フリースペース「したいなぁ〜松戸」&松戸−登校拒否を考える会「ひまわり会」
ホーム代表者と顧問医師のコラム

大人の思い、子どもの思い 2009.1.7

大人の思い、子どもの思い(3)

 ある引きこもりの子供を持つ親が言いました。
「引きこもっているので、子どもはとてもしんどいはずですよね。部屋の中でじっとしているのですから。体を動かさないから、運動不足で、それだけでもいらついてきますよね。散歩でもしてくればよいのに。」と言いました。

 ところが引きこもりの子どもは、部屋の外に出ると、家の外に出ると、とても辛くなるから、いくらかでも楽な部屋の中に引きこもっています。部屋の中に引きこもって辛さに耐えています。辛さに耐えるので精一杯ですから、とても体を動かす元気はありません。引きこもりの子どもについては、動けと言うのが無理なのです。

大人の思い、子どもの思い(4)

 ある不登校の子供の担任が言いました。
「ゲームばかりしているから、楽な生活に走って、不登校を続けてしまう。子どもにゲームを制限して、引っ張ってでも学校に来させるべきだ。学校に来させる習慣をつけるべきだし、学校に辛いことがあっても、学校に来ている内に慣れてしまう。」と言いました。

 不登校の子どもは学校が辛いから学校から逃げて家にいます。家にいても何かと学校を思うことが多いから、学校を思うだけで辛くなり、その辛さを解消するためにゲームに耽ってしまいます。不登校の子どもでも、家の中が辛くなかったら、ゲームばかりをしていません。ゲーム以外のこともします。ただし勉強はしません。勉強は学校を思い出すので、とても辛くなり続けられないからです。

 不登校の子どもはゲームをしたくてゲームをしているのではないです。ゲームをしないと辛すぎて自分を維持できないから、ゲームをすることで自分の辛さを癒しています。ですからゲームが楽しくないと、子どもはとても状態が悪くなり荒れてしまいます。

 それは決してゲームが楽しくないから荒れたのではなくて、元来辛くてゲームをすることで荒れるのを防いでいたのですが、ゲームが楽しくないと元々ある辛さから暴れてしまうのです。

大人の思い、子どもの思い(5)

 昼夜逆転をしている不登校の子どもの親が言いました。「昼間寝ているから夜に眠られなくて、朝起きられないから学校に行けない。学校に行くために、生活のリズムを正す必要がある。」と言いました。

 不登校や引きこもりの子どもは、昼間起きているととても辛くなります。学校に行けない、引きこもっている自分自身を許せなくて(昼間には登校刺激や、引きこもりを否定するような刺激が多い)、いらいらしています。ところが夜になり辺りが暗くてしーんとしていると、このいらいらがなくなり、心がとても落ち着きます。その子どもなりの楽しみをすることができるようになります。

 そこでめいっぱいその子どもなりの楽しみをして、夜を過ごすことになります。そして朝になると眠くなり、寝てしまいます。昼間寝ていると、昼間に感じるいらいらを感じなくてすむので、子どもは昼間起きて生活をするより楽に一日を過ごせます。

 子どもが元気になるためには、この昼夜逆転の生活がどうしても必要なのです。不登校や引きこもりの子どもには、安心して昼夜逆転の生活をさせてあげてください。

 昼夜逆転をした子どもが昼間眠られないと、子どもはますます辛くなり、暴れたり、病気の症状を出したりしやすくなります。すると親は子どもが病気ではないかと疑い、子どもを病院に連れて行きます。医者は子どもが暴れたり、病気の症状を出すのは、子どもが病気だからであると診断して、子どもに薬を飲ませます。

不登校、引きこもりの子どもがする親への暴言、暴力 2009.2.4

 不登校や引きこもりの子どもは、突然親の向かって暴言を吐いたり、暴力を振るったりします。ただでさえ子どもの不登校や引きこもりで悩んでいる親にとって、子どもが理由もなく暴言や暴力を振る事実をとても理解できませんし、それらはより一層親を辛くしてします。

 あまりにひどい子どもの暴力で、親は家を飛び出さなければならなくなることもあります。最大限の親の愛情を注いで育てた子どもが親に向かってする暴言や暴力を、親としてはとても許せないと感じる場合もあります。警察を呼んで子どもを押さえつける必要を感じる場合もあります。親もとても生きた気持ちがしなくて、時には親も子どもを殺したくなるときもあります。

