか?
 母親は学校と関わり、連絡帳などで担任に訴えているのですから、母親が特別に問題になるような行動をしたとは思えません。この報道を読む限り子どもが学校で辛い経験をして、それを母親に訴えた結果、母親が子どもを守ろうとして行った行動ですから、かえって母親を信頼しようとする可能性が高いと思います。それよりも教師の方が母親の言葉に過敏に反応しているように、私には感じられます。

>その行為に苦しんでいるのではないか。
 子どもは母親に学校に問題があり学校に行き難いと訴えていたのです。学校に行き難いのは学校内の問題であり、母親と子どもとの関係は推測の域を出ませんが、ただ単に教育ママではないかと思います。私がこの母親から相談を受けたら、理解のない学校と関わらないで、子どもを不登校にして、子どもの心を守るようにアドバイスをします。

>母親がそのような行為をする背景に何があるのか
 これも推測の域を出ませんが、母親も所謂世間知らずと言う要素が有るかも知れません。しかし子育てに一生懸命で視野狭窄を起こしている母親ならやりかねないと思います。DVの要素は考えなくても良いと私は思います。

>暴力的(心理的虐待も含む)パートナーから指示された
 これも全く分かりません。報道にはその要素が書かれていません。感じ取る事もできません。私が感じるのは、上記のように、クラス内がとても緊張状態であり、クラス内の友達が辛さを感じていると感じられます。

子どもの心に寄り添って(20) 2011.2.15

 不登校の子どもの母親が、統合失調症を克服して子どもが社会復帰をした講演をしました。統合失調症で治療を受けていたけれど、子どもを信じて待っていると、企業の障害者雇用枠で就職できて、一人で自活していると報告しました。結論として、医療につながり、服薬をして、病気を当人も家族も理解して、良い関係ができれば社会復帰ができると述べました。

 ここで問題は、子どもが統合失調症として精神障害者2級の手帳をもらって年金を受けながら、障害者雇用枠で働き続ける生き方が、この子どもにとって良いのかどうかの問題です。なぜ問題かというと、果たして子どもが本当に統合失調症だったかどうかです。子どもが統合失調症だと医者が判断しただけで、客観的に子どもが統合失調症だという証拠はどこにもないからです。統合失調症があると医者は信じていますが、科学的に統合失調症の存在は証明されていません。統合失調症の病態はあっても、統合失調症という病気は存在しない可能性があります。

 統合失調症が無いとしたなら、子どもが病気でもないのに病人として一生生き続ける意味を考えなければなりません。現在は年金がもらえるし、障害者雇用枠で就職できるから、子どもは生きていけます。子どもが精神障害者だと信じている限り、生きるだけなら子どもの将来を考える必要が無くなります。

 今まで何も分からなくて親も悩み苦しんでいたのに、子どもが病気の症状を出している原因が、病気だからといわれたら、原因が分かったとして親が安心できます。今後は医者に頼って病気を治せばよいと考えますから、親にも都合がよいでしょう。しかし子どもが統合失調症でないのに、一生病人として生きていかねばなりません。きっと子どもは元気な社会人として生きていたかったはずです。

 子どもは死ぬほど辛い経験をして、精神障害者の症状を出してしまいました。子どもは辛さから親に守ってもらいたかったはずです。けれど親は子どもを辛さから守らないで、子どもを病院に連れて行き、医者の診断から、子どもが病気と信じ込みました。それは子どもが希望したことではなくて、親にはその意図が無くても、親の都合だったのです。

 子どもは病院に行くのを酷く嫌がったはずです。病気を受け入れたくなくても、子どもは親に依存して生きていかなければなりません。親を安心させるために病気を受け入れたのかもしれません。医者からの投薬で楽なったから、自分が病気だと信じ込んだのかもしれません。子どもは自分らしく生きて大人になるのを諦めざるを得なかったのです。

子どもの心に寄り添って(23) 2011.2.15

 学校に行き渋る子供を持つ母親が、「子どもが学校に行くかどうか、今後どの高校か、定時制高校に行くか、フリースクールに行くか、サポート校に行くか、自分で決めさせました。子どもは定時制高校に行くことになったけれど、学校が始まって三日目から行かなくなった。今後もこどもに考えさせて、自分で選択させようと思う。」と言いました。

