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心療内科 赤沼医師のコラム

親の知的安心からの子育て 2006/12/22

 人間以外の動物の子育てを観察すると、子育てとは親がその責任に置いて子どもの要求する物を与えて、子どもを自立させる過程と判断されます。子どもが要求する物を、親がその本能から感じ取り、子どもが納得するまで与え続ける過程と表現できます。それは人間にも当てはまりますが、人間には親の知的な安心のための子育てをする要素があります。その知的な安心とは、人間の文化が親に要求しているものです。たとえば経済的に豊かになるとか、学歴とか、優れた運動能力を持つとか、芸術的に高い能力を持つなどです。

 大昔の人間も、その子育ては親の持つ本能からの子育てでした。ところが人間の文化が進歩すると、親はその文化が要求する物を子どもに要求するようになってきています。親がその文化の中で得た物からの子育て、親の知識からの子育てをするようになっています。その親の知的安心からの子どもへの要求は、決して悪いことではないですが、親の本能としての子育てがそれによって阻害されたときには、子どもは大変に苦しくなってしまいます。子どもは親の要求を叶えられないばかりか、子ども自身の生物としての成長も阻害されてしまう場合があります。もちろん、親の知的安心感からの子育てが子どもの要求と合致している場合には、子どもの成長によい効果を与えます。とても優れた子どもを育て上げることになります。

 どの親も一生懸命子育てをしています。親の持つ本能からの子育てと同時に、親の持つ知識から、子どもにとって一番良い子育てを、親にとって一番良い方法で子育てをしています。その親の子育てに子どもは答えて、子どもなりに成長していろいろな能力をつけ、心を発展させていきます。ただ、親の希望や要求が子どもを苦しめてしまい、子どもの成長を阻害するようでは、せっかく一生懸命にした子育てが報われません。大切なことは親の知的安心感からの子育てを子どもが受け入れてくれているのかどうかを感じ取る能力があるかどうか、親には問われることになります。

 たとえば、親は自分の子どもが親の思い通りに育って欲しい物です。親の思いを子どもに押しつけてそれからはずれた子どもを叱ることで親の思い通りに行動させようとします。それが子どもが幼いときから長年続くと、子どもが自分で判断できない子どもになり、判断を親へ依存するようになってしまいます。親としては親の希望する通りの子育てが出来たのですが、いわゆる親の子どもへの過干渉の結果、子どもは自主性のない、無気力な子どもになってしまいます。親も子どもが自主性がない、無気力だと言ってより一層子どもを親の思い通りに動かそうとします。いわゆる子離れをしない親、親離れが出来ない子どもの関係になります。

 このような関係は母親と男の子の関係によく見られています。子どもが社会人になったときには、与えられた仕事は上手にこなせても、発展的な仕事には適していません。親から見たらとても性格がよい子どものように見えますが、自分が親から受ける評価を大切にするために、視野や考え方が狭い大人になっています。どうしても他人から受け入れられることが出来ないために、結婚や社会生活に障害を生じ易くなります。

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訴えが消される 2007.1.10

 私が壁に穴を開けたり、窓ガラスを破って荒れているとき、私は壁やふすまに、「おまえらを呪ってやる!」とサインペンで何回か書きました。その書いた私の字を、両親は洗剤や揮発油で、一生懸命、苦労をして消してしまいました。また、私が手首をカミソリで切って、その血で壁に書いた「おまえら、死ね!」という文字も、両親が消してしまいました。両親は壁の字を消すことだけに一生懸命でした。私が拳でカラスを破っても、両親はガラスや窓を直すことばかりを気にして、そのときできた私の傷には全く配慮をしてくれませんでした。

 苦しくて苦しくて、死を選択する直前の私の訴えを、両親は消し続けたのです。やっとの思いで訴え続けた私を無視して、何事もなかったかのように、毎日が過ぎていっていました。無視され続ける私。私は激しい怒りを感じるとともに、悔しさとむなしさを感じて、また暴れざるを得ませんでした。「わかってくれ~」私は暴れるという、声なき声で叫び続けました。けれどその私の訴えは、押さえつけられ、無視され続けられて、誰にも届かなかったのです。

 「死にたい、死ぬまで暴れてやる!。死ぬまで血を流し続けてやる!。わかってもらえるまで血を流し続けて死んでもいい、もっと血を塗りたくってやる!」という、私自身も訳の分からない、体の奥から涌き上がる衝動に翻弄されて、私は毎日のようにリスカをし、その血で壁に字を書き続けました。その私が書いた字を、すぐ側から両親は消し続けました。私のことを全く理解しようとしない両親しか、私にはいなかったのです。

 母は「何で壁に字を書くの?何で手を切るの?何で?何で?」と、私に対する絶望と悲しみの涙を目にいっぱい溜めながら私を問いつめました。私も母に背を向け母に気づかれず泣いていたのです。バケツの水をばさっと床にまき散らすと、母は「やめてよ!床が腐る!」といって、まいた水を拭き取りました。そして同じように「何で床に水をまくの?何で私が嫌がることをするの?何で?何で?」と、私に対する絶望と悲しみの涙を目にいっぱい溜めながら私を問いつめました。

 私は母親に、「どうして私を作ったの?どうして私をこんなにしてしまったの?私をこんなにするのなら、最初から生まなければよいのに!どうして?どうして?」と怒鳴りつけました。激しい、両親への私の怒り、私が暴れて壁に穴を開け、ガラスを割ると、母は「家が壊れるからやめて」と、私を押さえつけて止めようとだけしました。私は「両親にとって、私の命より家のほうが大事なのか!」と憎みました。

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子どもを不登校にして申し訳ない 2007.1.30

 不登校になった子どもの辛さが分かるようになった親の中には、「もっと早く、親が子どもの辛さに気づいていたら、子どもを不登校にさせないで済んだのに。子どもを不登校にして申し訳ない」と言う親がいます。子どもに優しい親は、子どもを苦しめたという意味で、子どもを不登校にしたことを後悔しています。確かに子どもは学校での辛さを親に訴えても、聞き入れてもらえなかったので、辛かったことは事実です。

 親として子どもの将来の幸福を考えて、子どもに関わっていくのは当たり前のことです。親だからできることです。子どもも親の要求を受け入れて、子どもなりに成長していきます。その子どもなりの性格を形成していきます。その際に、子どもが親の要求を受け入れられないと表現したとき、親は親の腕力で子どもに親の要求を受け入れさせるか、親の愛情を代償に、子どもに親の要求を受け入れさせます。場合によっては親の要求を受け入れない子どもを放棄したり、放任する場合もありますが、その場合は親が子どもに対する愛情を放棄してしまった場合です。

 子どもを一生懸命よい子に育てようとするのは、親として普通に行っていることです。多くの親が子どもに可能な限りの愛情を注いで、子どもを育てています。子どもも親の愛情を感じて、子どもにとってうれしいことも、辛いことも、その子どもなりに受け入れて成長しています。その子どもなりの性格を形成して社会に出て行きます。

 その子どもの属する社会の一つに学校があります。元来学校は子どもの要求に応えて、子どもの能力を伸ばすところでした。子どものための学校でした。ところが時代の経過とともに、学校は学校のための学校になり、子どもたちは学校を維持するための対象となってきています。それでもまだ、子どもたちが学校から離れたとき、その子どもなりに過ごせる場所と時間があったうちは、子どもたちはそこで子どもらしさを取り戻せて、親や学校に順応することができました。

 ところが現在は、子どもは四六時中管理されています。子どもが子どもらしく息を抜けるところがありません。子どもらしさを発揮できるところがありません。子どもらしさが発揮できる場所や時間を大人が作っても、やはり管理されているのには違いがありません。子どももよい子を演じて、子どもらしく振る舞いますが、心の中では辛さが続いています。その結果、子どもたちはとてもストレス刺激に弱い状態になっています。

 このような子どもたちでも、学校で子どもの心を傷つけるような事件がなかったなら、子どもたちは心に傷を帯びることもなく、元気に成長して大人になって、社会に出て行けます。親も先生も、自分たちのしてきたことが子どもたちにとって良いことをしてきたと判断するでしょう。けれど現実の学校は、学校のあり方からはずれている子どもを、力で無理矢理に学校のあり方に合わせようとします。それは知らず知らずのうちに、子どもの心に傷を作っていきます。また、学校のあり方からずれて、学校のあり方に無理矢理に合うように矯正された子どもたちの中には、他の子どもに辛いことをし始める子どもも出てきます。いじめです。いじめられた子どもは心に大きな傷を受けてしまいます。

 このように現在の学校では、子どもの心が傷つきやすい状況にあります。それは親の責任ではありません。現在の社会構造の問題点です。その社会構造の問題点から自分の子どもを守るのが親の役目です。子どもは辛くなると親に助けを求めます。その子どもの訴えを素直に聞かないで、社会常識にとらわれて、子どもに問題があると親が考えたときには、子どもは大変に辛くなります。学校で受けた心の傷を癒すことができません。子どもはだんだん心の傷を深めていって、子どもたちの中には学校での辛さに耐えかねて、不登校になっていく子どもが出てきます。

 親が子どもの訴えを素直に聞かないで、子どもを守らないから、子どもが不登校になっています。子どもの訴えを素直に聞かなかったから、子どもからの辛いから助けてというサインを見落としたから、確かに親は子どもにわびる必要があります。子どもにわびて、その子どもなりの成長を親が認められれば、子どもは親を責めません。子どもなりに学校に行かない成長の仕方を続けて、そのまま社会に元気で出て行くか、その子どもなりに必要を感じて再び学校を利用して大人になって社会に出て行きます。

 子どもが不登校になったことは仕方がないこと、子どもが不登校になったのなら、不登校になったなりの生き方を、子どもに認めていけばよいです。子どもには必ず将来があります。子どもはその子どもなりに、将来に向かって成長していきます。その将来のあり方を子どもに決めさせて、親は待っていればよいです。子どもの心が分からない親が子どもの将来を決めることができないからです。子どもが探し求めている将来を大切にすることを優先すれば、子どもが不登校になったことは問題ではなくなりますし、逆に不登校になったことを喜ぶことができるようになります。

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母親の子どもへの信頼 2007.2.7

 多くの母親は、子どもに口うるさく言います。それは母親が子どもを母親の思うように動かしたいからです。しかし、子どもは親からの言葉だけでは行動できないことを知って欲しいです。子どもが親の言葉で行動するときには、親から脅しという恐怖を受けていて、その脅しという恐怖を回避するために、子どもは親の指示に従っています。つまり、子どもは絶えず親から信頼されていないと感じていきます。辛いことを平気でする人として、親を理解するようになっていきます。親と子どもとの信頼関係はどんどん壊れて、子どもは親にしゃべらなくなります。

