フリースペース「したいなぁ〜松戸」&松戸−登校拒否を考える会「ひまわり会」
ホーム代表者と顧問医師のコラム

子どもの成長は順応の過程 2010.1.6

 現在、多くの親は自分の子どもが無事に成長をして、幸せな大人になって欲しいと思っています。社会的にも、経済的にも自立した大人になってくれるようにと願っています。そのために子どもはいっぱい勉強をして、良い学校に入って、有利な就職をして欲しいと願っています。

 学校の方でも、子どもが好む好まざるに関わらず、カリキュラムに沿ってどんどん授業を進めていきます。テストで子どもの学力を測ろうとします。そこには必然的に競争を生じています。

 学校内で子どもは管理の対象になっています。子どもらしく学校生活を送るという建前になっていますが、実際は大人が決めた規則に縛られて、その中での子どもとしての自由しかありません。

 大人は競争社会で勝つための準備だと言います。社会生活をするための規則を学ぶためだと言います。子どもの中には、言葉で、一生懸命勉強をして、良い学校に入りたいと言う子どもがいます。しかしそれは子どもの本心からの言葉ではないはずです。親や教師の言葉を受け売りしているだけです。なぜなら、子どもは勉強をする意味、受験をする意味を知らないからです。大人となって出て行く社会の実態を知らないからです。当然一生懸命勉強をするという意味も知りません。子どもの姿は親や大人から求められたことを、その子どもなりに一生懸命実行しているだけです。

 子どもは、大人にはない、子どもだけが持っている本能として、その時その子どもを取り巻く環境に一生懸命順応しようとしているだけだからです。大人が競争を求めているから、その大人に順応するために、競争を始めているだけであり、子どもの本心から競争を求めているのではないです。

 子どもはその本能から、子どもの周囲と仲良くして、一生懸命色々な情報を吸収しようとします。決して競争を求めているのではないです。決して逸脱した行動をしようとはしていないのです。ただ、知識が少ないために、経験が少ないために、失敗をすることがあります。現在の大人は子どものこの失敗を許そうとしないのです。この事実を知っている大人は今のところいないようです。

子どもの心を正しく理解する 2010.1.15

 正しいという言葉は魔物です。子どもの心を正しく理解したと思っても、子どもを観察している人が、その人の経験から正しいと思っただけです。その正しいと思ったことに共感する人が多くいても、現実には子どもの心について、正しさを証明する方法がないです。子どもの心には正しさなど無いと考えた方が間違いがないかも知れません。

 子どもの心はこうなっているとか、子どもとはこうあるべきと言う大人の考え方は、大人の希望的な観測であり、一部の子どもに当てはまりますが、全ての子どもに当てはまりません。正しいという概念で子どもの心を見たときには大失敗をしますし、一人一人の子どもの心を理解できません。子どもへの対応で子どもが苦しむようになります。

 子どもは自分の心で成長し、自分の心も成長させていきます。子どもの心は子どもが置かれている環境で千差万別です。子どもへの対応を行うときには、子ども一人一人の心に沿った対応が必要です。子ども一人一人の心に沿った対応は、ある子どもの心に沿った対応でも、他の子どもには好ましくない場合があります。

 子どもの心に沿った対応は、その時々の子どもの心の動きを推測して行います。子どもの心に沿っているかどうか、子どもの反応(表情や行動)から判断します。言葉も子どもの心を反映している場合もありますが、多くは子どもの知的な理解を表現しているだけです。子どもへの対応で、その子どもが元気になってくれば、その子どもの心に沿った対応であろうと思われます。その子どもへの好ましい対応になります。

 子どもへの対応が好ましいかどうか(対応が子どもの心に沿っていなくても、子どもの方でその対応を受け入れられるかどうか)、対応をする人によってその許容範囲が大きく違います。その許容範囲は、子どもの母親が一番大きくて、その他の人にはとても厳格です。学校の先生について一見子どもの許容範囲が大きいのは、子どもが先生の後ろにいる母親に無意識に反応しているからです。

 学校で問題行動を起こす子どもには、その子どもの母親が母親の機能を果たしていません(学校で辛くなった子どもの心を、母親が癒そうとはしていないという意味です)。その子どもは先生の後ろの母親を配慮していません。ですから担任にとても厳しいです。とても強く反応して、無意識に問題行動を起こしてしまいます。一方で、その子どもは自分の辛い心を何かで癒そうとします。その子どもの辛い心を癒そうとする行動が、大人が正しいと思っている対応で否定されると、その子どもは益々辛くなり、問題行動を強めたり、病気の症状を出したりします。

 ある小学校で子どもが荒れて、授業が成り立たなくなりました。学校は男の先生が荒れる子どもを力で押さえつけたり、親が学校に来て子どもを監視するという方法を採りました。それで一見子どもは大人しくなったように見えましたが、男の先生がいないとき、親がいないとき、その子どもはより一層荒れてしまいました。そこで担任は教室の一角を区切って、その子どもが自由に過ごせられる場所を作りました。子どもが荒れ出したら、その子どもをその場所に導いて、そこでその子どもが自由に過ごせるようにしました。それだけで根本的な解決には成りませんが、少なくともその子どもの荒れ方が減って、授業ができるようになりました。

 子どもの心について、正しいと考えられる物は生物学的な心、脳の機能を科学的に解析した事実だけでしょう。どの子どもにも共通して言える正しさとは、子どもが持つ本能、本能に含まれるかも知れませんが、嫌悪刺激に対する神経学的な反応の仕方だけでしょう。今の心理学や精神医学はこの脳の機能に基づく正しさを認めないで、大人の思いを子どもに押しつけていますから、子どもの心の問題が解決しないのです。

