フリースペース「したいなぁ~松戸」&松戸-登校拒否を考える会「ひまわり会」
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心療内科 赤沼医師のコラム

子どもの成長は順応の過程 2010.1.6

 現在、多くの親は自分の子どもが無事に成長をして、幸せな大人になって欲しいと思っています。社会的にも、経済的にも自立した大人になってくれるようにと願っています。そのために子どもはいっぱい勉強をして、良い学校に入って、有利な就職をして欲しいと願っています。

 学校の方でも、子どもが好む好まざるに関わらず、カリキュラムに沿ってどんどん授業を進めていきます。テストで子どもの学力を測ろうとします。そこには必然的に競争を生じています。

 学校内で子どもは管理の対象になっています。子どもらしく学校生活を送るという建前になっていますが、実際は大人が決めた規則に縛られて、その中での子どもとしての自由しかありません。

 大人は競争社会で勝つための準備だと言います。社会生活をするための規則を学ぶためだと言います。子どもの中には、言葉で、一生懸命勉強をして、良い学校に入りたいと言う子どもがいます。しかしそれは子どもの本心からの言葉ではないはずです。親や教師の言葉を受け売りしているだけです。なぜなら、子どもは勉強をする意味、受験をする意味を知らないからです。大人となって出て行く社会の実態を知らないからです。当然一生懸命勉強をするという意味も知りません。子どもの姿は親や大人から求められたことを、その子どもなりに一生懸命実行しているだけです。

 子どもは、大人にはない、子どもだけが持っている本能として、その時その子どもを取り巻く環境に一生懸命順応しようとしているだけだからです。大人が競争を求めているから、その大人に順応するために、競争を始めているだけであり、子どもの本心から競争を求めているのではないです。

 子どもはその本能から、子どもの周囲と仲良くして、一生懸命色々な情報を吸収しようとします。決して競争を求めているのではないです。決して逸脱した行動をしようとはしていないのです。ただ、知識が少ないために、経験が少ないために、失敗をすることがあります。現在の大人は子どものこの失敗を許そうとしないのです。この事実を知っている大人は今のところいないようです。

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子どもの心を正しく理解する 2010.1.15

 正しいという言葉は魔物です。子どもの心を正しく理解したと思っても、子どもを観察している人が、その人の経験から正しいと思っただけです。その正しいと思ったことに共感する人が多くいても、現実には子どもの心について、正しさを証明する方法がないです。子どもの心には正しさなど無いと考えた方が間違いがないかも知れません。

 子どもの心はこうなっているとか、子どもとはこうあるべきと言う大人の考え方は、大人の希望的な観測であり、一部の子どもに当てはまりますが、全ての子どもに当てはまりません。正しいという概念で子どもの心を見たときには大失敗をしますし、一人一人の子どもの心を理解できません。子どもへの対応で子どもが苦しむようになります。

 子どもは自分の心で成長し、自分の心も成長させていきます。子どもの心は子どもが置かれている環境で千差万別です。子どもへの対応を行うときには、子ども一人一人の心に沿った対応が必要です。子ども一人一人の心に沿った対応は、ある子どもの心に沿った対応でも、他の子どもには好ましくない場合があります。

 子どもの心に沿った対応は、その時々の子どもの心の動きを推測して行います。子どもの心に沿っているかどうか、子どもの反応(表情や行動)から判断します。言葉も子どもの心を反映している場合もありますが、多くは子どもの知的な理解を表現しているだけです。子どもへの対応で、その子どもが元気になってくれば、その子どもの心に沿った対応であろうと思われます。その子どもへの好ましい対応になります。

 子どもへの対応が好ましいかどうか(対応が子どもの心に沿っていなくても、子どもの方でその対応を受け入れられるかどうか)、対応をする人によってその許容範囲が大きく違います。その許容範囲は、子どもの母親が一番大きくて、その他の人にはとても厳格です。学校の先生について一見子どもの許容範囲が大きいのは、子どもが先生の後ろにいる母親に無意識に反応しているからです。

 学校で問題行動を起こす子どもには、その子どもの母親が母親の機能を果たしていません(学校で辛くなった子どもの心を、母親が癒そうとはしていないという意味です)。その子どもは先生の後ろの母親を配慮していません。ですから担任にとても厳しいです。とても強く反応して、無意識に問題行動を起こしてしまいます。一方で、その子どもは自分の辛い心を何かで癒そうとします。その子どもの辛い心を癒そうとする行動が、大人が正しいと思っている対応で否定されると、その子どもは益々辛くなり、問題行動を強めたり、病気の症状を出したりします。

 ある小学校で子どもが荒れて、授業が成り立たなくなりました。学校は男の先生が荒れる子どもを力で押さえつけたり、親が学校に来て子どもを監視するという方法を採りました。それで一見子どもは大人しくなったように見えましたが、男の先生がいないとき、親がいないとき、その子どもはより一層荒れてしまいました。そこで担任は教室の一角を区切って、その子どもが自由に過ごせられる場所を作りました。子どもが荒れ出したら、その子どもをその場所に導いて、そこでその子どもが自由に過ごせるようにしました。それだけで根本的な解決には成りませんが、少なくともその子どもの荒れ方が減って、授業ができるようになりました。

 子どもの心について、正しいと考えられる物は生物学的な心、脳の機能を科学的に解析した事実だけでしょう。どの子どもにも共通して言える正しさとは、子どもが持つ本能、本能に含まれるかも知れませんが、嫌悪刺激に対する神経学的な反応の仕方だけでしょう。今の心理学や精神医学はこの脳の機能に基づく正しさを認めないで、大人の思いを子どもに押しつけていますから、子どもの心の問題が解決しないのです。

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休み時間 2010.1.27

 学校の先生方は認めないでしょうし、理解しないでしょうが、授業中の多くの子ども達は”よい子”を演じています。良い子とは、普段の素直な子どもの姿とは違って、相手の期待する姿に自分を合わせて行動する姿です。授業を楽しんでいる子どもは普段の素直な自分で反応し行動しますが、多くの子ども達は先生から良い評価を得るためによい子を演じています。心が辛い子どもで、よい子を演じる余裕がない子どもは、授業中でも問題行動を起こします。一般的に先生や親が希望する姿の逆をすることが多いです。

 心が元気な子どもはよい子を演じることで、ますますその子どもの能力を高めてくれます。心が辛い子どもはよい子を演じることで、とても無理をしています。大人にはその様に見えないでしょうが、ぎりぎりまでよい子を演じ続けています。そして休み時間や放課後に、その子どもなりの楽しみに耽って、その無理を取り返そうとします。

 休み時間や放課後に、子ども達は先生方から評価されません。子ども達は評価されない時間時に、素直な子ども達の姿で生活しようとします。素直な姿でその子どもなりに休み時間を過ごせたなら、子どもは意欲的に授業に参加できます。他の子どもにもとても優しいです。休み時間は子ども達が学校の中で素直に本心から過ごしている時間です。子どもの本当の姿を知る絶好の時間です。

 今の学校で子ども達はとても多くのことを要求され、その結果を評価されています。授業中によい子を演じなければならないから、心に余裕がない子ども達が多いです。学校としてはとても許さないでしょうが、今の学校では、子ども達が素直に過ごせて、子ども達が素直な自分を取り戻せる時間がもっともっと必要なのです。子ども達は評価されることで、よい子を演じてしまいます。それは先生のためでなくて、先生の後ろにいる母親のためです。

 心の元気な子どもはよい子を演じることで、自分の能力を伸ばすことができます。心が辛い子どもは自分を守るためによい子を演じます。よい子を演じ続けられている間は、心が元気な子どもと心が辛い子どもとを区別することは不可能に近いです。そしてよい子を演じなくて良くなる時間に、問題行動を起こすことが多いです。

 先生達は授業中の子ども達の姿を見て、子ども達の心を判断しています。先生達の見ている子ども達は、良いにつけ悪いにつけ、よい子を演じている姿です。先生方は子ども達がよい子を演じている姿を見て、子ども達の本当の姿を理解していると信じているのです。先生達が子どもの本当の姿を知りたければ、休み時間の子ども達の姿を、先生なりの評価をしないで、見ている必要があります。

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学校で問題行動をする子ども(1) 2010.2.9

 教室で暴れたり、授業に参加しなかったり、授業を妨害したり、他の子どもの物を取ったりなどの、問題行動をする子どもについて考えてみます。殆ど全ての教師達や大人達は、子どもが学校で問題行動をするのは、親が子どもを甘やかしすぎているとか、家が貧しくて日々の生活で精一杯だから子どもの躾まで手が回らないとか、夫婦関係が悪くて子どもに悪影響を及ぼしているとか、家庭での子育てに問題があると考えます。子育てができていないから、子どもが学校で問題行動をしてしまうと考えます。問題行動をする子どもについて、家庭の問題を最優先に解決する必要があると考えます。家庭の問題が解決しないなら、子どもの問題は解決しないと考えます。しかし実際には、学校生活が楽しい子どもは家庭に問題があっても、その問題をその子どもなりに解決して、元気で成長をしていきます。学校内で問題行動をしません。

 授業中歩き回ったり、大声を上げたり、物を壊したりする子どもは、学校内での生活が辛いから、このような問題行動をしてしまいます。多くの子どもは学校内で辛いものがあっても、その辛さを家に帰って母親に癒されるから、学校内で問題行動を取るようになりません。学校内で問題行動をする子どもの問題を解決したいなら、第一に子どもにとって学校を楽しくしなければなりません。第二に子どもの母親に、その子どもの辛い心を癒す機能を呼び起こさせる必要があります。

 学校を楽しくすると言っても、教師や多くの大人は、今の学校が問題だと考えていません。教師は子ども達のために一生懸命働いています。学校が子どもを苦しめるはずがないと考えています。教師達は悪くない、学校も悪くない、だから問題行動をする子ども自身が悪いと考えています。教師達に都合の良い子ども達を尊重して、教育の成果を宣伝して、都合の悪い子ども達を力で押さえ、卒業まで外見上問題な事が無いようにと力で子ども達を押さえつけて、卒業という形で子ども達を学校から押し出します。

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チックについて 2010.2.25

 チックとは、ピクピクっとした素早い体の一部が動くとき、その動きをチックと表現します。本人の意思とは関係なく生じ、多くは繰り返しおきてしまいます。多く見かけるチックとして瞬目があります。そのほかにも、肩をぴくっと動かす、頭や首をふる、顔をしかめる、口を曲げる、鼻をフンフンならす、などがあります。それらの動きを本人は意識していません。声や言葉のチックもあります。ため息、咳払い、言葉(多くは他人が嫌がるような)もあります。他人から止めさせようとすると、その時は止まりますが、その後換えって頻度や程度が強くなります。

