フリースペース「したいなぁ〜松戸」&松戸−登校拒否を考える会「ひまわり会」
ホーム代表者と顧問医師のコラム

大反抗 2006.7.26

ある不登校の母親からの手紙の一部です。

 私たち夫婦と同居している義理の母は、女傑として事務所を一人で切り盛りをしてきました。私たち夫婦が事務所で働きだして10年。現在まで事務所が存続して、私たち一家が食べて行かれるのは、本当に母のお陰です。現在、事務所内では勿論、家庭内でも母の発言力が強くて、何かにつけて母が口出しをしてしまいます。私はいつまでたっても自立できず、自分の子どもでさえ自分の考えで育てられていませんでした。

 息子が不登校になったとたん、母は息子の不登校の原因と責任を全て私に求めました。毎日のように、母親の私を責める言葉は、一つ一つ私の胸を思いっきりえぐりましたが、私は耐え続けました。私が耐え続ければ耐え続けるほど、母親の言葉は酷くなり、ついに私は耐えきれなくなって、キレてしまいました。私は食事のテーブルを蹴り飛ばし、母に殴りかかり、暴言を吐きました。「死んでくれ」とまで、私は母に叫んでしまいました。

 その様子を息子は、心配そうな顔をして見ていましたが、その時は私の大反抗が息子にどのような影響を与えるのか、全く考えられませんでした。ただ、ただ、母親への激しい怒りが私を捕らえて、母へ激しく攻撃をしてしまいました。あまりにも激しく私が母へ攻撃したので、危険を感じた息子が、「母さん止めて!明日から、僕、学校に行くから」と言って、私を止めに入ってくれました。もし息子が私を止めてくれなかったなら、私は母に大けがを負わしていたと思います。

 その日以後、息子は自分の部屋に閉じこもり、私たちの前には姿を見せなくなりました。私も酷く落ち込んでしまうときと、心の奥底からわき出す怒りと恨みで、仕事も家事もできなくなり、寝込んでしまいました。現在精神科から薬を貰い飲んでいますが、一向に無気力の状態から抜け出せません。

 この大反抗を期に、母は私たちの家庭のことには口を出さなくなりました。でも私の母への不満や恨みは以前として続いています。私はこの思いを母にぶつけたいですが、家の経済を握っている母には、ぶつけることができません。息子を守ってやれないばかりでなく、自分自身の問題も解決できません。本当に辛いです。

私からの返事

 息子さんが不登校になったのは**さんが原因ではないです。**さんは**さんなりに可能な限り息子さんを支えてきていらっしゃいます。**さんが、お母様との関係で思うように息子さんを守れなかったのは仕方がないことです。息子さんを守るのに限界を感じられて、**さんは大反抗をなさったのです。一見**さんの辛さから大反抗をなさったように見えますが、**さんが息子さんを守ろうとなさっていらっしゃったから、**さんが辛くなり、大反抗を起こしています。**さんが息子さんの母親として、大反抗をなさったことは正しいことです。まだ、お母様に大反抗を続ける必要を感じられているなら、絶対に大反抗を続けられるべきです。それは息子さんを守るために必要なことです。お母様には事務所に専念して貰い、**さんの家庭内の問題は全て**さんが**さんの意志で解決すべきです。**さんのお母様への大反抗は、息子さんにとってとても良い影響を与えると思います。

 現在息子さんは自分の部屋に引きこもっています。それは**さんの大反抗が、息子さんを学校に行かすことでの、お母様との騒動だったと、息子さんが誤解しているからでしょう。**さんが息子さんに、「息子さんが学校に行かないで、家で息子さんらしく生活するのを認めるために、**さんがお母様に大反抗をした」と伝えられると、息子さんは引きこもりを止めて、元気に家の中で生活してくれると思います。

分かっていなかったなのは私の方 2006.7.5

ある母親からの手紙

 家の中を整理していました。6年生の文集が出てきました。「さぞかし荒れた作文だったかしら。どんないいかっこをして書いていたかしら。忘れたなぁ」なんて思いながら、我が子の作文 読むと、ちゃんと書いてありましたよ。今だからわかってやれるあの子らしい本音が。それはくしくも、この5年**がずっとおっしゃったことでした。びっくりでしたし涙が出ました。わかっていなかったのは大人の私ですね。将来のゆめと生き方を書いたものですけど…

 「 夢はほんとうになれるかなんてわかりません。だから このように(人が喜んだり笑ってくれるような仕事)するには、勉強をしなければなりません。僕は勉強は苦手な方ですが、夢のためなら、きっとがんばれると思います。たぶんみんなも、きっとそうだと思います。僕は初め夢という言葉に、あまり関心をもっていませんでした。でも後からになって、なんだか大切なように思えてきた…自分がきめた夢によって、ほんとうに自分の人生が 決まるかもしれないと思ったからです。だから 今では夢という言葉にすごく関心を持っています。何よりも夢を大切にしていきたいと思います。僕はこれから、ちゃんとした生活を送り、僕なりのやり方で、がんばって行きたいと思います。」って書いてありました。