休み時間 2010.1.27

 学校の先生方は認めないでしょうし、理解しないでしょうが、授業中の多くの子ども達は”よい子”を演じています。良い子とは、普段の素直な子どもの姿とは違って、相手の期待する姿に自分を合わせて行動する姿です。授業を楽しんでいる子どもは普段の素直な自分で反応し行動しますが、多くの子ども達は先生から良い評価を得るためによい子を演じています。心が辛い子どもで、よい子を演じる余裕がない子どもは、授業中でも問題行動を起こします。一般的に先生や親が希望する姿の逆をすることが多いです。

 心が元気な子どもはよい子を演じることで、ますますその子どもの能力を高めてくれます。心が辛い子どもはよい子を演じることで、とても無理をしています。大人にはその様に見えないでしょうが、ぎりぎりまでよい子を演じ続けています。そして休み時間や放課後に、その子どもなりの楽しみに耽って、その無理を取り返そうとします。

 休み時間や放課後に、子ども達は先生方から評価されません。子ども達は評価されない時間時に、素直な子ども達の姿で生活しようとします。素直な姿でその子どもなりに休み時間を過ごせたなら、子どもは意欲的に授業に参加できます。他の子どもにもとても優しいです。休み時間は子ども達が学校の中で素直に本心から過ごしている時間です。子どもの本当の姿を知る絶好の時間です。

 今の学校で子ども達はとても多くのことを要求され、その結果を評価されています。授業中によい子を演じなければならないから、心に余裕がない子ども達が多いです。学校としてはとても許さないでしょうが、今の学校では、子ども達が素直に過ごせて、子ども達が素直な自分を取り戻せる時間がもっともっと必要なのです。子ども達は評価されることで、よい子を演じてしまいます。それは先生のためでなくて、先生の後ろにいる母親のためです。

 心の元気な子どもはよい子を演じることで、自分の能力を伸ばすことができます。心が辛い子どもは自分を守るためによい子を演じます。よい子を演じ続けられている間は、心が元気な子どもと心が辛い子どもとを区別することは不可能に近いです。そしてよい子を演じなくて良くなる時間に、問題行動を起こすことが多いです。

 先生達は授業中の子ども達の姿を見て、子ども達の心を判断しています。先生達の見ている子ども達は、良いにつけ悪いにつけ、よい子を演じている姿です。先生方は子ども達がよい子を演じている姿を見て、子ども達の本当の姿を理解していると信じているのです。先生達が子どもの本当の姿を知りたければ、休み時間の子ども達の姿を、先生なりの評価をしないで、見ている必要があります。

学校で問題行動をする子ども(1) 2010.2.9

 教室で暴れたり、授業に参加しなかったり、授業を妨害したり、他の子どもの物を取ったりなどの、問題行動をする子どもについて考えてみます。殆ど全ての教師達や大人達は、子どもが学校で問題行動をするのは、親が子どもを甘やかしすぎているとか、家が貧しくて日々の生活で精一杯だから子どもの躾まで手が回らないとか、夫婦関係が悪くて子どもに悪影響を及ぼしているとか、家庭での子育てに問題があると考えます。子育てができていないから、子どもが学校で問題行動をしてしまうと考えます。問題行動をする子どもについて、家庭の問題を最優先に解決する必要があると考えます。家庭の問題が解決しないなら、子どもの問題は解決しないと考えます。しかし実際には、学校生活が楽しい子どもは家庭に問題があっても、その問題をその子どもなりに解決して、元気で成長をしていきます。学校内で問題行動をしません。

 授業中歩き回ったり、大声を上げたり、物を壊したりする子どもは、学校内での生活が辛いから、このような問題行動をしてしまいます。多くの子どもは学校内で辛いものがあっても、その辛さを家に帰って母親に癒されるから、学校内で問題行動を取るようになりません。学校内で問題行動をする子どもの問題を解決したいなら、第一に子どもにとって学校を楽しくしなければなりません。第二に子どもの母親に、その子どもの辛い心を癒す機能を呼び起こさせる必要があります。

 学校を楽しくすると言っても、教師や多くの大人は、今の学校が問題だと考えていません。教師は子ども達のために一生懸命働いています。学校が子どもを苦しめるはずがないと考えています。教師達は悪くない、学校も悪くない、だから問題行動をする子ども自身が悪いと考えています。教師達に都合の良い子ども達を尊重して、教育の成果を宣伝して、都合の悪い子ども達を力で押さえ、卒業まで外見上問題な事が無いようにと力で子ども達を押さえつけて、卒業という形で子ども達を学校から押し出します。

チックについて 2010.2.25

 チックとは、ピクピクっとした素早い体の一部が動くとき、その動きをチックと表現します。本人の意思とは関係なく生じ、多くは繰り返しおきてしまいます。多く見かけるチックとして瞬目があります。そのほかにも、肩をぴくっと動かす、頭や首をふる、顔をしかめる、口を曲げる、鼻をフンフンならす、などがあります。それらの動きを本人は意識していません。声や言葉のチックもあります。ため息、咳払い、言葉(多くは他人が嫌がるような)もあります。他人から止めさせようとすると、その時は止まりますが、その後換えって頻度や程度が強くなります。

 傾向として幼児からの子どもに多く見られます。不安、ストレス、緊張、心の葛藤などがきっかけでおきます。その原因がなくてチックを生じている子どもがいると言う人もいますが、私が経験する限り、全て何らかの不安、ストレス、緊張、葛藤から生じています。大人で見られるチックには、子ども時代のチックが習慣化していると理解される場合があります。