 傾向として幼児からの子どもに多く見られます。不安、ストレス、緊張、心の葛藤などがきっかけでおきます。その原因がなくてチックを生じている子どもがいると言う人もいますが、私が経験する限り、全て何らかの不安、ストレス、緊張、葛藤から生じています。大人で見られるチックには、子ども時代のチックが習慣化していると理解される場合があります。

 多くの子どものチックは、精神的なストレスや緊張感から生じています。それも精神的なストレスや緊張感が、その子どもの耐え得る限界に近づいていることを示しています。その精神的なストレスや緊張感は、子どもが置かれている状態や子どもの心の状態で異なりますから、一時的にチックを生じたり、消失したりします。精神的なストレスや緊張感があるときに、一部の子どもがチックの形で、その精神的なストレスや緊張感を表現しています。

 チックを生じている子どもを、精神的なストレスや緊張感から守られないと、子どもはもっと強い神経症状や精神症状を出し、子どもとしての社会生活を営めなくなります。又強い神経症状や精神症状を出している子どもを元気にするには、大変に難しくなります。子どもの心を守り、成長をさせるためには、チックのでない対応や環境で、子どもを育てる必要があります。

 子どものチックを薬を含めて医療で解決しようとする人が多いです。それは一時的にチックを無くすせますが、その後強いチックや、神経症状、精神症状を出すようになります。子どもがチックを生じるにはチックを生じるだけの、子どもの心が辛くなっているという原因があります。その原因を薬や医療では解決できないからです。それどころか薬や医療でチックが隠されている間に、子どもの心の辛さが益々高じてしまって、強いチックや、神経症状、精神症状を出すようになってしまうからです。 

 強いチックや神経症錠、精神症状を子どもが出すようになると、子どもが精神的なストレスや緊張感からチックを出していたことは無視されて、精神疾患として医療の対象となり、薬を投与し続けられ、精神病者として生きていかなければならなくなります。

 このチックに関する理解は医学常識に反しています。チックに関する医学常識には科学的な根拠がありません。チックに関する脳科学的な理解をすると、私のような結論になります。

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学校で問題行動をする子ども(2) 2010.3.8

 子どもの心から言うなら、学業で競わされているという今の学校教育のあり方が、教師が授業を優先する学級運営の仕方が、子ども達を苦しめています。この学校や教師のあり方が子ども達を苦しめている事実は昔からあったのですが、昔は子ども達が学校から離れた時に、その学校での辛さを解消する方法がありました。学校が終わると子ども達は自由にその子どもなりに、学校の辛さを解消して、又翌日学校に行けたのです。

 ところが現在の子ども達は学校を終えても大人によって管理されていて、学校の辛さを解消する方法を持っていません。その結果、大人は気づかないけれど、苦しくなった子ども達が他の子ども達に学校でいじわるをするいう事実があります。大人から見たらとても虐めだとは感じられなくても、既に心が辛くなった子どもは、他の子どもから受けた意地悪を虐めだと感じて反応しまいます。

 この学校内の問題を、学校を終えてからの問題を解決する政策が、日本ではなされていません。教師も気づいていないから、学校内で学校を楽しくする様な対応(一部の教師は気付いていて、授業を工夫して楽しくしようとする試みがなされている)は行われようとはしていません。多くの親も子ども達が学校で辛い思いをしている事実に気付いていません。

 親は子どものために、子どもの成績を上げようとして一生懸命ですから、子ども達は家でも辛さを解消できないばかりか、家でも辛さを強めていく場合もあります。翌日学校に行ったとき、既に辛さに敏感になっていますから、学校内での辛さ、同級生から受けるいじわるに、子どもはとても辛く成りやすくなっています。学校に行き渋ったり、学校で意地悪をするようになります。

 子どもが学校で辛くて耐えきれなく成ったとき、子ども達の中には学校内で暴れたり、授業を妨害するような、問題行動をする子どもが出てきます。このような子どもは問題行動をするようになる前に、母親の所に逃げて、辛い子どもの心を癒すようにすることが必要です。母親が逃げてきた子どもを抱きしめて、「辛かったね、よくここに逃げてきてくれたね」と言って頬ずりをしてあげて、子どもの好きなことをさせてあげる必要があります。可能な限り、母親の側で子どものわがままをさせてあげると良いです。子どもが辛さを表現しているときには、教育だ、躾だというようなことを、母親を考えてはいけません。教育や躾は子どもが元気になったら、子どもが自分でつけていきます。

 子どもが学校で問題行動を起こしたとき、常識的には教師が子どもを叱ります。しかし子どもは辛さを問題行動で表現していたのですから、その辛さの表現を力で禁止されると、子どもはかえって問題行動を強めます。問題行動をした子どもは精一杯自分を維持しようとしていて、耐えきれなくなって問題行動をしたのですから、叱られるとますます子どもは辛くなり問題行動を強めてしまうのです。

 今の子ども達は学校で心が辛く成りやすい事実を理解する必要があります。学校では子どもの心が辛くならないような教育の仕方が必要です。家庭では学校で辛くなった子どもの心を癒す対応が必要です。教師は教育に一生懸命で、子どもが学校で辛くなっているという事実を理解しようとしないから、叱ることで子どもの問題行動を解決しようとすると、ますます子ども達は問題行動を起こすようになります。

 その際に、未だよい子を演じられる子どもは、叱った教師の前ではよい子を演じて教師の指示を受け入れたように振る舞います。よい子を演じる限界に来た子どもは、叱った教師に向かって荒れてしまいます。

 子どもが学校内で問題行動を起こしたとき、子どもを叱らないと、子どもの問題行動が習慣化します。ですから母親以外の大人は問題行動を起こした子どもを叱る必要があります。母親は母親であること自体が子どもにとって喜びですから、必要以上に子どもを叱らない限り、母親の持つ感性で子どもへの対応が可能です。

 母親以外の大人は問題行動をした子どもを現場から隔離して、隔離した場所で子どもが辛かったことに共感してスキンシップをする必要があります。まず辛かった子どもの心を癒しておいて、その後問題点を指摘します。そうして子どもを辛くない状態で、問題点を認識させる必要があります。

 学校で問題行動を起こした子どもも、母親から癒されたい、認められたいと願っています。しかし家で母親から癒されていないから、学校で辛さに過敏に反応しています。現在の母親は子どもが学校で辛い思いをしている事実を感じ取って、子どもの辛い心を癒すようにしなければ成りません。子どもが学校に行っている限り、母親は家庭での教育よりも子どもの心を癒すことを優先させる必要があります。

 この事実をふまえて、学校で問題行動を起こす子どもを、普段から積極的に癒して、認めていく必要が、子どもの周囲の大人にはあります。それをどうやって子どもに与えるか、それは子どもによって、周囲の大人の立場によって異なります。大人の方でその大人なりの工夫が必要です。

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子どもの心に寄り添って(1) 2010.3.18

 「自分の部屋の中に籠り、何かと暴力を振るい、物を壊すのは、子どもが辛いからだとわかった。だから学校に行かない子どもを認めている。けれど、子どもに話しかけてもきつい表情で睨んでくる。楽しそうで、元気に遊んでいた子どもはどうしちゃったの?辛さをなぜ解決できない弱い子どもに育てたつもりはないのに。私は精一杯子どもに寄り添ってきた。限界です。子どもも辛いでしょうが、私もとても辛いです。」

 これはある母親の叫びです。母親は子ども思いで、一生懸命子どもを守ってきました。学校に行きたいと言いながら、辛そうにしている子どもを救うために、学校に行けない原因を探し求めました。いろいろな施設に相談に行きました。親の会にも参加しました。子どもが辛くなった原因がわかったので、学校と相談して解決を図りました。しかし子どもは依然として辛そうにし続けています。母親もどうして良いのか分からないで、苦しみもだえています。

 母親は子どもに寄り添うことで、子どもを学校に行かさない対応が好ましいことを理解しました。それまでは、子どもの心にも寄り添うために、初めは子どもが言葉で学校に行きたいと言っているから、その希望を叶えようとしました。ところが、子どもが学校に行きたいという言葉は、子どもが知識を表現しただけです。大人と違って、子どもの場合、言葉に沿って対応をすると、子どもの知識を満足させるだけで、子どもの本心に沿ったことには成りません。

 子どもがいろいろな辛さを表現しているのは、子どもの本心です。本心は潜在意識にありますから、子どもには分かりません。子どもが辛そうにしているのは、子どもの本心に沿った対応がなされていないからです。子どもはその辛さを、自分を辛くする人にぶつけてきます。自分が子どもの母親だから、子どもがその辛さを母親にぶつけてきていると考えていますが、子どもは無意識に母親の対応が悪いと、母親に辛さをぶつけています。母親が子どものためにしている対応は、学校の問題を解決して、子どもが学校へ行かれるようにしていました。その母親の対応が違うよと、子どもはサインを送っていました。

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子どもの心に寄り添って(2) 2010.3.25

 「担任はとても熱心な先生です。週に一度は電話をしてきて、子どもの様子を聞いてくれます。プリントもその都度郵送してくれたり、同級生に持たしてくれます。忙しい時間を割いて、母親の話も聞いてくれます。学校内での問題も解決してくれました。けれど子どもは絶対に先生に会おうとはしません。同級生が来たら仲良く遊んだりしますが、その後酷く荒れました。母親に向かって暴力も振るいました。学校からの印刷物を見ようともしません。」

 潜在意識にある子どもの本心は、学校を意識したり見たりすると、どこからと無く辛さが湧き上がってきて、辛さに苦しみます。怒りになったりもします。学校ばかりでなく学校に関連した、先生、友達、勉強、学校からの印刷物などでも、子どもは辛くなり、怒りを表現します。子どもの性格が変化したとも表現できます。この事実は常識に反します。他の子どもでは経験しない、この子ども特有の性格の変化に気付かない限り、この子どもの本心に寄り添ったことになりません。

 母親には子どもが心の病気でないかと感じられるようになりました。今の内に治療して子どもが学校に行くようになることを期待しています。最初だけ子どもは母親と一緒に病院に行ってくれましたが、それ以後はどうしても行こうとはしません。母親だけが様子を説明して、薬をもらってきて、子どもに飲ませています。子どもは夜眠るために、薬を飲んでいます。

 「学校には行かなければならない」という知識が子どもにはしっかりと植え付けられています。ことある毎に子どもは「学校には行かなければならない」という知識を思い出して、その知識に本心が反応して辛くなっています。しかし子どもにはなぜ自分が辛くなるのか分かりません。自分の辛さを少しでも解消しようとして、薬を飲もうとします。

 学校を意識すると辛い子どもは、夜になると学校を忘れられて、とても楽になります。頭が冴えて夜更かしをします。けれど子どもには、「昼間起きて、夜眠らなくてはならない」という知識が強く植え付けられています。親も昼夜逆転を嫌いますから、子どもは薬を飲むようになります。薬を飲み症状が軽くなることで、親は安心します。子どもの問題が解決していくと思います。けれど子どもは登校刺激を受け続けていますから、脳内の辛さを生じる反応が強まって、気付いたときには取り返しの付かない状態になっている場合があります。