 子どもが親の言葉で行動する場合、親からの愛情というご褒美が期待できるときにも、子どもは親の指示に従って行動しています。その場合には一言で子どもは親の指示に従います。親の言葉に喜んで従うと同時に、子どもが親を信頼していきます。

 思春期になると、男の子は親にしゃべらなくなります。それは男の子特有の心理だと考えている親が多いですが、本当は違います。親の勝手な理解で子どもを理解しようとするから、子どもの心と親の心がすれ違います。子どもが親に話さなくなるのは、子どもが親を信頼しなくなった姿です。ただし、年長の子どもで自分の世界をしっかりと持っている子供はまた親にしゃべらなくなりますが、一般に幼ければ幼いほど、子どもは母親にしゃべりたがります。

 子どもから話しかけてこない限り、親から積極的に話しかけたり、声をかけたりする対応は必要ないです。時には悪い場合もあります。親が子どもの心を理解できているなら、親から子どもに話しかけても全く問題がありません。親が子どもを理解しないで話しかけると、子どもは話しかけられたことを嫌がります。嫌がるぐらいなら、話しかけない方がよいです。そして多くの親は子どもの心を知りません。ですから、話しかけない方がよいです。

 だらだらとテレビを見ていたり、ゲームばかりに耽っている子どもの姿を見ることは、多くの親にとって辛いです。ついついがみがみ言ってしまいます。親が苦虫を噛んだような顔をして子どもを見ていると、子どもはテレビやゲームを楽しめません。親が側にいることがとても苦痛に感じられます。一方、親が子どもを信頼できるなら、子どもがテレビやゲームに耽っている姿を見ても、これは子どもに必要なことだからと感じられて、子どもの姿を見てもにこやかでいられます。親がにこにこして楽しそうなら、子どもは安心して自分の楽しみに耽ることができて、元気になっていきます。耽っている楽しみを卒業して、次の楽しみを見つけることが可能になります。

 多くの親は、子どもを一人家に置いて外出すること嫌がります。それは親の居ない間に子どもが何をするのか心配になるからです。または、子ども一人を家に置いて寂しい思いをさせるのはかわいそうと思う親心です。勿論子どもの年齢にもよりますが、子どもの心が自立していると、親から子どもが信頼されていると、子どもは意外と一人で家にいることにも耐えられます。親が居ない間に、一人で自分なりの楽しみに没頭して、その子どもなりの生き方を確立していきます。それは子どもの心の成長にとても大切なことです。

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妹も一緒に不登校 2007.2.25

 小学5年生の姉が不登校になった後、半年ぐらいたって小学2年生の妹も学校に行きたくないと言い出しました。妹には友達も多く、とても楽しそうに学校に通っていたので、なぜ妹が学校に行きたくないと言い出したのか、両親には全く理解できませんでした。姉が妹にとても優しくて、一緒に遊んでくれますし、テレビやビデオ、ゲームも姉と一緒に楽しめるので、妹はずるして学校に行かないと言い出したのではないかと、両親は疑っていました。そこで妹を学校に行かせようとすると、姉の時と同じように、妹はお腹が痛くなったり、吐き気がしたりしたりする症状を出して、学校に行こうとしません。学校を休むと、姉と楽しく遊んで過ごしていました。

 妹が学校に行きたくないと言い出すまで、妹は一生懸命学校に行こうとし続けていました。妹としては学校に行きたかったのです。行きたい学校が辛かったけれど、友達と楽しそうにして遊ぶことでその辛さがどうにか解消できていました。また、学校で楽しく遊ぶことで、先生や両親から良い評価を得ることで、学校での辛さを妹なりに回避しようとしていたのでした。一生懸命耐えて妹が学校に行っていても、学校がますます辛くなり、妹の努力の限界を超えてしまいました。

 姉が不登校になり、家で姉なりに過ごせる姉の姿を妹は見ていました。姉への親の対応を見ていて、妹は必ずしも学校に行かなくても良いことに気づいてきていました。そして、学校がとても辛くなったとき、もうそれ以上我慢をしないで「学校に行きたくない」とはっきりと言えたのです。姉に許可された不登校を、妹も当然許可されると判断したのです。姉とは異なって、学校への妹の拒否反応が弱い時期に、妹は不登校を希望しました。妹がこのような不登校の仕方を選択したので、家で楽しく元気で妹が不登校ができるなら、そのうちにまた、友達がいる学校を利用して成長することを選択する可能性が高くなります。

 子どもは家庭が楽しいから不登校をするのではないです。家庭が楽しいから次の段階として、子どもの集団である学校に行けますし、自分から喜んで子どもの集団である学校に行きます。学校が少々辛くても、耐えて学校に行き続けられます。学校が耐えられないぐらいに辛いときには、子どもは楽しい家庭に逃げ戻ってきます。楽しい家庭で辛い心を癒せたなら、子どもは学校の問題をその子どもなりに解決して、学校に行こうとします。ですから、子どもが学校に行くためには、家庭は楽しくなくてはなりません。現在の子ども達にとって家庭は子どもの心を癒す場所、決して勉学の場ではないです。

 一方、家庭が楽しくなかった場合で学校がとても楽しいなら、子どもは喜んで学校に行き、家に帰ろうとはしなくなります。子どもの中には、学校の延長として町中に出て何か楽しいことを探したり、町中の子どもの集団に参加する子どもが出てきます。その町中で加わった子どもの集団がその子どもにとって良い集団だったら、子どもは学校やその町中の子どもの集団を利用して、元気に成長し大人となって、大人の社会に出て行くことができます。

 ところが現実には、町中の子どもの集団はいわゆる不良集団のことが多いです。現実に学校も子どもにとってはあまり楽しいところではないです。一度町中の不良集団に加わった子どもは、その不良集団に縛られて、その不良集団から逃げ出すことができなくなっています。子どもの集団として問題行動を起こすようになってしまいます。町中で子どもが問題行動をしないためにも、家庭が子どもにとって楽しいところでなくてはなりません。

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子どもの人権 2007.3.27

 子供も人間であるから、人間としての権利があるはずです。その子供の人間としての生きる権利、子供の人権とは、大人の人権とは少し異なっていても良いはずです。勿論大人が要求する人権と同一でも良いけれど、子供の場合、必ずしも大人と同じ人権が必要ではないです。子供特有の人権を子供は必要としています。子供特有の人権とは、子どもが大人と違う心を持っているから、子どもに必要な子供の権利です。

 大人と違って、子供には大人のような自発的意識的な行動や反応は少なくて、事実上無視して良いぐらいです。子供が要求する物の多くは子どもが成長したいという欲求から生じているのであり、子どもの行動の多くは反応の心からの反応か、情動の心からの反応です。生物としての人間の心の機能から反応して行動しています。子どもが生きて、成長して、大人になって社会人になるためには、この子供の生物としての人間の心の機能から反応して行動することを認める必要があります。

 その子供特有の成長を求める特質とは前記の子供の本能である以下の8つの要素です。
成長する(母親に信頼されている必要 )
与えられた環境に順応しようとする
自然に湧き出すエネルギーが大きい
新しいもの(刺激)を求める
習慣化していない
優しい。特に、母親が喜ぶのが好き
刺激に素直に、精一杯、反応して行動する
知識からの行動が大変に難しい

 これらの8つの要素をまとめて
1)成長
・成長する(母親に信頼されている必要 )
・与えられた環境に順応しようとする
・自然に湧き出すエネルギーが大きい
・刺激に素直に、精一杯、反応して行動する
・新しいもの(刺激)を求める
2)依存
・優しい。特に、母親が喜ぶのが好き
3)許容
・習慣化していない
・知識からの行動が大変に難しい
と表現できると思います。つまり子供の人権とは、1)子供の心身が成長する、2)子供の大人への依存状態にある、3)子供の失敗が許容される、無条件でこれらの三つの権利が認められることだと思います。

 また、逆からの見方も可能になります。すなわち、子どもが親に信頼されていないなら、子どもが与えられた環境に順応しようとしないなら、子供のわき出すエネルギーを感じられないなら、子どもが新しい物を求めようとしないなら、子どもが優しくないなら、子供の失敗を責められているなら、子供に知識からの行動を求められているなら、その時には子供の人権が侵害されている可能性が高いという事実があります。

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ある教育委員会通達について 2007.4.20

ある学校相談室に、その市の教育委員会から通達が出されました。その内容を書いてみます。

平成19年度 学校教育相談室の運営について
****教育委員会

1.運営方針
 ◯心の安定を図るため「心の居場所」となるよう運営する。
 ◯学校復帰への支援、社会的自立への支援を行う。

【具体的方策】
(1)指導員は児童生徒に受容的態度で接し、児童生徒との人間関係を構築する。
(2)遊び、作業、体験活動等を通じて児童生徒の対人関係の広がりをめざす。
(3)児童生徒のそれぞれの状況に応じて、学校と連絡をして学校復帰への手だてを考え、支援する。

2.活動の概要
(1)開室日
   ・月曜日~金曜日(9:00~16:30)
     通室時間は基本的には10:00~14:30
   ・夏期・冬季休業については小中学校と同じ

(2)場所
   ****学校内 **校舎1階  TEL ******

(3)活動内容
  ①面接相談
  ・保護者のみの面接相談・・・児童生徒の来所が困難な場合や必要に応じて行う。
  ・児童生徒の面説相談・・・随時、個別の相談を実施する。
              通所している子どもには、子どもの思いを受け止めなが
              ら振り返りの作業を促し、今後の目標等を一緒に考える
              中で自立できるよう適宜行う

  ②家庭訪問
   自宅から出ることができない、引きこもりの児童生徒については、必要に
   応じて家庭訪問を行う。

  ③適応指導
   様々な活動を通して、集団生活に適応できるように援助していく。
   ・フリータイム・・・絵画、読書、音楽、パソコン操作等
   ・グループ活動・・・ゲーム、スポーツ(プレイスペースで)
              調理実習(年間5回)等

  ④学習指導(チャレンジタイム)
   学習に対する抵抗感や学力に対する不安を取り除き、学習への意欲の回復を図る。
   一人ひとりの震度を考慮し、個別に学習指導を行っていく。

  ⑤学校(スクールカウンセラー等を含む)都の連携
   学校訪問を適宜行い、通室している児童生徒や長欠の児童生徒について連絡
   を取りあい、定期的にケース会議を持つ。
  ※学期ごとに通室児童生徒の担任との面談を実施する。

  ⑥保護者の集い
   通室している児童生徒の保護者と家庭での様子や悩みを語り合い、前向きな
   方向性を少しずつ見いだしていく。講師を招き、日頃の悩みを話し合う。

  ⑦チャレンジ登校(学校復帰に向けて)の取り組み
   登校復帰を「自分の意志で、定期的に、継続的に学校へ行ける状態」と捉えて
   いる。そこで、成れるまでを湾サイクルとしたワンステップ・チャレンジ登校
   (階段を1段ずつ上がる)から取り組むことにする。