 多くの子どものチックは、精神的なストレスや緊張感から生じています。それも精神的なストレスや緊張感が、その子どもの耐え得る限界に近づいていることを示しています。その精神的なストレスや緊張感は、子どもが置かれている状態や子どもの心の状態で異なりますから、一時的にチックを生じたり、消失したりします。精神的なストレスや緊張感があるときに、一部の子どもがチックの形で、その精神的なストレスや緊張感を表現しています。

 チックを生じている子どもを、精神的なストレスや緊張感から守られないと、子どもはもっと強い神経症状や精神症状を出し、子どもとしての社会生活を営めなくなります。又強い神経症状や精神症状を出している子どもを元気にするには、大変に難しくなります。子どもの心を守り、成長をさせるためには、チックのでない対応や環境で、子どもを育てる必要があります。

 子どものチックを薬を含めて医療で解決しようとする人が多いです。それは一時的にチックを無くすせますが、その後強いチックや、神経症状、精神症状を出すようになります。子どもがチックを生じるにはチックを生じるだけの、子どもの心が辛くなっているという原因があります。その原因を薬や医療では解決できないからです。それどころか薬や医療でチックが隠されている間に、子どもの心の辛さが益々高じてしまって、強いチックや、神経症状、精神症状を出すようになってしまうからです。 

 強いチックや神経症錠、精神症状を子どもが出すようになると、子どもが精神的なストレスや緊張感からチックを出していたことは無視されて、精神疾患として医療の対象となり、薬を投与し続けられ、精神病者として生きていかなければならなくなります。

 このチックに関する理解は医学常識に反しています。チックに関する医学常識には科学的な根拠がありません。チックに関する脳科学的な理解をすると、私のような結論になります。

学校で問題行動をする子ども(2) 2010.3.8

 子どもの心から言うなら、学業で競わされているという今の学校教育のあり方が、教師が授業を優先する学級運営の仕方が、子ども達を苦しめています。この学校や教師のあり方が子ども達を苦しめている事実は昔からあったのですが、昔は子ども達が学校から離れた時に、その学校での辛さを解消する方法がありました。学校が終わると子ども達は自由にその子どもなりに、学校の辛さを解消して、又翌日学校に行けたのです。

 ところが現在の子ども達は学校を終えても大人によって管理されていて、学校の辛さを解消する方法を持っていません。その結果、大人は気づかないけれど、苦しくなった子ども達が他の子ども達に学校でいじわるをするいう事実があります。大人から見たらとても虐めだとは感じられなくても、既に心が辛くなった子どもは、他の子どもから受けた意地悪を虐めだと感じて反応しまいます。

 この学校内の問題を、学校を終えてからの問題を解決する政策が、日本ではなされていません。教師も気づいていないから、学校内で学校を楽しくする様な対応(一部の教師は気付いていて、授業を工夫して楽しくしようとする試みがなされている)は行われようとはしていません。多くの親も子ども達が学校で辛い思いをしている事実に気付いていません。

 親は子どものために、子どもの成績を上げようとして一生懸命ですから、子ども達は家でも辛さを解消できないばかりか、家でも辛さを強めていく場合もあります。翌日学校に行ったとき、既に辛さに敏感になっていますから、学校内での辛さ、同級生から受けるいじわるに、子どもはとても辛く成りやすくなっています。学校に行き渋ったり、学校で意地悪をするようになります。

 子どもが学校で辛くて耐えきれなく成ったとき、子ども達の中には学校内で暴れたり、授業を妨害するような、問題行動をする子どもが出てきます。このような子どもは問題行動をするようになる前に、母親の所に逃げて、辛い子どもの心を癒すようにすることが必要です。母親が逃げてきた子どもを抱きしめて、「辛かったね、よくここに逃げてきてくれたね」と言って頬ずりをしてあげて、子どもの好きなことをさせてあげる必要があります。可能な限り、母親の側で子どものわがままをさせてあげると良いです。子どもが辛さを表現しているときには、教育だ、躾だというようなことを、母親を考えてはいけません。教育や躾は子どもが元気になったら、子どもが自分でつけていきます。

 子どもが学校で問題行動を起こしたとき、常識的には教師が子どもを叱ります。しかし子どもは辛さを問題行動で表現していたのですから、その辛さの表現を力で禁止されると、子どもはかえって問題行動を強めます。問題行動をした子どもは精一杯自分を維持しようとしていて、耐えきれなくなって問題行動をしたのですから、叱られるとますます子どもは辛くなり問題行動を強めてしまうのです。

 今の子ども達は学校で心が辛く成りやすい事実を理解する必要があります。学校では子どもの心が辛くならないような教育の仕方が必要です。家庭では学校で辛くなった子どもの心を癒す対応が必要です。教師は教育に一生懸命で、子どもが学校で辛くなっているという事実を理解しようとしないから、叱ることで子どもの問題行動を解決しようとすると、ますます子ども達は問題行動を起こすようになります。

 その際に、未だよい子を演じられる子どもは、叱った教師の前ではよい子を演じて教師の指示を受け入れたように振る舞います。よい子を演じる限界に来た子どもは、叱った教師に向かって荒れてしまいます。

 子どもが学校内で問題行動を起こしたとき、子どもを叱らないと、子どもの問題行動が習慣化します。ですから母親以外の大人は問題行動を起こした子どもを叱る必要があります。母親は母親であること自体が子どもにとって喜びですから、必要以上に子どもを叱らない限り、母親の持つ感性で子どもへの対応が可能です。

 母親以外の大人は問題行動をした子どもを現場から隔離して、隔離した場所で子どもが辛かったことに共感してスキンシップをする必要があります。まず辛かった子どもの心を癒しておいて、その後問題点を指摘します。そうして子どもを辛くない状態で、問題点を認識させる必要があります。