 4年生頃には「飼っていたハムスターを通じて小さな生き物や動物を大切にしたい」と、書いていました。当時の我が子にとって、学校はもう楽しい場所ではなくなっていたと思いますが、我が子は精一杯努力していたのだろうなと思います。陰で、その我が子なりのやり方をわかって、支えてやれなかったことに、母親として、人間として、私は失格だったと思うのです。「毎日成長しない子はいない。まして6年生。どの子も不安や自信やプライドや夢を持っていたんだなあ」と色々な文を読みながら思いました。本人が無意識でもちゃんと、「初めから自分で生きていくよ」と言っていたんだと思いました。「**は全部わかっておられて、私たちのように、難問にぶつかり悩んで、子供についてわからなくなった親を助けようとされているのかな」と思いました。

 「それからも我が子は、馴染みのない、ましてあまりに環境の良くない新しい学区に飛込まされて(中学校に入学したという意味)、必死で一人で馴染もうとしたでしょうね。我が子にとって、かわいそうな人生になってしまいましたが、待っていた辛い現実からとうとう逃避して、誰一人理解者のいなかったこんな家庭に、我が子はよくまあ 帰ってきて、現在まで過ごしてくれたなぁ」と思います。

自傷行為 2006.7.31

 蚊に刺されてかゆいとき、どうしますか?刺されたところを掻いてしまうでしょう。かゆみが強ければ強いほど、爪を立てて強く掻いてしまいます。それをかゆくないときにしてみて下さい。きっと痛みを感じられると思います。では、蚊に刺されてかゆいとき、蚊に刺されたところとは全くかけ離れたところを掻いたらどうなりますか?蚊に刺されたところを掻くよりは効果が減りますが、矢張りかゆみを軽減してくれます。蚊に刺されたとき、かゆみ止めを塗る、かゆみ止めを飲むということでも、かゆみを抑えることができます。けれどかゆみ止めが手元にないなら、かゆみを我慢するし、かゆみを我慢できないときには、掻いてしまいます。

 何かで辛くて、どうにもできないときに、体をかきむしったり、頭をかきむしったりします。これは多くの人は理解できると思います。また、子どもが辛くてどうにもならなくなったときに、自分の頭を壁にぶつけたりするのを見かけた人もいらっしゃると思います。これは多くの方には理解できないでしょう。大変なことだ、どうにかしなくてはと思われると思います。外見上はとんでもないことをしているようですが、当人にとっては、どうにもできない辛さを、痛みが一時的に軽減してくれて、痛みが無くなってもある期間一時的に楽になっています。お灸や鍼が肩こりや腰痛を取ってくれるのと似ています。ただし自傷行為と同じ仕組みで辛さを軽減しているのではないです。お灸や鍼が末梢神経の関連通の仕組みを利用しているのに対して、自傷行為は中枢神経の仕組みを利用しています。

 リストカット(所謂リスカ)やたばこの火で自分を傷つける行為(所謂根性焼き)など、自傷行為を多くの人は理解できないと思います。なぜ人が好んで自分を傷つけるのか分からないと思います。自傷行為をまともに見ることができない人も多いと思います。自傷行為をする精神状態を病気と考える人が多いと思います。自傷行為をする人は、しばしば死にたいと言います。ですから、自傷行為を自殺の前兆だと理解する人も多くて、何が何でも自傷行為を止めさせるべきだと考える人が多いと思います。確かに自傷行為で動脈を傷つけて、出血多量で死亡してしまう人もない訳ではないです。その場合には、自傷行為をする人は、辛さがとても強くて、自傷行為をしても痛みを感じていない場合です。痛みを感じるまで、血が噴き出すまで自傷行為をしますから、辛さが強くて痛みを感じにくい場合には、傷が深くなり、動脈や太い血管を傷つけることになってしまいます。

 自傷行為を自分に対する虐待だと理解する人もいるようですが、虐待ではないです。自分の辛さから自分の命を守るための行動だからです。当然自分を苦しめて、それを楽しんでいるというサディズムのような物でもありません。自傷行為をする人は、本当は自傷行為をしたくはないです。しかし自傷行為をしないと辛くて辛くてどうにもできない状態にいます。その結果自傷行為を行ってしまいます。