  【記名登校:記名だけして帰ってこよう】
   指導員と私服で→保護者と私服で→保護者と制服で→一人で記名してこよう
   ワンステップ(成れるまで)一ヶ月を目安として
   「次に何ができるか」本人と話し合って決める。
  【保健室・構内相談室登校】
   仲間と登校・仲間と自習→仲間と登校・一人で自習→一人で登校・一人で自習

 ※学校内でたくさんの受け皿を作ってもらう。
  (担任、養護教諭、スクールカウンセラーなど)


 実は、この相談室の職員(教師)から相談を受けた際にこの通達をもらいました。この相談室は以前からこの通達のような内容の対応を子ども達にしています。その中でこの職員だけが子ども達に登校刺激を避けて、相談室を子ども達の居場所にしようと努力していらっしゃいました。

 子ども達の多くはこの職員と関わり合いたがっていましたから、他の職員からねたまれていました。他の職員からは子ども達への人気取りであり、好ましくない職員だと言われていたのです。現実にこの職員の担当していた子ども達は、ほぼ毎日相談室に来ていたのに、他の職員が担当する子ども達は週に1回とかしか相談室に来なくて、それも来た日でも、すぐに帰ってしまうような状態でした。

 昨年、この職員の発案で、相談室から講演の依頼がありました。「私が講演するとこの職員は居られなくなるよ」と伝えたのですが、この職員の首をかけてでもこの相談室に風穴を開けたいと言うことで、私が子ども達の立場からの不登校を講演してきました。

 その結果、この相談室に参加している子ども達の半分近くの親が、私に相談に来るようになっています。病院にかかっていた子どもの何人かも私の病院に来るようになっています。そして年度末に近づいて、この通達が教育委員会からあり、この職員は相談室を辞めざるを得なくなりました。

 通達の内容はあきれてしまうほどの登校刺激と、学校復帰の対応です。これでは不登校の子ども達がますます苦しくなってしまいます。多くの方々は未だ信じていらっしゃらないと思いますが、登校拒否、不登校とは、子どもの見かけや理由はいろいろでも、子どもの潜在意識では、学校を見たり意識すると恐怖を生じる反応です。

 子どもは恐怖を自分で解決する方法を持っていません。恐怖状態に新たな恐怖刺激を与えると、ますます強い恐怖になってしまいます。その結果子どもはその恐怖を感じる所にますます行こうとしなくなります。その恐怖刺激に素直により強い恐怖を表現したり、いろいろな病気の症状で表現するようになります。子ども達はその辛さから動けなくなってしまいます。心の成長が止まってしまいます。

 つまり、子どもの心から見たら、この教育委員会の通達は子どもの心を虐待して良いという通達になるという意味です。

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学校に行くから 2007.4.30

 長いこと不登校をしていた小学生の子どもが、学校や友達、親戚からいろいろな登校刺激を受けて、学校に行きだしました。そして一週間も通学するとまた頭痛や腹痛を訴えて、不登校になってしまいました。学校に行けなくなったとき、父親から「ゲームソフトを買ってあげるから、学校に行きなさい。」と言われたのですが、それでも子どもは学校には行かれませんでした。この子どもの反応から、母親は子どもの登校を諦めて、母親が不登校についての勉強をして、子どもがしたがるゲームを好きなだけさせたり、好きなだけテレビを見させたりして、徹底的に家の中で子どもに好きなことをさせて楽にさせて、育てていました。

 それから一年たちました。子どもはとても元気になり、家の外で友達とも遊んでいますが、学校には行こうとはしていません。そのような状態である日の朝母親に「僕が学校に行っても、あのゲームソフトを買ってくれないよね」と言ったのです。この子どもの言葉に、母親は返答を迷ったそうです。「ゲームソフトを買ったら、本当に学校に行くの?」とだけ母親はと答えました。すると子どもは「毎日学校に行くのは無理かも。」と答えたました。子どもはゲームが好きで、暇なときはゲームに没頭しています。ゲームにとても興味があります。父親の言葉を思い出して、そのゲームソフトを欲しいから、学校に無理をして行くことを代償にゲームを買って欲しいという意味か、それともただ単に学校に行くきっかけにしようとしているのか、子どもが学校に行く努力をするご褒美としてそのゲームソフトを欲しがっているのか、母親は判断ができませんでした。

 この子どもからの言葉の意味は、ゲームソフトと引き替えに学校に行くという意味であり、ゲームソフトの分だけしか学校に行かないという意味です。今回はだいぶ学校に興味を取り戻しているから、学校の事を自分から言い出しています。ただ学校に行くには学校に興味を十分に持っていないので、学校に行けない理由を「ゲームソフトを買ってもらっていないから学校に行かない」というようにその子どもなりに説明しています。この言葉に対して親がゲームソフトを買うというと、それは子どもに学校に行って欲しいというサインになります。その時の子どもなら、親がゲームソフトを買うと学校に行くでしょうが、将来また不登校になる可能性を秘めています。

 子どもはゲームソフトが欲しいです。しかしその希望は強くないです。もし本当にそのゲームソフトを買って欲しいなら、もっと強く買って欲しいと表現します。また、子どもが学校に行きたくなったら、子どもは学校に行くことに条件を付けません。親が何と言おうと学校に行ってしまいます。それほど元気になった子どもにとって学校は魅力のあるところなのです。そこで親が言葉にはしていませんが、子どもが学校に行って欲しいと思い続けていると、その思いが親の行動や言葉の端々に出てしまい、子どもがその親の思いを感じ取ってしまいます。例えば、この母親は子どもに「ゲームソフトを買ったら、本当に学校に行くの?」と答えています。母親には子どもが学校に行って欲しいと言ったつもりが無くても、この答えに対して子どもは「母親が自分に学校に行って欲しがっている」と感じ取るでしょう。そうすると子どもは親の思いに答えられない自分に葛藤状態になってしまいます。それだけで辛くなります。

 子どもの状況は
(1)ゲームソフトを欲しがっているが、どうしても欲しいと欲しがっているのではない。
(2)学校に興味を表現し始めている。学校を意識してもそれほど辛くなくなっている。
(3)学校に行けるほど元気を取り戻していない。
(4)母親は意識していないが、母親が子どもに学校に行って欲しいと内心願っている。

 これらの要素から、「母親が子どもに学校に行って欲しいと願っているかどうかをテストした」と判断されます。「母親が子どもをどれぐらい信頼しているのかテスト」をしています。そして母親の答えは子どものテストに合格していませんでした。合格したらもっと早く子どもは元気になり、場合によっては学校に行けるようになっていたかも知れません。合格していなくても、母親と子どもとの信頼関係の改善は確実に行われています。確実に行われていますから、子どもはここまで元気になれています。現在の母親の対応でも子どもは十分に元気になれて、将来元気な社会人となって社会に出て行けます。普通の大人として社会の中で生活が可能になります。

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ぬいぐるみを動かしたのは誰? 2007.4.22

 マヨちゃんは不登校をしている中学二年生の女の子です。最近は大分元気が出てきて、家の中で漫画を読んだり、CDを聞いたり、歌を歌ったりして一日を過ごしていました。そのマヨちゃんには拘ってしまい、どうしても変化が許せない物がありました。それはマヨちゃんのお気に入りのシロクマのぬいぐるみが居間の棚の決まった位置に、決まった姿で置いてあることでした。マヨちゃん以外の家族は、その薄汚れたシロクマのぬいぐるみのことなどどうでも良かったのです。それどころか、居間の棚の上にあるそのシロクマのぬいぐるみがじゃまだったので、居間の棚の上に無かった方が良かったのです。けれどそのシロクマのぬいぐるみに触ると、マヨちゃんが酷く怒るので、誰も触らないでそのままにしてありました。

 ある朝、遅く起きてきたマヨちゃんが突然声を張り上げて怒り始めました。お母様が「どうしたの?何を怒っているの?」と聞くと、マヨちゃんは「誰か、シロクマのぬいぐるみを動かした。きっとお父さんがシロクマのぬいぐるみに触った。」と言うのです。お母様が見る限りシロクマのぬいぐるみの位置や様子が変わっていないので、家族の一員がそのぬいぐるみに触ったとは、お母様にはとても思えなかったのです。

 今までのお母様でしたら、「そんなはずはないよ。誰も触っていないよ。いつもの通りぬいぐるみはあるじゃあない。」と言うところですが、最近のお母様はマヨちゃんの心に沿えるようになっていました。また、お母様は昨夜お兄さんがそのシロクマのぬいぐるみのあたりで何か捜し物をしていたのを知っていましたから、お兄さんがぬいぐるみに触った可能性をすぐに気づいていました。けれどその可能性をマヨちゃんには伝えないで、お母様は「そうなの。それじゃあお父さんに電話をして、聞いてみるわね。」と言って、既に出勤しているお父様の職場に電話をして、お父様に、シロクマのぬいぐるみに触ったかどうかを尋ねました。お父様の返事は、「シロクマのぬいぐるみに触っていない。」という返事でした。お母様はその返事をマヨちゃんに伝えると、マヨちゃんは「ああ、そうなの。わかった。」と言って、落ち着きました。

 常識的には父親が娘のぬいぐるみに触ったかどうかで、父親の職場まで母親が電話をかけるものではないです。けれど現実にお母様はその非常識な対応をしました。それはお母様が常識がない大人だったからではなくて、お父様がシロクマのぬいぐるみに触ったかどうかすぐに知りたいというマヨちゃんの要求に、お母様が答えようとしたのです。常識に捕らわれないで、マヨちゃんの心を大切にしようとしたのです。落ち着いてきたといっても、シロクマのぬいぐるみが分からないぐらいに少しだけ動かされていても気づくぐらいに敏感なマヨちゃんの心です。お母様の対応の結果は、お父様に過剰に反応するマヨちゃんの心をとても落ち着かせました。マヨちゃんがお母様をますます信頼しようとするようになりました。

 その夜お兄さんが帰宅したとき、お母様はお兄さんにシロクマのぬいぐるみに触ったかどうかを尋ねました。お兄さんはシロクマのぬいぐるみを動かしたけれど、マヨちゃんが怒ることを知っていましたから、元の位置に戻しておいたと言って、マヨちゃんの所に謝りに行きました。お兄さんがマヨちゃんに謝ってみると、マヨちゃんは朝怒ったことをすっかり忘れていました。マヨちゃんにとってはシロクマのぬいぐるみがきちんと元の所にある限り、問題なかったのです。ただ、マヨちゃんはお父様が許せなかったから、お父様が触ったのだと、動かしたのだと、とても許せなかったのです。このマヨちゃんの、家族の誰も理解できないお父様を拒否する行動を、家族の全員が認めようとしていたのです。このような非常識だけれど、マヨちゃんの心に沿った対応をしようとする家族に守られて、マヨちゃんは段々元気になってきています。