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子どもの心に寄り添って(3) 2010.4.1

 不登校を説明するのに、いろいろなことに例える場合があります。例えば学校で疲れたから一休みするためなどです。不登校を何かに例えることで、当面学校を休むという説明にはなっても、その後の対応には好ましくないです。子どもの潜在意識にある本心を説明していないからです。不登校の子どもの本心は何かの例えで説明できる物ではないからです。

 「不登校は、誰にでも起こり得る」と文科省が言っています。「誰にでも」と言うからには、不登校になった子どもに原因がないという意味と、どの子どもにも不登校になる原因があるという意味と、二つの意味があります。

 不登校になった子どもに原因がないという意味なら、昔の学校と違って、今の学校に子ども達が不登校になる原因があるという意味になります。不登校が子どもの問題行動なら、不登校が今の社会問題なら、今の学校のあり方が間違っているという意味になります。

 どの子どもにも不登校になる原因があるという意味なら、今の子どもは不登校がなかった頃の子どもと違っているという意味になります。その違いが何であれ、昔と違う今の子どもには、昔ながらの教育が行われている、今の学校が今の子どもに合っていないという意味にもなります。

 子ども達は楽しさと未知の事柄を知る喜びを求めて学校に行っています。しかし今の学校の多くは、子ども達に競争を求め、教師への隷従を求め、失敗を許しません。「学校は楽しい」と言葉で子ども達は表現しますが、多くの子ども達は学校で息が詰まる思いをしています。

 特に子ども達の間での競争は、子ども達から子どもらしさを奪ってしまっています。どんどん勝ち抜いていける子どもは恩恵を受けます。勝ち抜けない子どもは相手を蹴落として勝ち抜こうとします。蹴落とされる子どもは辛く成りすぎて、学校に行けなくなります。どうしても勝てない子どもは周囲から否定されて、意欲を失い、学校で問題行動をするようになります。その問題行動の被害者も学校に行けなくなります。

 昔も子ども達の間に競争が有りました。あってもそれは一部の子ども達の間だけでした。中学卒業で社会に出て行く子ども、高校卒業で社会に出て行く子どもが多くて、大学の狭き門を争う子どもは一部だけでした。その競争に負けても社会に出て行けました。しかし今のどの子どもも幼稚園の内から、小学校の内から、中学校の内から、競い合わなくてはならないのです。負けることを許されないのです。子ども達が激しく競い合う(競い合わされていると表現する方が正しいです)限り、どの子どもにも不登校になる可能性があるのです。

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子どもの心に寄り添って(4) 2010.4.9

 不登校、引きこもりの子どもが成長して、元気になり、社会に出て行けた人についてです。その人が不登校の会などに呼ばれて、自分の経験談をする場合があります。その際に、会うと自分が辛くなった人を含めて、人との関わりがだんだんできてきて、自分が元気になれたと言う人がいます。会うと自分が苦しくなった人を含めて、人との関わりが自分を元気にしたと説明する人がいます。

 常識的にはその様に説明すると、学校の先生や自分に関わってくれた人の必要性を説明するのに、とてもわかりやすいでしょう。それは今心が元気になって、大人の心から過去を振り返って言えている言葉です。引きこもっていて辛かった時期には、とても人との関わりができなかったはずです。引きこもりの子どもが人との関わりができるようになったのは、それだけ心が元気になっていたからです。心が元気になっていないと、引きこもりの子どもは人との関わりができないです。

 心が元気になると、自分を辛くしない人と関わるようになれます。その関わった人から支えられてより元気が出るようになります。心がより元気になると、自分を辛くしていた人ですら関わられるようになります。自分が周りの人から支えられていると認識できるようになります。心が元気になる良い循環に入ります。その心が元気になる循環の出発点は、まず引きこもりの子どもの心が元気になることであり、人と関わることではないです。

 引きこもりの子どもが心が元気にならない内に人と関わろうとするとますます辛くなります。周りの人に辛さを感じ、怒りをぶつけるようになる場合もあります。ますます引きこもらなくてはならなくなります。ますます心の元気さを失います。辛さの悪循環になってしまいます。

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子どもの心に寄り添って(5) 2010.4.21

 不登校の子どもを育てた経験のある親が、子どもから学んだこととして、「大人達が子どもの心の声を丁寧に聞き、子どもに寄り添う必要がある」と言いました。子どものあるがままの姿を認めた発言です。言葉では確かに子どものあるがままを認めようとしていますが、実際にどうしたらよいのかよく分かりません。子どもの心の声とは具体的に何を指しているのでしょうか?子どもが発した言葉なら、子どもの知識を表現した場合と、自分の姿や感情を認識して、その説明をしている場合があります。

 子どもの知識を表現した言葉なら、それは大人から与えられた知識ですから、子どもの本心を表現していません。大人の思いと同じですから、大人にはわかりやすいですから、子どもは良く分かってくれていると判断してしまいます。しかしその言葉に沿って対応をしたときにはますます子どもが苦しくなってしまいます。

 子どもが自分の姿や感情を認識してその説明をしている場合には、かなり子どもの本心を表現しています。しかし子どもの本心は潜在意識にあるので、子ども自身も自分の本心がわかりません。また、子どもの認識の仕方も、大人から与えられた知識を利用している場合が多いですから、子どもの本心と異なっている場合が多いです。素直に自分を認識して表現している場合は少ないです。たまたま子どもが素直に自分の本心を認識して表現している場合、その言葉に沿った対応を大人がすることで、子どもが元気になる場合があります。

 このように大人が子どもの心の声を丁寧に聞いたつもりであっても、実際の子どもの言葉は子どもの本心を表現していない場合が多いです。子どもの言葉を子どもの心の声と考えて対応をすると、ますます子どもを苦しめてしまう場合が多いです。子どもの方では子どもの言葉を信じて大人に寄り添われても、その大人を拒否せざるを得なくなります。

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子どもの心に寄り添って(6) 2010.4.21

 多くの人は未だ気付いていないけれど、不登校の子どもは学校や学校に関する物、先生や友達、勉強、勉強道具、学校からの印刷物などに反応して辛くなります。この事実に気付けば、不登校の子どもに登校刺激をしたり、学校を連想する様な場所、例えば学校内の保健室、校長室、図書館、空き教室や、学校外でも適応指導教室で、不登校の子どもが辛くなる事実が理解できると思います。これらで不登校の子どもが辛くなれば、不登校問題の解決を遅らせてします。

 この事実は不登校の子ども全てに当てはまります。それでいて不登校の子どもが保健室や適応指導教室に行くのは、その所まで子どもが辛さに耐えて、無理をして行っているからです。それだけその子どもは未だ無理が効くという意味にも成ります。それだけ無理が効くなら、その無理をさせないで、子どもが元気になるように子どものエネルギーを使った方が、遙かに得になります。

 担任が不登校の子どもの問題を解決しようとして、一生懸命不登校の子どもに関わろうとする場合がよく見かけられます。それは先生の義務感から、先生の優しさから、先生は一生懸命に対応しようとします。又周囲の大人もその様な先生の姿を良い先生であると、教育熱心な先生であると、褒め称えます。

 上述のように、不登校の子どもは学校や学校に関する物に反応して、とても辛くなって拒否をしてしまいます。先生は不登校の子どもを辛くします。いくら先生が子どものためを思っていても、いくら先生が優しく振る舞っても、先生がなさる対応から得られる喜びを打ち消して、辛さから子どもは苦しむようになります。ただ、先生の前で不登校の子どもはよい子を演じてしまう場合がありますから、先生には子どもが苦しんでいると理解できない場合が多いです。

 大人が不登校の子どもへ対応をするとき、子どもが先生を意識したときには逆効果になります。子どもが大人に先生というイメージを持ったときには、それだけでどのような物でも打ち消すことのできない辛さを、子どもは感じてしまいます。不登校の子どもへ対応をする大人は、少なくとも子どもに先生をイメージさせない大人でなければなりません。基本的に学校の先生は、不登校の子どもへ近づいてはいけない、どのような対応もしてはならないことになります。

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子どもの心に寄り添って(7) 2010.5.4

 ある講演で、講師が「高校生の学習意欲の低下、自己肯定感がない、鬱状態の子どもの増加など、高校生の心の闇はどこから来るのだろうか」と問題を提起しました。その講師は世界的な経済危機だから、子育てに使うお金がないと言っていました。それは全く関係ないとは言えないけれど、今の日本ではもっと違う観点から、高校生を見ておく必要があります。

 高校生の学習意欲の低下も自己肯定感がないのも、程度の差はあっても鬱状態の子どもが増えたという事実に集約されます。高校生が程度の差はあっても鬱状態になっているから、学習意欲が出てきません。親や先生から高校生はこうあるべきという知識をたたき込まれています。しかし現実の高校生は程度の差はあってもそれとはかけ離れた自分を認識します。その結果、心(情動)が葛藤状態に陥って、益々鬱状態に陥ってしまいます。

 現実の多くの高校生は、高校に属さない生き方を求めません。高校に属さない生き方が大変に辛い生き方なのを、子ども達は知っています。いろいろな縛りがあるけれど、高校に属している限り親も社会も、自分の存在を一応認めてくれます。親も子どもが高校に行っている限り安心しています。子どもは親から不要なストレス刺激を受けなくて済みます。体だけ高校に運んでいれば一応何もかも丸く収まり、楽だからです。教育システムの流れに身を任せているのです。

 教育システムの流れの中で、勉強やクラブ活動などの高校生活に喜びを感じた子どもは、生き生きとした高校生活を送ります。高校生活に喜びを見つけられなかった子どもは、学校からの縛り(校則や威圧的な教師、わからない勉強、テストなど)に苦しみながら、何かでその苦しみを刹那的に発散して、高校卒業を待っています。将来に何の希望もなく(言葉で希望を表現する子どもがいますが、それはその子どもが持っている知識を表現しているだけです。親や大人達はその言葉を子どもの本心だと信じて、子どもの高い夢を褒め称えます)高校を卒業して次の大学に進むための、一つの段階にしかすぎません。 

 ある割合の高校生が程度はあっても鬱状態なのは、既に経てきた中学時代、もっと前の小学時代にどのような成長をしてきたか、その成長の仕方が影響をしています。小、中学校時代の義務教育に、子ども達は学校で勉強をしなくてはならないと、高校や大学に行かなくてはならないと教え込まれています。高校や大学に行かない生き方を考えることすらできません。学校に何が有ろうと、病気以外では学校を休んではいけないと教え込まれています。子ども達はどんなに辛くても、学校を休む選択が許されていないと信じ込んでいます。