 あれだけ親に優しかった子どもが、あれだけよい子だった子どもが、なぜ親に向かって暴言や暴力を振るうようになるのか、それを理解するためには”恐怖を生じる条件反射”を理解しなければなりません。ここでは”恐怖を生じる条件反射”の説明は省略します。

 子どもは”学校”のような、その子ども以外の人には何でもないか、または楽しい物で、その子どもがとても辛くなるような条件刺激を学習しています。学校などの親からみたら楽しいところ、どの子どもも毎日通って当たり前のところから、不登校、引きこもりの子ども達は恐怖を感じて辛くなっています。

 何かで辛くなっている人を含めたほ乳類は、辛いところから逃げ出します。けれど何かの理由で逃げ出せないときには自分を辛くして追い込んでいる相手に攻撃をします。いわゆる窮鼠猫を噛むという姿です。辛い子どもは相手のことを思いやってあげる余裕はありません。ほ乳類としての本能から自分という個体を守ることしかできません。自分を辛さから守るので精一杯なのです。

 いくら親が子どもの不登校や引きこもりで辛い思いをしているからといって、その親の辛さを考慮する余裕はないです。それどころか子どもが辛くて不登校や引きこもり状態であることを許せない親にますます辛さを感じて、より一層強い暴言や暴力を振るうことになります。

子どもがよい子を演じる 2009.2.12

 子どもがよい子を演じる場合について、二つの場合があります。
 一つは心が元気な子どもがよい子を演じる場合で、挑戦とも表現できます。子どもがその子どもの能力以上のことを求められたとき、子どもがその求められたことを達成しようとする姿です。

 それは子どもにとって辛いことですが、多くの場合親からの喜びを得られるので、その喜びで辛さを解消して、よい子を演じ続けます。挑戦し続けます。親から得られた喜びで辛さを解消できないときには、子どもはよい子を演じるのを止めて、挑戦を止めて逃げ出します。この場合も逃げ出せることが多いので、逃げ出せたときには子どもの心に後遺症を残すことはありません。

 逃げ出せないときには、または自分から逃げ出そうとしないときには、子どもは辛いという症状を出しながらよい子を演じ続けます。挑戦を続けます。その過程で目的を達したら、子どもは全ての症状を出さなくなって、能力を高めて、大きな自信を持てます。

 逃げ出せなくて、かつ目的も達成できないときには、子どもはだんだん元気を失っていきます。子どもは心が辛い状態になっていきます。問題行動を起こしたり、病気の症状を出したりします。

 もう一つは心が辛い状態の子どもがよい子を演じる場合です。心が辛い状態のこともだ辛い状態になったとき、子どもはその辛い場所から逃げ出そうとします。逃げ出せたらそれ以上辛くなることはないですが、逃げ出せないときには子どもは辛さを素直に表現しないで、よい子を演じます。よい子を演じて辛さから逃れようとします。

 よい子を演じている内に辛さから逃れられたら、子どもは元々の辛さの範囲で辛さを感じるだけですが、よい子を演じている内に辛さから逃れられないときには、子どもはよい子を演じる限界が来て、問題行動を起こしたり、病気の症状を出すようになります。

 元気な子どもが演じる良い子と、心が辛い状態の子どもが演じるよい子と、その姿からは区別をつけられません。子どもがよい子を演じるようになる前の子どもの姿、よい子を演じている経過から、判断をするしかないし、また判断できます。

子どもについて、理性の心と情動の心 2009.2.24

 子どもでは顕在意識にある理性の心の情報量が大人に比べて少ないです。しかし潜在意識にある情動の心は既に大人と同じです。大人では理性の心で情動の心を調節して行動していますが、子どもでは理性の心が情動の心を調節することができないか、大変に下手です。ですから大人では主として理性の心で反応して行動していますが、子どもでは主として潜在意識にある情動の心で反応して行動しています。大人では理性の心で情動の心を調節して反応し、行動していますから、情動の心を考えなくても、大人の心を理解できます。多くの大人が情動の心の存在に気づいていない理由です。

 大人でも情動の心が強く働いて、理性の心で調節できなくなったときには、子どもと同じように情動の心で反応して、行動してしまいます。混乱した、パニックになったと表現しているのは、情動の心が暴走した状態です。また、大人では理性の心で情動の心を調節して反応し、行動していますから、子どもも理性の心で情動の心を調節して反応し、行動できると考えています。この誤解で大人は子どもの心を理解できなくなっています。大人と子どもの心にずれを生じています。

