フリースペース「したいなぁ〜松戸」&松戸−登校拒否を考える会「ひまわり会」
ホーム代表者と顧問医師のコラム

ある人への手紙 2006.1.18

 あの1月10日の異様な事件はご近所で起きたのですね。被害者は知人だったとのこと、吃驚なさったでしょう。本当に悲しい事件ですね。それは被害者について、本当に悲しい事件ですが、私にとっては加害者についても悲しい事件の様に感じられてなりません。まだ、犯人は捕まっていませんが、今までの報道を見る限り、きっと今まで何回かあった、そしてマスコミが特異な犯罪だと騒いだような、青少年の犯罪の一つではないかと推定しています。

 今までの特異だと騒がれた青少年犯罪の多くは、私には特異とは思えないのです。ただし、実際にはどの事件も正確な情報が公開されていませんから、マスコミで報道された範囲を用いて、私の経験からの判断です。今まで何人かの、子ども達の傷害事件に心の医者として関与した、私の経験からの判断です。私が関与したり、私が知る限り、青少年による万引きなどの窃盗事件から傷害事件に至るまで、それらの事件の犯人であった子ども達は大人達の被害者でした。子ども達は好きこのんで事件を起こしたのではなかったのです。親や大人達に追いつめられて、苦しさのあまり事件を起こしていました。

 その犯人の親や関係する大人達は、その子どものため、その子どもの将来のためと考えて、子どもに勉強や躾という形で色々なことを求めてきました。その親や関係する大人達の要求は常識的にはとてもすばらしいものでした。所謂偉人や有名人が言ってきたことを、やってきたことを、子どもに求めていました。それはマスコミなどでもしきりに扱われ、常識的な要求でしたから、一般の人にもわかりやすかった物でした。その要求が本当に実現できたら、子ども達はどんなに優れた人間になれるのか、理想的な人間がたくさん出てきて良いはずです。

 ところが、親や関係する大人達から子供への要求は、子どもという概念に対しての要求だったのです。子どもとはこういう物だという発想から、だからこうすると良い、こうしたらこのような立派な人間が生じたという、頭の体操にしか過ぎません。大人の常識的な知識からの要求だったのです。親や大人の持つ知識からの子どものあり方を、成長の仕方を、子どもに押しつけていて、目の前の子どもの姿をありのままに見つめようとはしていませんでした。それは現在のありのままの自分から、その子どもなりに成長をしたいという子どもの欲求を持っている子どもを否定したり、無視していることになります。子どもはその子供に即した対応を親や大人に求めているのであって、大人が知識として持っている理想的な対応を求めているのではないです。

 その子どもに対する不適当な対応は、大人の知識からの対応は、子どもを大変に苦しめて、子どもに色々な問題行動を起こさせています。苦しみ続けて、心の逃げ場を失った子供が、大人の嫌がる行動に走っています。大人の理解できない行動に走っています。心の逃げ場を失った子供が、具体的にどのような行動るのかの判断は、大変に難しいです。その子供の環境や経験によって異なります。子供によって異なっていますが、そこに共通することは、大人が奇異に感じるような行動であり、大人が吃驚するような行動です。そして未だに大人達は、この子供達のこのような反応の仕方の存在に気づいていません。大人達は子どもが起こした事件の異様性だけに注目して、理解できないと騒ぐことだけを繰り返しています。そして、事件後しばらくすると忘れてしまっています。

 では、子供に沿うという子供の思いとは、子供の希望とは何かという問題があります。ある大学教育学部教授が「青少年の考えを尊重し、社会ではぐくむ」と書かれていました。各々の子供が持っている思い、希望は、この教授が言う「青少年の考え」とは何かと言うことになると思います。その子どもらしさ、その子どもの個性とは何かと言うことになると思います。それを知るために、大人が子どもに質問したとしても、その子どもからの言葉による答えは、子どもの思いを知るのに参考にはなるでしょうが、必ずしも子どもの思いそのものではありません。子どもの思いの多くは、子どもが認識して、言葉に出せるような意識的な心の中にあるのではなくて、子どもが認識して、言葉にすることができない潜在意識の中にあるからです。潜在意識にあるその子どもらしさを、その子ども自身も知ることができないからです。それは脳科学からしか知ることができません。

 現在の子ども達は、家庭の中で、生まれ落ちたときから、その子どもらしさを尊重されて育ってきています。その子どもが学校教育を受けるようになると、学校は個性の尊重を原則としながら、実際は画一教育により、個性(の輝き)を奪う教育が行われています。確かにそれでも良い多くの子ども達がいることは事実です。少なくとも日本が貧しい時代にはそれで良かったのです。けれど現在、多くの子ども達はその子どもらしさが奪われることに、大きなストレス刺激を感じています。それは結果として、一部の子ども達の心理的、社会的な成長を阻害し、子ども達の心を傷つけています。所謂不登校、引きこもり、フリーター、ニートと呼ばれる子ども達の辛い心を作ってしまいます。