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修学旅行まで登校した不登校の子ども 2007.6.7

 肇君は中学二年生の一学期の途中から全く学校には行けなくなりました。昼夜逆転をしていて、起きているときはテレビを見たり、ゲームをしたり、漫画を読んだり、音楽を聴いたりしていました。中学三年生になって、学校から修学旅行の準備の連絡が来たら、肇君は学校に行くようになりました。朝遅刻もしないで、夕方クラブ活動もして帰ってくるようになったのです。先生方はこれを機会に肇君は不登校が解決したと考えていました。

 二泊三日の修学旅行を、肇君はとても楽しんでいました。そして修学旅行が終わった翌日から、また肇君は全く学校には行こうとしなくなりました。両親や先生が肇君を学校に行かせようとする対応を取ると肇君は荒れてしまい、自分の部屋の中に引きこもってしまいました。それでも先生方は、肇君は修学旅行に行けたのだから、学校に来られないはずがないと、肇君に関わろうとしましたが、両親は肇君の様子をみて先生方の関わりを止めて貰うように学校と掛け合いました。その後、肇君は今まで通りに家の中で元気に過ごすようになりました。

 不登校とは、学校や学校に関する物で疼く心の傷を子どもが持っているという意味です。学校や学校に関する物を恐怖の条件刺激とする、恐怖の条件反射です。学校や先生、友達、勉強道具や勉強自体などで、理由もなく辛くなる状態です。これらの物で辛くなりますから、不登校の子どもはこれらの物を拒否して近づこうとはしません。長く学校の中で辛い経験をし続けると、その子どもは学校の建物や学校という概念に、教師、友達、勉強道具などの実体や概念に反応して恐怖を表現して辛くなります。これらの物を避けようとします。

 不登校の子どもの中には学校や先生に強く反応して辛くなるけれど、友達にはそれほど強い反応をしない子どもがいます。心の傷があまり広がっていない子どもです。恐怖の条件刺激が限局している子どもです。その様な子供では学校には行けないけれど、友達と遊ぶことはできます。友達と楽しく遊ぶ楽しさが、友達から受ける辛さよりも強い子どもは不登校でも友達と学校外で遊びたがりますし、遊ぶことができます。

 修学旅行は学校の外ですから、不登校の子どもは学校という概念に苦しめられることはありません。先生とも授業ほどには子ども達に接触しませんから、子ども同士で楽しめる子どもには、修学旅行先での先生からそれほど辛さを感じません。修学旅行は子ども同士だけで時間を過ごしますから、子ども同士で過ごす楽しみを知っている子どもには、辛さよりも楽しさが凌駕してしまいます。不登校の子どもでも修学旅行には参加することができることになります。それと同一の議論で、同じ不登校の子どもでも、友達で疼く心の傷を持っている子供では、子ども同士の集団で時間を過ごすことができません。友達で疼く心の傷を持っている子供は修学旅行には参加しようとしてもできないことになります。

 肇君の場合、修学旅行に行く楽しさを良く知っていた不登校の子どもだったはずです。修学旅行があると分かると、修学旅行に行けるという希望から、楽しさで学校の辛さを打ち消すことができましたから、修学旅行に行くまでは不登校を止めて学校に行けました。学校に行っても、修学旅行に行けるという希望から学校にいる辛さが打ち消されて、普通の子どもと全く同じ学校生活ができました。しかし修学旅行が終わって、肇君にとっての学校にいる楽しさが無くなると、学校で疼く心の傷の辛さからそれ以後又不登校になったのです。

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同級生からの手紙 2007.6.25

 敏彦君は小学五年生の五月から不登校になりました。七月の初めの放課後に、同級生だけれどそれほど親しくない女の子が尋ねてきて、手紙を敏彦君に渡しました。お母様も敏彦君も大喜びでその女の子を歓迎して一緒にお菓子を食べたりして、女の子は帰りました。手紙の内容は「クラスのみんなが心配して待っているから、学校においで。無理してこなくて良いけれど、来られそうなときには学校に来て欲しい。みんなで遊ぼう。」と書いてありました。

 その夜、敏彦君はガラスを割ったり、壁に穴を開けたり、お母様を蹴飛ばしたりして暴れました。日中あれだけ楽しそうにしていたのに、なぜこのように敏彦君が荒れているのか、お母様には分かりませんでした。敏彦君は一晩中荒れて、明け方になって寝てしまいました。敏彦君が寝入った後、お母様は割れたガラスなどの後始末をしました。

 敏彦君は友達と遊ぶのが大好きです。そのためにその女の子が来てくれたことが嬉しかったと考える人が多いでしょう。その女の子が敏彦君ととても親しければ、その様に考えられますが、その女の子は敏彦君とはそれほど親しくなかったのです。その親しくない女の子を歓迎した理由は、敏彦君は無理をした可能性が高いです。所謂よい子を演じたのです。同級生の女の子が来たことで学校を意識した敏彦君は辛くなったのですが、女の子が来てくれたことを喜ぶ母親を見て、母親のために無理をして楽しそうにしていたのです。女の子が帰ってからは、女の子が来たことにより学校を意識し続けていたことや、手紙の内容から学校を意識し続けていたことにより、耐えきれないほど辛くなり敏彦君は暴れてしまいました。

 女の子が来たこと、手紙を渡したことは、両方とも敏彦君には登校刺激になっています。学校を意識させることになっています。不登校の子どもは学校を意識すると、学校を見ると、理由もなく体の奥底から辛いものがわき上がってきて、耐えきれない状態になっていきます。この女の子について素直に理解すると、この女の子は敏彦君を元気づけるために、敏彦君が学校に行きやすいために、良いことをしようと思って敏彦君の家に来たのでしょうが、その結果は敏彦君を苦しめ元気を奪ってしました。ますます学校に行きづらくしています。

 例えこの女の子が敏彦君と親しかったとしても、何日も不登校をしている敏彦君の家まで、自分からすすんで手紙を書いてその手紙を届けに来ることはないです。不登校の子どもが出るような学級では、子ども達は自分のことで精一杯で他の子どものために何かを進んでしようとする余裕がないからです。まして敏彦君とは親しくない友達ですから、この女の子は誰かに依頼されて手紙を書いて届けに来ています。この女の子の母親は自分の子どものことで精一杯でしょうから、母親が女の子に指示して手紙を書かせて敏彦君の家まで持って行けとは言わないでしょう。すると手紙を書いて敏彦君の家まで持っていくように指示したのは担任の教師と言うことになります。手紙の内容も女の子が考えて書いたのではないです。教師がこのような内容を書くように指示したものに基づいて女の子が書いたものでしょう。

 担任が女の子に直接指示をしたとしたら、先生の指示だからと言って女の子がその指示に従った可能性は低いです。多くの同級生は自分のことで精一杯ですから、同級生達は可能な限り負担になるようなことをしたがりません。それでも先生の指示で不登校の子どもに同級生が手紙を書いて持って行くとしたら、何か子どもへの評価をよくするというような、打算を感じていたはずです。その打算的な感じ方は同級生よりもその親が強く感じて、その子どもに指示しているはずです。つまり、見かけ上はこの女の子が敏彦君を思いやって、手紙を書いて敏彦君の家に持って行った形になっていますが、その裏側では、先生が敏彦君を学校に来させようとして、先生の指示に従ってくれる同級生のこの女の子に指示して、手紙を書かせて敏彦君の家まで持って行かせたのです。

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怒りの人格 2007.7.14

 子ども(大人でも当てはまるかもしれませんが、私の専門外なので)がいわゆるキレた状態になったとき、そのキレたときの状態を覚えていない場合があります。そのキレた時の子どもの心の状態を説明します。キレたときの子どもは決してキレたときの行動を意識的にしたのではないです。キレたときの記憶が残っていないのも、自分を守るために嘘を言っているのではないです。

 その子どもは度重なる辛い経験から、子どもの心に大きな傷を受けています。心的外傷の状態です。その大きな心の傷を持っている状態で新たな酷く辛い経験をしたとき、激しく心の傷が疼いて、一時的な解離性同一障害を起こして問題行動を起こしていました。つまり問題行動を起こしたのはその子どもの通常の人格とは違う全く別の怒りの人格がその子どもを支配していて、その怒りの人格が問題行動を起こしています。子どもが通常の人格に戻ったとき、子どもの人格は怒りの人格とは直接関係しない別の人格なので、子どもはキレたときに起こした問題行動を基本的に思い出しません。

 子どもが普段の人格に戻ったとき、その子どもは自分が行った問題行動の結果を目で見て、周囲の人から説明されて知ります。そこで普段の人格の子どもは、自分がキレていたときにしたことを知ります。自分がしたことと納得します。子どもの普段の人格からみたら、記憶にないことを記憶していたと誤解することになります。

 しかし子どもによっては、普段の人格で記憶にないことに気づく子どももいます。そのような子どもはキレていたときに行った問題行動を自分はしていないと表現してしまいます。そしてその子どもの普段の人格から言うなら、自分はしていないと表現することが正しい表現なのです。自分がしたと表現する場合には、自分がしたと教え込まれた知識を言葉で表現しているのです。

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我が儘か? 2007.7.27

 子どもの要求が子どもの我が儘かどうかを判断するのには、基本的に子どもの心を知らなければなりません。子どもの要求を子どもの心から考える必要があります。子どもの立場に立つ、子どもの心の沿って考えることになります。大人が大人の判断で、これで100%だと決めても意味がないです。つまり子どもの要求が親や大人にとって我が儘だ、甘えだと理解する前に、子どもの心はどのようにして要求をしているのかを知る必要があります。子どもの心から子どもの要求を考えるなら、次のようなことを考える必要があります。

 子どもの行動は反応の心からの反応か、情動の心からの反応であるから、大人から見て甘えだ、我が儘だと感じられても、子どもの要求は何かに素直に反応して生じています。子どもの心からは甘えだ我が儘だという反応の仕方はないです。

 子どもは与えられた環境に順応して成長をしようとするから、大人から甘えだ我が儘だと判断される子どもの要求も、子どもの心から言うなら、与えられた環境に順応して成長するために必要な要求であるという事実です。

 この二つの条件から、子どもの要求に添って子どもの要求を満たしてあげる限り(受容)、決して甘えでも我が儘でもないです。そのとき子どもの要求を十分に満たさなければ、子どもは葛藤状態になり、親に対して信頼感を失います。また子どもの要求以上のことをすると、それは子どもの要求以上の事柄に依存を生じて、それ以後のいわゆる甘えや我が儘の原因になります。

 親や大人が子どもの要求が甘えだ我が儘だと感じられるときには、
1 子どもを信頼していないこと=子どもの心から子どもを見られないこと
2 既に子どもが親や大人に依存状態になっていること
3 子どもが親を信頼できるかどうかテストしている(ここでは述べません)
のどれかになっています。