 子どもはお菓子や食べ物を選択できます。子どもはどのお菓子や食べ物がおいしいか知っているからです。けれど学校を選択するとき、どの学校がよいか子どもは分かりません。例え学校に関するいろいろな情報を与えられても、その情報から子どもは学校をお菓子や食べ物のように理解できません。与えられた情報の中に、自分が理解できる情報があるときには、それを理由に学校を選択しますが、それでも学校を理解して選択したのではないです。単に知っている部分があるから選んだだけであり、本心から選んだのではありません。

 不登校の子どもは学校に行くと辛くなり、学校に行けません。ですから不登校の子どもは学校を選ばないです。その不登校の子どもが学校を選んだとき、それは不本意で選んでいます。多くはその学校を選ぶと親が喜ぶような学校を選んでいます。あるいは全く行けないような学校を選んでいます。ですから、選んだ学校に行き続けられません。不登校の子どもが学校を選んだと親が理解しても、子どもは自分で選んだつもりがないです。

心が辛い若者が増えている 2011.2.22

 どの子どもも生まれたときには、心が元気な子どもです。その子どもが成長をしていく過程で心が辛くなる子どもが出てきます。特に最近、心が辛い若者の増加が社会問題になっています。不登校、引きこもりの子ども、ニート、フリーターの若者ばかりでなく、大学を卒業しても就職しようとしない子ども、就職しても直ぐに職場を辞めてそれ以後就職できない若者が増えています。

 今の社会はこれらの問題を抱えた若者達に原因を求めて、就労支援や職業訓練などの、いろいろな解決策が試みられていますが、現実は解決とはほど遠く、悪化するばかりです。今の社会は若者の姿外見から、若者達に元気がない原因を若者達に責任を求め続けて、若者達の心の奥底にある辛さを知ろうとしていません。

 若者達は幼いときから楽しいことを制限されて育ってきています。テストで良い点数を取ることばかりを要求されています。有名学校に入学するための勉強ばかりを要求されて育ってきています。テストで良い点を取ることだけを求められて、生きる喜びを知らないで育ってきています。それらは子どもが本心から求めていることと違っていますから、子どもにとっては延々と続く苦痛です。その苦痛の連続から若者達は生きるエネルギーを失っています。親の保護の元では生きていけますが、自分一人では生きていけない状態で大人になっています。とても若者の独力だけでは社会に出て行けない状態です。就労支援などの支援を受け入れる余裕がありません。

 何十年か前の日本は未だ経済的に貧しくて、発展途上にありました。多くの貧しい若者は豊かさを求めて意欲的に働きました。又働く場も十分にありました。経済が発展していきましたから、経済的な豊かさをだんだん手に入れられ、働くことに納得ができました。当時の子ども達も貧しさから学業で良い成績を取ることができませんでしたが、親はそれを当然のことと受け入れて、子どもを責めることは有りませんでした。一部の学業成績がよい子ども達は進学して、エリートとして社会に出て行き、一生豊かさを保証されていました。

 豊かさを手に入れた大人達は、より豊かになるために、子ども達にエリートを目指して勉学を求めました。この時代の子ども達も豊かさを求める意味が分かっていましたから、辛い勉学や学校生活に耐えられました。受験戦争が始まった背景です。この当時は受験戦争に負けてもその人なりに豊かさを求められました。

 豊かさが行き渡った今日の日本では、子ども達とって豊かさが当たり前になり、より豊かになる意欲を持つことができなくなりました。そればかりか、豊かさを失う辛さ(躾として豊かさを制限される場合、子どもとしては当然得られる豊かさが親の理由で得られていない場合)に晒されるようになりました。そのために子ども達は気づかないうちに葛藤状態になって辛くなり、辛さに対する抵抗力を失ってきています。