 大人達は、所謂不登校、引きこもり、フリーター、ニートと呼ばれている子ども達を問題の子どもだと表現しています。けれど実際には、これらの子ども達は、極普通の子ども達であり、成長の過程で、学校生活の中で、運悪く心に傷を受け手苦しんでいるだけです。ただしこれらの子どもの中には、何かで簡単に、そして激しく疼く心の傷を持っている子供が居ます。その様な子供の心の傷が激しく疼いたときには、子どもは以前何かで見聞きしたことを無意識に真似て、まるで夢遊病者のように、何かの犯罪に走ってしまいます。大きな事件を起こしています。つまり、所謂不登校、引きこもり、フリーター、ニートというような、つらい状態の心を持った子供を、子どもの立場から理解しない限り、問題行動をして、大きな事件を起こした子どもを理解することはできません。

心の教育の仕方 2006.2.3

心の教育のような、知識を問題にするのではなくて、反応の仕方を問題にする教育は、体育などの実技と同じように、反応の心に情報として蓄積させなければなりません。

知識の心の情報から行動する場合には、大人でも、知識の心の情報から、反応の心の中にある、思考の心で、または反射的に、過去に経験した反応の仕方の情報を探し出して、それに基づいて行動します。ですから、過去に経験した反応の仕方が、反応の心の中になかったら、大人でも混乱してしまいます。知識の心の情報に相当する反応の仕方が無くても、思考の心で、それに近いか、それに準じる反応の仕方を思い出して行動できる大人はまだ、知的に高い、大人らしい大人と言うことになります。

多くの大人はその人なりにごまかしてしまう訳ですが、子どもはごまかすことができません。子どもは、心の教育として求められていることと、現実の自分のあり方との間の違いが大きい場合には、葛藤を生じ、ストレス状態になります。

子どもの場合心の教育は、まず行動で教えるべきです。行動で教えれば、必要な状況になったときに、反射的に教えられた行動で反応するからです。そして、行動が習慣化すれば、その次に言葉で知識の心の情報として教えると、知識の心の情報が反射的に反応の心の行動と結びつきます。

子どもに行動で教える場合、現実に経験させることが一番良い方法です(実験を含めて)。
その次によい方法が劇などのロールプレイングゲームです。模擬体験でも十分に良い反応の心の情報になります。ゲーム感覚で楽しみながら行うと、早く習慣化します。

ヴァーチャルな世界での経験も反応の心の情報になります。テレビゲーム感覚や、映画、ビデオ、などで実際に見せることは、文字や言葉だけで教える知識より遙かに効果的です。それは動物には真似をする能力があるからです。なぜ視覚から、真似て行動できるのか、反応の心の知識として蓄えられるのか、そこは未だよく分かっていませんが、赤ちゃんの時から、子どもは見て、真似をして、人間としての行動様式を確立してきています。

視覚から反応の心の情報を蓄積するという意味では、先生方の嫌がる漫画もそれなりの効果があります。少なくとも文字や言葉だけから教える心の教育よりは遙かに、反応の心の情報として蓄積されますし、必要なときには反射的に思い出されて反応することができます。

子どもの場合、文字や言葉だけからの知識の心への情報は、試験などの文字や言葉としての反応には効果的ですが、実際の行動には役立たないことになります。

子どもの問題行動について 2006.2.16

 問題行動とは、万引きなどの盗みや、傷害事件などの、法に触れるような非行と呼ばれるものから、ケンカやいたずらなど、親から見て、社会から見て、好ましくない行動を指します。子どもがこれらの問題行動を起こしたときには、子どもを罰し、注意し、説得して、子どもに二度とこのような行動をさせないようにするのが常識的な対応でしょう。そして、子どもが大事件を起こしたときには、社会や多くの大人は、親が子どもを十分に罰しなかったからとか、注意の仕方が不十分だとか、説得をもっと強くするべきだったと言います。親は親なりに十分に子どもを罰し、注意し、説得していますが、現実には問題行動を続ける子どもがいます。大事件と思える問題行動をする場合もあります。いろいろな病気の症状を出すような子どもも出てきます。中には自殺してしまう子どもも出てきます。
 問題行動を起こした子どもを罰したり、注意をしたり、説得することで、該当する問題行動を起こさなくなる場合も多いですが、中には、見かけ上問題行動を起こさなくなった代わりに、親や大人の気づかないような問題行動を起こしている場合も多いです。ただし親や大人が気づかないから、親や大人は、子どもを罰したり、注意をしたり、説得した効果を強調することになります。また、子どもの方でも、成長して大人になってしまうと、問題行動を起こした頃の辛さを忘れてしまいますから、「あのときの罰が、注意が、説得が、良かった」と振り返ることになります。
 子どもの問題行動には、偶然の事故として問題行動を起こしてしまう場合と、子どもがストレス状態にあり、その辛さからの回避行動として、問題行動を起こしてしまう場合があります。この二つの問題行動を外見的に区別することは大変に難しいです。経験的には、子どもの問題行動の多くは、辛さからの回避行動として成されている場合が多いようです。ここでは、子どもがストレス状態にあり、その辛さからの回避行動としての、子どもの問題行動について、考えてみます。