 学校内では学級運営、校則が優先されて、子ども達の子どもらしい思いや喜びが大きく制限されています。多くの子どもは自分たちの思いに反して、教科書の内容を覚えることを要求されて、テストで評価されて、馬車馬のように尻をたたかれ競わされます。その様な学校生活をうまく乗り切れた子どもはよいのですが、乗り切れない子どもは学校生活の辛さから、元気を失っていきます。子ども達の見かけとは違って、心は鬱状態に近づいていきます。

 学校が辛くても、子ども達はよい子を演じて、学校生活が楽しいように振る舞います。その子ども達の姿を見て、親や先生は、子ども達が順調に成長していると判断して、子ども達が苦しむ対応を止めようとしません。見かけと違って、小学校で元気を失っていた子どもは中学校でもっと元気を失います。小学校で元気な子どもでも、中学校で元気を失ってしまう子ども、これらの子どもが息も絶え絶えに高校生になっている場合が多いのです。

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子どもの心に寄り添って(8) 2010.5.12

 行き届いた教育を求める運動をしている人たちがいます。行き届いた教育として、お金が無くて高校生活を続けられない例を挙げていました。では高校の授業料が出せると子どもは高校に行くのでしょうか?きっと行くと思います。高校に行く方が子どもにとって楽だからです。高校に行かない生き方は子どもにとって大変に辛い生き方(働いてお金を稼がなくてはならないから)だからです。

 では授業料を出してもらったら、高校に行ってどんどん勉強をしてくれるかというと、多くの子どもはそうではないと思います。ただ単に高校生活の流れに乗っているだけで、高校生活の流れに逆らわない程度に勉強をして、卒業を待っています。言葉ではいろいろと将来の希望を言いますが、それは大人の言葉の受け売り(知識)であり、子ども達は将来への展望をはっきりと持っていません。何も持っていないと言った方が正しいかも知れません。本心では何か分からない不安にさらされています。

 自分からどんどん勉強をするような子どもの中には、親から授業料を出してもらえなかったら、自分でアルバイトをして、稼いで授業料を捻出する子どもがいます。授業料を捻出できなくても、自分から積極的に社会に出て、社会勉強と自分が興味を持つ勉強をして、高校卒業認定試験を受ける子どももいます。高校生活の流れに乗って高校に通っている子ども以上の学力を持っているこどもも多いです。

 多くの大人は、子どもが中学校生活が楽しでいる、高校生活を楽しんでいると考えています。子どもが高校に行けないと可哀想と考えています。だから子どもを高校に行かそうとします。そのように考える大人に、「あなたは中学時代、高校時代、楽しかったですか?」と尋ねると、そこで始めて自分の中学時代、高校時代に辛かったことを思い出して、「子ども達は大変だ」と言い出す大人も多いです。

 これからの学校教育は、今までの学校教育と変わる必要があります。今までの学校教育は子どもに要求する教育です。子どもに要求するための授業が行われています。子ども達が要求に答えても、答えられなくても、時間が来たら、学校から押し出されています。それは教育する立場の人には好ましいでしょうが、教育される子どもには納得できない教育の仕方です。

 今後の学校教育では、子どもがその子どもなりに求めている物を見つけ出し、それを伸ばすための教育になる必要があります。その子どもなりに求めている物を伸ばす教育が行われると、子どもには具体的な希望が、目標がはっきりしてきて、子どもはその目標を達成するために、必要な勉強をするようになります。

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子どもの心に寄り添って(9) 2010.5.24

 子どもが退屈そうにしていると、親は子どもに時間をもっと大切にして欲しいと思います。子どもが暇なら、退屈なら、何かすればよいと、親は思います。子どもがゲームやテレビ夢中になっていると、親はゲームばかりをしていないで、テレビばかりを見ていないで、もっと勉強をして欲しいと思います。

 子どもが退屈だ、ゲームやテレビも飽きてしまったと言う場合、その心の中は大人とは大きく違っています。大人はすることがないと、退屈そうにぼけーっとしていられます。ゲームやテレビで、何もやることのない時間を過ごすことができます。

 心が元気な子どもでは退屈な時間がありません。その子どもなりにやりたいことが、興味を引くことが、どんどん生じてきます。それに向かって絶えず動きます。心が元気な子どもがゲームやテレビに没頭しているときは、ゲームやテレビの中に、その子どもが求める物があるからです。その子どもなりに何か求める物をゲームやテレビから得ようとしています。大人で言う退屈ですることがないからゲームをしたり、テレビを見ているのではありません。心が元気な子どもが動きを止めるときは眠るときだけでしょう。

 心が辛い子どもでは、子どもにとって理由もなく湧き上がってくる辛さから、その辛さに耐えるために、何もできなくて、退屈そうに見えている場合があります。子どももなぜそうなるのかわからないで、大人の真似をして、子どもは言葉で退屈だ、暇だ、と言います。理由もなく湧き上がってくる辛さを、家の中にいると、親の側にいると、子どもが感じる喜びで打ち消そうとしています。

 それは大人の言う退屈や暇とは異なっています。心が辛い子どもは楽しさを伴ったゲームやテレビなどにしか向かって動けないのです。ゲームやテレビにのめり込んで、辛さを解消して、逃げ出せない辛さ、たとえば学校生活から、どうにかして逃げ出して、その子どもなりに、何かに向かって動こうとしています。心が元気な子どもになれたら、子どもは自然にゲームやテレビを卒業できます。

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子どもの心に寄り添って(10) 2010.6.4

 「現在、僕は中学二年生です。二年生の五月の連休以後、学校に行っていません。学校に行かなくてはと思うのですが、学校に向かって体が動きません。学校に行こうとするのですが、体の奥底から何か辛い物が湧いてきて、だるくて、体が動かなかったのです。家にいても、学校や先生や勉強のこと、将来のことを考えただけで、とても辛くなります。もう学校にも行きたくありませんし思い出したくもありません。なぜ行きたくないのか自分でも分かりません。」

 これは不登校になったある中学生からの手紙です。多くの親や大人は、子どもが不登校になると、子どもに色々な質問をして、不登校の原因を見つけて、その原因を解決して、子どもが学校に行けるようにしようとします。それが不登校問題の解決法だと考えています。

 しかしどの不登校の子どもも、自分が不登校になった原因に気付いていないのが真実です。不登校とは子どもの意識的な行動でなくて、潜在意識からの反射的な行動だからです。不登校の子どももなぜ学校に向かって体が動かないのか、動かそうとすると色々な症状が出るのか、分からないからです。

 親や教師が考えて、子どもが不登校になった原因が見つかったら、それは子どもが不登校になったきっかけだと、考える必要があります。多くの不登校の子どもは、学校で何度も辛い経験をして、学校に行きづらくなっていたのです。それでも辛さに耐えて、無理をして学校に来ていました。

 この無理をして学校に行き続けていた子どもの姿を、親や教師が見落としていたのか、それとも子どもが良い子を演じ続けていて、親や教師が気づけなかったのかも知れません。そして親や教師が不登校の原因と考えた事件で、子どもは最終的に不登校になっています。

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子どもの心に寄り添って(11) 2010.6.16

 不登校の子どもに「下心なく子どもと接する」ことが大切だと表現して、不登校の子どもに対応している人たちがいます。対応をしている大人に下心がなく子どもと接するときには、大人の持つ知識や方針を放棄して、子どもの要求やあり方に大人の方で素直に反応し対応をしようという意味だと思います。不登校の子どもから見たら、とてもありがたい大人達です。

 でも、「下心なく」と言う大人の対応は、実際上大人の思いです。子どもの心が落ち着いているときは、大人の知識や方針を放棄して、不登校の子どものあり方を素直に認めようという思いから対応ができます。

 それでも大人が「下心なく」対応をしているつもりでも、どうしても大人の思いが出てきてしまいます。今の大人が知らない子どもの状態の時、子どものあり方や要求をそのまま認められなくなります。今の大人の知らない子どもの状態の時、大人の持っている知識に対して、全く逆の対応が必要になる場合があるからです。

 例えば子どもが良い子を演じているとき、「下心なく」と言う大人は、子どもが辛さを感じているのに、良い子を演じているとは気付きません。例えば子どもが荒れているときに、大人の「下心なく」と言う意味は、子どもが荒れるに任せなければなりません。

 それは今の常識を信じている大人には無理な話でしょう。子どもが病気の症状を出しているときに、大人の「下心なく」と言う意味は、子どもが病気の症状を出すのに任せるという意味になります。それは今の常識を信じている大人には無理な話でしょう。

 不登校の子どもへ対応をするときに、「下心なく」対応をするので良いのですが、不登校の子どもによって、上記のように、無理な場合があります。不登校の子ども、引きこもりの子どもへの対応をするなら、子どもの心に沿った対応をする必要があります。

 但し、子どもの知識の心は子どもの言葉から知ることができますが、子どもの潜在意識にある子どもの本心を知るには、子どもの言葉からできません。子どもの表情や行動から、大人の常識を捨てて、(その意味では「下心なく」ですが)学び、子どもの表情や行動が明るくなるような対応が必要です。例え子どもが荒れたり、病気の症状を出していても、同じです。

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僕を理解してくれなかった 2010.6.22

 二十歳の男の子が電車に飛び込んで自殺をしました。遺書には「誰も僕のことを理解してくれなかった」と書いてありました。両親は遺書を見て、男の子を理解できなかったと、位牌の前で泣いて詫びていました。両親は男の子を理解できなくて、その結果男の子が自殺した事実を悔やんでいました。

 男の子は中学一年生の三学期から学校に行かなくなりました。両親は男の子が学校に行けないのは可愛そうだからと考えて、学校内での問題点を解決して、男の子の問題点を解決して、男の子を学校に行かせようとしました。学校や相談機関と相談して、一時は男の子を無理矢理に自動車に乗せて、学校まで連れて行ったこともありました。けれど男の子が荒れて抵抗をするので、無理矢理に学校に行かせようとする対応を止めました。

 両親は医者と相談したところ、精神病の疑いがあると言われ、男の子を受診させようとしました。男の子は受診拒否をして病院に行こうとはしませんでした。そこで病院の職員の力を利用して、無理矢理に男の子を自動車に乗せて、入院させました。それ以後男の子は両親を拒否し、荒れ続けたので、強引に薬で暴れないようにされました。

 両親は医者が言うように、今に治療の効果が出て、男の子が元気になることを信じ続けました。無表情の顔、緩慢な動作、ろれつがうまく回らないで、ゆっくりとした言葉、これらは病気の症状だと考えて、男の子を一生懸命病院に通わせ続けました。薬を飲ませ続けました。そのうちに一人で外出できるようになったので、両親が喜んでいたら、男の子は電車に飛び込んだのです。