 大人では理性の心の表現は言葉や文字、理性的な行動です。子どもでは理性の心の表現は言葉や文字です。子どもでは大人と違って、理性的な行動ができないか、大変に下手です。子どもで理性的な行動と観察されても、情動からの行動のことが多いです。理性の心の情報は、そのときまで学んできた知識です。それは日常生活や学校で、実経験、言葉や文字で学んできた知識で、言葉や文字で表現できます。大人ではその知識に基づいて行動することが可能ですが、子どもではできないか大変に下手です。

 情動の心の表現は体中の臓器に現れる症状、表情や情動行動で、大人でも子どもでも同じです。情動の心の情報とは生きるための行動や反応をし、生きるために好ましくないことから逃げたり、回避するための行動や反応をします。命に直結した心になります。人間の本心と言って良いです。

 以上の事実をまとめると、大人と違って、子どもは理性の心で反応して言葉や文字で表現し、情動の心で反応して体中の臓器に症状を表現し、表情や情動行動で表現します。情動の心は体中の臓器に表現しますから、心が辛い状態の子どもの心を考えるときには、真っ先に情動の心について考える必要があります。心が辛い状態のこどもとは、この情動の心が危険を感知して、その危険から逃げたいのに逃げられないから辛さを表現しているのです。それに対して理性の心は単に子どもの知識を表現しているだけです。多くの大人は理性の心の中の知識に注目して子どもを考えますが、それは知識で飾られた子どものうわべの姿を見ることになり、子どもの本当の姿は見られません。子どもの本当の姿は情動の心だからです。

 子どもの理性の心と情動の心が、子どもが受けた情報や刺激にどのように反応するのかを考えてみます。理性の心と情動の心の内容に沿った事柄や刺激を受けたときには、理性の心や情動の心の内容を強化していくだけですから、そのことについてはここではふれません。子どもの心を考えなければならないときとは、子どもが辛い状態にあるときです。子どもが辛くて苦しんでいるときに、子どもを守るためにはどうしたらよいかを考えるときです。

 子どもが辛い状態にあるときの例として、子どもが不登校状態で苦しんでいる時を考えてみます。このときの子どもの理性の心の情報は「学校に行かなくてはならない」です。情動の心の内容は「学校が辛い」です。このとき子どもは言葉で「学校に行かなければならない。学校に行きたい。」と言います。しかし情動の心は学校に反応して学校を回避しようとしますが、回避できないので、体中の臓器に辛い症状を出すことになります。このように理性の心があることを求めようとしていて、情動の心がそのあることから回避しようとするとき、その心の状態を葛藤状態と言います。

 この不登校の子どもに親が「学校に行きなさい」と言ったとき、その言葉は理性の心と一致しています。理性の心が肯定されたという事実で、情動の心は喜びを表現します。その喜びの程度は子どものそれまでの経験で異なります。ある子どもでは強く喜びを表現するでしょうし、別の子どもは殆ど喜びを表現しないかもしれません。いずれにしても「一足す一が二」と答えたら、「その答えが合っているよ」と言われたのと同じです。

 この不登校の子どもに親が「学校に行きなさい」と言ったとき、その言葉は情動の心の学校に行けないと言う情報を否定しています。情動の心がより強く体中の臓器に辛い症状を出すことになります。より強い葛藤状態になります。その辛い症状の出し方は、理性の心が肯定されたという事実で、情動の心が喜びを表現するその表現法で異なってきます。強く喜びを表現する子どもは最初嬉しそうにしますがその後子どもは状態が悪くなって酷く荒れます。喜びを殆ど表現しない子どもはすぐに状態が悪くなって酷く荒れてしまいます。時間が経つと子どもは今まで以上に辛さを表現し、荒れるようになります。

 この不登校の子どもに親が「学校に行かなくてよい」と言ったとき、その言葉は理性の心を否定しています。理性の心が否定されたという事実で、情動の心は辛さを表現します。その辛さの程度は子どものそれまでの経験で異なります。ある子どもでは強く辛さを表現するでしょうし、別の子どもは殆ど辛さを表現しないかもしれません。いずれにしても「一足す一が二」と答えたら、「その答えが違っているよ」と言われたのと同じです。