 子どもは本質的に、これらの問題行動をしたくてしていません。何か辛いストレス状態にあって、そのストレス状態から抜け出すために、何かをしようとして、その手段として、問題行動を起こしています(何かをしようとしない子どもは、神経症状や精神症状を出して、病気のようになり、動けなくなります)。そのストレス状態の子どもが何かをしようとするのは、決して意識的に行っているのではありません。ストレス刺激への回避行動として、潜在意識から行っています。
 その何かをする手段として、今までの経験から行った行動が、結果としてたまたま問題行動になっています(勿論問題行動にならなければ一番良いのであり、また、問題行動として気づかれて、騒がれることもなくなります)。つまり、何かしようとすること、その何かをするための手段として行った行動も、情動反応の回避行動として、今までに経験したことを発作的に行っています。それは当然、当人には意図的な意味がないので、罪悪感がありません。現実にしたという感じもありません。周囲から指摘されても、大人の感じ方とは違って、「本当に自分がしたのかなあ」という感じ方、他人事のようです。
 このような状態の子どもについて、子どもの問題行動を責めても、大人のような後悔はありません。反省もありません。それどころか無実の罪で責められているように感じ取ります。子どもの問題行動を責めても、それは反省にも、後悔にもならないだけでなく、子どもは自分への否定と感じ、子どもへの新たなストレス刺激となってしまいます。今までのストレス状態がより悪化します。それはその子どもの回避行動をより強めます。より強く何かをしようとします。そのためにより強く、何かをするための手段を行使して、新たな、またはより問題となる問題行動を行ってしまいます。ストレス状態と問題行動の悪循環を生じています。
 このような子どもの問題行動を解決するには、このストレス状態と問題行動との悪循環を断ち切る対応をする必要があります。その第一は大本の子どものストレス状態を解消するために、子どもに加わっているストレス刺激を断ち切ることでしょう。このストレス刺激を断ち切れたなら、これ以下の議論は全く不要になります。子どもが行った問題行動を放置しておいても、子どもはそれ以上問題行動を行わなくなります。しかし、現実にはこのストレス刺激を見つけるのは大変に難しいです。常識では当たり前のこと、日常生活の中で普通なことが、子どもにはストレス刺激になっている場合が多いからです。例えば学校に行くこととか、勉強をすることとか、家の外に出ることとか、就職することとか、親にとっても、社会にとってもごく当たり前のことが、子どもによっては大きなストレス刺激になっています。これらのことが、親や社会も子どもへのストレス刺激となっているとは考えていませんから、親や社会は子どもにストレス刺激を与え続けることになりますし、子どもはストレス刺激から解放されることはないです。
 次に考えなければならないことは、このストレス状態と問題行動との悪循環を断ち切るために、子どもがストレス状態を回避するために何かをしようとすることを許可してあげることです。そうすれば、何かをしたいために、物を盗むとか、お金を盗むとかの、子どもの問題行動は無くなります。例えばゲームをしたいとか、CDを聞きたいとか、何かを買いたいというようなときには、可能な限りそれを親が認めて実現させてあげることです。勿論親の可能な範囲でよいですが、可能な限りの最大限です。お金が勿体ないという気持ちから、親が制限すると、それは買ってあげないのと同じ意味合いになってしまいます。どこまでが可能な限りなのかを、子どもと相談する必要がありますが、その可能な限りを親が子どもに押しつけたときにも、それも相談したことの意味が全く無くなってしまいます。また、この対応によって、子どもの問題行動が無くなったとしても、子どもが依然として辛い状態にあることには変わりありません。子どもの問題行動の根本的な解決ではないです。
 子どもを罰したり、注意したり、説得して、親や大人の恐怖で子どもの問題行動を起こさせないようにする場合、そのときに加えた恐怖以上の喜びを、同時に与えてあげると、子どもは問題行動を起こさなくなります。しかし、辛い状態にある子どもでは、依然として辛い状態にいるのには、変わりありません。また、未だそれほど辛くない子どもの場合、親や大人が気づかない方法や場所で、その子なりの辛さを解消してしまう場合もあります。これも親や大人の目の前の問題行動は消失しますが、長い目で見ると、やはり好ましくありません。どのような子どもの場合でも、子どもを罰したり、注意したり、説得するときには、その際に子どもが感じる辛さを打ち消すほどの喜び刺激を耐える必要があります。その意味で、家の外では罰せられるが、家の中ではその罰以上の喜び刺激を与えられるようにするか、父親からは罰せられるが、母親からはその罰以上の喜び刺激を得られるような対応が好ましいです。
 子どもの問題行動を子どもが辛いというサインだと考えて、子どもを辛くする刺激から子どもを守ってあげると、子どもの問題行動を正そうとしなくても、子どもは問題行動をしなくなると、前述しました。子どもを辛くする刺激から子どもを守らないで、子どもの問題行動を放置しておくと、子どもは問題行動を繰り返して習慣化していきます。それは問題行動を起こす環境的な条件がそろえば、子どもの辛さとは関係なく問題行動を起こすようになってしまいます。問題行動の習慣化です。ですから、子どもを辛くする刺激から子どもを守れないなら、子どもの問題行動が習慣化するのを防ぐために、子どもの問題行動は罰するなどの対応を受けなければなりません。ただし、上記のように、ただ罰するのではなくて、それ以上の喜び刺激を同時に与える必要があります。ただ罰するだけでは問題が多いことを親は明記しておく必要があります。ストレス状態と問題行動との悪循環に入ってしまうからです。