 両親は男の子を理解してあげられなかったことを後悔していると話してくれました。そこで私が男の子の何を理解してあげられなかったのですか?と質問をしたところ、男の子を両親が理解しようとしていなかったからと言いました。両親は男の子のために一生懸命努力したけれど、ただ一つ足らなかったのは、男の子を理解しようとする姿勢が無かったと、そのために男の子は自殺したと考えていました。

 両親が男の子を理解しようとする姿勢があったら、男の子は自殺をしなかったでしょうか?男の子は誰も男の子を理解してくれなかったと言っています。”誰も”という言葉から、男の子を理解しなかったのは両親であり、学校の先生であり、相談機関の人であり、医者や病院関係者だったと男の子は言っています。

 両親の対応は男の子の心に沿っていなかった。両親は男の子が辛くて拒否をしていた学校に、親の間違った推測から、子どもを無理矢理に学校に行かそうとしました。

 学校の対応が男の子の心に沿っていなかった。相談機関の人の対応が男の子の心に沿っていなかった。男の子が学校で苦しんでいるのに、その苦しんでいる学校に男の子を行かせるようにと、学校に行かないと男の子の将来が無くなると親に説明した。

 医者の対応が、治療が、男の子の心に沿っていなかったという意味です。男の子は病気でもないのに、医者により病気と決めつけられて、男の子が飲みたくない薬を、男の子の立場から言うなら、飲んではいけない薬を、無理矢理に飲ませて、男の子の人権を踏みにじりました。

 これらの男の心に沿わない対応や治療で、男の子は苦しみ続けて、この世の中に男の居場所を見つけられなくなっていました。

 これらの男の心に沿わない対応を許可し、治療をさせ続けた両親に、男の子の心を理解してくれなかったという遺書を残したのです。

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2009年度文部科学白書 2010.6.24

 2009年度版文部科学白書で、家庭の経済力の差が子どもの教育機会の格差拡大につながりつつある現状を挙げ、教育への公的投資の必要性を指摘した。その根拠として、09年度の全国学力テストの結果と大学進学率を用いている。

 学力テストは点数で能力を比較できるから、合理的な比較法に見えるけれど、小、中学校の学力テストの結果が、子ども達が大人になったときの能力を反映していない。不登校、引きこもりだった子どもが元気になって、大学生になって、大人になって、とてもすばらしい能力を発揮しているのを、私は多数経験している。

 大学進学率についても、無気力で遊ぶことしか考えない大学生が多い。多くの子どもは大学に行かない生き方が茨の道だから、楽な大学生になっている。また、大学を卒業して就職しても、会社をすぐに辞めてしまう若者が多い。

 昔の学校は子どもの学力を伸ばすことが、大人になったときのその人の能力を決めていたけれど、現在の子どもにはそれが当てはまらない。現在の子どもは学校に行かなくても社会人になったときに必要な学力を得られる。

 現在の子どもに必要なのは、意欲である。勉強をしてやろうという意欲、運動をしてやろうという意欲である。子ども達の意欲をのばすために、教育投資を増やすのなら子どもの成長に役立つけれど、現在のように学校や親が子どもの尻をたたいて、目の前のテストの点数を高めようとするような教育のあり方だと、子どもを無気力にするだけである。それが現在の教育の問題点である。

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子どもの心に寄り添って(12) 2010.7.1

 中学生二年生になった自慢の娘が突然不登校になりました。娘はとても素直で、快活で、学校の成績も良く、クラブ活動のテニスを熱心に練習をしましたから、レギュラーにもなれそうでした。母親はなぜ娘が不登校になったのか、理解できませんでした。

 しかしある不登校の会に参加して、「娘は良い成績を取れば親に認められる、クラブ活動で活躍すれば親が喜ぶ」と思って、無理を重ねていたことに気づいたと、不登校の原因を母親が娘を理解していなかったことに求めました。親の会のアドバイスに従って、母親が変われば、娘も変わると信じました。

 それだけ娘が頑張って疲れたのだから、母親は娘が一休みをして良いと納得しました。学校に行けるようになるまで、家でゆっくりするようにと、娘にはっきりと言いました。しかし娘は母親に暴言を吐き、部屋に閉じ籠もって出てこようとはしませんでした。母親は、今の娘がそのようにしたい時期(反抗期とも考えたようです)だから、娘が落ち着くまで待とうとしていました。

 母親は下心無く、ありのままの娘を認めようとしています。不登校の会の人たちも、良い対応だと言いましたが、娘は母親に下心を感じています。

 その第一は、「母親が変われば、娘が変わる」という母親の思いです。娘のあるがままを認めようとしながら、一方では娘が変わって欲しいという母親の思いです。母親が無理をして変わろうとしている姿を、当然娘は感じ取ります。本当に母親が娘の不登校の原因なら、母親が不登校の原因を取り除いて変われば、娘も変わってきます。

 ところが娘の不登校の原因は母親にありません(「辛い子どもの心の本」の恐怖の学習を参照して下さい)。母親が娘のために、無理をして今までの対応とは違った対応をする度に、娘は母親からの変わって欲しいという思いを感じ取り、母親に怒りを感じてしまいます。母親は娘を理解したつもりでも、娘は母親が娘を理解していないと反応してしまいます。母親に暴言を吐き、母親を拒否して、自分の部屋に閉じこもりました。

 娘が一休みをして良いという母親の思いは、一休みの後に娘は学校に行かなくてはならないと娘は理解します。母親は娘が学校に行かなくても良いと言葉で表現しても、ある程度学校を休んだら、学校に行かなくてはならないという母親の下心を、娘は感じ取ります。娘は学校を忘れて家で自分を取り戻すことができません。母親は娘を理解しているつもりでも、娘は母親が娘を理解していないと反応してしまいます。母親に暴言を吐き、母親を拒否して、自分の部屋に閉じこもります。

 全ての不登校の子どもに、このような心の理解をする必要はありません。中学生ぐらいからの不登校の子どもには、これぐらい子どもの心に立ち入った理解が必要な場合があります。

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子どもの心に寄り添って(13) 2010.7.9

 引きこもりを続けている25歳の娘と、母親との会話です。
娘 「腹が減った。夕飯作れ。」
母 「はい、わかりました。何がいいですか?」
娘 「自分で考えろ!バカ野郎!」
母 「それじゃあ、これから買い物に行ってきます。」
娘 「それじゃあ間に合わねえよ!ボケ!」
母 「ごめんなさい。今から作ります。レトルトでいいですか?」
娘 「当たり前じゃーねーか。くそ婆!」
母 「はい、わかりました」

 このような娘の暴言にふつうの親なら怒ってしまうでしょう。この母親は一生懸命耐えています。母親は娘のありのままを認め、要求を100%認め、支えようとしている母親です。しかし娘はその母親を信頼しようとしていません。

 このような暴言は、大人の立場からいうと娘の性格が悪いと考えますが、娘の立場から言うなら、母親の対応が悪いという意味です。母親の対応が悪いと娘が感じる原因は、丁寧すぎる言葉にあります。

 母親は娘の要求を間違いなく聞き取り、叶えようとして、少し間を開けて、丁寧に答えています。母親は意識的に、娘を独立した一人前の大人として尊重しようとしているので、他人行儀の丁寧な言葉を使っています。

 ところが娘は自分の要求に娘の心に沿ってすんなりと答えて欲しいのです。親子の関係を求めているのに、母親は一歩引いて、構えて対応をしていると、娘は感じています。

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子どもには精神疾患がない 2010.7.14

 動物は辛いと、辛いところ方逃げようとします。辛さから逃げられないと、暴れます。暴れられないとすくみの状態になります。類人猿のすくみの状態は人の精神病にそっくりです。類人猿とほぼ同じ脳の構造を持っている人間でも、この事実は当てはまります。特に子どもではとてもよく当てはまります。

 いわゆる専門家達は認めようとしませんが、子どもが出す精神疾患の症状は、子どもの心が辛くて、その辛さから逃れられなくて出しています。子どもが辛くなっている原因を見つけて取り除くと、子どもが精神疾患の症状を出さなくなります。

 精神疾患がなぜ生じるのか、未だに分かっていません。精神疾患を診断する客観できな病因はありません。医者がその主観から精神疾患だと言ったとき、その患者は精神疾患となってしまいます。

 ですから医者が精神疾患だと言っても、その患者が精神疾患だという客観的な証拠がありません。精神疾患でない可能性があります。特に子どもでは、上記のように辛さから逃れられなくて、精神疾患の症状を出していますから、精神疾患ではありません。

 人が辛さから逃れられないと精神疾患の症状を出すようになります。それは脳内の精神症状を出す神経回路が機能しているからです。辛さが無くなるとこの神経回路は働かなくなり、精神症状が無くなります。ほとんど全ての子どもはこの段階です。心療内科はこの段階の人の対応や治療を行うところと思われます。

 ところが頻回に辛さを経験すると、精神症状を出す神経回路が強化されていき、ほんのわずかの辛さでも精神症状を出すようになります。そればかりでなくストレスホルモンが多く長く分泌されて、ホルモンの作用で脳自体が変化していきます。いわゆる精神疾患の状態になります。この状態になると回復が大変に難しいので、薬で症状を軽くしようとするようになります。精神科はこの段階の人の治療を行うところと思われます。

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子どもの心に寄り添って(14) 2010.7.23

 ある不登校になった生徒の話です。

 休み時間に教室内で、数名の同級生が一人の同級生を殴っていました。まるでサンドバッグを殴るようでした。私はそれを見て、教室内にいるのが辛かったです。殴る同級生も辛そうにしながら殴っていたのが不思議でした。

 そのような教室内でしたが、何事もなかったように授業が始められ、同級生が他の同級生を殴ったことが、丸でなかったかのように時間が過ぎていきました。私たちは何もなかったかのように授業を受け、クラブ活動をして、家に帰りました。そのような日が繰り返されていました。
 教室内がぴりぴりしていました。互いに監視し合っているようでした。何か怖くて、何も言えない状態でした。アイドルの話などで、休み時間をやり過ごしていました。

 その光景が今でも思い出されます。教師達はこの教室内での出来事を全く気がつかないのでしょうか?同級生達もまるで他人事のように、見てみないふりです。誰も教師に伝えようとしませんでした。私もとても怖くて、とても教師に事実を伝えられなかったです。母親に話すと、そのようなことに関わると損をするから、関わらないようにと言われました。

 典型的ないじめの光景です。いじめの際に傍観者を問題だという大人がいますが、傍観者もいついじめに巻き込まれるのか不安で、教室内でのいじめに関われないし、いじめの事実を教師に伝えられないのです。

 教師も、授業をすることしか考慮していませんから、教室内で行われていることに注意を払おうとしません。もし教室内でいじめなどの問題行動があると分かったら、形だけの対応を行って、根本的な解決を図ろうとしません。教室内での生徒達の問題行動を隠そうとします。