 医者も、自傷行為は異常な状態だと考えています。病気の状態だと、統合失調症だと考えているようです。ただし客観的な根拠がある訳ではありません。自傷行為を防ぐ方法を医者は持っていませんし、親や周りの人から子どもの自傷行為を止めて欲しいと要求されたら、医者はその子どもを病気としてしまい、その病気の治療のために、その子どもを拘束室に閉じこめて自傷をしないように拘束するか、病気としてその子どもに向精神薬をどっさりと投与して、脳の機能を麻痺の状態に近くするしか方法論を持っていないからです。

 自傷行為のおおざっぱな仕組みを説明します。人が自傷行為をしなければならないほど辛いというときは、その辛さとは心臓や肺、胃や大腸、皮膚やホルモンなど、体中の臓器が普段にないような、非生理的な動きや反応をしています。その人に辛いと認識させるような反応しています。その時に軽度な痛み、その時の辛さ以上の、警戒信号に相当する痛みを人が受けますと、体中の臓器がそれまでの非生理的な動きを止めて、痛みに対する警戒状態に変化します。生体を守るための動きに変化します。体中の臓器は生物としてのあるべき姿に戻ることになりますから、今までの辛さが無くなって、生きているという実感を取り戻すことができます。

 脳科学的には、人が辛い状態にある場合には、その人の体外、体内にある回避できない恐怖の条件刺激に大脳辺縁系扁桃体が反応して、視床下部や脳幹から体中に恐怖の反応を表現し続けています。その状態で、新たな痛み、回避できない恐怖の条件刺激よりも強い痛みを受けますと、大脳辺縁系扁桃体から視床下部や脳幹に情報が送られて、体中の臓器はその痛みに対する反応に変わります。痛みにより大脳辺縁系や脳幹は生命の危険に対する警戒状態になり、体中の臓器が痛みに対して対応するための生理的な緊張状態に変わります。

 このように大脳辺縁系扁桃体で恐怖の条件刺激から痛みに対する反応に、置き換えられる必要がありますから、恐怖の条件刺激の方が痛みより強く作用している間は、その人は痛みとしての反応が出てきません。生体として痛みは感じているのでしょうが、認識に上らないことになります。恐怖の条件刺激が強く作用していればいるほど、強い痛みでないと、大脳辺縁系扁桃体は痛みへの反応に置き換わらないことになります。それまでは、その人は痛みの認識をしないということになります。

 自傷行為を行う人は若者に多いですが、壮年の人でも行う人がいます。自傷行為を行う人は、いろいろな原因で辛くなり、解決できなくて苦しんでいます。その苦しみを薬やその他の方法でも解決できないから、自傷という行為に出ています。自傷行為を行う人の多くは、自傷行為が自分の苦しみを軽減すると言うことを、自傷行為で自分の心が楽になることを、何らかの方法で知っています。しかし自傷行為とは何かを知らなくても、苦しさのあまり無意識に、夢中で、自分の腕を刃物で傷つけた人の場合も経験しています。また、自傷行為を行うことで体に傷の跡が残りますが、苦しさから一時的でも解放されて、生き延びるために、やむを得ず自傷行為を行っています。

 現在の社会一般の理解、精神医学では、自傷行為が誤解されて理解されています。自傷行為をする人はとてつもなく辛いだけであって、心に病気を持っている訳ではないです。また、自殺をしようとして自傷行為をするのではなくて、生きたいから、辛さから逃れたいから自傷行為をしています。そのために、他の人から自傷行為を止められると、ますます辛くなるから、その後ますます酷い自傷行為をするようになる場合があります。

 自傷行為には体に傷を付けるという問題点の他に、時には生命に危険が及ぶという問題点があります。脳科学的な説明のところに書きましたように、心が辛ければ辛いほど、傷の痛みを感じにくくなっています。体に傷を付けても痛みを感じにくくなっています。辛くなれば辛くなるほど、傷の痛みを感じにくくなっていますから、痛みを感じるために、出血を見るために、作る傷が大きく深くなっていきます。それは自傷行為が生命に関係する組織を切断する場合があり、死に至る場合があることです。自傷行為からの死亡の場合には、必ずいくつかの浅い傷を伴った致命的な傷(ためらい傷)を持っています。それに対して、意識的に刃物で自殺をしようとした場合には、致命的な傷だけのことが考えられます。

 現在、日本社会の中で行われている自傷行為を防ぐ方法とは、自傷行為を行う人を精神科病院に入院させて、拘束室で拘束状態にしてしまうことです。それと同時に、向精神薬を大量に投与して、意識を朦朧とさせて、判断力を無くしてしまうようにしています。それは自傷行為を行う人の人権を障害していますが、医者が統合失調症と診断して、自傷行為をする人の生命を守り治療をするという形にすることで、社会的に容認されてしまいます。

 また、この拘束して、大量の薬で判断力をなくするという対応は、当面の自傷行為を無くすることはできますが、その自傷行為を行った人が、自傷行為を行わなければならなかった問題の、本質的な問題の解決には全く繋がりません。