 この不登校の子どもに親が「学校に行かなくてよい」と言ったとき、その言葉は情動の心の学校に行けないと言う情報を肯定しています。情動の心が体中の臓器に喜びの反応を出すことになります。今までの葛藤状態が薄められます。その喜びの反応の出し方は、理性の心が否定されたという事実で、情動の心が辛さを表現するその表現法で異なってきます。強く辛さを表現する子どもは最初荒れます。しかしすぐに収まって、その後症状が悪くなるようなことはないです。辛さを殆ど表現しない子どもはすぐに今までの辛い症状が軽くなってきます。子どもの中にはちらりと喜びの表情を示す子どももいます。時間が経つと子どもが以前より辛い症状が無くなって、落ち着いてきます。

子どもの不登校を認められない父親 2009.4.15

 不登校で苦しむ子どもの姿を見て、母親は子どもの不登校を認められるようになります。もちろん全ての不登校の子どもの母親が子どもの不登校を認められたらよいのですが、認められない母親も多いです。母親が子どもの不登校を認められるようになったとき、子どもと母親との関係が良くなり、子どもへの対応が母親には楽になります。次に母親が悩むのは、子どもの不登校を理解しない父親への対応です。

 多くの場合、子どもを学校に行かせたい自分の思いを、父親は威圧的に通そうとしますから、母親は父親の言葉や態度に動揺してします。子どもへの対応もぶれてしまいます。子どもと母親との関係を悪くしてしまいます。子どもの不登校問題の解決が遅れてしまいます。

 一般にどこの家庭でも父親は子どもの立場で不登校を理解しません。それでも母親がしっかりと不登校を理解して、子どもを守る対応を続けるなら、子どもは母親だけを信頼するようになります。子どもと母親との間に信頼関係が強まると、子どもの方で父親を拒否するようになります。父親の威圧的な対応の影響が弱まります。けれどやはり父親からの登校刺激はない方がよいです。母親は父親からの登校刺激を無くする努力が必要です。

 父親が子どもの不登校を理解しない状態では、常識に反しますが、夫婦円満は必要ないです。時には夫婦げんかをした方が良い位です。不登校の子どもは夫婦仲が良いことを期待していません。かえって夫婦仲が悪い方が、子どもの方では母親が自分を守ってくれると感じて、母親をより強く信頼しようとします。

 子どもと母親との間の信頼関係がより強くなり、解決が早くなります。それに対して、夫婦仲が良いと、母親が不登校を認めない父親を認めていると子どもは感じて、母親に不信感を感じるようになります。子どもの不登校問題の解決が遅れてしまいます。

 また、母親は子どもの不登校を理解しない父親との離婚を覚悟しておくと良いです。多くの父親は母親親からの離婚に弱いです。但し母親が父親に離婚を突きつけられるほど強くなる必要があります。母親の心を強くし、安定させるには、できるだけ多くのへそくりを作って経済的に父親に依存をする必要が無くなる必要があります。経済的な安心感が母親の気持ちが強くします。

 父親が威圧的になれる理由は、父親が腕力と経済力を持っているからです。腕力に関して、母親はどうしても威圧感を感じます。子どもが大きくなると、特に辛さを荒れるという形で表現する子どもについて、子どもからの威圧感を父親親も感じるようになりますから、父親は腕力を振るいにくくなります。威圧的になりにくいです。また、母親に経済力があり、いつでも離婚が可能と感じると、結構父親は威圧的にはできなくなります。

母親に向かって荒れる不登校の子どもについて 2009.5.5

 多くの大人は、子どもが荒れるときに、その子どもが病気だから、治療を受ける必要があると考えます。その子どもを病院に連れて行きます。または、その子どもの性格が問題だから、その子どもの性格を正す必要があると考えます。親に子どもの性格を正すことができないなら、しかるべき機関に子どもを委ねて、厳しく子どもをしつけることを主張します。

 そのような考え方、対応の仕方は、その大人が子どもの心を全く理解していないという意味です。そのようなとき、子どもは一見大人の要求を受け入れて、大人の希望するように行動するように見えますが、子どもは大人に不信感を持ち続けて、病気の症状を出したり、何かの折りに問題行動をするようになります。