 豊かさが行き渡った今日の日本でも、大人の考え方は日本が貧しかった頃の学歴優先、立身出世の考え方です。子ども達の生活の中に競争が持ち込まれて、興味を持てない勉学やスポーツなどの競争に無理矢理に追い込まれています。競争に勝てた子どもはその能力を伸ばしてより厳しい競争をしなくてはなりません。より厳しい競争に勝ててエリートとして社会で活躍できる若者はほんの一部です。

 多くの若者は能力を伸ばそうとするエネルギーを使い果たして疲れて、社会に出ても働けなくなっています。中には学校に拒否反応を起こして、大学生活や高校生活、中学生活すらできなくなっています。家の中に引き籠もって、辛さを癒すために刹那の享楽に耽っています。それを許されない若者は無理をして学校に行き続け、フリーターとして社会に関わろうとしますが、それも直ぐにエネルギー切れを生じてニートと呼ばれる状態になってしまいます。

 これらの若者の心を元気にするのは大変に難しいです。現実には大人が持つ常識から子どもの心を元気にしようとする対応がなされています。常識からこれらの若者を元気にしようと関わると、若者が荒れたり、問題行動を起こしたり、病気の症状を出して、大変に難しい状態になります。それでも大人は子どもが問題だ、子どもをどうにかしなくてはならないと判断して、ますます子ども達を辛い状態に追い込んでいます。

子どもの心に寄り添って(24) 2011.3.1

 ある新聞の相談欄です。「高校一年生の女の子です。クラス内では悪口を言う人が多くて、一方でまじめすぎる人がいます。私は大人になるために乗り越えなくてはならない試練だと思うようにしていますが、学校がとても辛いです。将来のこと、両親のことを思うと、学校を止めたいとも言えなくて、困っています。

 この子どもの言葉を解説してみます。
「クラス内では悪口を言う人が多く」
クラスの中が緊張状態にあります。辛い子ども達がその辛さから他の子どもを悪口を言うという形で攻撃しています。その原因として子ども達の学校生活が辛い、子ども達に無理な要求をしている学校が考えられます。

「一方でまじめすぎる人がいます」
辛い子ども達の中にはまだよい子を演じられる子どももいるという意味で、やはり学校生活が辛い子ども達の姿です。性格がよい子どもはこのような形で辛さを表現します。

「私は大人になるために乗り越えなくてはならない試練だと思うようにしています」
この子どももよい子を演じている、どうにもできない辛さをその子どもなりに乗り越えようとしているが、できないと訴えています。

「学校がとても辛いです」
体を学校に運んでいますが、つまり見かけ上不登校でないですが、心の中は既に不登校です。登校を拒否していますが親からの圧力で学校に行き続けています。

「将来のこと、両親のことを思うと、学校を止めたいとも言えなくて
親から学校に行かなければならないと言い続けられているから、行けない学校に無理をおして通っています。

ゴミだらけの部屋 2011.3.6

 引き籠もっている娘の部屋は、足の踏み場もないぐらいにいろいろな物が散らばっています。だんだん暖かくなってきて、汗の臭いや食べ残しの物の臭いがだんだん強くなってきて、普通の人だととても住めないゴミだらけの部屋の状態です。しかし娘は自分の居るところだけ片づけて、そこで寝起きをして、部屋全体を片づけようとはしません。

 以前母親がこっそりとゴミの一部を処分したのですが、娘は直ぐにそれに気づいて、母親に対して激しく荒れました。それ以後母親は娘の部屋を片づけられないで居ます。娘は「雑誌などの自分が欲しい物がどこにあるのか直ぐに分かるから、今のままで良いんだ」と言っています。母親はいろいろなゴミがめちゃくちゃに散らかっている光景や悪臭が、娘の心をますます荒ませてしまうのではないかと心配しています。

 引きこもりを親から否定されていると感じている娘にとって、自分の部屋で心が一番落ち着くのです。素直な自分でいれるからです。素直な自分とは自分の欲求が直ぐに満たされる状態ですから、必要な物を使い必要なくなると、直ぐに捨てる行動になります。先のことを考えている余裕がありませんから、身の回りに必要なくなった物が捨てたままになっています。