温かい布団 2006.3.6

 寒い冬の朝、目が覚めても、私たち大人は寒さを我慢して、服を着替えて働き出すより、暖かい布団の中でうとうととしていたいものです。後五分、後一分と、時計を気にしながら、暖かい布団の中で、許されるぎりぎりまで過ごして、時間がきたら仕方なく起きて、身支度をして、動き出します。ところが幼い子どもは大人と少し違います。子どもは目が覚めると、暖かい布団の中で遊びだして、遊びに飽きたら、寒くても自分から起き出してきます。眠っている幼い子どもにとって、暖かい布団は絶対に必要ですが、目が覚めた子どもには、暖かい布団だけでは不満足なのです。

 登校拒否、不登校、引きこもり、ニートと呼ばれる子ども達が、家に引きこもって、家の中で好き勝手に生活をしていることを、温かい布団の子どもに例えると、「なるほどうまいことを言うなあ」と思う人が多いでしょう。そして、暖かい布団にくるまれていることからの問題点を指摘されると、納得する人もいるでしょう。しかし実際の子どもは、暖かい布団の中ですら大人とは違うことは、上記の通りです。暖かい布団のなかの大人の姿を用いて、暖かい布団の中の子どもの姿を説明することは間違いですし、登校拒否、不登校、引きこもり、ニートと呼ばれる子ども達が、暖かい布団に例えられた温かい家庭で過ごす姿を、暖かい布団の中の大人の姿で説明することも間違いです。

 登校拒否、不登校にしろ、高校中退、大学中退、出社拒否からの引きこもりやニートと呼ばれる子ども達にしろ、子どもの逃げて行けるところは、少なくとも学校や社会と比べて暖かいはずの家庭です。暖かい布団に例えられる家庭です。けれど、これらの子ども達が逃げていった家庭が本当に暖かい布団に例えられるでしょうか?子ども達の家庭で、自分の部屋で、暖かい布団にくるまれて時間を過ごせていると例えられるような子どもはどれだけいるでしょうか?これらの子ども達がくるまっていると例えられる布団は、必ずしも温かくはない、必ずしも居心地の良くない布団ではないかと私は思います。これらの子ども達が生きる家庭が温かくて、居心地が良かったなら、それは暖かい布団の中で目覚めた子ども達のように、子どもは家庭の中でつらい症状を出す心の傷をゆっくりと癒して、その子どもなりに動き出すと思います。その子どもなりの生き方を見つけられると思います。

 ところが多くの登校拒否、不登校、引きこもり、ニートと呼ばれる子ども達の逃げていけるところは、これらの子ども達を待っているものは、針のむしろ、冷たい家庭です。親や大人達は、子ども達にとって温かい家庭のつもりでしょうが、子どもにとっては、違うように感じ取っています。無言の拷問のある居心地の悪い家庭だと思っています。布団に例えるなら、冷たくて居心地の悪い布団だと思います。そうであっても、これらの子ども達には、自分の家庭にしか逃げていく場所がないです。学校へ行っているよりは、職場や社会に居て心が傷つくよりは、冷たくて居心地が悪くても、生まれ育った家庭の方がまだましですから、そこにうずくまって辛さに耐えていなければなりません。それは依然として、子どもにとって不自然なことですから、子どもには辛くて、好ましくないことですから、子どもは病気と間違えられるいろいろな症状を出してきます。逆に言うなら、子どもがいろいろな症状を出しているときは、その子どもは温かい家庭の中にいない、布団に例えるなら、温かい布団の中にはいないと考えて良いと思います。

 登校拒否、不登校、引きこもり、ニートと呼ばれる子ども達が逃げて、閉じ込もっているところが温かい家庭でないとしたら、そこで子どもは自分のつらい症状を出す心の傷を癒すことができません。場合によってはその心の傷をより悪化させてしまうこともあります。そこで、子どもは辛さに耐えかねて、親に助けてくれと訴えます。それは言葉で表現することもありますが、多くの場合、言葉で表現しても通じないことが経験からわかっていますから、子どもは暴力という形や、病的な症状でで訴えることになります。布団に例えるなら、今掛けている布団は寒くてつらいから、寒すぎて我慢の限界を超えているから、もっと暖かい布団に換えてくれと言っています。そして、子どもが暴力や病的な症状を出しているときには、その子どもに問題があるのではなくて、その子どもにとって家庭が温かくないことを示唆しています。親にとって温かい家庭だと判断されても、その子どもの心に沿った温かい家庭に、親が変える必要が借ります。その子どもに合った暖かい布団に換える必要があります。

 言葉で子どもの辛さが親や大人に通じるぐらいなら、子どもは引きこもる必要はありません。何度も言葉で子どもの辛さを親や大人に、子ども達は伝えてきています。その言葉を親や大人が聞いたとき、それは子どもが悪いとか、もっとがんばれとか言って、子どもの訴えを素直に聞いてくれません。そこで子ども達は言葉で訴えるのをやめています。辛くて引きこもっていても、親が理解してくれなけれなくて、子どもを責めれば、「子どもがどれだけ辛いか、その辛さを親は気付いてくれ」と言う意味で、親の大切にしているものを選んで子どもは壊します。それでも気が付かないときには、親に対して暴力を振るいます。または、親のものを壊したり、親に対して暴力をふるう代わりに、子どもは辛いいろいろな病気のような症状を出すようになります。