 子どもが母親に向かって荒れている場合、母親以外の人に向かって荒れるのと、違う考え方が必要です。その理由として、子どもには大人にはない特質を持っているからです。その特質とは、次のような反応の仕方(子どもの本能)です。この特質を理解して子どもの心を考える必要があります。

 それは「子どもは辛くなると、その辛くなる場所から逃げようとする。逃げられないときにはよい子を演じる。逃げることも、よい子を演じることもできなくなったとき、子どもは荒れる。その子どもが荒れるのを大人の力で押さえ込んだとき、子どもは病気の症状を出す」という反応の仕方です。また、子どもはその本能として、「母親にとても優しい」という能力を持っています。

 子どもは母親を大好きだから、母親を苦しめたくないです。しかし不登校の子どもはとても辛くて、辛くて、辛さに耐えられる限界を超えていますから、母親に優しくできないのです。子どもは自分の辛さを母親に分かって欲しいのです。子どもは辛さから母親に助けて貰いたいのです。しかしその子どもの辛さが母親に伝わらないから、子どもは母親に優しくできないほどに追い込まれて、母親に向かって荒れています。子どもの姿としては母親に向かって荒れるという形をとりますが、見方を変えると、「お母さん、僕を、私を理解して、助けて!」というサインとも理解できます。

 ある親の会で、荒れる子どもへの対応で母親が疲れた時(母親が荒れる子どもの対応に疲れ果てるほどなるのは、母親の対応が子どもの本心に沿っていないからです。母親の対応が子どもの本心に沿っていると、子どもは次第に母親に優しくなります)、母親が「私も人間なのよ、私も生きる権利があるのよ!何でそんなにお母さんを苦しめるの!」と怒鳴ったとき、子どもは荒れるのを止めて大人しくなったと述べました。だから「荒れる子どもへの対応で辛くなったら、母親も自分の素直な気持ちを出して、子どもを怒鳴りつけて良い」と言いました。

 そのとき、子どもは納得して荒れるのを止めたのでしょうか?違います。この場合、子どもは母親に恐怖を感じて荒れるのを止めざるを得なかったのです。母親を信頼できなくなったのです。今まで子どもを元気にするための母親が行っていた努力が全て無駄になりました。その後、子どもは母親に向かって荒れる代わりに、病的な症状を出すようになります。

 けれど多くの場合、荒れる子どもへの対応で母親が疲れて、母親が「私も人間なのよ、私も生きる権利があるのよ!何でそんなにお母さんを苦しめるの!」と怒鳴ったなら、子どもは母親に向かってますます荒れる場合が多いです。子どもはより辛くなるからです。母親は子どもがより荒れることで、より苦しまなければならなくなります。

 母親は荒れる子どもへの対応で疲れて苦しくなっても、子どもは辛い母親以上に苦しんでいることに気づいて、子どもの本心に沿った対応を続ける必要があります。また、母性が発揮されている母親なら、対応の辛さに耐え続けられます。母親の母性が素直に働く環境を、父親は作る必要があります。殆どすべての場合、父親の荒れる子どもへの対応は、かえって子どもを辛くして、子どもの不登校問題の解決を送らせますから、父親は荒れる子どもへの対応を直煮はしない方がよいです。母親を介して、母親が納得した状態で、荒れる子どもに関わるのがよいです。

 子どもが荒れるときには、その子どもがとても辛い状態にあります。子どもが辛いから、そしてその辛さから逃れられないから、母親に向かって荒れています。子どもにとって母親とは自分の命と同等なぐらいに大切な存在です。その子どもにとって自分の命と同等なぐらいに大切な母親に向かってなぜ荒れるのでしょうか?

 子どもが辛いとなぜ母親に向かって荒れるようになるかという理由をもっと詳しく場合分けすると、三つの場合があります。

 一つは母親が子どもに登校刺激を与えている場合です。母親が子どもの不登校問題を解決するために、一生懸命子どもを学校に行かせようとしている場合です。子どもは母親からの学校に行かせようとする対応を受けるたびに、学校から受ける辛さで荒れてしまいます。子どもが学校に行き渋っているときの子どもの荒れる姿です。親が子どもを学校に行かせる対応を止めない限り、子どもは母親に向かって荒れ続けます。

 二つめは、母親が一応子どもの不登校を認められているけれど、子どもの方で自分の周囲にある物(例えば教科書や学校からの印刷物、学生服、鞄、机など)に反応して、登校刺激を感じているときに生じます。子どもはなぜ自分が辛くなるのか理解していません。子どもは自分が辛いことを訴えて、母親に守って貰いたが、母親はなぜ子どもが辛くなっているのか分かりません。