 例えば子どもが**を買ってと強く主張する(親や大人からだだをこねる姿)のは、子どもにそれが必要だが、親や大人にそれが理解できない場合、子どもが親や大人に依存関係になっていて親や大人の先回りの対応がないことに不平を言っている場合、親が信頼できるかどうかを子どもがテストしている場合があります。この三つの内のどれに相当するかで親や大人の対応が異なってきます。

 幼い子どもの場合では、親や大人が子どもの心の立場に立っていなくて、親や大人の立場から自分たちに都合の悪いことを甘えだ、我が儘だと理解している場合が多いです。大きい子どもでは依存関係の場合が見られます。程度は何とも言えません。辛い状態の子どもでは、その辛さを解消する親の心をテストしている場合が多いです。

 年長の子どもについて、子どもの要求が甘えだ我が儘だと親が感じられる場合、それが依存による物か、それとも子どもの素直な要求か、親をテストしているのか、その判断は大変に難しいです。子どもの心の立場から長年経験して判断するしかないです。ただし辛い状態の子どもからの要求なら、例え親が甘えだ我が儘だと判断しても、それは親をテストしていることが多いです。

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反抗期 2007.8.14

 反抗期とは親の希望や要求に反抗して子供が行動する時期を指しています。時期として子供が3,4歳の頃や子供が思春期に入った頃にみられることが多いので、3,4歳頃の子供の反抗を第一反抗期、思春期頃の反抗を第二反抗期と呼ぶ傾向があります。しかし3,4歳頃の子供はその子供の意志で親の要求や希望に反抗することはないです。3,4歳頃の子供の中にはその子供なりの反応の仕方ができあがっていて、その子供なりの反応、自己主張ができるようになった子供がいます。そのような子供がその子供なりに反応をしたとき、自己主張をしたとき、その自己主張が親の要求や希望と異なった場合に、親がその子供が反抗期に入ったと判断しています。

 一般論として、思春期の反抗期、第二反抗期を子どもの自然な姿だと解釈されていますが、それは間違いです。第二反抗期とは子どもが与えられた環境、多くは学校について、または親の対応について、辛いよと子供が出すサインです。子供たちにとって主とした生活の場は家庭であり学校です。多くの場合子供にとって家庭は喜びの場所です。両親の対応がよほど悪くない限り、子供は思春期前後の時期に急に親に反抗をしません。子供の思春期前後に急激に変わり子供に負担を押しつけてくるのは学校です。ですから、子供たちの第二反抗期の多くは学校が辛いよという子供たちからのサインです。学校が辛くて苦しんでいる子供への両親からの対応が悪いという子供たちからのサインです。

 多くの親にとって、子供の将来の幸せを考えて、子供には学校に行って欲しいです。受験戦争に勝って、良い高校や大学に進学して、条件が良い就職をして、経済的に豊かな生活を子供にして欲しいものです。思春期前後の子供に受験に打ち勝つ勉強をして良い成績を取って欲しいものです。子供の立場からいうなら、小学校の勉強は進み方もゆっくりで、内容もまだわかることが多いですから勉強について行けた子供が、中学校になると勉強はどんどん進んでいくし、わかりにくくなりますから、勉強が辛くなっていきます。先生方も中学校になると威圧的になってきますから、学校内での勉強や生活がだんだん辛くなっていきます。

 その辛さが家庭で癒されると子供はその子供なりに学校とつきあおうとしますが、その辛さが家庭で癒されないと、子供は家庭内で親が求めるような生活の仕方をしなくなります。それでも「子供は勉強するのが当たり前、規則だたし衣生活をするのが当たり前」と親は考えて、子供にそれを求め続けます。それはますます子供を辛くしますから、子供は耐えきれなくなって、問題行動を起こすようになってしまいます。その姿を親は第二反抗期と考えているようです。

 このように、思春期前後の子どもに大人が考えるような「思春期だから生じる反抗期」はないです。思春期前後の学校生活を楽しめている子供には、第二反抗期はありません。思春期前後の学校生活が楽しめない子供について、親が追い打ちをかけて子供を苦しめてしまうときに、大人が第二反抗期と判断してしまうような反応の仕方を子供がしてしまいます。「学校が辛いのに親がその子に追い打ちをかけて辛くしている」という子どもからのサインを大人が勝手に反抗期だと理解しています。ですから大人が反抗期と理解したときには、子どもは学校が辛いしその辛さに親が追い打ちをかけているというサインを出しているのだと判断されます。

 繰り返しますが、「辛い学校がある学校に行き続けるように」と対応を続ける親に対して、子供は「親の対応が悪いよ」というサインとして親が嫌がるような問題行動を起こします。子供が親の嫌がる問題行動を起こしたとき、親が反抗期という理由をつけて子供の辛さを解消しようとしなかったなら、子供は親の嫌がる問題行動を強めていきます。そこで親は子供がますます反抗を強めてきた、ますます反抗期になってきた。困ったものだ。この反抗期をどうにかしなければ子供の将来が思いやられると考えたり、思春期が終われば子供の問題行動は自然と解決されると考えたりします。子供が学校生活の辛さ、その辛さに追い打ちをかけてやめようとしない親の問題点が、反抗期の解消という問題点のすり替えになってしまい、子供は辛さから解放されなくなります。

 それでも中学生活の中で、高校生活の中で、運良くその子供なりの楽しみを見つけられて、学校生活の辛さが軽減した子供は親の嫌がる問題行動をする必要がなくなり、やめてしまいます。そこで親はやはり思春期だったから反抗期を生じたと、親なりの結論を主張し続けることになります。しかし多くの子供たちは辛い中学生活を続け、苦しみながら高校生活を続け、不登校になる子供が出てきます。犯罪や事件を起こす子供が出てきます。やっとの思いで大学に入学しても、開放的な大学生活では全く勉強に興味が持てないで、快楽にうつつを抜かしてしまう子供が多くなります。子供の人生を大損してしまいます。

 子どもは動物にとても近いです。大人のように意識的な行動をすることが大変に難しいです。他の動物が恐怖刺激を受けたときに、その恐怖刺激を回避するような回避行動を取るのと同じように、子どもは学校が辛いと無意識に、潜在意識から学校を回避する行動を取ります。それは意識的ではなくて、潜在意識の反応ですから、子ども自身も気づいていない場合が多いです。その程度はとても弱くて、その子どもの学校を回避しようとする行動は学校に行かせようとする人(行かせようとしていないかも知れませんが、今までの習慣として行かせ続けていた親)に反抗という形で感じられるような行動を取るようになっています。

 思春期前後の子供はすでにその子供なりにしっかりとした価値観を持っています。その価値観について子供は意識している場合もありますし、意識していない場合もあります。その価値観のうちで親と異なった価値観を持っているときに、その親とは違った価値観について親の価値観を子供に親が押しつけたとき、子供は親に反抗をします。そのときは「親とは違っている価値観の部分について、親の価値観を押しつけないで、子供自身が持っている価値観を認めてくれ」と親に訴えているだけです。そして現在のほとんどすべての子供について、親と子供との価値観の違いの部分は、親が子供に学校に行って欲しい、勉強をして欲しいという部分と子供には学校が辛い、勉強が辛くてできないという部分の違いです。

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坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い 2007.8.28

 この言葉の意味は、何かの理由で本来ならありがたいお坊さんが、人によっては憎いお坊さんになってしまうばかりでなく、その憎くなったお坊さんを連想するもの、袈裟も憎くなってしまうと言う意味です。この場合の袈裟は、最初は憎くなったお坊さんとの強い連想という関係にあります。しかしすぐにお坊さんとの関連が無くなり、袈裟への憎い思いが独立して生じるようになります。お坊さんを見なくても、お坊さんを連想しなくても、袈裟を見ただけで、思い出しただけで、その人はどこからともなくわき出す袈裟への憎い思いをするようになります。

 「坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い」はことわざですから、それ以上の意味はありませんが、坊主がいない状態で袈裟だけ見て憎さを表現するような人がいたとしたら、多くの人は袈裟を見て憎さを表現する人をおかしな人、病気ではないかと感じるようになってしまうと推測されます。

 「坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い」ということわざの文字通りのことが現実にあった事かどうかは知りません。もしあったとしたら、このお坊さんへの憎さが、袈裟への憎さに移行する仕組みは条件反射から生じます。条件反射については、多くの人が既にご存じだと思いますから、くわしく述べません。あるお坊さんに何かの理由で強い憎しみを感じるようになったときに、その時にそのお坊さんの側に同時に存在して、そのお坊さんを強く連想させる物、袈裟やその他のそのお坊さんの持ち物に強い憎しみを感じるようになるのです。この条件反射はほぼ全ての動物に存在する生理的な学習の仕方です。人間の子どもにも存在します。

 言葉の「憎い」は、その状況によって「辛い」とか、「嫌だ」とか、「不愉快だ」とか、「怖い」という言葉にも置き換えられます。子どもが学校内で教師から体罰を受けたり、教師の学級運営などで嫌な思いをさせられ続けたとき、教師から納得のいかない対応を受けて辛い思いを続けたとき、その他何か嫌な思いをさせられ続けたとき、子どもは教師に「嫌な思い」をするようになります。場合によっては「憎い」と表現されるような感情を生じるようになります。それと同時にその教師の周囲にあり、その教師を強く連想するような物、学校や教室、時には勉強道具に「嫌な思い」を生じるようになります。子どもが教師に「嫌な思い」を感じたときに、その教師の周囲にあって、その教師を強く連想するような物に生じる「嫌な思い」は、その教師から受けた「嫌な思い」とほぼ同等の「嫌な思い」なのです。「教師が憎けりゃ学校まで憎い」になってしまっているのです。

 その内に教師が存在しなくても、学校や教室、時には勉強道具を見ただけで、思い出しただけで、その子どもはそれらの物に「嫌な思い」を生じるようになります。学校や教室、勉強道具について、殆ど全ての人は「嫌な思い」を感じません。子どもにとって嫌な教師が居ないところで、子どもが学校や教室、勉強道具を見ただけで「嫌な思い」を表現したなら、子どもが学校や教室、勉強道具を思い出しただけで「嫌な思い」を表現したなら、その子どもはおかしいのではないか、病気ではないかと大人は考えてしまいます。「坊主が憎けりゃ袈裟まで憎い」の坊主が憎いが忘れ去られて、「袈裟まで憎い」が一人歩きを始めてしまうようになります。