 部屋の中が散らばっていても部屋の中で動かないのですから、じゃまにはなりません。また、その散らばっている状態でずっと生活をしているのですから、その散らばっている状態に慣れています。かえって片づけられると自分が否定されたと感じるようになります。片づけた相手に向かって怒りをぶつけるようになります。それができないときには、自分の中に向かっていきます。いろいろな心の病気の症状を出すようになります。それは臭いについても同じです。親にとって悪臭でも、引き籠もっている子どもはその臭いに慣れきっていますから、悪臭とは感じなくなっています。臭いとしても感じなくなっています。

 このような不潔な部屋で生活すると健康面に良くないと親は考えるようになります。ところが現実は、子どもがそのために何かの病気になることはないです。体もそれなりに成長して、引きこもりの問題を解決したときには、健康面、体格面で、他の子どもと区別がつきません。それに対して子どもの引きこもりを解決しようとして親が関わった子どもは、荒れたり、所謂鬱病や拒食症、過食症のような心の病的な症状を出しています。

子どもの心に寄り添って(25) 2011.3.18

 ある相談について、ある専門家の答えです。「高校は就職のために卒業しなくてはなりません。親に心配をかけるのも良くないです。社会に出てももっと辛い現実が待っています。今は我慢が大切です。エネルギーを貯める時です。目標を作ってやるべき事をやりましょう。」

 高校を卒業するだけなら、辛い高校に行かなくても、高等学校卒業認定試験があります。苦しんで将来を失うより、高校に行かないで高認試験で卒業資格を取った方が、将来に向かって元気に生きられるので得です。また、このお子さんは今やっとの思いで学校に行っています。高校を卒業しても社会に出て行けません。就職しても働けません。今、このお子さんは辛い学校に行かないで、心を元気にする方が大切です。

 我慢が大切だと書いてありますが、このお子さんは我慢をし続けて、限界に来ています。これ以上我慢をできないから、このような悩みを訴えています。我慢をするためにエネルギーを浪費し続けてきているから、エネルギーが枯渇して、我慢の限界に来ています。今の状態ではとてもエネルギーをためられません。それを貯めろという方が無理です。

 このお子さんはやっとの思いで学校に行っています。行くだけで精一杯なのに、目標を持てと言われても無理な話です。当然やるべき事など考えられません。今のこのお子さんがやるべき事と判断しているのは、どんなに辛くても学校に行くことです。それが限界に来ているから、こうやって訴えてきています。

後追い 2011.3.28

 高校に行き渋っている娘(登校拒否ですが、不登校ではない)が「アルバイトをしたい」と言いました。母親は「アルバイトをしなくて良いよ。お小遣いはお母さんが出すから」と言いました。娘が朝遅刻して学校へ行こうとしているときには、「学校に行かないで、お嬢さんらしく家で楽しく過ごすように」と言い続けています。すると娘は「高校を行くのもやめるのも自分の勝手だ」と怒っていました。それ以後も娘は学校を休む日もあれば、遅れていく日もあります。

 その後母親はパートの仕事を始めました。パートの仕事に出れば、娘がいつ起きて、いつ高校に行こうと、高校を休もうと、娘を見ることはありません。全て娘に任せることになります。母親が娘に「学校に行くな」というと(娘に学校に行かなくて良いという逃げ道を作っている)とても怒りますが、それ以外の時はとても母親に優しいです。最近は家事も手伝ってくれるようになりました。

 母親は娘にするべき事を全てしています。後は娘がどのように生きようとするのか、どのように学校とつきあおうとするのか、娘の判断を待ち、娘の判断を尊重することになります。娘の要求を100%満たして、それ以上も、それ以下もしようとしない母親の姿はその娘の判断や行動を後追いしていることになります。娘の判断を後追いする母親の姿が娘の心を元気にしていきます。娘自身が学校の問題を解決してくれます。なぜなら娘が一番納得する生き方を求めようとするからです。