 学校で問題行動を起こした子どもも、母親から癒されたい、認められたいと願っています。しかし家で母親から癒されていないから、学校で辛さに過敏に反応しています。現在の母親は子どもが学校で辛い思いをしている事実を感じ取って、子どもの辛い心を癒すようにしなければ成りません。子どもが学校に行っている限り、母親は家庭での教育よりも子どもの心を癒すことを優先させる必要があります。

 この事実をふまえて、学校で問題行動を起こす子どもを、普段から積極的に癒して、認めていく必要が、子どもの周囲の大人にはあります。それをどうやって子どもに与えるか、それは子どもによって、周囲の大人の立場によって異なります。大人の方でその大人なりの工夫が必要です。

子どもの心に寄り添って(1) 2010.3.18

 「自分の部屋の中に籠り、何かと暴力を振るい、物を壊すのは、子どもが辛いからだとわかった。だから学校に行かない子どもを認めている。けれど、子どもに話しかけてもきつい表情で睨んでくる。楽しそうで、元気に遊んでいた子どもはどうしちゃったの?辛さをなぜ解決できない弱い子どもに育てたつもりはないのに。私は精一杯子どもに寄り添ってきた。限界です。子どもも辛いでしょうが、私もとても辛いです。」

 これはある母親の叫びです。母親は子ども思いで、一生懸命子どもを守ってきました。学校に行きたいと言いながら、辛そうにしている子どもを救うために、学校に行けない原因を探し求めました。いろいろな施設に相談に行きました。親の会にも参加しました。子どもが辛くなった原因がわかったので、学校と相談して解決を図りました。しかし子どもは依然として辛そうにし続けています。母親もどうして良いのか分からないで、苦しみもだえています。

 母親は子どもに寄り添うことで、子どもを学校に行かさない対応が好ましいことを理解しました。それまでは、子どもの心にも寄り添うために、初めは子どもが言葉で学校に行きたいと言っているから、その希望を叶えようとしました。ところが、子どもが学校に行きたいという言葉は、子どもが知識を表現しただけです。大人と違って、子どもの場合、言葉に沿って対応をすると、子どもの知識を満足させるだけで、子どもの本心に沿ったことには成りません。

 子どもがいろいろな辛さを表現しているのは、子どもの本心です。本心は潜在意識にありますから、子どもには分かりません。子どもが辛そうにしているのは、子どもの本心に沿った対応がなされていないからです。子どもはその辛さを、自分を辛くする人にぶつけてきます。自分が子どもの母親だから、子どもがその辛さを母親にぶつけてきていると考えていますが、子どもは無意識に母親の対応が悪いと、母親に辛さをぶつけています。母親が子どものためにしている対応は、学校の問題を解決して、子どもが学校へ行かれるようにしていました。その母親の対応が違うよと、子どもはサインを送っていました。

子どもの心に寄り添って(2) 2010.3.25

 「担任はとても熱心な先生です。週に一度は電話をしてきて、子どもの様子を聞いてくれます。プリントもその都度郵送してくれたり、同級生に持たしてくれます。忙しい時間を割いて、母親の話も聞いてくれます。学校内での問題も解決してくれました。けれど子どもは絶対に先生に会おうとはしません。同級生が来たら仲良く遊んだりしますが、その後酷く荒れました。母親に向かって暴力も振るいました。学校からの印刷物を見ようともしません。」

 潜在意識にある子どもの本心は、学校を意識したり見たりすると、どこからと無く辛さが湧き上がってきて、辛さに苦しみます。怒りになったりもします。学校ばかりでなく学校に関連した、先生、友達、勉強、学校からの印刷物などでも、子どもは辛くなり、怒りを表現します。子どもの性格が変化したとも表現できます。この事実は常識に反します。他の子どもでは経験しない、この子ども特有の性格の変化に気付かない限り、この子どもの本心に寄り添ったことになりません。

 母親には子どもが心の病気でないかと感じられるようになりました。今の内に治療して子どもが学校に行くようになることを期待しています。最初だけ子どもは母親と一緒に病院に行ってくれましたが、それ以後はどうしても行こうとはしません。母親だけが様子を説明して、薬をもらってきて、子どもに飲ませています。子どもは夜眠るために、薬を飲んでいます。

 「学校には行かなければならない」という知識が子どもにはしっかりと植え付けられています。ことある毎に子どもは「学校には行かなければならない」という知識を思い出して、その知識に本心が反応して辛くなっています。しかし子どもにはなぜ自分が辛くなるのか分かりません。自分の辛さを少しでも解消しようとして、薬を飲もうとします。

 学校を意識すると辛い子どもは、夜になると学校を忘れられて、とても楽になります。頭が冴えて夜更かしをします。けれど子どもには、「昼間起きて、夜眠らなくてはならない」という知識が強く植え付けられています。親も昼夜逆転を嫌いますから、子どもは薬を飲むようになります。薬を飲み症状が軽くなることで、親は安心します。子どもの問題が解決していくと思います。けれど子どもは登校刺激を受け続けていますから、脳内の辛さを生じる反応が強まって、気付いたときには取り返しの付かない状態になっている場合があります。

子どもの心に寄り添って(3) 2010.4.1

 不登校を説明するのに、いろいろなことに例える場合があります。例えば学校で疲れたから一休みするためなどです。不登校を何かに例えることで、当面学校を休むという説明にはなっても、その後の対応には好ましくないです。子どもの潜在意識にある本心を説明していないからです。不登校の子どもの本心は何かの例えで説明できる物ではないからです。

 「不登校は、誰にでも起こり得る」と文科省が言っています。「誰にでも」と言うからには、不登校になった子どもに原因がないという意味と、どの子どもにも不登校になる原因があるという意味と、二つの意味があります。