 子どもを辛くする教師と学校や教室、勉強道具が関連して考えられる場合には、大人は辛さを表現している子どもが特別におかしいとは感じません。子どもを辛くする教師の問題を解決して、子どもを学校に行けるようにしてやろうと、大人は考えてそれなりの対応を始めますが、子どもを辛くする教師に関係なく、学校や教室、勉強道具、友達などに子どもが「嫌な思い」を感じ表現するようになると、大人は辛さを表現している子どもを、子どもを辛くする教師と関係なく考えるようになり、その辛さを表現している子どもがおかしいのではないか、病気ではないかと考えるようになってしまいます。殆ど全ての大人は学校の建物や学校という概念との関係で子どもが辛さを表現していることを理解できなくて、子ども自身に学校に行けない原因を求めてしまいます。

 これと同じ事が子ども同士のいじめでも生じます。学校内で子どもが辛いいじめに遭うと、子どもはそのいじめとほぼ同等の「嫌な思い」を、いじめる子どもの周囲にあった物で感じ表現するようになります。「嫌な思い」を生じるような条件反射の条件刺激を学習します。学校内でのいじめなら、いじめる子どもの周囲にあった物とは教室であり、学校であり、教師であり、勉強道具です。いじめられている子どもはいじめる子どもについて「嫌な思い」を感じるばかりでなく、その内に学校や教室、教師、勉強道具にも「嫌な思い」を感じるようになります。「いじめた子どもが憎けりゃ学校まで憎い」になっています。

 それでもいじめる子どもと学校や教室、教師、勉強道具が関連して考えられる場合には、大人はいじめられている子どもが特別におかしいとは感じません。いじめを解決して子どもを学校に行けるようにしてやろうと、大人は考えてそれなりの対応を始めますが、いじめる子どもに関係なく学校や教室、教師、勉強道具、友達などに「嫌な思い」を子どもが感じ表現するようになると、大人はいじめられた結果学校の建物や学校という概念に辛さを表現している子どもを、いじめと関係なく考えるようになり、その子どもはおかしいのではないか、病気ではないかと考えるようになってしまいます。殆ど全ての大人は学校との関係で子どもが辛さを表現していることを理解できなくて、子ども自身に子どもが学校に行けない原因を求めてしまいます。

 学校で辛い経験を続けて、学校や教室、教師、友達などに辛い思いを感じるようになったとき、多くの大人は子どもが学校や教室、教師、友達に辛い思いを表現する子どもを、その子どもがおかしい、問題だ、病気ではないかと考えます。その子どもに辛い思いをさせ続けた教師ですら、自分がその子どもに辛い思いをさせ続けたことには気づかないで、その辛い症状を表現する子どもに問題があると考えてしまいます。その子どもを正す必要がある、治療する必要があると考えてしまいます。殆ど全ての大人は、子どもが学校から辛さを受けるようになっていて、その辛さを表現していることを理解できません。その辛さを表現している子どもに問題があると理解してしまいます。学校との関連で子どもが辛さを表現しているとは夢にも考えないのです。

 子どもが学校や教室、教師や友達に辛さを表現する仕方として、子どもが辛くなるとまず「よい子」を演じます。子どもが「よい子」を演じていると、大人は子どもが辛い状態にあるとは考えません。子どもは好ましい状態にあると考えて、大人達はその子どもを苦しめる対応を続けてしまいます。子ども達の多くは「よい子」を演じ続けて、辛い時をやり過ごすようにして辛さを乗り切りますが、「よい子」を演じきれなくなってしまう子どもが出てきてしまいます。

 「よい子」を演じきれなくなった子どもは、その辛い学校から逃げ出したり(不登校)、暴れる(校内暴力、家庭内暴力)などの問題行動を起こしたり、いろいろな病気の症状(精神疾患と診断されるが病気ではない)を出すようになります。この時期になって、親ははじめて子どもの問題を意識するようになりますが、多くの親や殆ど全ての大人は子どもが学校から逃げ出したり、学校内で暴れたり、病気の症状を出す原因を子どもに求めてしまいます。子どもが大人の理解できない理由により、子どもが学校から受ける辛さから学校から逃げ出したり、学校内で暴れたり、病気の症状を出すことに気づく人はありません。

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信頼関係 2007.9.11

 娘を信頼して(具体的には触れません)ただ待っていた母親からの手紙です。

 娘は今春、高校に入学し楽しく学校生活を送っています。娘は「中学校は本当につまらなかったなぁ。なのにこんなに高校が楽しくていいのかな?誰か高校がつまらない人がいたら申し訳ないな。私ばかりが楽しくて罪悪感すら感じる。」と言っています。

 高校入学後すぐにアルバイトを始め、彼女なりに世間の厳しさお金を稼ぐことの大変さを感じているようです。また、色々な高校の方たちとも触れ合い、仕事が出来ることと勉強の成績は関係ないことを感じ取り、本当に大きく成長したようです。

 中学校では一時期不登校になり、家であんなに荒れていたのに今ではうそのように穏やかに過ごしています。先日も中学校の時のお友達から連絡があり、「ゆかたの帯を貸して」と言われ、まだ自分も一回使ってない新品の帯を貸してあげました。「断りきれなかったんだ。私も使ってないのに貸すのはちょっと嫌だけどいいんだ。だってあの子は私が久しぶりに学校に行った時に一番先に声をかけてくれる子だったから」と。今日は娘が浴衣を着て、少しよれよれになった帯を締めニコニコとお祭りに出かけました。

 言葉使いも優しくなり、「ありがとう」の言葉をたくさん言ってくれる娘に、今度は私が取り残された気分になってしまいました。私はずっと気を張って過ごしていましたからここにきて、娘がすっと遠くに行ってしまったような喪失感です。本当は喜んでいいはずなのに寂しくて・・・・

 あの時、娘が荒れていた時、***会のキッチンで**先生にお話を聞いていただいた事に本当に感謝します。「主人が頼りにならない」と訴えた時も、「それがいいんですよ。変に夫婦で反対の意見を持つならば無関心でいてくれたほうがよっぽどいい。」とおっしゃられた時は嬉しかった。あんなに嫌いだった主人に感謝すらするようになりました。

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あるいじめられ 2007.9.13

 中学二年生になって間もなくのこと仲間が無人の神社で集まっていて、その中で少年Aがたばこを吸っていたので警察に補導されました。Aは学校から一週間の自宅謹慎を言い渡されました。両親はAを責めて今後たばこを吸わないようにと強く叱ったので、Aは両親と全く口をきかなくなってしまいまた。両親は一生懸命よい子に育てようと努力してきましたから、この現実にぶつかって混乱していました。小学校時代のAは元気な勉強も出来るよい子でしたが、中学校に入学してからだんだん元気を失っていきました。両親はその原因が分からないで困っていたのです。この事件以後Aは学校に行き渋るようになったので、両親はAを激励して学校に押し出していました。Aは渋々学校に行く日々が続いていました。

 両親はいくつかの相談機関と相談してAが休まないで学校に行くよう対応しましたが、Aはますます学校へ行きづらくなり、それでいて夜遊びをするようになりました。困り果てた両親が最後にかかった相談機関で思わぬ事実を知ることになりまた。それはAが中学校に入ってから仲間に取り込まれていじめられていた事実でした。Aがいじめられているという事実を相談機関から指摘されたとき、両親はその話をとても信じられなかったのです。両親はAがたばこを吸ったのはAに問題があるからだと信じていました。Aが学校に行こうとしないのはAに問題があると信じていたからです。いろいろと説明を受けて、今まで大きな怪我ではないがAが何回も怪我をして帰ったり、母親の財布の小金が無くなったりした理由が両親には腑に落ちました。

 警察の調書は、仲間で集まってAが率先してたばこを買に行き、自分で吸って、B、C、Dが無理矢理につきあわされたことになっていましたが、実際はBがAにたばこを買いに行かせ、仲間でたばこを吸って、Aにも無理矢理に吸わせて、煙で苦しむAを見て楽しんでいたようでした。警察に見つかったとき、主犯はAで、たばこを買いに行ったのも、たばこを吸ったのもAにされて、Aもそれをそうだと認めたのです。つまりたばこを吸った全責任をAが取らされたのです。

 この事件以後Aは仲間からますますいじめられていたけれど、ただ耐えていまた。相談機関の指摘で両親は初めていじめと気づいたけれど証拠はありません。そこで両親は相談機関のアドバイスに従って常識はずれの対応を取りました。つまりいじめのことにはAにも学校にも一切触れないで、両親は力ずくでAが学校に行くのを止めまた。それでもAは学校に行こうとしましたが、すぐに自分の部屋の中で過ごし始めまた。携帯電話で呼び出しを受けても電話に出ないようにして現在に至っています。現在は元気になり、家の中で明るく生活をしています。最近になって受けていたいじめの話を両親にし始めていますが、両親はいじめの解決を学校に求めようとはしていません。風の噂で最近Eが仲間にいじめられているらしいです。

 自分の子どものいじめられの解決はまず親が自分の子どもがいじめられていることに気づき、いじめられている自分の子どもを守ることです。いじめの存在を解決することではありません。自分の子どもがいじめられていることから守れたら、その次にいじめの存在を解決しようと親が動き出すことです。

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子ども達だけで 2007.10.12

 10歳の女の子がもう1年近く学校に行っていません。最近の女の子はとても元気になり、元の同級生が遊びに来たときには、家の中で楽しそうに遊んでいました。時には子ども達だけで買い物に出かけたりすることもありました。

 夏になり大きな花火大会が河川敷でありました。女の子は友達と一緒に花火を見に行く約束をしてしまいました。母親は大変に悩みました。10歳の女の子達だけで花火を見に行くのは大変に危険です。花火の会場は大変に混み合います。どんな人がそこにいるか分かりません。花火が終わって帰る時間もかなり遅くなります。暗い夜道を女の子だけで帰ることになります。常識的には誰か大人がついて行くべきでしょう。大人がついて行けば、それだけ事件や事故を起こす危険は少なくなります。

 ここで考えなくてはならないことは、子どもが自分の能力を伸ばすために何かに挑戦する、特に人間関係や社会のルールを習得する場合には、どうしても多少の事件や事故の危険を伴います。親が親の都合で、親の勝手な思いで、その危険を冒さないで子どもを育てようとすると、子どもの社会性が育たないのです。現在、社会性のない若者達、社会ルールを無視する若者達、自分勝手な若者達が多い原因の一つは、親が子どもに危険を冒してまでも人間関係や社会のルールを習得する機会を与えていないからです。

 危険を理由に子どもの挑戦を禁止するのは、事故が起きたときに親が責任を逃れをするものであり、それは親の都合のからの対応です。自分の子どもを信頼していないという意味になります。自立したいと思う子どもには納得しない対応です。親は子どもの挑戦を可能な限り条件を付けないで認めると同時に、あらゆる危険性を考えて、どのような状況下でもその危険への対処の仕方を考えて、控えておく必要があります。例え子どもが親の思いと違った行動をとったとしても、その時には親としてこう思ったよと優しく教えてあげると、子どもはその失敗を失敗と受け止めて、次の時はそのことをしないで親の思いに沿って行動してくれます。