 母親は子どもの辛さから、子どもを守れません。母親が子どもを守れないので、母親に向かって子どもは荒れます。子どもにとって母親が直接の辛さの原因ではないけれど、子どもの辛さを癒さないという状況下で、母親に向かって葛藤状態になり、母親に怒りを感じ、子どもは荒れてしまいます。

 この場合には、母親は子どもの周囲にある、子どもが学校を意識する物を取り除く必要があります。それと同時に、子どもの辛い心を癒す必要があります。子どもが母親に向かって荒れても、母親は逃げ出しては意味が無くなります。子どもの暴力に耐えながら、子どもに共感し、スキンシップを繰り返す必要があります。

 三つ目は、希に年長の子どもに見られることですが、母親が子どもの不登校を認めているけれど、子どもの方で母親に登校刺激を感じている場合です。母親が子どもの辛さの原因となっている(かつて母親がしきりと登校刺激をした結果、母親が登校刺激を止めても、子どもの方で母親を見ると反射的に登校刺激を感じて辛くなっています。そのとき子どもは母親の姿を見ることで、自分のあるべき姿を無意識に想像しています。そして現実の自分と比較して葛藤状態になり、自己否定を起こしています)場合です。

 子どもの辛さの原因に母親がなっていても、母親がそれに気づいていない場合です。ある時までしきりと登校刺激をし続けていた母親が、子どもの不登校を認められるようになっても、依然として母親に向かって子どもが荒れる場合です。母親の存在自体を子どもが登校刺激として感じています。別の表現をすれば、母親と子どもとの間に信頼関係が十分にできあがっていないことが考えられます。

 母親は子どもの不登校を受け入れられているから、母親にはなぜ子どもが母親に向かって荒れるのか理解できません。母親が子どもの問題点を見つけて解決しようとして、子どもに近づけば近づくほど、子どもは荒れます。ですから母親は必要がない限り子どもに近づかないようにする必要があります。しかし子どもが求めたときには直ちに子どものそばに行く必要があります。そのときには子どもは基本的に、母親に向かって荒れることはないです。

親の会 2009.5.20

 不登校・引きこもりの子供を持つ親の会がたくさんあります。そこでは主として母親が、不登校・引きこもりの子どもへの対応で辛い思いを述べあって、辛い心を癒しあっています。そこでは主催者、不登校・引きこもりの子どもの問題を終えた親、不登校・引きこもりの経験者たちのアドバイスを受けて、その母親なりの対応法を模索しています。母親達は親の会から元気を貰って、気持ちを新たにして、家に帰って自分の子どもへの対応を続けています。

 不登校・引きこもりの渦中にある子ども達は、基本的に母親が元気で、自分たちの心に沿って、自分たちへの対応を続けてくれる方が嬉しいです。ただしそのように感じられる子どもは、かなり母親から子どもの心に沿った対応を受けて、かなり元気になってきた子どもの場合です。不登校・引きこもりの子ども達の内で、日々の生活が辛すぎて、絶えず母親の存在が必要な子どもは、母親を親の会に出席させようとはしません。母親が楽になるより、自分が少しでも楽になる方を優先するからです。

 不登校・引きこもりが母親から認められた場合や、その子どもなりに何か楽しみを見つけられて、母親が子どもから離れていても辛くならなくなったとき、子どもは母親を親の会に出席させてくれます。そのような子どもは自分が必要なときに母親が居てくれればよいからです。しかし自分が必要なときに母親が居てくれていても、その母親に元気がないと、子どもはそれだけで大変に辛くなります。母親の元気がない姿が、現在の自分を肯定してくれていないと感じ取ってしまうからです。

 母親の姿が元気だと、子どもは母親が自分を否定していない(肯定しているとは必ずしも感じていないようです)と感じられて、子どもは辛くならないからです。ですから、母親が親の会に出席して、より元気になってくれていた方が、子どもは嬉しいのです。母親がより元気になると、子どもは母親が自分を肯定してくれていると感じ出します。