 不登校になった子どもに原因がないという意味なら、昔の学校と違って、今の学校に子ども達が不登校になる原因があるという意味になります。不登校が子どもの問題行動なら、不登校が今の社会問題なら、今の学校のあり方が間違っているという意味になります。

 どの子どもにも不登校になる原因があるという意味なら、今の子どもは不登校がなかった頃の子どもと違っているという意味になります。その違いが何であれ、昔と違う今の子どもには、昔ながらの教育が行われている、今の学校が今の子どもに合っていないという意味にもなります。

 子ども達は楽しさと未知の事柄を知る喜びを求めて学校に行っています。しかし今の学校の多くは、子ども達に競争を求め、教師への隷従を求め、失敗を許しません。「学校は楽しい」と言葉で子ども達は表現しますが、多くの子ども達は学校で息が詰まる思いをしています。

 特に子ども達の間での競争は、子ども達から子どもらしさを奪ってしまっています。どんどん勝ち抜いていける子どもは恩恵を受けます。勝ち抜けない子どもは相手を蹴落として勝ち抜こうとします。蹴落とされる子どもは辛く成りすぎて、学校に行けなくなります。どうしても勝てない子どもは周囲から否定されて、意欲を失い、学校で問題行動をするようになります。その問題行動の被害者も学校に行けなくなります。

 昔も子ども達の間に競争が有りました。あってもそれは一部の子ども達の間だけでした。中学卒業で社会に出て行く子ども、高校卒業で社会に出て行く子どもが多くて、大学の狭き門を争う子どもは一部だけでした。その競争に負けても社会に出て行けました。しかし今のどの子どもも幼稚園の内から、小学校の内から、中学校の内から、競い合わなくてはならないのです。負けることを許されないのです。子ども達が激しく競い合う(競い合わされていると表現する方が正しいです)限り、どの子どもにも不登校になる可能性があるのです。

子どもの心に寄り添って(4) 2010.4.9

 不登校、引きこもりの子どもが成長して、元気になり、社会に出て行けた人についてです。その人が不登校の会などに呼ばれて、自分の経験談をする場合があります。その際に、会うと自分が辛くなった人を含めて、人との関わりがだんだんできてきて、自分が元気になれたと言う人がいます。会うと自分が苦しくなった人を含めて、人との関わりが自分を元気にしたと説明する人がいます。

 常識的にはその様に説明すると、学校の先生や自分に関わってくれた人の必要性を説明するのに、とてもわかりやすいでしょう。それは今心が元気になって、大人の心から過去を振り返って言えている言葉です。引きこもっていて辛かった時期には、とても人との関わりができなかったはずです。引きこもりの子どもが人との関わりができるようになったのは、それだけ心が元気になっていたからです。心が元気になっていないと、引きこもりの子どもは人との関わりができないです。

 心が元気になると、自分を辛くしない人と関わるようになれます。その関わった人から支えられてより元気が出るようになります。心がより元気になると、自分を辛くしていた人ですら関わられるようになります。自分が周りの人から支えられていると認識できるようになります。心が元気になる良い循環に入ります。その心が元気になる循環の出発点は、まず引きこもりの子どもの心が元気になることであり、人と関わることではないです。

 引きこもりの子どもが心が元気にならない内に人と関わろうとするとますます辛くなります。周りの人に辛さを感じ、怒りをぶつけるようになる場合もあります。ますます引きこもらなくてはならなくなります。ますます心の元気さを失います。辛さの悪循環になってしまいます。

子どもの心に寄り添って(5) 2010.4.21

 不登校の子どもを育てた経験のある親が、子どもから学んだこととして、「大人達が子どもの心の声を丁寧に聞き、子どもに寄り添う必要がある」と言いました。子どものあるがままの姿を認めた発言です。言葉では確かに子どものあるがままを認めようとしていますが、実際にどうしたらよいのかよく分かりません。子どもの心の声とは具体的に何を指しているのでしょうか?子どもが発した言葉なら、子どもの知識を表現した場合と、自分の姿や感情を認識して、その説明をしている場合があります。

 子どもの知識を表現した言葉なら、それは大人から与えられた知識ですから、子どもの本心を表現していません。大人の思いと同じですから、大人にはわかりやすいですから、子どもは良く分かってくれていると判断してしまいます。しかしその言葉に沿って対応をしたときにはますます子どもが苦しくなってしまいます。

 子どもが自分の姿や感情を認識してその説明をしている場合には、かなり子どもの本心を表現しています。しかし子どもの本心は潜在意識にあるので、子ども自身も自分の本心がわかりません。また、子どもの認識の仕方も、大人から与えられた知識を利用している場合が多いですから、子どもの本心と異なっている場合が多いです。素直に自分を認識して表現している場合は少ないです。たまたま子どもが素直に自分の本心を認識して表現している場合、その言葉に沿った対応を大人がすることで、子どもが元気になる場合があります。

 このように大人が子どもの心の声を丁寧に聞いたつもりであっても、実際の子どもの言葉は子どもの本心を表現していない場合が多いです。子どもの言葉を子どもの心の声と考えて対応をすると、ますます子どもを苦しめてしまう場合が多いです。子どもの方では子どもの言葉を信じて大人に寄り添われても、その大人を拒否せざるを得なくなります。

子どもの心に寄り添って(6) 2010.4.21

 多くの人は未だ気付いていないけれど、不登校の子どもは学校や学校に関する物、先生や友達、勉強、勉強道具、学校からの印刷物などに反応して辛くなります。この事実に気付けば、不登校の子どもに登校刺激をしたり、学校を連想する様な場所、例えば学校内の保健室、校長室、図書館、空き教室や、学校外でも適応指導教室で、不登校の子どもが辛くなる事実が理解できると思います。これらで不登校の子どもが辛くなれば、不登校問題の解決を遅らせてします。