 しかし現実の多くの親はいろいろと理由をつけて、あれをしてはいけない、これをしてはいけないと注意ばかりをしてしまい、子どもの自立の芽を摘んでしまいます。それでいて何かにつけて自分の子どもに自立した行動を要求して、子どもを困惑させています。それでは子どもの心が育たないから、社会の中で子どもは自分をしっかりと守っていけなくなります。

 女の子の母親は女の子が不登校になって以来、女の子の全てを信頼して見守ってきていました。今回の花火見物も、女の子がしっかりと考えて、危険を回避する方法を女の子なりに考えて決めたことを信じようとしました。だから女の子が花火大会を見に行くと言い出したとき、母親はしばらく考えた後、見に行って良いよとだけ答えました。あれをしてはいけない、これをしてはいけない、何々をしなさいとは言いませんでした。花火大会の当日女の子は慣れない浴衣を着て、下駄を履いて、携帯電話を持って、楽しそうに友達と一緒に花火を見に出かけました。

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先回りをした対応 2007.10.23

<質問>
 不登校で辛い状態の子どもへの対応として、「子どもを辛くする物から先回りして子どもを守る」と言われますが、それと同時に「子どもの要求以外のことをしないこと。その要求も100%満たしてあげて、決して100%以上のことをしないこと、100%以下では要求を満たしたことにならないこと。」と言われますが、この二つの言葉は矛盾しているようにも思われます。

 現在学校に行き渋っている小学6年生の男の子が修学旅行には行きたいと言っています。一人で登校することが負担で母親の私が学校まで連れて行っています。私は子どもが修学旅行には行きたいと言っていますから、是非行かせてやりたいと思っています。

 子どもを辛くする学校と修学旅行から私の子どもを守りたかったので、仲が良いと子どもが言っている友達に電話して、修学旅行に一緒に行こうと誘ってもらったので、子どもは修学旅行に行けました。修学旅行の後も子どもは学校に行き渋っています。この友達に修学寮に一緒に行こうと誘ってもらったことは、子どもが要求していないこと、先回りをした対応だったでしょうか?

<答え>
 あくまでも弱者の論理です。辛い状態の子どもの心についての話です。少し難しいかも知れませんが、情動には接近系(楽しい刺激)と回避系(辛い刺激)があります。接近系の要求には100%その要求を満たしてあげるのがよいです。

 100%以上の事をするとその時は子どもを喜ばすことが出来ますが、それと同時に子どもは依存を生じて、将来の子どもを苦しめることになります。

 100%以下ですと子どもの要求を十分に満たしていないから、子どもに葛藤を生じます。回避系の要求(回避系の刺激に対する反応行動は、全て辛い刺激に対しての回避行動であり、回避できないときにはいろいろな問題行動や病的な症状を出して、同時に恐怖の条件刺激を学習します。回避系の刺激は辛い状態の子どもには与えてはいけません。)については親が先回りをして、その回避系の刺激が辛い状態の子どもの心に伝わらないようにする必要があります。

 この子どもの場合学校が負担になっています。学校が子どもを辛くする刺激、回避系の刺激になっています。ですから母親が先回りをして学校という刺激を子どもに与えないようにする必要があります。

 修学旅行が子どもに取って辛くする刺激か楽しくする刺激か、この文面からでは分かりません。子どもは言葉では修学旅行に行きたいと言っているのでしょうが、その場合、子どもが修学旅行に本当に行きたい場合と、修学旅行には行きたくないのですが母親が行って欲しいと思っている思いを感じ取って修学旅行に行きたいと言っている場合(よい子を演じている)があります。

 多くの学校が辛い状態の子どもでは、学校の友達も辛くて、その辛い友達や先生が参加する修学旅行も辛いものです。嫌がるものです。けれど中には、修学旅行そのものが好きで、そこに嫌な友達がいたり先生がいても、それ以上に修学旅行が好きだという子どももいます。

 修学旅行が子どもを楽しくする刺激なら、子どもは親が何らかの対応をしなくても、修学旅行に行きます。辛い刺激なら修学旅行に行きません。ですから、仲の良い子どもに誘ってもらったことは、子どもにとって修学旅行が楽しい刺激なら、余計な対応だったことになります。する必要のない対応だった、子どもの要求以上の対応だったと言うことになります。

 修学旅行が子どもにとって辛い刺激なら、それは子どもを辛い修学旅行に押すことになり、子どもが母親に不信感を持つようになります。後々子どもが家で荒れる原因の一つになります。いずれにしても学校が辛い状態の子どもにはすべきではなかった対応と言うことになります。

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引きこもりの子どもの普段の姿 <掲示板アーカイブ>  2007/11/7

<質問>
 子どもが不登校で家に引きこもり毎日ゲーム三昧です。ゲームが順調なときには、子どもはにこにこしていて、精神的に安定してますが、ゲームの調子が悪いときには、イライラしてコントローラーを投げ飛ばしたりします。その後もちょっとしたことで怒って物を投げるとか、親に暴言を吐いたりします。父親がそれを咎めると、泣いたり、ガクガクと震えたり、引きつけたりすることもあります。子どもが病気ではないか心配です。

 また子どもは朝起きてきませんし、夜遅くまで起きています。食事も好きなものしか食べませんし、何かしても後かたづけをしません。このような好き勝手に生活していて、子どもの将来を考えると心配です。子どもが我が儘で親の手に負えないようになるのではないかと恐れています。

<答え>
 お母様は息子さんに学校に行って欲しいと内心強く思っていらっしゃいます。息子さんの行動に問題意識を感じていらっしゃいます。息子さんの将来に強い不安を感じています。それらのお母様の思いや不安は、お母様にその気はなくても、お母様の表情や行動、言葉の端端から息子さんに伝わっています。

 息子さんは普段落ち着いていて、ゲームの調子が悪いときにはイライラし出したり、精神的に不安定になると、お母様は考えていらっしゃいます。ところが本当の息子さんの姿は違います。不登校引きこもりで辛い状態である現在のお子さんの本当の姿はゲームで調子が悪いときの姿です。現在の息子さんは学校に行かなければならないと感じているのに、実際には行けないという葛藤に苦しんでいて、イライラして精神的に安定していないのが普通の姿です。

 けれど住み慣れた家の中では、特に息子さんが楽しめるゲームをしていて調子がよいときには、学校を忘れていられますから、不登校を始める前の状態、にこにこして精神的に安定した状態になっています。つまり不登校引きこもりの子ども一般について言うなら、イライラしたり、精神的に安定していないときが普段の姿であり、辛い不登校の子どもの心を癒す物があるときには、不登校になる前のにこにこした、精神状態の安定した心に戻ることが出来るのです。

 息子さんを絶えず辛い状態にしている原因の一つに、お母様の学校への思いを息子さんは感じ取って居ますから、いつもイライラした辛い状態になります。それ以外にも息子さんが学校を思い出す物が息子さんの周囲にはたくさんあるはずです。それらの学校を思い出す物が息子さんの周囲にたくさんあって、それらが息子さんを辛くしていることに、息子さんもお母様も気づいていません。

 つまり息子さんがイライラした状態とは、息子さんがゲームで調子が悪いときばかりではなくて、息子さんが学校を思い出したときなのです。その学校を思い出した辛さを解消するためにゲームを一生懸命します。ゲームで調子が良ければ学校を忘れていられるから落ち着いた姿になれます。

 家にいても息子さんが学校を思い出すものがたくさんありますから、息子さんは絶えず辛い状態になります。その辛さを解消するために、息子さんはできそうなことを片っ端からしようとします。それが周りの大人達から見たら勝手気ままに見えますが、息子さんが元気になるためにはとても大切なことなのです。息子さんの辛い心を癒すためです。

 息子さんが学校を思い出さないように、息子さんにとって楽しいことを続けます。息子さんが元気になればお母様の心配は吹っ飛びます。お母様が息子さんに何か要求すると言うことは息子さんに学校を思い出させる、または辛い状態に追い込むことになり、息子さんを元気にしません。

 息子さんが学校を思い出さないように勝手気ままなことをする、我が儘放題のことをする、好きなことだけをするのは、息子さんの辛い心をそれらで癒して息子さんが元気になるためです。息子さんが元気になると不登校や引きこもりの問題は息子さんが解決してくれます。息子さんが不登校や引きこもりの問題を解決してくれたら、息子さんは我が儘放題のことをしなくなります。する必要が無くなるからです。息子さんが見つけた目標に向かって努力してくれますし、親の思いに沿った生き方をしてくれます。

 ですから息子さんに可能な限り早く我が儘放題な時期を経験して元気になって、不登校や引きこもりの問題を解決してもらうために、我が儘放題なことをしてもらうのです。そして息子さんに元気になってもらうのです。

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先生と親との信頼関係 2007.11.16

<質問>
 娘が小学校から不登校になり、娘を無理矢理に学校へ行かせようとする学校の対応の悪さから、先生方に不信感を持ちました。子どもを小学校に行かせる気は全くなかったです。中学校に進学して、とても良い担任に巡り会いました。とても信頼できる先生だったので、子どもを学校に連れて行くと、子どもはその担任の先生と話し合えるようになっています。子どもは週1回放課後、空いている教室で、担任の指導で子どもの大好きな絵を描いています。

 今回このように良い担任に出会えました。私も娘もこの担任の先生を信頼して、学校生活を取り戻せそうです。子どもは学校に行くエネルギーを湧かせそうです。やはり親と担任との信頼関係がとても大切だと思っています。

<答え>
 お嬢さんが不登校ですから、学校に対して恐怖の条件反射を生じるようになっています。小学校でのお母様のお嬢さんを学校に行かせないという対応は良かったです。中学校での対応についてです。一般的に子どもが学校に行くという行動は ”学校の魅力ー学校の辛さ+学校に行く習慣+親が学校に押す力” で決まります。このお嬢さんの場合、先生という魅力、絵を描くという魅力がお嬢さんを学校に行かす魅力になっています。ですからお嬢さんは学校に行けています。また、夕方という普通に行く学校ではない時間帯ですから、学校から受ける辛さが弱まってもいます。

 本当に学校の魅力が増大してお嬢さんが学校に行けるようになっているのならそれでよいのですが、親御さんが良い先生だと思って(お嬢さんが思っていることとは別です)いることや、お嬢さんの好きなことをさせる(絵を描くことがお嬢さんの本心から好きだとは限らない)と親御さんが思っていることから、お嬢さんを無意識に学校に押している場合があります。つまり親は意識していないけれど、子どもの方では学校に押されていると反応している場合が結構多いのです。子どもがよい子を演じて学校に行ってしまっている場合です。親や先生は子どもが喜んで学校に行っていると間違って判断している場合が多いです。このお嬢さんの場合もこの可能性を考えなければなりません。