 心が元気な子どもには親が先回りをして、子どもを親が思う方向へ導くことができます。心が辛い子どもは親の先回りをした対応でトラウマを帯びて辛くなっています。親の先回りを拒否します。先回りをする親を拒否します。心が辛い子どもはその子どもなりに成長をしようとします。その子どもなりに成長をしようとして、助けが必要なときには後から着いてきた親に助けを求めて、問題を解決しようとします。心が辛い子どもは、先回りする親を、一緒に歩む親を求めていません。後から着いて来て、いざとなったら助けてくれる親を求めています。

子どもの心に寄り添って(26) 2011.4.8

登園拒否

 幼稚園に入園した子どもについてです。幼稚園に行き渋るし、母親と別れるときには泣いて母親から離れようとはしません。園長先生は「これは初まったばかりの不安からくるものだから、無理をしてでも登園させ続けて、早く慣れさせた方がいい」と言います。「泣いても頑張って連れて来て下さい。その内に泣かなくなりますから」と言います。「二年間泣き続けた子もいる」と保育士さんは言ってます。これほど子どもが嫌がっているのに、幼稚園に入れる意味があるのでしょうか?

 ある母親からの質問です。このお子さんの心は、同年代の子どもの集団生活に順応できるだけ心が成長していません。心が同年代の子どもの集団に順応できるようになると、子どもは本能として子どもの集団を求めますから、それまで待ってあげる必要があります。

 子どもを幼稚園での集団生活に慣れさせるために、子どもが嫌がっても幼稚園に連れて行くべきと園長や保育士は考えています。子どもが幼稚園に慣れるためには、幼稚園が楽しくなければなりません。しかしこの子どもは泣くことで、幼稚園が楽しくないから嫌だと表現しています。今のままですとますます幼稚園が嫌になり、幼稚園生活に慣れるようにはなりません。幼稚園にいてもよい子を演じているだけです。

 この子どもを今の心の状態で無理矢理に子どもの集団に入れますと、子どもの集団や幼稚園に辛さを生じる条件刺激を学習してしまいます。そうすると、小学校に行きづらくなります。子どもの将来を失ってしまいます。多くの親は子どもが相当の年齢になると、幼稚園に行かせるのが当たり前と考えています。幼稚園がこの子どもの一生に意味がないばかりか、この子に害になるようだと、幼稚園に行かない方がよいです。

 後程もらったメールには、「幼稚園に通ってた頃は毎晩夜泣きしたり、今までしていなかったおねしょをしていましたが、幼稚園に行かなくなったらすっかり以前の子どもに戻って、家で元気に過ごしています。」と書いてありました。この子が自分から幼稚園に行きたいと言うまで待ってあげる積もりだと母親は言っています。

子育ての中で 2011.4.19

 私は子どもの将来を考えて、子どもを躾し、勉強ができる環境を整え、勉強をするように叱咤激励をしてきました。それが親としてやらねばならないことだと意識的に、無意識的に、努力してきました。親として私はそれを上手にしてきたと思っていました。私の自慢の子どもは他の親からうらやましがられるようなしっかりとした性格で、学業もトップクラスでした。その子どもが突然学校に行かなくなって、荒れ出したのですから、私は何がなんだか全く分からなくなりました。子どもを学校に行かそうとすればするほど、子どもは気が狂ったように荒れて、私に向かって殴りかかってきました。

 子どもが怒鳴り、ガラスを割り、壁に穴を開けて、手をつけられなくなりました。荒れただけでなく、私に向かってあまりに酷く殴りかかってきたときには、警察を呼ぼうかと悩んだことが何回もありました。警察を利用して無理矢理に子どもを病院に入院させようかと思ったことが何回もありました。しかし本能的に今それをしたら取り返しがつかないことになると私には思えたので、実行をしませんでした。私は何度も殴られたり、蹴飛ばされたりしましたが、我慢をし続けました。今していることが何か違う。私がしてきたことが何か違うと感じたので、ある相談機関と相談を始めました。

 子どもが高校生年齢になりました。私の気持ちがおかしくなりそうでしたが、どうにか耐え切れました。おかげで子どもは警察のお世話になることもなく、何の病名もつきませんでした。息子が落ち着いてきた今でも、息子の将来を考えると、とてつもない不安に襲われるときが、正直言ってあります。