 この事実は不登校の子ども全てに当てはまります。それでいて不登校の子どもが保健室や適応指導教室に行くのは、その所まで子どもが辛さに耐えて、無理をして行っているからです。それだけその子どもは未だ無理が効くという意味にも成ります。それだけ無理が効くなら、その無理をさせないで、子どもが元気になるように子どものエネルギーを使った方が、遙かに得になります。

 担任が不登校の子どもの問題を解決しようとして、一生懸命不登校の子どもに関わろうとする場合がよく見かけられます。それは先生の義務感から、先生の優しさから、先生は一生懸命に対応しようとします。又周囲の大人もその様な先生の姿を良い先生であると、教育熱心な先生であると、褒め称えます。

 上述のように、不登校の子どもは学校や学校に関する物に反応して、とても辛くなって拒否をしてしまいます。先生は不登校の子どもを辛くします。いくら先生が子どものためを思っていても、いくら先生が優しく振る舞っても、先生がなさる対応から得られる喜びを打ち消して、辛さから子どもは苦しむようになります。ただ、先生の前で不登校の子どもはよい子を演じてしまう場合がありますから、先生には子どもが苦しんでいると理解できない場合が多いです。

 大人が不登校の子どもへ対応をするとき、子どもが先生を意識したときには逆効果になります。子どもが大人に先生というイメージを持ったときには、それだけでどのような物でも打ち消すことのできない辛さを、子どもは感じてしまいます。不登校の子どもへ対応をする大人は、少なくとも子どもに先生をイメージさせない大人でなければなりません。基本的に学校の先生は、不登校の子どもへ近づいてはいけない、どのような対応もしてはならないことになります。

子どもの心に寄り添って(7) 2010.5.4

 ある講演で、講師が「高校生の学習意欲の低下、自己肯定感がない、鬱状態の子どもの増加など、高校生の心の闇はどこから来るのだろうか」と問題を提起しました。その講師は世界的な経済危機だから、子育てに使うお金がないと言っていました。それは全く関係ないとは言えないけれど、今の日本ではもっと違う観点から、高校生を見ておく必要があります。

 高校生の学習意欲の低下も自己肯定感がないのも、程度の差はあっても鬱状態の子どもが増えたという事実に集約されます。高校生が程度の差はあっても鬱状態になっているから、学習意欲が出てきません。親や先生から高校生はこうあるべきという知識をたたき込まれています。しかし現実の高校生は程度の差はあってもそれとはかけ離れた自分を認識します。その結果、心(情動)が葛藤状態に陥って、益々鬱状態に陥ってしまいます。

 現実の多くの高校生は、高校に属さない生き方を求めません。高校に属さない生き方が大変に辛い生き方なのを、子ども達は知っています。いろいろな縛りがあるけれど、高校に属している限り親も社会も、自分の存在を一応認めてくれます。親も子どもが高校に行っている限り安心しています。子どもは親から不要なストレス刺激を受けなくて済みます。体だけ高校に運んでいれば一応何もかも丸く収まり、楽だからです。教育システムの流れに身を任せているのです。

 教育システムの流れの中で、勉強やクラブ活動などの高校生活に喜びを感じた子どもは、生き生きとした高校生活を送ります。高校生活に喜びを見つけられなかった子どもは、学校からの縛り(校則や威圧的な教師、わからない勉強、テストなど)に苦しみながら、何かでその苦しみを刹那的に発散して、高校卒業を待っています。将来に何の希望もなく(言葉で希望を表現する子どもがいますが、それはその子どもが持っている知識を表現しているだけです。親や大人達はその言葉を子どもの本心だと信じて、子どもの高い夢を褒め称えます)高校を卒業して次の大学に進むための、一つの段階にしかすぎません。 

 ある割合の高校生が程度はあっても鬱状態なのは、既に経てきた中学時代、もっと前の小学時代にどのような成長をしてきたか、その成長の仕方が影響をしています。小、中学校時代の義務教育に、子ども達は学校で勉強をしなくてはならないと、高校や大学に行かなくてはならないと教え込まれています。高校や大学に行かない生き方を考えることすらできません。学校に何が有ろうと、病気以外では学校を休んではいけないと教え込まれています。子ども達はどんなに辛くても、学校を休む選択が許されていないと信じ込んでいます。

 学校内では学級運営、校則が優先されて、子ども達の子どもらしい思いや喜びが大きく制限されています。多くの子どもは自分たちの思いに反して、教科書の内容を覚えることを要求されて、テストで評価されて、馬車馬のように尻をたたかれ競わされます。その様な学校生活をうまく乗り切れた子どもはよいのですが、乗り切れない子どもは学校生活の辛さから、元気を失っていきます。子ども達の見かけとは違って、心は鬱状態に近づいていきます。

 学校が辛くても、子ども達はよい子を演じて、学校生活が楽しいように振る舞います。その子ども達の姿を見て、親や先生は、子ども達が順調に成長していると判断して、子ども達が苦しむ対応を止めようとしません。見かけと違って、小学校で元気を失っていた子どもは中学校でもっと元気を失います。小学校で元気な子どもでも、中学校で元気を失ってしまう子ども、これらの子どもが息も絶え絶えに高校生になっている場合が多いのです。

子どもの心に寄り添って(8) 2010.5.12

 行き届いた教育を求める運動をしている人たちがいます。行き届いた教育として、お金が無くて高校生活を続けられない例を挙げていました。では高校の授業料が出せると子どもは高校に行くのでしょうか?きっと行くと思います。高校に行く方が子どもにとって楽だからです。高校に行かない生き方は子どもにとって大変に辛い生き方(働いてお金を稼がなくてはならないから)だからです。