 一方子どもの辛さは 学校から受ける辛さ+学校に行く習慣+親が学校に押す力-学校の魅力 ですから、親が無意識でも子どもを学校に押せば押すほど、親が気づかないうちに子どもはもっともっと辛くなっています。子どもがよい子を演じてしまっていると、親が子どもを学校に押していることに気づかないので、子どもはとことん我慢し続けて、どうにも動けなくなって、いろいろな問題行動をしたり病気の症状を出して、親が混乱することになります。このお嬢さんに関してもこの可能性を考える必要があります。

 ここで本文のお嬢さんに戻りますと、親御さんも娘さんも信頼できる先生と書かれていますね。信頼関係を考えるときには、母親と子どもとの信頼関係が一番大切です。この親御さんとお嬢さんとの間の信頼関係については書かれていません。もし親御さんとお嬢さんとの間に信頼関係が出来ていますと、お嬢さんは親御さん以外の人に信頼関係を求めません。先生に信頼関係を求めません。潜在意識でその存在を意識しただけでも辛くなる先生から逃げようとしても、素直には求めようとはしません。一般的に不登校の子どものように辛い状態の子どもはその母親の信頼関係を求めるからです。ですからお嬢さんが先生との信頼関係を求めたと言うことは、親御さんとの信頼関係が不十分だと言うことになります。

 このように書きますと親御さんを非難するような書き方になりますが、お子様を守るために敢えて言わせて下さい。親御さんとお嬢さんとの信頼関係が不十分な場合にはお嬢さんは親御さんのために可能な限りよい子を演じます。お嬢さんは無理をして学校に行ってしまいます。そして親御さんはお嬢さんが学校に行くエネルギーを持っていると判断されます。けれどお嬢さんが先生を信頼していると親御さんが判断なさっていらっしゃるその判断が、お嬢さんがよい子を演じている姿から間違って判断していらっしゃいます。このお嬢さんは間違いなく先生が辛いはずですが、親御さんのためによい子を演じています。無理をして学校に行って、お嬢さんが楽しめる絵を描くことで妥協しています。今は妥協できていますが、その内に無理がきかなくなって、いろいろな不適応行動をしたり、病気の症状を出すようになります。

 親と担任との関係と書かれていますが、一般に不登校などで辛い状態の子ども親と担任との関係が良いことを求めていません。繰り返しますが、不登校などで辛い状態の子どもは、母親と子どもとの間の信頼関係を求めています。そして親と子どもとの間に信頼関係が出来ると、親も先生との間の関係を良くする必要を感じなくなります。例え先生がとてもすばらしい先生でも、親と先生との関わりを必要としなくなり、自分の子どもがその子どもなりに生きようとする生き方を認めようとします。親と先生との関係が良い場合には、子どもは学校でよい子を演じてしまい、無理を重ねてしまいます。親と担任との関係がよいと一見子どもにも良いように理解されますが、子どもの立場から言うなら、子どもにとっては好ましくない関係なのです。

 このお嬢さんが学校に行くエネルギーを貯めるには、今のように行けない学校に今のお嬢さんを行かせているという対応では貯まってきません。学校という刺激を一切なくして、親御さんとの信頼関係に守られて、お嬢さんなりの生き方を続けて、その経験の中で勉強の必要性を感じたときに生じてきます。それ以外では生じないと考えて下さい。その理由は、不登校の子ども、学校に辛さを感じる子どもは同時に勉強にも辛さを感じているから、勉強の辛さ以上の勉強の楽しさを見つけられない限り、自分から勉強を始めないからです。

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学校に行くなと言ったら 2007.12.4

 不登校気味で、今回も昨日からおなかが痛くて学校を休んでいる女の子がいます。以前は母親がすぐに女の子を病院に連れて行き、薬を飲ませて女の子が学校に行けるようになるのを待っていました。しかし最近になって母親は女の子が不登校気味であることに気づきました。

 そこで不登校の相談機関で対応法を相談したところ、「学校には行くな」と言ってあげてごらんとアドバイスを受けていました。そこで母親が女の子に「今日はおなかが痛いから学校に行かなくて良い」と言ったところ、女の子は元気になり、テレビを見たり漫画を読んで一日を過ごしました。

 女の子が「明日は学校に行くから朝7時に起こして」と言いました。母親は「あなたは学校に行かないで、家であなたらしく生活をしてごらん」と言うと、女の子は「子どもが学校に行きたがっているのに、どこにあんたのような、学校に行かなくて良いという親が居るの」と怒りだしました。

 それでも母親は「普通の母親は確かにそうでしょう。けれどお母さんは違う。いくらあなたが怒ったとしても、お母さんはあなたが学校に行かないで、家であなたらしい生き方をしてくれるだけで良いと思っている。お母さんはそう思っているのであり、学校に行くかどうかを決めるのはあなた自身でしょう。」というと、女の子は怒って部屋を出て行ってしまいました。しかしその後るんるん気分で過ごしていました。翌朝、自分から起きてきても、学校に行こうとはしませんでした。

 女の子は無意識に病気を演じる、病気の症状を出すことで学校に行かないという選択が許されていると潜在意識で反応していました。その症状を出さないでいると、親から学校に行きなさいと言われると潜在意識で反応しています。女の子は知識として、習慣として、学校には行かなくてはならないとなっています。

 そこで女の子は「明日は学校に行く」と言いましたけれど、潜在意識では学校を拒否しているので、学校に行けそうもないことを感じ取っています。そこで「朝7時に起こして」という条件を付けています。起きようと努力するという意味です。

 母親が女の子に「学校に行くな」と言うと、それは学校に行かなければならないという女の子の知識の否定になりますから、否定されたこと自体では、女の子は怒り出します。けれど女の子の本心に母親の言葉は沿っていますから、母親に認められていると反応し始めて楽になります。元気が出てきます。

 起きられない朝も自然に起きられますが、安心して学校に行こうとはしません。安心して不登校になり、安心して自分なりの生き方を求めることができるようになります。学校で疼く心の傷が早く癒えて、学校で疼かなくなります。

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我が子によかれと(1) 2007.12.23

 中学一年生から不登校、引きこもりになった女の子です。引きこもりになってから女の子は荒れ続けていました。その荒れ方が尋常ではなかったので、両親は女の子が心の病気だと思いある精神科の病院を受診、統合失調症として投薬治療を受けていました。薬を飲ませても、女の子はますます荒れるばかりで、かかりつけの精神科医と相談すれば相談するほど薬が増えていきました。

 薬があまりにも増えたので、それに母親がいくら女の子に薬を飲まそうとしても、女の子は母親に暴力をふるって、だんだん薬を飲まなくなりました。女の子は病院を受診しようともしません。病院は女の子の代わりに受診した母親の話を聞いて、薬を飲ませられない母親を叱りつけ、他種類の薬を大量に処方するだけでした。その病院の対応に母親はだんだん疑問を持つようになり、ネットで調べて当院のカウンセリングを母親が受けるようになりました。

 母親が女の子は病気でないことを信じて、学校や学校に関するものを全て女の子から取り除き、女の子の意志を全て認める対応など、当院からの指導を受け入れて母親が対応を続けたところ、女の子はだんだん落ち着いてきて、暴力もなくなり、母親との関係もとても良くなって、女の子は家の中でゲームや漫画、テレビ、ビデオなどに時間を費やして、気分の良いときには皿洗いや調理などの手伝いもするようになりました。

 あれほど荒れていた女の子が落ち着いてきて約一年たちました。母親との会話も多くなり、いくらか将来の見通しも立って、母親もどことなく安心して生活をできるようになりました。女の子は母親がパートで働いて良いと言って、日中は一人で留守番をするようになっていました。

 そのような日々の中である夕食時に突然女の子が激しく荒れてしまいました。テーブルの上の食事をひっくり返し皿を母親に向かって投げつけて割りました。母親にはなぜ女の子がこれだけ荒れるのか、全くわかりませんでした。以前激しく荒れていた女の子の姿を思い出した母親は、恐怖と不安から家から庭に出て震えていました。

 女の子は数時間荒れ続けましたが、その後何事もなかったようにして居間でテレビを見て、明け方には眠ってしまいました。母親にはどうして女の子が急に荒れ出したのかどうしてもわかりませんでした。以前女の子が荒れていた頃が思い出されて、そのときの病気が再発したのではないかと心配していました。母親は女の子への対応を夜遅く帰ってきた父親と話し合いましたが、父親からは責められるばかりで、母親は途方に暮れてしまいました。

 翌朝母親は当院に電話をかけてきました。母親が最も心配したことは、このように原因もなく荒れたのは、やはり女の子が病気を持っていて、それが再発したのではないかということでした。そこで当院から「女の子が食事時に荒れたのだから、食事に何か今までと違った変化はなかったか」という質問をしました。母親は「食事はいつものように用意をして、女の子を呼んで食べようとしたけれど、おかずがいつもと違ったおかずを用意した」と言いました。母親からそのおかずについていろいろと聞き出してみると、そのおかずは女の子が幼いときにはとても好んでいたけれど、荒れているときに作って、ますます荒れてしまった時のおかずであることがわかりました。母親としては女の子が元気になってきたので、もっと元気になって貰うために、もっと栄養を付けて貰うために、母親の願いを込めたおかずだったのです。女の子によかれと母親が思って作ったおかずなのでした。

 女の子にとってそのおかずは、女の子の潜在意識の中で何かとても辛いことと結びついていたのです。女の子はそのおかずを見たとたん、潜在意識でその辛い出来事と結びついて、激しい怒りを生じて荒れてしまったのです。もちろんこの反応は女の子の潜在意識で生じていますから、女の子はなぜ自分が荒れたのか全く理解をしていません。その辛い思い出と潜在意識で結びついているおかずがなくなると、女の子の心は安定して今まで通りに過ごすことができるようになるのです。実際にそれ以後も女の子と母親との関係はとても良くて、女の子はだんだん元気になっていっています。

 このように我が子によかれと親が思って行った対応が子どもの心の傷にふれる場合があります。辛い状態の子ども達は親に先回りをした対応を求めていません。それよりも子どもの要求を100%叶えてくれる親を求めています。

 また、我が子のためと、我が子によかれとして親が行ったことが子どもの心の傷にふれた場合、親にはなぜ子どもが荒れるのか、なぜ病気の症状を出すのか全くわかりません。親は子どもが理由もなく荒れたり、病気の症状を出すと感じますから、子どもが異常ではないか、子どもが病気ではないかと考えて、子どもを病院に連れて行ったり、子どもの問題行動に対応する機関に子どもを連れて行きます。それはますます子どもを辛くして、子どもの問題の解決を不可能にしてしまいます。病気でもない子どもを医者が病気だと診断すると、親は子どもを病人と信じ込んでしまい解決策を誤って、子どもを辛い状態から守る解決策を失います。

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