学校に行きたい 2006.9.21

 本心とは潜在意識(情動=命に直結する脳の機能)ですから、子ども自身も子どもの本心を知りません。親は子どもの本心を、子どもの表情や行動から知るしか方法がないです。子どもの言葉は子どもの知識であり(子どもの場合、言葉は子どもの本心に基づかないことが多いので)、子どもの言う言葉通りに解釈すると、子どもの知識には答えられても、子どもの本心に答えたことになりません。

 不登校をしている子どもの本心は、学校に行こうとしない子どもの行動から、不登校をしているという子どもの事実から、学校が辛い、先生が辛い、勉強が辛いとなっています。理性は経験や知識からの判断です。そこには理屈や理由があります。本心は単なる反応ですから、子どもの学校が辛くて、学校には行けないという反応に、理屈や理由はありません。その子どもの本心に反する子どもの言動は、子どもの本心とは異なった知識だけから生じています。

 その子どもの「学校に行きたい」という本心に反した言葉に、母親が肯定的に答えたなら、母親は子どもの本心に反したことになります。言葉には肯定的に応えても、本心に反した答えは、子どもの本心を否定したことになり、子どもは苦しくなります。子どもを苦しめることになります。子どもの「学校に行きたい」という言葉に肯定的に答えないで、子どもの本心、学校が辛い、勉強が辛い、その結果人に会うのが辛い、という子どもの本心に沿った答えを母親が出すと、その答えは子どもを一見否定しているようですが、子どもの本心に沿っていますから、子どもはほっと安心して、母親を信頼するようになります。このことをテストと私たちは表現しています。

 日本の子ども達は学校に行くべきものと知識の上で徹底的にすり込まれています。子どもの知識の中で、最も重要な知識になっています。行くべきものと徹底的にすり込まれた学校に行こうとしない子どもは、学校に行けないことが、他の何物にも比べられないぐらいに優先度が高くて重要な問題に、知識ではなっています。知識の上では学校に行かなくてはならないと知っていても、学校が辛くて実際に学校には行けないという事実(本心に付けられた傷、その傷から生じる反応を本人ではどうにもできない)に、子どもは葛藤状態になっています。

 言葉では「学校に行きたい」と言いながら、実際には学校に行けない子どもにとって、その学校に行けないという問題以上に優先されるのが、子どもと母親との信頼関係です。これは子どもと母親という関係で誘発される子どもの本能であり、母親の本能です。言葉では「学校に行きたい」と言いながら、実際には学校が辛くて学校には行けないという子どもの心の状態を感じ取れるのは母親の母性です。母性を働かせると、子どもの問題は理屈抜きで理解できるようになります。

休みたかったら休んでもいいよ 2006.10.2

 学校に行き渋る(はっきりと学校に行かないと表現はしていない場合)子供に、母親が「休みたかったら、休んでいいよ」とか、「行きたくないなら、学校に行かなくてもいいよ」と言った場合です。母親は子供に「お母さんとしては、学校を休んでいいから、後は自分で決めなさい」、または「お母さんとしては、あなたが学校に行かなくていいから、学校に行くか行かないかは自分で決めなさい」言ったつもりの場合が多いです。その言葉を聞いたとき、子供はどのように理解するかを考えてみます。

 学校に行き渋る子どもの本心(潜在意識の心)は学校に行けない、学校を休みたいとなっていますから、本来なら「休みなさい」、または「学校に行かなくていい」という母親からの言葉を待っています。子どもの本心から、学校に行くことはできませんから、学校に行こうとはしません。母親も、子どもが学校に行かないことを、認めようとしたつもりでいます。子どもが学校に行かないのを認めたのではなくて、子どもが学校に行かないなら、学校を休むなら、その事実を母親は認めるという意味になります。

 現在の子どもは、知識として、「学校には行かなくてはならない」という知識をしっかりと持っています。「母親が学校に行って欲しいと願っている」事実をよく知っていますから、学校に行き渋る子どもは、今まで通りに学校に行こうとします。しかし本心は学校に行けないですから、子供の行動としては、親から見て学校に行くのか行かないのかわからない、ぐずぐずしている子どもの姿、行き渋りの姿になります。

 母親はこの子どもが学校に行こうとするが、それでいて学校に行こうとしない子どもの姿を認められないのです。行くなら行く、行かないなら行かない。どちらかにして欲しい。「何時までもつきあっていれない、行かないなら行かないで良いから、行かないようにしなさい」という意味の言葉を子どもに送っています。

 子供は相手の心を読むことはできません。言葉通りに素直に理解しようとします。子供が言葉通りに理解する場合、「休みたかったら」または「休みたかったら」という母親の言葉を聞くと、今まで持っている「自分が学校に行って欲しいと母親が願っている」という優しい子どもの母親への思い(知識)から、また「学校には行かなければならない」という子どもの持っている知識が強く思い出されてしまいます。