 では授業料を出してもらったら、高校に行ってどんどん勉強をしてくれるかというと、多くの子どもはそうではないと思います。ただ単に高校生活の流れに乗っているだけで、高校生活の流れに逆らわない程度に勉強をして、卒業を待っています。言葉ではいろいろと将来の希望を言いますが、それは大人の言葉の受け売り(知識)であり、子ども達は将来への展望をはっきりと持っていません。何も持っていないと言った方が正しいかも知れません。本心では何か分からない不安にさらされています。

 自分からどんどん勉強をするような子どもの中には、親から授業料を出してもらえなかったら、自分でアルバイトをして、稼いで授業料を捻出する子どもがいます。授業料を捻出できなくても、自分から積極的に社会に出て、社会勉強と自分が興味を持つ勉強をして、高校卒業認定試験を受ける子どももいます。高校生活の流れに乗って高校に通っている子ども以上の学力を持っているこどもも多いです。

 多くの大人は、子どもが中学校生活が楽しでいる、高校生活を楽しんでいると考えています。子どもが高校に行けないと可哀想と考えています。だから子どもを高校に行かそうとします。そのように考える大人に、「あなたは中学時代、高校時代、楽しかったですか?」と尋ねると、そこで始めて自分の中学時代、高校時代に辛かったことを思い出して、「子ども達は大変だ」と言い出す大人も多いです。

 これからの学校教育は、今までの学校教育と変わる必要があります。今までの学校教育は子どもに要求する教育です。子どもに要求するための授業が行われています。子ども達が要求に答えても、答えられなくても、時間が来たら、学校から押し出されています。それは教育する立場の人には好ましいでしょうが、教育される子どもには納得できない教育の仕方です。

 今後の学校教育では、子どもがその子どもなりに求めている物を見つけ出し、それを伸ばすための教育になる必要があります。その子どもなりに求めている物を伸ばす教育が行われると、子どもには具体的な希望が、目標がはっきりしてきて、子どもはその目標を達成するために、必要な勉強をするようになります。

子どもの心に寄り添って(9) 2010.5.24

 子どもが退屈そうにしていると、親は子どもに時間をもっと大切にして欲しいと思います。子どもが暇なら、退屈なら、何かすればよいと、親は思います。子どもがゲームやテレビ夢中になっていると、親はゲームばかりをしていないで、テレビばかりを見ていないで、もっと勉強をして欲しいと思います。

 子どもが退屈だ、ゲームやテレビも飽きてしまったと言う場合、その心の中は大人とは大きく違っています。大人はすることがないと、退屈そうにぼけーっとしていられます。ゲームやテレビで、何もやることのない時間を過ごすことができます。

 心が元気な子どもでは退屈な時間がありません。その子どもなりにやりたいことが、興味を引くことが、どんどん生じてきます。それに向かって絶えず動きます。心が元気な子どもがゲームやテレビに没頭しているときは、ゲームやテレビの中に、その子どもが求める物があるからです。その子どもなりに何か求める物をゲームやテレビから得ようとしています。大人で言う退屈ですることがないからゲームをしたり、テレビを見ているのではありません。心が元気な子どもが動きを止めるときは眠るときだけでしょう。

 心が辛い子どもでは、子どもにとって理由もなく湧き上がってくる辛さから、その辛さに耐えるために、何もできなくて、退屈そうに見えている場合があります。子どももなぜそうなるのかわからないで、大人の真似をして、子どもは言葉で退屈だ、暇だ、と言います。理由もなく湧き上がってくる辛さを、家の中にいると、親の側にいると、子どもが感じる喜びで打ち消そうとしています。

 それは大人の言う退屈や暇とは異なっています。心が辛い子どもは楽しさを伴ったゲームやテレビなどにしか向かって動けないのです。ゲームやテレビにのめり込んで、辛さを解消して、逃げ出せない辛さ、たとえば学校生活から、どうにかして逃げ出して、その子どもなりに、何かに向かって動こうとしています。心が元気な子どもになれたら、子どもは自然にゲームやテレビを卒業できます。

子どもの心に寄り添って(10) 2010.6.4

 「現在、僕は中学二年生です。二年生の五月の連休以後、学校に行っていません。学校に行かなくてはと思うのですが、学校に向かって体が動きません。学校に行こうとするのですが、体の奥底から何か辛い物が湧いてきて、だるくて、体が動かなかったのです。家にいても、学校や先生や勉強のこと、将来のことを考えただけで、とても辛くなります。もう学校にも行きたくありませんし思い出したくもありません。なぜ行きたくないのか自分でも分かりません。」

 これは不登校になったある中学生からの手紙です。多くの親や大人は、子どもが不登校になると、子どもに色々な質問をして、不登校の原因を見つけて、その原因を解決して、子どもが学校に行けるようにしようとします。それが不登校問題の解決法だと考えています。

 しかしどの不登校の子どもも、自分が不登校になった原因に気付いていないのが真実です。不登校とは子どもの意識的な行動でなくて、潜在意識からの反射的な行動だからです。不登校の子どももなぜ学校に向かって体が動かないのか、動かそうとすると色々な症状が出るのか、分からないからです。

 親や教師が考えて、子どもが不登校になった原因が見つかったら、それは子どもが不登校になったきっかけだと、考える必要があります。多くの不登校の子どもは、学校で何度も辛い経験をして、学校に行きづらくなっていたのです。それでも辛さに耐えて、無理をして学校に来ていました。