 それでも親の思いから、親の都合から、子どもの行動や症状をみていると、それは子どもの心を素直にみていないという意味で、色眼鏡を通してみていると表現されますが、その色眼鏡をかけて子どもをみている親には、子どもの訴えが全くわかりません。色眼鏡を通して子どもをみている親には、いつまでも暖かい布団の中で、好き勝手に過ごす、途方もない子どもと理解することになります。親は親を犠牲にして、これだけ子どものために尽くしてあげているのに、子どもが言葉を使うこともなく、子どもが何かと暴力をふるうことより、子どもが異常だと考えます。病気だと考えます。それでは子どもはますます苦しくなるばかりです。子どもの辛く感じている本当の心を、色眼鏡をはずして、子どもの心に沿って、親は知ろうとすべきです。子どもに本当に暖かい布団にくるませてあげて、子どもがその暖かい布団の中で動き出して、やがて暖かい布団に満足できなくなって、子ども自身で布団から出ていくのを待ってあげてください。

また、学校が不幸な子どもを作った 2006.3.30

 東京都世田谷区宮坂のマンション2階の男性会社員(40)方で2006年3月9日未明に起きた火災について、未だ詳しい内容が分からないし、もしもっと詳しい内容が報道されても、放火という先入観、恨みという先入観で報道される限り、本当の少年の心は私たちに伝えられてこないでしょうから、今までの私の経験から勝手に、この少年の心を代弁してみたいと思います。

 報道されている内容から、少年は登校拒否の状態にあったことは間違いないです。登校拒否とは、学校という概念に対して恐怖を生じる状態です。それはお化けが怖い、蛇が怖いという心の状態と同じです。少年は学校という概念に、お化けのような、蛇のような恐怖感を生じていたはずです。少年の両親は、少年が学校というもので恐怖を感じているとは気づいていませんから、離婚後も母親は少年を学校に行かせ続けようとしました。中学生の少年は力では母親には負けませんから、そこで母親に乱暴という行動で、常識的な人には乱暴と理解されるような行動で、学校がどれだけ辛いのか訴え続けていました。勿論学校が辛いことを、言葉でも言っていたはずです。それはきっと母親から無視されたか、説得されたかして、少年は言葉では学校が辛いことを伝えるのを止めていたはずです。きっと少年は、母親だけには少年の辛さを理解して欲しかったはずです。それすらも無視されて、少年は離婚した父親の元で、学校に行かされる対応を受け続けたのでしょう。母親では手に負えないと言う、親の立場からの判断の他に、学校を換えたら、学校に行けるようになると、親の判断があったと思います。

 父親の元で、一月下旬から学校に行く対応を受けていました。少年は優しくてまじめな性格だったのだと思います。この再出発という親の思いを正直に受け取って、少年が可能な限り学校に行き続けました。辛さを一生懸命我慢して、我慢して、学校に行き続けていましたが、その限界が来ました。どうやっても学校に行けなくなってしまったのです。学校に行けない少年を父親は力で家の外に押し出しました。少年は力では父親に勝てなかったのでしょう。勿論言葉では父親が少年の辛さを理解してくれないことはよく知っていたはずです。そこで少年ができる父親への訴え方を無意識に探して思いついたのが、火を付けることです。きっと少年はそれまでの経験から、家の中で火を燃やすということを知っていたのでしょう。ただし、少年は家を燃やしてしまおうと言う意図はなかったはずです。父親やその妻に怪我をさせたり、その子どもを焼死させることを意図していたのではありません。ただ、父親に、父親の対応が間違っているというメッセージを、家の中で火を燃やすと言う行動で示そうとしただけです。それは、不登校の子どもがその親に暴力をふるうのと同じ意味合いです。

 新聞報道で自供と書かれている少年の言葉の内容は、担当検事の先入観から誘導されている言葉です。少年は放火という思いもなかったでしょうし、父親が嫌だったことは間違いないことですが、父親に恨みを晴らすという思いもなかったでしょう。

何のために学校に拘る? 2006.4.7

 ある科学雑誌に、「悩める大学生、大学院生が急増?」という記事が載っていました。それによると、2003年度の大学生の休学率が男子で2.9%、女子で2.4%。平均で2.8%。退学率が男子で1.9%、女子が0.9%。平均で1.6%でした。留年率が男子で8.3%、女子で3.1%平均で6.6%でした。これらの割合は近年増加の傾向にあります。大学院生の休学率が男子で5.0%、女子で9.2%、退学率が男子で4.8%、女子で5.0%。留年率は男子で9.0%、女子で11.8%でした。

 これらのデータから、大学に行ったけれど、大学生活の挫折や、大学生活の意味が分からない大学生が、無視できない数になっていることが分かります。また、増加の傾向にあるとの指摘もあり、大学に行ったけれどその目的や意義が分からない学生達が増えてきていると言うことになります。苦しんで、苦しんで、やっとの思いで大学に入学して、そして又苦しんだあげくに中途で大学を去る若者が100人中に1.6人、それらの人の多くは、ニートと呼ばれる人になっていると推定されます。