 多くの親の会では、は主催者、不登校・引きこもりの子どもの問題を終えた親、不登校・引きこもりの経験者たちが、辛い子どもの心に沿った対応をアドバイスしてくれるので、そのアドバイスに基づいて母親が対応を続けると、子ども達は元気になっていきます。しかし母親の対応は受け売りですし、親の会から母親が貰ったアドバイスも全てが全て、母親の子どもの心に沿っているわけではないです。そのことから、子どもはどうしても母親を完全に信頼し切れません。何かはっきりと分からないけれど、子どもは母親に一抹の不満を感じてしまっています。

 不登校・引きこもりの渦中にある子どもが、そして経験者の子ども達が、親の会とは傷のなめ合いだと言う場合があります。母親達だけが辛い心を癒しあって、母親が楽になっても、子どもを楽にはしてくれていないという意味です。確かに苦しくて、苦しくて、全く動けなかった頃より子どもは元気になったでしょうが、それでも未だ子どもは辛い状態にあります。それ以上十分にはエネルギーを貯められません。しかし母親の方では、以前より子どもが元気になったので、今の対応を続けておけばますます子どもは元気になり、エネルギーを貯めて、社会と関わり出すと、自立した大人になれると考えてしまいます。

 不登校・引きこもりの子ども達は親に子どもの心に沿って変わって貰うことを求めています。親だけが楽になって貰うことを望んでいないのです。親が楽になったら、その楽さを子どもに還元して欲しいと願っています。母達はそのつもりでいるのでしょうが、それはあくまでも親のつもりです。実際に子どもは多くの部分で母親に支えられているのですが、子ども達の受け取り方としては、十分親に支えられていないと感じています。それどころか、親が元気になって、子どもへの対応が子どもの心に沿わなくなっていくと、子どもは親が親の会に参加するのを嫌がり出します。

子どもの心を理解する 2009.6.13

 子どもを理解するには、大人と違った考え方が必要です。子どもの心を理解するには、意識に上り、言葉の形で表現する「知識の心」と、潜在意識にあって子どもの行動や体に症状で表現する「本心」と、二つの独立した心を念頭に置いて考える必要があります。

 多くの大人では知識の心が潜在意識にある本心を支配していて、特別の場合を除いて、潜在意識にある本心を考える必要がありません。大人の発する言葉がその大人の本心だと理解して間違えることはないです。

 子どもは知識の心と本心とが独立しています。基本的に知識の心で本心を支配することができません。知識の心で本心を支配するためには、子どもの持つ喜びや辛さを利用します。大人と違って、本心が持つ喜びを得ようとする反応、辛さから逃げようとする反応を利用して、知識の心を実行しています。子どもでは知識の心から反応するためには、必ず喜びか辛さが伴っています。

 例えば、親から「勉強をしなさい」と言われた場合です。子どもは親を喜ばすために、または勉強をしないと親から叱られるから、子どもは机に向かって勉強をします。親が喜んだり、叱ったりすることがないと、子どもは勉強をしようとしません。又子どもとは全く関係ない大人が「勉強をしなさい」と言っても、子どもは勉強をしません。

 勉強する内容に子どもが興味を持つと、子どもは勉強を続けます。喜びを感じています。勉強をする内容に子どもが興味を持てなくても、母親が喜んでくれるとか、勉強の後おやつが貰える、好きなゲームができるとなると、子どもは勉強をします。また、勉強をしないと親から叱られる場合も、子どもは親から叱られないように勉強をします。しかしこれらの喜びや辛さがない場合、子どもは勉強をしないで、どこかへ遊びに行ってしまいます。

 大人の言葉に子どもが反応するには、必ずその子どもの喜びか辛さが伴っています。子どもの喜びを伴っている場合には、子どもの反応に発展性があり、子どもの知識の心を成長させてくれます。子どもの辛さを伴っている場合には、子どもの反応はその場限りで、以後はその言葉を避けるための、その言葉を言う人を避けるための反応になってしまいます。この点が大人には理解できないことなのです。

 何が子どもの喜びになっているのか、何が子どもの辛さになっているのか、それは子どもによって異なります。傾向はありますが、その子ども特有の喜び、その子ども特有の辛さもあります。特にその子ども特有の辛さの場合、その子ども以外の子どもや大人では喜びが、その子どもでは辛さになっている場合があります。大人としてはその子どもによかれとしてかけた言葉が、対応が、その子どもを苦しめ続けて、子ども辛さに追いやり、大人から見たら問題行動を取るようになります。