 何かにつけて子どもは母親である私に頼ります。父親や姉妹を拒否して、徹底的に避けています。以前は父親を「あいつ」と言っていましたし、以前は姉妹を非難するようなことを言って、私を責めましたが、それはほとんど無くなりました。最近は「とうちゃん」とか「姉ちゃん」とか言うようになりました。

 「今僕は勉強をしない。学校にも行かない。将来はプログラマーになる」と言っています。私が「家でゆっくり、コンピューターの勉強をして入ればいいよ。」と言うと、「それは僕が決める。」と明るい表情で言っています。最近は身の回りのことも私に頼らないで自分でするようになりました。風呂にも入るようになりましたし、歯磨きもするようになりました。我が子の友達は学校生活で頑張っているでしょうが、私は、我が子の我が子なりの成長を感じてきています。今まで感じることの無かった喜びを私は感じています。

 多くの親や大人は子育てとは、「子どもの好ましくないところを矯正し、叱咤激励し、親や大人の考えを押し付け、子どもを自分の好みに変えていくのが子育て」だと考えています。私も我が子が不登校になり、荒れるまでは、そのように考えていました。しかし今、「子育てとは、ありのままの子どもの姿をそれでよいと認め、何年も何年も、成長を信じて待ち続ける」それが本当の意味での子育てだと分かりました。

小猿の学習 2011.4.26

 ある雑誌にアフリカでチンパンジーと50年間一緒に過ごした女性の話が出ていました。その話の中で、チンパンジーたちが女性に警戒をしなくなると、子猿がこの女性に強い興味を持ってきたことが書いてありました。母親が女性に未だ警戒心を持っていても、小猿は女性に近づき、女性に触れ、その触れた自分の指の臭いを嗅ぎました。そのようなやり方が小猿の学習法だと書いてありました。つまり小猿は自分から積極的に、可能な限り五感を用いて、学習を重ねている姿を見られます。

 日本が未だ貧しかった頃、幼い子ども達は自然の中の遊びの中で全ての五感を用いて、自分の身の回りのことを学習していました。母親も子ども達が目の届かないところで遊んでいても、それを許していました。子どもが多かったことと、許さないと母親は家事ができなくなったからとも考えられます。

 現在の日本では幼い子ども達が本やテレビなどの映像から学習しています。主として視覚と聴覚から学習していますから、効率的に多くの概念的な知識を持つようになっているけれど、実態とは異なった概念を作り上げている場合があります。全ての五感を用いていないので、その分感動も少ないのではないかと考えられます。

繭籠もり 2011.5.9

 現在の社会常識から言うなら、引きこもりは好ましくないと考えられています。引きこもりを止めさせて、子どもを社会に引き出す方法が考えられて、行われています。引きこもりの子ども達へ、子ども達の立場から対応している私達が感じることは、引きこもりは子ども達自身を守る必要な状態だと分かります。

 見た目には現実から逃避して、ゲームなどの享楽に興じている子どもの姿は好ましくないと感じられます。多くの大人は嘆かわしいと感じます。心が辛い子どもの立場から言うなら、常識的な大人達には分かりづらいけれど、子ども達は辛い心を癒して、社会に出て行く準備をしています。引き籠もって安心して辛い心を癒せれば、子どもは必ず引き籠もりを止めて社会へと羽ばたいていきます。

 引きこもりと言うより繭籠もりと言って欲しいです。引き籠もる子ども達はちょうど繭の中で暖かい春を待っている蛹のようだからです。蛹は繭の中で寒くて辛い冬から自分を守っています。繭の中に籠もって、成虫になる準備をして、羽ばたける春を待っています。

 引き籠もる子どもは家という繭の中で、自分の部屋という繭の中で、ゲームなどの大人が好まない姿ですが辛い心を癒して、引きこもりを止めたときに羽ばたけるようにとエネルギーを貯めています。ただ子どもにとっての春がいつ来るのかの判断は子どもにあって、親にあるのではないです。無理矢理に繭から引き出された子どもは蛹と同じように心が死んでしまうのです。

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