 日本の高度成長期までは、今から20〜30年ぐらい前までは、大学を出るとほぼ確実に就職できて、年功序列で長く勤めれば勤めるほど、収入が増えて、一生を保証される経済構造になっていました。子供達も、若者達も、物質的に満たされてくることの意味を知ることができました。現在よりは貧しくて、物が無かった生活の中で、欧米の生活にあこがれ、収入が増えれば、欲しい物を買うことができるようになるという、喜びを感じることができました。経済的に満たされることを生きる目的にできましたから、親や教師から尻をたたかれて、嫌な勉強に励んで、無味乾燥な勉強に耐えて、一流大学に入る努力ができました。親や教師の多くは、その時の思いから学校に、子供達や若者達に関わろうとする人が多いようです。

 この物質的に豊かな時代に生きる子供達は、若者達は、自分たちが欲しい物に満たされて生活しています。学校に通い続けて、「条件の良い就職をしたい」と言葉では言うでしょうが、そのために辛くて面白くない勉強をする欲求は持ち合わせていません。その代わりに、親や教師から勉強で競争して勝つことを求められています。競争に勝つという喜び、勝って親に褒めてもらえる喜びから学校での勉強、塾での勉強に励んでいます。その勝った証がどの学校に入学できたかと言うことで示されています。それは勉強ばかりでなく、スポーツでも、芸術でも、子供達は競争に勝つという意味で、競わされています。競い合って勝った子どもには、若者にはスポットが当てられ、より難しい競争に追い込まれています。

 若者達の中には、やっとの思いで大学に入学して、苦しんで大学を卒業したけれど、就職できないでニートと呼ばれる人のなっている人がかなりの数いると言われています。勿論研究をしたいから大学院に行く人の方が多いでしょうが、中には、就職したくないから大学院に残った(大学院生の増加に関係している?)けれど、大学院に行き続けることができなくなった若者も居るでしょう。それらを含めて、大学院を去る若者が100人に5人近くいます。それらの人の多くもニートと呼ばれる人になっているようです。

 子供達にとって本能的に興味があり、楽しいはずの幼稚園や小学校、中学校。そこでも既に、子ども同士で競争することを要求され、またしつけと称して、子供達の行動や生活は縛り付けられ、子供達は息詰まるような生活をしています。これらの大人からの要求をうまく満たせる子供達にとっては、現在の学校はそれでよいと思いますが、かなりの数の子供達はこの時点で既に、程度の差はありますが、心に傷を帯び、学校に行きづらくなっていています。勉強に拒否反応を生じるようになっています。その様な子供達は、本当は学校に行きたくないのですが、親や周囲の人の圧力で、やむを得ず学校に行き続けています。その様な子供の一部は親や周囲の人の圧力があっても、学校に行き続けられなくて、学校を拒否して不登校になっています。

 小学校、中学校で不登校にならなくても、その様な心の状態で子供達は高校に進学し、より激しい学業や運動などの競争により、また子供達の心を無視した学校運営により、子供達の心がますます苦しくなって、学校から家の中に逃げ出した不登校の子どもや、家の中にも逃げこめなくて、町中に逃げ出して、万引きや薬物などの不良行為などの問題行動をする子供達も出てきます。この町の中に逃げ出して、不良行為を行う子どもについて、その子どもが悪い、親の子育てやしつけが悪いというのが常識でしょうが、子供達をこれらの行為に走らせた大本は学校であり、その事実を知らない親や大人達が、責任を子供達に求めて、それにより子供達を追い込んで、これらの不良行為に走らせています。

 これらの事実をふまえて考えると、学校制度にすがりついて生きることの意味をもう一度考え直す必要があると思います。勿論、多くの若者が学校制度を利用して、成長し、知識を深めて、社会に貢献しています。これらの人には、これ以下の議論は考える必要がないです。また、多くの親は自分の子どもが学校制度を利用して成長し社会に出て行ってくれるものと確信していて、学校制度から自分の子どもが脱落することなど、全く考えていないです。子どもの心がどうであれ、子どもが学校に行っているだけで、多くの親は安心しきっています。学校にすがりついていないと、子どもの将来が開かないだろうと信じています。学校側や先生方は、子供達に何かも問題を生じたときには、学校が問題ではなくて、子ども自身が問題だと、またはその子どもの親の子育てが問題だと考え、学校が持つ問題点を考えようともしません。

 一方でこの学校制度から逃げ出しても、自らの生き方が見つからなくて、苦しんでいる若者がいますし、その数が増えてきています。そして現在、引きこもりと呼ばれる人たち、ニートと呼ばれる人たち、フリーターと呼ばれる人たちの問題が、社会問題となっています。これらの人の親たちは悩み、慌てふためいて、若者達を学校に戻す対応を、社会に押し出す対応を、あれやこれやと試みています。それが若者達の心に傷を作り、または元々ある学校や人で疼く心の傷を深め、広げていきます。これらの若者達を苦しめていますが、その苦しみの原因を若者達に求めていて、若者達が学校で苦しんだこと、親や大人達の対応が若者達を追い込んでいることを認めようとはしません。

 これらの若者達がなぜ学校制度から逃げだしたのか、その原因を考えてみる必要があります。その原因について、いろいろな人がいろいろな立場から述べていますが、若者達の立場からその原因を考えた物はあまり無いと思います。若者達が学校生活を続けている内に感じだす無力感、その無力感の中には、学業の意味が分からない、自分の生きる目的や将来が見えないことへの不満、学校で疼く心の傷の疼きを解消できない、なども含まれます。その若者達の無力感はどこから来るかという問題を考える必要があります。