 多くの人はいじめる人が悪いと言います。しかしこの文にあるいじめる子どもはいじめたくていじめているのではないです。いじめないと自分がいじめられるから、自分を守るために、必死でいじめをしています。いじめている子どもにいじめをさせている他の子どもがいるのです。

 この不登校の子どものように、感受性の高い子どもは、その子ども自身がいじめなどの辛い経験をしなくても、他の子どもがいじめられたり、教師にひどく叱られたりすると、まるで自分がいじめられたり、教師にひどく叱られたりしたかのように、とても辛くなり不登校になってしまう場合があります。

 人間に近いほ乳類にはミラーシステムという脳の機能があります。他の人のしたことや言ったことを、まるで自分がしたり言ったかのように、脳内で神経回路が働きます。それがあるから同じ状況になると真似ができます。真似をすることで能力を伸ばせます。それは感情(正確には情動)でも生じます。

 いじめられた子ども、教師に叱られた子どもの感情を同じように経験してしまいます。それを繰り返すと、学校を辛さを生じる条件反射の条件刺激として学習し、学校を見たり意識すると辛くなってしまいます。

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子どもの心に寄り添って(15) 2010.8.5

 子どもの閉鎖病棟で、心に傷を抱えた子どもが、いろいろな精神症状を出しています。傷を癒したくて、辛さから逃げ出したくて、その子どもなりの方法を試みています。それは他の子どもから盗みをし、他の子どもと喧嘩し合い、閉鎖病棟から脱出しようとしました。閉鎖病棟が子どもの心の傷を癒せるところになっていないばかりでなく、痛みを繰り返させるところになっていました。いまでも何かにつけて思い出し、思い出すと辛くなり、一向に楽になりません。

 統合失調症として子どもだけの閉鎖病棟に収用された子どもの話です。この子どもは精神症状を出していて、医者より統合失調症と診断されたけれど、自分は統合失調症ではなくて、心の傷が疼いていたと気づいていました。同じ閉鎖病棟に入院させられている子ども達も統合失調症ではなくて、心の傷の疼きで苦しんでいる子ども達だと気づいていました。

 閉鎖病棟の中で子ども達は苦しみ、その苦しみから逃れるために、問題行動をしてしまい、その問題行動が他の子ども達を苦しめ、自分もまた余計に苦しむ場所になっていて、子ども達の辛さを癒す場所になっていませんでした。病院はその事実を押し隠して、子ども達のために変わろうとしていなかったのでしょう。

 本来なら子どもを守り救う病院が、かえって子どもの心の傷を広げ深めていました。この子どもはそのときの辛さが何かにつけて思い出し、今もこの子どもを苦しめ続けている事実を訴えています。

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子どもの心に寄り添って(16) 2010.8.16

 僕は中学三年生でした。校則が厳しく、成績がよい生徒がひいきをされて、授業に不満をい感じていました。それでも休み時間や放課後、友達と遊ぶのが楽しかったので、学校にきちんと行っていました。だから質問をされれば、学校は楽しいと言っていました。

 夏休みが近づくと、だんだん友達と遊ぶのがつまらなくなりました。友達が内申点を気にしだして、塾などに忙しくなったからです。なぜか分からないのですが、僕は学校で息苦しくなって、それから気持ちが悪くなって、吐き気がして、最終的に頭痛になります。これは本当なのですが誰一人として信じてくれません。担任は頭痛ぐらいで学校を休むのは甘えだと言いました。気の持ちようだから、気合いを入れろと言いました。

 僕は学校へ行こうとすると、辛さがどんどん強くなって、耐えられなくなって、学校に行けなくなりました。でも担任や親は、昼間寝て、夜起きて、テレビや漫画やビデオばかりを見ている僕に対して、「怠けているだけだ。今から甘えていると大人になって社会で働けない。」と考えているようです。

 この少年は既に中学で学校に行けない心の状態でした。学校を少年が辛くなる条件刺激として学習してしまっていました。しかし学校での辛さを打ち消す楽しさが学校に存在している間は、学校に行きました。この状態を先生や親たちは、少年が元気で学校に通っていると理解していたのです。

 学校での楽しさが無くなり、この少年が学校に行けなくなったときに、先生や親たちは、少年が学校に行けなくなった原因を探し求めました。けれど原因が見つからないのです。原因が見つからなければ、学校に行かない少年に原因を求めて、少年が学校に行かないのは、怠けていると判断してしまっています。

 この少年もなぜ自分が学校で辛くなったのか理解できませんでした。この少年にはっきりと理解できることは、少年が学校に行ってみると体に辛さを生じて、耐えられなくなるという事実でした。親や先生はこの事実を信じようとしなかったのです。親や先生は、学校が子どもを苦しくするはずがない。だから学校で子どもが苦しくなるはずがないと信じているのです。

 不登校とは子どもは理由がなく学校に行こうとしないのではなくて、行こうとしても辛くなって行けないから、学校に行こうとしないという事実を、多くの人に知ってもらいたいと願っています。

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子どもの心に寄り添って(17) 2010.8.23

ある中学三年生からの相談です。

 「親は、せめて高校を出ないと就職できないから生きていけないと言います。僕も高校ぐらい卒業しておかないと、誰も雇ってくれないだろうと思います。しかし高校進学のことを考えただけで、頭が痛くなり、気持ちが悪くなります。

 僕はいつもびくびくしていて、人の目が怖くなってしまって、怒られたり否定されることが怖いです。自分の意見を担任や親に言えません。それでも、高校が気になります。将来が気になります。気にするとますます気分が落ち込みます。どうしてだが分からないのですが、かえって体調不良があると心が安らぎます。

 僕が体調が悪いと訴えても誰も信じてくれないので、黙って耐え続けて学校に行き続けました。けれどゴールデンウィークを契機に、学校に行こうとしても、学校に向かって体が全く動かなくなりました。学校などどうでも良い、高校などどうでも良い、このまま死んでしまいたくなりました。」

 私が子どもの頃、中学卒で就職する子どもは金の卵だと言われました。現在でも中学卒業で就職ができないわけでもないです。現実に多くの企業が海外に出て行ってしまい、中卒の子どもが就職できるような企業は限られていることも事実です。多くの企業ではより能力の高い人をという意味で、高校卒業の資格を要求するようです。このような事実を子どもはよく知っています。子どもの方でも高校に行かなくてはという思いがとても強いです。これは子どもが持っている知識です。言葉にできます。

 子どもの潜在意識にある情動は学校を拒否しています。学校で辛い経験を何度かした結果、学校を拒否する反応を起こすようになっています。この学校を拒否する反応は潜在意識ですから、子どもは言葉で表すことができないし、なぜ学校を拒否するのか子どもも分かりません。学校を考えただけで、進学を考えただけで、理由もなく頭が痛くなり、気持ちが悪くなり、学校に向かえなくなります。

 知識では学校に行かなければならない、しかし情動が反応して、辛い症状が出て、体が学校に動かない。その状態を葛藤といいます。葛藤状態は情動に辛さの反応を表現しますから、子どもはよりいっそう辛さを表現するようになります。自分を取り巻くもの、自分を否定するものに、ますます過敏に過剰に反応してしまいます。辛さに耐えかねると死にたい想いになります。

 この悪循環が生じる辛さを解消するには、病気として理解するのが便利です。病気だといろいろな症状を出していても、病気が原因でいろいろな辛い症状を出していると、周囲の人に理解され、それ以上責められることが無くなります。実際に学校に行く必要もなくなります。その分、心が楽になり辛い症状が軽くなります。

 病気と理解したとき、重大な問題点があります。子どもの学校に行かなければならないという想いはつきまといますから、完全に辛い症状は取れません。病気として薬を飲まなくてはなりません。薬は症状を軽くしますが、学校に対して辛い反応する情動を解消しません。学校に反応しなくなりそうで、一向に辛さが解消しません。

 それだけでなく、学校に反応して辛くなっている事実を忘れて、薬を飲めば病気が治ると考えるようになってしまいます。それは学校に反応して辛くなっているという事実を忘れてしまい、一生病気として薬を飲み続けることになります。元気な大人として社会に出る機会を失ってしまいます。

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子どもの心に寄り添って(18) 2010.9.7

登校刺激

 小学4年生の女の子が不登校になって2ヶ月がたちました。不登校になった当初は、お腹が痛いと言ったり、頭が痛いと言ったりして、朝起きてきませんでした。日中は元気にテレビを見たり漫画を読んだりして、元気そうでした。

 担任から電話がかかってきたり、母親が学校に行かそうとしたときには、とても不安状態になりました。母親が不登校の親の会に参加して、登校刺激は好ましくないことを知り、学校からの印刷物を止めてもらい、電話は母親の携帯にかけてもらうようにしました。

 女の子が落ち着いてくると、女の子は学校でいじめられていたことが学校に行けなくなった理由であることを教えてくれました。そこで母親は校長や担任と連絡を取って、いじめの事実を伝えました。いじめた子どもの親と子が家を訪ねてきて、いじめを謝罪してくれたので、いじめの問題は解決したと母親は思いました。

 母親はこれで子どもが学校に行けると思いましたが、子どもは一向に学校に行こうとしません。母親がその理由を尋ねると、「学校に行きたいけれど、どうしても行けない」と答えるだけです。母親は子どもを学校に連れて行こうとしましたが、不登校の親の会から、それは良くないと言われて、子どもを学校に連れて行くのを止めました。

 母親は子どもが学校に行きたい気持ちがあるから、朝時間になると子どもを起こして、将来のために学校に行くと良いことを話しました。しかし子どもはだんだん元気がなくなり、不登校の親の会と相談して、これらの登校刺激を全く止めました。現在は朝起きてくるのを自由にさせていますし、学校に関する話を全くしていません。

 クラスの友達が毎日、学校での出来事を書いた物や予定表を持ってきてくれます。励ましの言葉を書いた物を持ってきてくれたときもありました。友達が届けてくれたついでに、一緒に遊んでくれます。子どもはお便りと友達を待っているようです。休日には何人かの友達がやってきて、仲良くゲームをしたり、近くの公園で楽しそうに遊ぶことができました。その後学校に行く約束をしていたようです。

 母親は「登校刺激を止めたので、だいぶ元気になってきた。親切な友達のおかげで、子どもはますます学校に行きたいという気持ちを強めている。今に学校に行けるようになる」と感じていました。

 その後、子どもは一向に学校に行こうとしません。母親が何か言うと子どもは荒れて物を投げたり、壊したりします。部屋に籠もって、一日中ゲームをして過ごしています。母親は不登校の親の会の指導に従って、何も言わないで待っています。母親も辛さに耐えるので精一杯です。

 母親は不登校の親の会の指導に沿って対応をしていますが、子どもの心に沿った対応ができていません。子どもの心に沿った対応をしないと、子どもも辛いし、母親も辛くなります。子どもの不登校で辛い状態の解決が遅れてしまいます。