 「学校に行って欲しいと母親が願っているから、それに従うべき」という、母親へ優しい子どもの思いが強く思い出されて、子どもは「母親の思いに従って、学校に行こう」という結論に達します。その際に、子どもの本心が学校には行けないとなっていることは、配慮されません。子ども自身が自分の本心に気づいていないからです。

 母親ばかりでなく、子どもに強い影響を与える人から言われた、「学校に行きたくなければ」とか、「学校を休みたかったら」という言葉から、子どもは「学校にいかない」、「学校を休もう」とは思いません。それどころか、より強く学校に行こうとします。「学校に行こう」という結論に達しても、子どもの本心が「学校には行けない」となっている事実から、子どもの体は学校に向かって動けません。そこで子どもはより強い葛藤状態に陥ります。子どもはより辛い状態になってしまいます。

 つまり、学校に行き渋る子供に、学校に行くかどうかの判断を預けた場合、「学校には行かなければならない」ということを知っている子ども、「母親が学校に行って欲しいと願っている」ことを知っている子どもにとっては、「学校に行かなければならない」、「学校に行きなさい」、「学校を休んではいけません」といわれたのと同じ結果になり、より強い葛藤状態に陥ります。

子どもはいつからいい子を演じ始める? 2006.10.13

 いい子とは、親にとって、子どもに向かい合っている大人にとって、好ましい姿や行動をする子どもです。子どもは成長の過程にありますから、子どもの周囲にその子どもなりに働きかけて、いろいろとその子どもなりに学習して、その子どもを取り巻く環境に、その子どもなりに一番良い生き方ができるように育っていきます。子ども自身を習慣づけていきます。子どもにとって一番大切な大人は親です。子どもにとって一番大切な環境とは家庭です。子どもは生まれ落ちるとまもなく、家庭でいろいろな経験をして、親が喜べばその経験を繰り返し、親が悲しがれば、その経験をやめようとして、その子どもなりの価値判断を作っていきます。それは親や大人から見たら、その子どもの性格と判断される物です。

 子どもの性格は、子どもとしての本能が満たされる課程でも形成されていきます。自力で動けるようになった子どもは、本能的に子どもは何かを求めて行動を始めます。その何かを求めることが、子どもの本能を満たしてくれるときには、親が喜んでくれた経験と結びつくときには、それがうれしいこととして繰り返し、習慣化して性格を形成していきます。その何かを求めることが、子どもの本能を否定するときには、親が悲しがった経験と結びつくときには、それは嫌なこととして避けようとし、繰り返すことで習慣化して、子どもの性格を形成していきます。

 子どもの性格として判断される子どもの反応の仕方は、行動の仕方は、子どもの本能がどのようにして満たされていくか、どのようにして否定されていくかで形成されるとともに、親が喜ぶか、親が嫌がるかという要素からも形成されていきます。親が喜ぶ反応の仕方、行動をその子どもなりに発展させて、親が嫌がる反応や行動をその子どもなりに放棄して、子どもの性格を形成していきます。

 親との関係で自分の性格を形成していく過程を別な見方をすれば、子どもとは親にとっていい子でありたいと本能的に願って育っていく姿であるとも表現できます。どの親も子育てで一生懸命で気づくことはないのですが、親から見たら、子どもは「本質的にいい子」であることになります。

 このようにして母親のそばで、家庭の中で、子どもの性格の基本が形成されて、子どもは少しずつ母親や家庭から離れた場所で、新たな経験を始めるようになります。そのときまでに形成された性格、親から見たらいい子の性格から行動をして、その結果が自分の喜びを生じるか、嫌な気分を生じるかで、自分の行動を繰り返したり修正して、習慣化して、新たな性格を付け加えて成長していきます。このようにして付加された性格がそれまでの子どもとは違った子どもを作り出して、親や大人たちにとって良い場合もあり、悪い場合もあり、それらを総合してその子どもその子ども特有の性格として、理解されるようになります。

 いい子を演じるとは、ある人に子どもが責められて辛くなり、その辛さを解消する方法がないときに、そのある人に気に入られるような、そのある人が納得するようなことをすることによって、そのある人から逃げ出し、辛さを解消する方法です。子どもとしてはしたくないけれど、辛さを解消するために、仕方なく演じています。無理をして行っています。その場限りのいい子です。ですから、いい子を演じるには、子どもは自分を責める人の気に入るようなこととは何かを見つける必要があり、見つかったらそれをいかにも自分の本心から納得しているかのように、演技をしなければなりません。