 この無理をして学校に行き続けていた子どもの姿を、親や教師が見落としていたのか、それとも子どもが良い子を演じ続けていて、親や教師が気づけなかったのかも知れません。そして親や教師が不登校の原因と考えた事件で、子どもは最終的に不登校になっています。

子どもの心に寄り添って(11) 2010.6.16

 不登校の子どもに「下心なく子どもと接する」ことが大切だと表現して、不登校の子どもに対応している人たちがいます。対応をしている大人に下心がなく子どもと接するときには、大人の持つ知識や方針を放棄して、子どもの要求やあり方に大人の方で素直に反応し対応をしようという意味だと思います。不登校の子どもから見たら、とてもありがたい大人達です。

 でも、「下心なく」と言う大人の対応は、実際上大人の思いです。子どもの心が落ち着いているときは、大人の知識や方針を放棄して、不登校の子どものあり方を素直に認めようという思いから対応ができます。

 それでも大人が「下心なく」対応をしているつもりでも、どうしても大人の思いが出てきてしまいます。今の大人が知らない子どもの状態の時、子どものあり方や要求をそのまま認められなくなります。今の大人の知らない子どもの状態の時、大人の持っている知識に対して、全く逆の対応が必要になる場合があるからです。

 例えば子どもが良い子を演じているとき、「下心なく」と言う大人は、子どもが辛さを感じているのに、良い子を演じているとは気付きません。例えば子どもが荒れているときに、大人の「下心なく」と言う意味は、子どもが荒れるに任せなければなりません。

 それは今の常識を信じている大人には無理な話でしょう。子どもが病気の症状を出しているときに、大人の「下心なく」と言う意味は、子どもが病気の症状を出すのに任せるという意味になります。それは今の常識を信じている大人には無理な話でしょう。

 不登校の子どもへ対応をするときに、「下心なく」対応をするので良いのですが、不登校の子どもによって、上記のように、無理な場合があります。不登校の子ども、引きこもりの子どもへの対応をするなら、子どもの心に沿った対応をする必要があります。

 但し、子どもの知識の心は子どもの言葉から知ることができますが、子どもの潜在意識にある子どもの本心を知るには、子どもの言葉からできません。子どもの表情や行動から、大人の常識を捨てて、(その意味では「下心なく」ですが)学び、子どもの表情や行動が明るくなるような対応が必要です。例え子どもが荒れたり、病気の症状を出していても、同じです。

僕を理解してくれなかった 2010.6.22

 二十歳の男の子が電車に飛び込んで自殺をしました。遺書には「誰も僕のことを理解してくれなかった」と書いてありました。両親は遺書を見て、男の子を理解できなかったと、位牌の前で泣いて詫びていました。両親は男の子を理解できなくて、その結果男の子が自殺した事実を悔やんでいました。

 男の子は中学一年生の三学期から学校に行かなくなりました。両親は男の子が学校に行けないのは可愛そうだからと考えて、学校内での問題点を解決して、男の子の問題点を解決して、男の子を学校に行かせようとしました。学校や相談機関と相談して、一時は男の子を無理矢理に自動車に乗せて、学校まで連れて行ったこともありました。けれど男の子が荒れて抵抗をするので、無理矢理に学校に行かせようとする対応を止めました。

 両親は医者と相談したところ、精神病の疑いがあると言われ、男の子を受診させようとしました。男の子は受診拒否をして病院に行こうとはしませんでした。そこで病院の職員の力を利用して、無理矢理に男の子を自動車に乗せて、入院させました。それ以後男の子は両親を拒否し、荒れ続けたので、強引に薬で暴れないようにされました。

 両親は医者が言うように、今に治療の効果が出て、男の子が元気になることを信じ続けました。無表情の顔、緩慢な動作、ろれつがうまく回らないで、ゆっくりとした言葉、これらは病気の症状だと考えて、男の子を一生懸命病院に通わせ続けました。薬を飲ませ続けました。そのうちに一人で外出できるようになったので、両親が喜んでいたら、男の子は電車に飛び込んだのです。

 両親は男の子を理解してあげられなかったことを後悔していると話してくれました。そこで私が男の子の何を理解してあげられなかったのですか?と質問をしたところ、男の子を両親が理解しようとしていなかったからと言いました。両親は男の子のために一生懸命努力したけれど、ただ一つ足らなかったのは、男の子を理解しようとする姿勢が無かったと、そのために男の子は自殺したと考えていました。

 両親が男の子を理解しようとする姿勢があったら、男の子は自殺をしなかったでしょうか?男の子は誰も男の子を理解してくれなかったと言っています。”誰も”という言葉から、男の子を理解しなかったのは両親であり、学校の先生であり、相談機関の人であり、医者や病院関係者だったと男の子は言っています。

 両親の対応は男の子の心に沿っていなかった。両親は男の子が辛くて拒否をしていた学校に、親の間違った推測から、子どもを無理矢理に学校に行かそうとしました。

 学校の対応が男の子の心に沿っていなかった。相談機関の人の対応が男の子の心に沿っていなかった。男の子が学校で苦しんでいるのに、その苦しんでいる学校に男の子を行かせるようにと、学校に行かないと男の子の将来が無くなると親に説明した。

 医者の対応が、治療が、男の子の心に沿っていなかったという意味です。男の子は病気でもないのに、医者により病気と決めつけられて、男の子が飲みたくない薬を、男の子の立場から言うなら、飲んではいけない薬を、無理矢理に飲ませて、男の子の人権を踏みにじりました。

 これらの男の心に沿わない対応や治療で、男の子は苦しみ続けて、この世の中に男の居場所を見つけられなくなっていました。

 これらの男の心に沿わない対応を許可し、治療をさせ続けた両親に、男の子の心を理解してくれなかったという遺書を残したのです。

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