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子どもの意外な”脳力” 2010.9.9

 日系サイエンス10月号「子どもの意外な”脳力”」に
「子どものように創造的に探求し柔軟に学ぶ能力は、大人のように計画的かつ効率的に行動する能力と引き替えに失われていく」
という記載がありました。これは長年私が子ども達を観察してきて、強く感じることです。

 「子どものように創造的に探求し柔軟に学ぶ能力」とは、まさに子どもの心を能力という言葉で表現したものです。「大人のように計画的かつ効率的に行動する能力」とはまさに大人の心を能力という言葉で表現したものです。「引き替えに失われていく」とは大人の心になると、子どもの心を失ってしまうという意味です。

 子どもは”子どもが持つ能力”から、その子どもなりに学習をして、自分の能力を納得して伸ばします。その子どもが伸ばしていく脳の力は、初めの内、親や大人が希望する能力とは異なる場合が多いです。それでもその能力をどんどん伸ばしていったとき、最終的に親の思いに沿ったものになります。

 大人は”大人が持つ能力”を理解できます。大人は”子どもが持つ能力”に気づきません。大人は自分が子どもの時”子どもが持つ能力”を持っていたのですが、大人になると忘れてしまっているからです。大人は子どもに”大人が持つ能力”がない事実を気づくと、子どもに”大人が持つ能力”を身につけるように要求をします。それを大人は子育てだと考えています。

 大人は自分の成長の過程で、ある時期に急激に”子どもが持つ能力”から、”大人が持つ能力”に、自然に変化したことに気づいていません。今の自分を未熟にしたものが自分の子ども時代だったと考えています。

 自分が子ども時代に子ども特有の”子どもが持つ能力”を持っていたことを忘れてしまっています。子どもの能力は、”大人が持つ能力”が未熟なだけだから、訓練をして”大人が持つ能力”に近づけられると考えています。

 「計画的かつ効率的に行動する能力」は、社会生活をするのにとても有効で、便利です。今の社会はこの”大人が持つ能力”を持った人が活躍しやすいし、大人社会も好ましい人だとして優遇しています。

 子どもの「創造的に探求し柔軟に学ぶ能力」について、この能力に気づいていない大人が多いだけでなく、”子どもが持つ能力”は大人にとって直ぐに役立たないばかりか、必ずしも大人の求める結果が出ない(例えば学校での成績)ので、”子どもが持つ能力”を無視する傾向にあります。

 今の学校教育を含めて教育界の流れは、言葉で「子どものように創造的に探求し柔軟に学ぶ能力」を伸ばすように言っていますが、現実の学校教育は「大人のように計画的かつ効率的に行動する能力」を求めています。年齢が進めば進むほど、この要求を子ども達に強く求めています。

 それは未だ大人の心を持っていない子供達に無理な要求です。とても無理な大人からの要求に、子ども達はとても辛さを感じています。その辛さを回避するために、子ども達は可能な限り良い子を演じてしまいます。良い子を演じている子どもの姿を見て、大人は自分の要求が、教育が、子ども達のためになっている、子ども達に良いことをしていると判断をしています。

 多くの子ども達は大人からの要求で良い子を演じています。良い子を演じられない子どもは、親や大人から見て問題行動をします。病気の症状を出してしまいます。親や大人は子どもに無理なことを要求しているのに、親や大人は子どもに問題があると考えて、大人が考えついた問題点を正そうとします。

 子どもには問題点がないのに、問題点があると考えて子どもに関わる親や大人に、子どもは新たな辛さを感じるようになります。子どもはますます問題行動を生じたり、病気の症状を出すようになります。それでも親や大人は子どものために良いことをしていると判断をしています。

 子どもが良い子を演じ続けられて、そのまま大人の心になれたなら、良い子を演じていたことが習慣化してしまい、大人の心から辛さを伴わないで、無意識にでできるようになります(この事実があるので、大人は子どもにとって辛いことを要求し続けます)。

 子どもが良い子を演じられなくなると、子どもは親や大人から見て問題行動を起こしたり、病気の症状を出すようになります。今までとても良い子でどんどん能力を伸ばしていた子どもが突然問題行動を起こしたのですから、親や大人達は子どもに何か原因があると、原因探しをします。大人なりの原因を見つけます。

 親や大人達が子どもの問題行動の原因として見つけた物の多くは、子どもが良い子を演じていた結果生じた事柄です。その原因と考えたことをきっかけとして、子どもが良い子を演じられなくなった場合が多いです。大本の原因とは子どもが良い子を演じなくてはならなくなった原因まで遡る必要があります。

 その大元の原因で子どもがよい子を演じている経過の中で、子どもは他のいろいろな辛い経験をして、辛さに過敏になり(辛さには相乗効果があります)、辛さに耐えきれなくなって、よい子を演じられなくなったのです。

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自殺や鬱病に起因する経済的損失 2010.9.17

 この度、政府は自殺総合対策会議を開き、2009年の1年間の自殺やうつ病に起因する経済的損失がおよそ2兆7,000億円にのぼると発表しました。政府が自殺と鬱病をまとめて発表したのには、自殺の原因としてその大元に鬱病があると考えているのだと思います。

 その鬱病に関して、ほとんど全ての人が知らなくて、そして知らなくてはならない事実があります。それは鬱病という病態はありますが、未だに鬱病の原因が見つかっていないという事実です。世界中の医者は鬱病が存在すると信じています。今に研究が進むと必ず鬱病の原因が見つかると信じています。

 不登校、引きこもり、ニート、フリーターの子どもの問題に対応をしている医者として、私は鬱病の存在に疑問を感じざるを得ないのです。鬱病と診断されて投薬治療を受けていた子どもがいます。その子どもが苦しんでいる原因を見つけて、その原因から守ってあげると、子どもは鬱病の症状を出さなくなり、元気な大人となって社会に出て行けるようになります。つまり子どもに鬱病に相当する病態(鬱状態)は存在するけれど、鬱病は存在しないことになります。

 鬱状態を鬱病として投薬治療をして、鬱の症状が固定してしまい、大人になっても投薬治療を受け続ける人がいます。症状が軽くて鬱状態に気づかないで大人になり、大人になって鬱状態が悪化して、回復が不可能になった人がいます。無い鬱病を鬱病と信じ込むことで、多くの医療費と経済的な損失を被っている姿の可能性が高いです。

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09年度問題行動調査 2010.10.3

 文科省は09年度問題行動調査を発表しました。この調査の根底にある考え方は、「問題行動をする子どもが悪いから、問題行動をする子どもをどうにかしなければならない」というものです。

 動物実験をしてみると、類人猿を含めてどの動物でも、ストレス刺激を与えると、その動物はストレス刺激から逃げようとするし、ストレス刺激から逃げられないときには暴れたり、すくみの状態になってしまいます。心理学を研究している人なら、この事実をよく知っています。

 人間の大人は理性でストレス刺激への反応を調節する事ができますが、子どもはそれができません。動物と同じ反応をします。学校にストレス刺激が有れば学校から逃げ出そうとしますし、学校に行こうとしません(不登校)。学校にあるストレス刺激から逃げ出せないときには、子どもは暴力行為やいじめをします。

 この生物的な子どもの反応を理解すれば、子どもの問題行動は子どもをに問題行動をしないように教育するのではなくて、子どもを取り巻く環境を変えて、子どもにストレス刺激を与えないようにするしかないです。子どもに加わるストレス刺激をなくせないなら、子どもがそのストレス刺激から逃げる方法を考えてあげる必要があります。

 この事実をどうして大人は気づかないのか不思議でなりません。現在、この事実に気づかないで、子どもの問題行動をなくするという観点から、子どもを教育し直そうとなされています。それは子どもの問題行動が無くならないばかりか、増加し悪化する事が考えられます。

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子どもの心に寄り添って(19) 2010.10.22

 ある母親からの質問です。
「不登校で引きこもり、辛い病気の症状を出していた子どもが元気になってきました。今は病気の症状が無くなり、毎日漫画の原稿を書いています。いつ頃学校に行かせるようにし向けたらよいでしょうか?」

 この子どもは心が落ち着いてきて、だんだん元気になってきています。心が元気になってきたから、不登校になる前のように漫画を書けるようになりました。漫画を書けるようになったという事実を別の見方をすると、その子どもはだんだん元気になってきて、やっと漫画を書ける程度の元気さになったのです。今のその子どもは漫画を書くので精一杯という意味になります。

 この子どものように心が辛い子どもでは、それ以上のことはできないし、それ以上の事を期待してはいけないという意味になります。この子どもにそれ以上のことを期待したり求めたりすると、漫画すら書けなくなります。漫画を書けるようになったから、不登校になる前の子どもと同じになったと考えたら、大間違いになります。

 この事実を親はしっかりと理解して下さい。もちろん心がもっともっと元気になれば話は違ってきますが、現実に心はそう簡単に元気になれません。後何年かかかる場合が多いです。当然学校に行けませんし、行く事を期待してはいけません。また、子どもの心が元気になってきたら、子どもの方で漫画以外の方向へ動き出します。そして学校に向かって動くのは一番最後になります。

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小学校6年の女子児童が自殺 2010.10.28

 群馬県桐生市の市立小学校6年の女子児童が自殺した問題を、ニュースから得られた情報から考えてみます。

 父親が「6年生になってから10回以上、いじめがなくなるよう担任に相談したが、具体的な対策は示されなかった」と学校の対応を批判しています。ニュースで見る限り、学校は場当たり的な対応しかしていませんでした。校長も「いじめ判断できず」と釈明しています。担任がいじめだとはっきり認識していたら、もっと違う対応をしていたと思います。親からいじめがあると指摘されても担任は問題となるほどのいじめを認識していなかったと考えられます。

 担任がいじめだとはっきり認識しなかった理由として
 1.担任がいじめを見つける能力がなかった
 2.担任が気づかないところでいじめが行われていた
 3.いじめが遊びの形で行われるので、担任はいじめだと気づきようがなかった
などが考えられます。校長は「事実確認を進めたい」と言っています。担任がいじめを見つける能力がなかった場合と、担任が気づかないところでいじめが行われていた場合には他の生徒達の話を聞く事で、いじめが有った事が分かります。いじめが遊びの形でなされていた場合には、当人以外にいじめを認識する事が大変に難しいです。

 児童は母親に「もう学校に行きたくない」と涙ながらに訴えたといいます。しかし親は児童の不登校を認めないで、親は学校にいじめが無くなる対応を頼んでいます。担任は児童が酷いいじめを受けている事実を認識していませんでしたから、目先の対応しかしなかったのです。その結果として一番辛いのはこの児童でした。不登校をさせてもらえないなら、転校を希望したのですが、卒業まで耐える事を親から求められたのです。学校を休んではいけないという親の常識が児童をいじめから守れないで、児童が自殺をしなくてはならないほど追いつめられてしまったのです。