 子ども自身がいい子であることと子どもがいい子を演じることとは、見かけはよく似ていて区別がつきませんが、子どもの心の中は真反対です。子どもがいい子であることは、子ども自身の喜びであり、子ども自身の能力を高めていきます。子どもがいい子を演じるときには、子どもが辛くても逃げられないから、やむを得ずいい子を演じてその場をやり過ごそうとする子どもの行動です。発展性がないばかりか、その辛さを解消するために、親や大人たちの嫌がることをどこかで行わなければなりません。いわゆる問題行動をする子とになります。

 学校が辛い子どもは言葉で、行動で、学校が辛いことを表現している場合もあります。学校が辛い子どもで、言葉や行動で、学校が辛いことを表現できない子どもは、学校でいい子を演じることで、学校での辛さをやり過ごそうとしています。いい子を演じ続けて、演じ続けられなくなって、不登校になっています。学校が辛い子どもは不登校になるまで、学校内でいい子を演じ続けています。そして不登校になって、親や先生方などの大人がことの重大さに気づいています。

 ですから、親や大人たちが、いくら子どもの様子を遡って考えてみても、いつから不登校になった子どもがいい子を演じだしたのか分かりません。いつから不登校になった子どもがいい子を演じだしたのか、はっきりと線を引けません。不登校になった子どもは、辛くなると少しずついい子を演じることを覚えていったのです。不登校になる子どもは頭がよくて優しいから、親が知らないうちに、いい子を演じてきています。

 いい子を演じることが悪いことではないです。子どもがいい子を演じることは、親や大人にとって困ることがない子どもの辛さの解消法です。いい子を演じて、それが続けられる限り、そして、いい子を演じているうちに子どもの辛いことが解消するならば、辛いことが解消して、子どもがいい子を演じる必要がなくなりさえすれば、それでも良いのです。ところが不登校の子どもには、学校内がそれを許してくれなかったのです。学校内での辛さに耐えきれなくなって、いい子を演じ続けられなくなって、学校に向かって体が動かなくなってしまっています。

虐め自殺 2006.10.25

 現在、マスコミで、北海道と北九州のいじめ自殺のことがいろいろと述べられています。政府もいじめ自殺をなくするためにと動き出しました。そこで主に述べられていることは、いじめを早期に見つけ出して、いじめを解決しようという議論が主流となっています。ところが、いじめによる事件が起きてしまうと、その時点から振り返っていじめがあったことがわかりますが、子ども達の間でいじめがなされている段階で、大人達が子どものいじめに気づくことは大変に難しく、いじめの早期発見ができるかどうか疑問です。

 子ども達の間のいじめは、遊びの形で行われていることを、大人達は気づくべきでしょう。子ども達が楽しそうに遊んでいる中の一部に、いじめが存在しています。ですから、いじめている子どもには基本的に悪いことをしているという意識はありません。そして何かの事件の形になって、初めて大人が子ども達の間のいじめに気づいています。子ども達の中には、楽しそうに遊ぶ子ども達の中にいじめらしきものがあることに気づくことがあります。その場合でも、いじめに気づいた子どもが先生や大人にいじめの存在を指摘しても、先生や大人達は子ども達の遊びの姿としてしか理解できません。

 そして何かはっきりとした事件となったとき、初めていじめと気づき、それまではいじめはなかったと、いじめには気づかなかったと、いじめを見つけられなかった責任を回避しています。今回北九州のいじめ自殺の事件でも、いじめていた先生の存在には、自殺した子どもの遺書が見つかるまでは、どの大人も気づいていません。それどころか優秀な先生としていじめた先生は理解されていました。それほどいじめが行われている最中にいじめを見つけ出すことは大変に難しいことです。

 次に大人がよく知っておかなければならないことは、いじめを止めさせようとすると、いじめが酷くなる事実があります。大人がいじめに気づき、いじめる子どもに働きかけていじめを止めさせようとすると、多くのいじめは一見なくなったように見えます。しかし、大人達から見えないところでいじめが行われるようになり、そのいじめも酷くなるので、いじめられている子どもはいじめの存在を訴えなくなってしまいます。いじめられている子どもからいじめの存在を知ることは大変に難しいことです。また、大人が直にいじめる子どもに関わっていじめをなくそうとすると、いじめられている子どもが大変に辛くなる場合が多いです。

 多くの大人は、いじめる子どもをなくすと、子どもの間でのいじめはなくなると考えがちです。ところがいじめる子どもはいじめをしようとしていじめをしているのではないです。何か辛い状態にある子ども達のうちで、その辛さを解消するためにほかの子どもで遊ぶ子どもが出てきます。遊ばれた子どもが出てきます。その遊ばれた子どもがいじめの被害者です。つまり、子どもが親や学校により辛くなったとき、いじめを始める子どもが出てくるという事実です。いじめる子どもは大人の被害者だと言うことです。大人が子どもを辛くするから、いじめをする子どもが出てきています。その結果いじめられる子ども、いじめ自殺をする子どもが出てきています。