 大人から見て問題がある子ども、矯正を必要とする子どもと間違って理解してしまう場合をしばしば見聞きします。大人が言葉で子どもへ大人の意思を伝達する際に、大人が子どもへの誤解を、大人が子どもを大人と同じように考えて、つまり子どもを理解していないのに、大人には問題が無くて、子どもが問題だとしてしまう誤りを、延々と繰り返し続けていることです。

見守る 2009.6.29

 不登校の子供を持った親が、子どものありのままを認めて、子どもが自分で不登校問題を解決するのを待とうとする親は、しばしば「子どもを見守る」という言葉を使います。

 ある母親の経験です。学校に行けない子どもを学校に行かそうとして、親も子どももとても辛かったのですが、子どもが学校に行かない現実を親が受け入れられて、子どもの心が安定し元気になってくると、母親も嬉しくなります。その様な子どもがゲームをしている姿を母親が見ていると、母親の視線を感じて、子どもが母親を見ました。目と目が合ってしまいました。すると子どもは
「ゲームばかりをしないで、少し運動をしようかな。」
と言いました。すぐに母親は
「ゲームをしていて良いのよ。今は運動よりもゲームの方が大切だから。」
とフォローしました。まだ子どもは運動をするほど元気になっていないことを、母親は知っていたからです。

 子どもが「運動をしてみようかな。」と言うと、多くの親は子どもが元気になってきたと考え、嬉しくなります。けれどいくら待っても子どもは運動をしようとはしません。そこで親はがっかりします。有言不実行の、困った子どもだと考えます。子どもへの対応に困惑してしまいます。

 この例の母親は、子どもの言葉は子どもの本心から出た言葉ではなくて、母親を喜ばすための言葉であることを知っていました。子どもが無理をして「運動をしてみようかな」と言ったことに気づきました。ですから、子どもの本心に沿って「運動よりゲームの方が大切だ」と言ったのです。その言葉で子どもは、ほっと安心をして、ゲームを続けることができたはずです。

 この例の母親のように、子どもの心に沿った対応ができている母親でも、子どもが母親の視線を感じたり、母親がその子どもの何かを気にしていると子どもが感じたとき、子どもは無理をしてよい子を演じてしまいます。その際にこの例のように、子どもはそのときのその子どものあり方を否定してしまいます。それだけ辛くなり、元気が出なくなります。

 不登校や引きこもりで辛い状態の子どもは、その子どもが求めない限り、その子どもへの親の注目はその子どもを辛くします。基本的に親は子どもを見ない方が良いです。注意を払わない方がよいです。親は子どもを見守るという概念を捨てた方がよいです。子どもを信頼して、待ち続けるのがよいです。待ち続ける間、親は親のしたいことを続けておいて、子どもから何か要求が出るのを待ち続けるのが良いです。

 ただし、子どもが荒れているとき、または子どもが病気の症状を出しているときには、母親は子どもの側にいて、子どもの荒れが少なくなるような対応を、子どもが出す病的な症状が減るような対応をとり続ける必要があります。

いじめ経験8割超す 小中学生調査 2009.7.1

 小中学生の8割でいじめたり、いじめられたりした経験があるという実態が26日、国立教育政策研究所の追跡調査で報告されました。多分、子ども達へのアンケート調査でしょうから、子どもによっていじめの概念が異なると思います。

 子どもによって受けた虐め、行ったいじめの程度は異なると思います。それにしても子ども達はいじめにとても敏感になっている姿であると判断されます。報告書ではいじめが根深い問題であると表現しています。

 その一方で、教師達は自分達の学校には虐めはないと判断してきています。この事実は、子ども達がいじめについて敏感になっている一方で、教師達はいじめについて関心を払っていない姿だと思われます。つまり子ども達は学校生活の中でいじめられないように絶えず注意をしていなければならないし、ついつい虐めもしてしまっているという事実です。

 子ども達は今の学校で勉強に集中しようとしても、できない現実があることを示しています。教師達が子ども達の成績を上げようと一生懸命でも、子ども達はその様な教師についていけなくて、自分を守ることで精一杯であることを、教育関係者は認識すべきです。

 今まではいじめる子どもが悪い、いじめる子どもを矯正して、いじめをなくそうとしてきていますが、その様な大人の考え方が間違っていることを、子ども達がはっきりと示しています。他の根本的な問題点を探す必要があります。

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