 無力感とは潜在意識の反応です。嫌なことから逃れられないときに生じます。学業が楽しくない若者達にとって、学業を続けることは苦痛です。苦痛でもその苦痛に見合う何か楽しみや喜びがあるのなら、若者達は楽しくない学業を続けられます。けれど現在の学生達は、学校制度に沿ってやっとの思いで進学し、学校生活をしても、苦痛だけで、喜びが見つからなくて、学校生活から逃げ出しています。それも無理をして、無理をして、ぎりぎりまで無理をして、全てのエネルギーを失ったところで、学校制度から離れていますから、その後すぐに社会生活の中に入っていけません。親の元でエネルギーを蓄積しなければなりません。まだ、エネルギーを蓄積しないうちに、親や周囲から後押しされて社会に入っていっても、エネルギー不足により社会から逃げ出さなければならなくなっている人たちがいます。その際に、人で疼く心の傷を受けたり、自分を駄目な人間だと否定してしまう若者達が出てきます。

 私が観察する限り、学業が楽しくない若者達の中には、学校で疼く心の傷を既に持っている若者達を多く見かけます。学校から逃げ出したいのですが、親や周囲からの力で学校に行かされていて、学校から逃げ出せないでいる若者達です。これらの若者達にとって、学校は既に行きたくないところになっています。勉強もしたくないものになっています。けれど学校に行かざるを得ない、勉強をせざるを得ないので、形だけ繕って勉強をしている振りをしている、学校に行っている振りをしている若者達です。親や周囲の人たちは、若者達が形だけ装っている、若者達の表面的な姿を見て、若者達が喜んで学校に行っていると、目的を持って学校に行っていると考えています。それで若者達の将来が保証されていると考えています。

 私が経験する限り、親から信頼されて、不登校を認められて、学校に関わらないで元気になった子どもは、その子どもなりにいろいろなことに挑戦できた子どもは、時期が来たら、学歴がないなりに社会に出て、その人なりの仕事をして、しっかりとした大人になっています。中には必要を感じて学校に行き、それなりの資格を得て、その人なりに社会で活躍する子どもも出てきています。不登校を経験していないが、無理をし続けて学校に行き続けた子どもより遙かに人間らしい生き方を、社会の中でしてくれています。

 一方で、親から一応不登校を認められても、つまり不登校を続けられても、親から信頼されていなで、その子どもなりに納得のいかない生き方を続けていた子供達は、いろいろな病的症状を出しますし、大人になっても元気が出ないで、人に対して不安を感じ続けて、社会生活ができないばかりでなく、経済的にも心に関しても自立できなくて、親に依存した生活を続けるようになっています。これらの子どもですら、大学で学校に行けなくなって引きこもった人、卒業しても社会に出て行けなくて引きこもった人、就職したけれど仕事を続けられなくて引きこもった人よりも、心の傷が浅いようです。私の経験の範囲での結論ですが、これらの大学や就職してから引きこもった人たちより、より早く元気になって社会に出て行きやすいようです。

「子どもを守る いま、できること、すべきこと」について 2006.5.11

 4月30日の朝日新聞に、シンポジウム「子どもを守る いま、できること、すべきこと」が載っていました。大人の立場から子どもがいろいろな事件に巻き込まれないようにする考え方が述べられていました。その評価については人それぞれでしょうし、今までいろいろなところで述べられてきたことが集約された形になっていたと思います。けれど私が読んだ限りにおいて、子どもの立場からの意見、子どもの心についての意見がないのが、片手落ちのように感じました。

 子供達が日中の大半を過ごす学校、その学校は家庭と同様に安全でなければなりません。多くの大人は学校は安全で、その学校への行き来の危険性を問題にする場合が多いように思います。ところがその学校が子供達の心を傷つけたのに、知らない顔をしています。それどころか、学校で子どもの心が傷つて、子どもが苦しみだしても、学校はその原因を子ども自身や家庭のしつけに求めてしまう場合すらあります。

 ある学校に酔っぱらった男が進入しました。廊下を歩いていた子どもに襲いかかり、一人を押し倒して暴行をしました。他の子供達が教員室に連絡をして、一人の教師が犯人の側まで来たのですが、それから引き返して、他の教師を連れて犯人を取り押さえました。その事件についての証言が、被害者の女の子を含めた子供達の話と、教師達の証言とが異なっていました。教師達の証言は教師達がすぐに犯人を取り押さえたことになっていて、最初犯人の所まで来た教師はいないことになっていたのです。

 マスコミには、事件の事実と、学校側の証言が載っただけでした。両親がマスコミに訴えても、学校側の証言が正しくて、被害者の女の子がちがっている、記憶を混同していると判断されて、受け付けてもらえませんでした。現在、被害者の女の子は中学生になっていますが、心の傷が疼いて学校には行けていません。それ以後も学校は何事もなかったように運営されて、学校側の問題点は全く指摘されないで、関係した先生方も転勤で居なくなっています。

 身体に傷が付くような事件なら、外から見て分かりますから、学校側はそれないの対応を取らざるを得ません。けれどこの女の子に限らず、学校で子ども達の心が傷ついています。この女の子の場合は外から侵入した男による暴力でしたから、いくらか事件性を持ってあつかわれましたが、多くの場合、学校内での事件は目撃者が子どもしかいない学校という隔離された社会の中で、学校側に都合の良いように、うやむやにされてきています。場合によっては、教育という名の下に必要なこととして、子どもの心に傷を付けるようなことが行われている場合もあります。