 「担任が元の席で食べるよう指導しても、児童たちは言うことを聞かなかったようだ」と親が証言しています。それは担任に指導力がなかったからと常識的には考えられます。それだけでなく、多くのいじめでそうなのですが、担任の学級運営が子ども達を辛くして、子ども達がその辛さを解消するために、自殺した児童を遊び道具にしたのだと考えられます。ですからいじめに加わった同級生達はいじめたという思いはありません。学校生活を楽しんでいたのです。遊び道具にされた児童はそれをいじめとして反応して辛くなっていました。報道では給食で孤立していたという事例しか述べられていませんが、それでも孤立して苦しむ児童を見て、他の同級生達が楽しんでいた可能性があります。

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大人が子どもの心を分析 2010.11.13

 子どもの行動を大人は自分の知識から分析して、理由をつけて解釈する傾向があります。心が元気な子どもについて、大人が自分の知識から分析し、解釈し、対応をすのは、それ程問題がありません。子どもの方で大人の対応に合わせてくれるからです(心が元気な子どものよい子を演じる)。

 けれど心が辛い子どもについて、大人が自分の知識から分析し、解釈したら、対応を間違えてしまう場合が多いです。心が辛い子どもは可能な限りよい子を演じてしまうか、自分を維持するので精一杯な子どもの場合、大人の要求に応えられないからです。心が辛い子どもについて、大人は子どもの問題行動が心の辛さを表現しているのだとだけ理解して、その辛さから子どもを守る対応を取る必要があります。

 子どもの行動を大人の知識で解釈しても、大人が解釈しているように、子どもが理解して行動をしていません。子どもは受けた刺激に無意識に反応しています。子どもの潜在意識からの反応をしています。この潜在意識から反応する仕方を、子どもの本心と表現します。けれど大人が子どもに説明を求めたら、子どもの知識から子どもはいろいろと理由を言うでしょうが、それは子どもの知識であり、子どもの本心ではないです。自分の体の反応を、その結果を、子どもが持つ知識から、大人に分かるように説明しているだけです。

 子どもは自分の潜在意識にある自分の本心を知る事はできません。子どもは自分の知識で潜在意識にある自分の本心を調節できません。大人も子どもの潜在意識にある子どもの本心を知る事はできません。そのできない大人が子どもの行動を大人の知識(多くは常識)から分析しても、子どもの本心に沿っていない場合が多いです。大人の知識から大人の行動を分析する場合、大人には当てはまる場合もありますで、大人の心の分析に用いられていますが、子どもの心の分析にはまず当てはまりません。

 知識の豊富な大人は、自分の知識からいろいろと分析をして、対応を考えています。それは子どもの心に多くの場合当てはまりません(所謂専門家という人の分析が心が辛い子どもに当てはまらない原因)。当てはまったと感じられたときには、子どもがよい子を演じて大人の要求に合わせた場合です。余裕がある子どもにはそれでも良いのですが、心が辛い子どもや心にはとても辛い事になります。

 心が辛い子どもについて、大人は子どもの状態を理由をつけて解釈するのを止めて、素直に子どもが辛いのか、楽しいのか、それだけを判断して下さい。それだけで対応をしてあげて下さい。常識に反しますが、大人は知識から考えて子どもへの対応をしないで欲しいです。

 特に母親は、自分の子ども達一人一人が喜ぶように、楽になるように、対応をする必要があります。子ども達から見たら母親だけは他の大人と違うのです。心が辛い子どもから見たら、母親は子どもの辛さを知って、それから守ってくれればよいです。そこには理屈は必要ないです。

 子どもの心が元気そうに見えても、子どもが辛さを回避するためによい子を演じている場合がありますから、大人の目が届かないところで子どもがどのように行動しているのかも注目する必要があります。特殊な場合(母親が子どもを暴力や過剰な要求をすることで苦しめている場合)を除いて、母親の前で子どもはよい子を演じない傾向にあります。母親は自分の目の前の子どもの姿から、子どもの心が辛い状態にあるのかないのかを判断する事ができます。

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教育界の焦り 2010.12.2

 19日朝7時からのNHKのテレビニュースで世界の大学のランク付けが放送された。それによると外国の大学が上位を占めて、東大や京大がかなり下位ランク付けされていた。日本の多くの大学が新興国からの優秀な大学生を得て、教育している事実が報道されていた。日本の教育界が日本人の子ども達を教育しきれていない姿がかいま見られていた。

 最近ノーベル賞を受賞する人が日本からも排出している。小中学生の学力は世界でも屈指のレベルである。それなのに大学の教育水準を維持するために、大学が日本の学生に十分に期待してない理由を考えてみる必要がある。それは日本の学生が大学に入学するので精一杯で、大学でその学生なりの能力を伸ばそうとする意欲に欠けている事実は以前から指摘されてきていることで説明がつく。多くの大学生が、大学を単に就職のための足場に利用しているだけになっている。

 小中学校でゆとり教育から、詰め込み教育に変化しようとしている。それは目先の学力を上げるのに役立つかもしれない。極一部の子どもは選ばれた子どもとして能力を伸ばせられるかもしれないけれど、多くの子ども達は目先の学力を上げるので精一杯になり、大学に入学したらますます学習意欲をなくするであろう。多くの子ども達の心を荒廃させていくだろう。ではゆとり教育がよいかというと、ゆとり教育を行うためには、一人一人の子どもに対応できる教育の指導者が必要であるが、今はその準備ができていない。

 現在の物質的に豊かな日本に求められているのは、大学の世界ランクを上げる事ではない。小中学生の学力レベルが世界屈指である事でもない。学習をされられる子どもを作り出すのではなくて、自ら学習をしようとする子ども達、自ら社会活動をしようとする子ども達を生み出す事である。

 今までの集団の教育とは違って、今までの教育システムとは違って、子ども一人一人の将来を見据えた子育て、教育を応援する事にある。学力を上げる教育から、学習しようとする意欲を生み出す教育に変わる必要がある。そのためには今の何倍かのお金が必要になるであろう。教育界を再編成する必要があり、目先の結果が出ないであろう。それでも将来の日本を世界一流の国としてしょって立つ多くの人を生み出すのに必要である。

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”自閉症診断”の危うさ 2010.12.8

 2011年1月号の日経サイエンスで、「自閉症”治療”の危うさ」が紹介されていた。それによると、アメリカでは自閉症の診断数が増えてきている。その自閉症と診断された子ども達の75%が代替医療を受けている。自閉症治療での安全性や有効性が全く確かめられていない薬が投与されている事実が報告されていた。

 この記事では、自閉症治療の危うさを強調していても、自閉症診断の危うさには全く触れていません。自閉症診断の危うさがあるから、自閉症治療の危うさが生じている事実に気づいていません。自閉症と診断されている子ども達は、自閉症という概念で表現できても、その内容は、子どもの心の中は、大きく異なっているという事実を意味していると考えられます。

 人の反応の仕方(性格)として外向的、内向的と、二つの方向に分けて考える考え方があります。その内向的の一番端に、所謂自閉的と表現される性格があります。現代の複雑な人間社会の中で、自閉的な性格が社会生活の障害になっている事実があるので、自閉症という概念ができあがりました。ですから、どこまでが内向的で、どこまでが自閉的で、どこから自閉症なのか、明確な境目が有りません。

 そこで考え出されたのが専門家です。専門家の精神科医が自閉症がと診断ときには、自閉症だと全ての人が認める事になる仕組みです。精神科医が自閉症と診断する根拠は、精神科医が経験から自閉症だと感じただけで、客観的な根拠はありません。何故子どもが自閉症の症状を出すようになるのか、現象面では少し分かってきていますが、その原因や脳内での仕組みは、科学的に全く分かっていないからです。

 自閉的な子どもでも、自閉症と診断された子どもでも、子どもの周囲と関わろうとする動きは必ずあります。その動きも病的と判断されても、その動きを妨げないで、その動きが発展していくのを待っていると、子どもは自閉的な傾向からだんだん外向的な動きが増えていき、最終的には普通と感じられるまでになっていきます。

 普通と感じられるまでになるには、何年もの根気がいる対応が続きますが、その何年もの間、親は「本当にこれでよいのか」という不安を抱え続けますが、最終的に親も納得がいく子どもになっています。それが本当の子育てだと私たちは気づいています。

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心が辛い子どもと母親(または母親に相当する人)との信頼関係の強さ 2010.12.22

 トラウマ(辛さを生じる条件反射。その条件刺激を回避できない事が多い)から辛くなっている子どもと母親との信頼関係の強さです。子どもと母親との信頼関係はいつも一様ではないです。その時々で変化をしていきます。
 心が元気な子どもや、子どもが何かに挑戦する際の辛さを経験している場合には当てはまりません。

 経験的に、子どもが出す症状の程度はその重篤度から、
1)ODや自傷行為をする > 2)病気の症状を出す > 3)荒れて物を壊す、親に暴力をふるう > 4)万引きなどの社会に向かって問題行動をする > 5) 特に症状や問題行動はないがどことなく活力がない > 6)表情も良く、自発的で活動的(母親の前では特別の場合を除いて、子どもは良い子を演じない。特別の場合とは母親が子どもを虐待しているとき)
となります。

1)子どもが母親を信頼していないとき
子どもがODや自傷行為をするときや辛い病気の症状を出しているとき、子どもは母親を信頼できなくなっています。これらの子どもの行為や症状は、大人の常識的から子どもが心の病気だと考えてしまいます。母親との間の信頼関係は築けません。子どもとが本能から母親を信頼しようとしてもできないときです。

2)子どもが母親を信頼しようとしても十分に信頼できないとき
子どもが荒れて物を壊したり、親に暴力をふるったり、万引きなどの社会に向かって問題行動をするときには、子どもの性格に問題があると考えたら、子どもの母親への信頼感を失います。子どもが母親に自分を理解して、というメッセージを送っていると考えるべきです。または、母親がどれだけ自分を信頼してくれているかテストしていると考える事もできます。

3)子どもが母親を完全には信頼できていないとき
子どもが母親が信頼できてくると、子どもは荒れなくなりますが、意欲的な動きがあまり大きくありません。どことなく子どもに元気がない。家に引きこもってうずうずしている。未だ母親に子どもなりの辛さを言葉で訴えています。親は子どもを元気づけようとするのが常識ですが、それは子どもを辛くしてしまいます。親は子どもの訴えを聞き続けて、子どもの要求だけを叶えようとする必要があります。

4)子どもが母親を完全に信頼している状態
子どもはその子どもなりの動きをどんどん始めます。自分を否定する行動や言動が無くなります。母親の失敗を笑って許してくれます。常識的な対応が母親にも許されます。

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