社会に出たら、また疲れてしまうかも 2006.11.21

 不登校で引きこもっている子どもを見て、たとえ不登校の問題が解決しても、社会に出たらまた同じように働けなくなって、引きこもってしまうのではないかと、親が心配する場合があります。それは本当に不登校の問題が解決されたら、全く心配のいらないことです。不登校が解決すると言うことは、子どもがその子どもなりに熱意を持って生きられるようになっています。子どもを苦しめる可能性のあるいろいろな問題をその子どもなりに解決できる能力を獲得したから、不登校の問題が解決できました。

 不登校の子どもは潜在意識で学校が辛くなっています。学校が辛いことを親が認めて、学校に行かない生き方を親が認めると、子どもは元気に、学校とは違う社会と関わるようになります。子どもが学校で辛いことを親が認められなくて、親が無理矢理に子どもを学校に行かせようとすると、子どもは家の中に、部屋の中に、引きこもってしまいます。辛さに耐えるので精一杯になり、元気が出てきません。引きこもりを続けることになります。

 子どもが引きこもりをやめるには、親が子どもの不登校を良いことだと認めなければなりません。親が本心から子どもの不登校を認めたなら、子どもは安心して、自分の不登校を問題視しなくなります。その子どもなりの活動を広げていきます。その子どもの活動は家の中にとどまらないで、家の外、社会にまで広がっていきます。子どもの活動が広がると、子どもはいろいろな問題にぶつかります。その問題をその子どもなりに解決するなり、親の手を借りて解決するなりして、子どもの活動を広げて、その子どもなりの生き方を見つけ出します。

 この子どもの活動を見守ることは、親にとってははらはらどきどきです。子どもがとんでもないことをしでかさないかと不安になります。それでも子どもから「助けて」と言ってくるまで待ってあげると、子どもはその子どもなりに、良い経験、悪い経験(時には親にとってとんでもないことをするかもしれません。それも子どもにとって重要な経験です。子どもを罰するのではなくて、子どもが希望すれば、親が責任をとって子どもを守ってあげてください)、ありとあらゆる経験をします。その経験が、以後の子どもが問題に遭遇したときに、その子どもなりに解決する能力になります。自立して一人の人間として生きていけることになります。親にとって、社会の中で、とても頼もしい生き方をします。

 現在の学校制度に乗ってどんどん進んでいける人はある意味ではかわいそうな人です。現在の学校制度が通用するような社会(昔の日本がそうでした)で生きていける人なら、それでも良いのですが、そのような人はほんの僅かな人たちです。多くの人は、いつか必ず現在の学校制度が、学校での経験が通用しない社会の中で生きていかなければならなくなります。今まで経験していない、自分の経験が役立たない社会の中で生きていかなければならなくなったとき、学校制度に乗って進んできた人たちは、社会経験のない人たちは、失敗を経験していない人たちは、とても弱い人間になる可能性が高いからです。

 学校の外の社会では、人はいろいろな問題にぶつかる可能性が高くなります。学校制度に乗って進んできて、社会経験がない人たちには、どのようにしてその問題を解決して、生きていったらよいのか分からなくなるからです。今まで失敗を経験していないから、失敗を経験してもその失敗を咎められてしまい、失敗を取り戻す経験をしていないから、社会の中ではとても不安になっています。

蛇足
現在、学校制度をやっとの思いで終えて、就職という社会生活をしている人たちがいます。その人たちの中には、やっとの思いで仕事をこなしている人たちがいます。仕事以外のことを考える余裕がないです。当然結婚のこと、結婚の結果の子育てのことを考えることができない、考えても自信がないです。結婚生活に飛び込んでいけない人たちがいます。それも多いと言われています。あまりにもまじめに、よそ見をしないで、学校制度に沿って成長したために、社会の中で生きていく能力、問題の解決能力を育てることのできなかった人たちです。

いじめられる子どもがいじめる子どもに 2006.12.17

 いじめられる子どもの中で、いじめられっぱなしではなくて、いじめられた辛さを何かで遊ぶことで解消しようとする子どもが出てきます。それはいじめる子どもが自分の辛さを何かで遊ぶことで解消しようとするのと同じです。いじめられた子どもがその辛さを何かで遊ぶことで解消しようとするとき、その遊ぶ道具がなくて、他の子どもで遊ぶ、他の子どもをからかうことで遊ぶ子どもが出てきます。

 いじめられていた子どもの辛さはとても大きい場合が多いです。ですからそのいじめられていた子どもが他の子どもで遊ぶ場合、その遊び方はからかうという程度を越えて、いじめになっている場合が多いです。新たにいじめられる子どもが出てきます。

 そこで「いじめる子ども」、「そのいじめる子どもにいじめられているが、同時に他の子どもをいじめる子ども」、「そのいじめられていたが、他の子どもをいじめる子どもにいじめられる子ども」という、いじめ、いじめられの子どもの集団が出来てきて、その集団の中に、階層構造が出来てきます。その集団の中では、基本的にはいじめる子どもが一人(いじめの頂点)、いじめられっぱなしの子どもが一人(いじめの底辺)、いじめられるのを避けるためにいじめる子どもが何人(中間のいじめ)かという子どもの集団です。

 このいじめられるのを避けるためにいじめる子どもたちは、絶えず自分がいじめる相手を逃がさないようにしています。自分がいじめる相手を逃がすと、自分がいじめられとても辛くなるからです。それはいじめられっぱなしの子ども(いじめの底辺)がいじめから逃げ出せないように、あらゆる事をされることになります。

 このいじめ、いじめられの集団は、部外者から見たら遊び仲間に見えます。とても仲良く遊んでいる子どもたちのグループに見えます。とてもいじめが行われているとは見えません。その楽しく遊んでいる姿に、同級生などの周囲の子どもたちが巻き込まれ、時には教師などの大人も巻き込まれて、遊びが行われます。それはますますいじめる子どもたちを楽しくして、いじめられている子どもは一見楽しそうに遊ばれていますが、心の奥底では辛さに一生懸命耐えて、遊ばれている時間を乗り切ろうとしています。

 このいじめ、いじめられのグループに、何か大きなストレス刺激が加わった子どもが出てくると、その階層構造の下にいる子どもを酷くいじめることになり、それが最下位にいるいじめられっぱなしの子どもを酷くいじめることになり、周囲にいる子どもたちもいじめではないかと気づくようになります。それでもやはり、遊びの形でいじめが行われますから、いじめではないかと気づいても、いじめだとはっきりと分かりません。

 また、いじめ、いじめられのグループの側にいた子どもの内で、いじめではないかと気づいて、先生などの大人に連絡した子どもについては、その大人に通報した子どもがこのいじめのグループから、嫌がらせを受ける可能性を感じられて、なかなか先生などの大人に通報できない場合が多いです。また、通報しても、先生などの大人はいじめだと分からないことが多いです。

 いじめにより大きな事件や自殺者が出ると、いじめが注目されて、いじめている子どもが見つけ出されて、処罰を受けています。その際に気をつけなければならないことは、そのいじめている子どもとしてリストアップされて、処罰を受けている子どもの中に、実際はいじめのグループの階層構造の最下位近くにいて、いじめの責任を全て負わされている子供がいます。つまり、いじめ事件の全ての責任を負わされていて、または実際のいじめには関わっていなくてもいじめの首謀者として、濡れ衣を着されられている子どもです。実際のいじめ事件の首謀者は、別にいる場合です。

 いじめ事件が発覚すると、教師や大人は子どもたちに聞き回り、アンケートという形でいじめの関係者を調べます。そこでいじめのグループでは、いじめの首謀者を仕立て上げるのです。それはいじめグループの最下位に違い子どもが選ばれます。そのようにしていじめの首謀者として選ばれた子どもも、その後のいじめをおそれて、いじめの首謀者でないと反論をしない場合が多いです。いじめの首謀者として選ばれた子どもが、処分を受けることになってしまって、自分ではないと反論しても、聞き入れられない場合があります。またはそのまま処分を受けてしまう場合があります。

 先生や大人たちは、いじめ事件が調べられて、首謀者が見つけられて、処分されて、それでそのいじめ事件は一件落着と考えます。それ以上いじめ事件を調べようとはしません。先生や大人たちの、きわめて単純な発想、いじめる子どもが悪い。悪い子どもたちを守る必要はないという発想なのです。ところが実際のいじめはきわめて巧妙に行われていて、きわめて単純に発想している大人たちにはその全体像が見えなくなっています。

 先生や大人たちは、「いじめは悪い、いじめる子どもが悪い」とだけ考えて、そのいじめやいじめる子どもを作り出す学校は少しも悪くないと学校を擁護して、いじめを生み出す学校の問題点を探そうとはしないのです。いじめは一部の問題がある子どもが行っていることであり、その子どもたちを処分したら、それ以上いじめの問題は起こらないと考えようとしています。いじめを見つけようとも、いじめに本気で向かい合おうともしません。いじめの問題を本気で考えたなら、教師が責任を取ることになり、教師の素質が問われ、その学校が崩壊し、学校制度が崩壊する可能性があるからです。

 いじめられた子どもは学校制度の被害者であり、いじめたとして処分された子どもも学校制度の被害者であり、いじめのグループの子ども達も学校制度の被害者です。大人社会の被害者なのです。

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