 戸塚ヨットスクールの戸塚宏が服役を終えて出てきています。出てきてはっきりと体罰を行うと言っています。子どもの心を正すために必要なことだと言っています。その大人の思いばかりを優先して、子どもの心を無視している戸塚宏を都知事である石原慎太郎が後押ししています。また、この戸塚ヨットスクールに子どもを預けようとする親もいることも事実です。子供達を親の都合の良いように育てたいという気持ちも分からない訳でもないですが、子どもの心を無視した対応で子どもの心が大きく傷ついて、子どもがいろいろな病気として扱われるようになってしまう場合を、私はしばしば経験します。大人にとって都合の良いように子どもを育てようとして、子どもの一生が台無しになっている例を、私はしばしば経験しています。子どもが心を傷つけられて辛い状態になった責任を、社会はその子ども自身やその親に求めていて、子どもの心を傷つけた人(体に傷を付けた人は別ですが)は責任を取る必要がないという不合理な仕組みになっています。

子どもを叱ってしつけてはいけない 2006.5.30

 多くの大人は子どもを叱ることで子どもをしつけようとして、子どもにしつけられなかった経験を持っています。その際に、未だ叱り方が足りなかった、子どもを甘えさせてしまったと考えがちです。しかしそれは子どもをしつける方法が間違っていたのです。子どもを叱ったり罰を与えたりしてしつけようとしても、それはしつけになっていないことが動物実験から分かります。ここで子どもとは、一応中学生年齢までを考えて下さい。なぜ、中学生年齢までの子どもかという理由ですが、それはこの年齢までの子どもは、言葉を話しますが、その心は動物の心にとても近いからです。また、以下で言う大人とは、母親を除く大人です。父親については、子どもの本心である潜在意識が他人のように反応しています。

 痛みに関するネズミの実験があります。ケージの中のネズミに電気刺激で痛みを与えた場合、ネズミは痛みから暴れます。そのケージの中にスイッチを用意します。ネズミの前肢が乗るとスイッチが切れるようなスイッチです。スイッチが切れると、ネズミを電気刺激して痛みを与えている電流が切れるようにします。するとネズミは電気刺激で痛みを受けるとすぐにすぐにスイッチを切ることを学習します。電気刺激の痛みを受けるとすぐにスイッチを切るようになります。苦痛から逃れる方法を学習します。スイッチを切ることで、痛みから逃れられることを学習したネズミは、痛みを受けた回数や期間にもよりますが、痛みがないときでも所謂不穏状態を示します。

 この動物実験はネズミだけでなく、犬や猫、猿、類人猿でも同じ結果が得られます。人間の子どもでは、実験をすることができませんが、同じ結果が得られます。ただし人間の子どもでは、大脳新皮質の機能が大人ほどではないですが、他の動物以上に働きます。人間の子どもに関しては、この基本的な動物実験の事実に、人間的な大脳新皮質の機能を追加して考える必要があります。それでも基本的には、上記の動物実験のネズミを人間の子どもと書き換えても、おおむね同じ結果が得られます。この実験を人間の子どもに置き換えて書き直してみます。子どもが大人の求める行動をしない、大人がして欲しくない行動をしたことにより、大人が子どもを叱ったり罰を与えた場合です。ネズミに加えた電気刺激による痛みが、子どもを叱ったり罰を与えたことに相当しています。

 子どもに叱ったり罰を与えた場合、子どもはその辛さから泣いたり暴れます。中には泣いたり暴れたりしない子どももいますが、それは既に次のよい子を演じていることになります。

 子どもが既に、その叱られたり罰を与えられることを回避する方法(ネズミが電気のスイッチを切るに相当する方法)を学習していると、子どもはその学習している方法を行います。例えば大人の言うことをおとなしく聞く、大人の言う通りに従うなどです。また、その大人の言うことをおとなしく聞く、大人の言うとおりに従うだけでなく、その大人の言うこととは全く関係なく、その大人が普段から喜びそうなことをすることで、大人が叱ったり罰を与えるのを回避することも、子どもはします。それが所謂よい子を演じると表現されているものです。ただし、叱られたり罰を受けることを回避できたとしても、子どもはその大人に対して警戒することを学習しています。ネズミでの所謂不穏状態に相当します。

 この子どもがその大人を警戒している状態は、その子どもにとってとてもつらい状態です。その辛さを解消する必要があります。その結果、子どもはその子どもなりの楽しみに耽り出します。その子ども達の姿も、多くの大人には良くない姿だと判断されやすいです。その大人達の判断が子どもに伝わると、子どもは大人の嫌がる行動を無意識にやってしまいます。それが時には犯罪になる場合もあります。ただしこの事実は、つらい状態の子ども達を観察した結果から分かってきたことです。

 子どもを叱ることでしつけることは、見かけ上、子どもが大人の希望する行動をするようになり、子どものためにも良いことのように大人は考えますが、子どもの立場から言うなら、それは大人からの恐怖を回避するための行動であり、大人からの恐怖が無くなったら、基本的にその行動をしません。何度も叱って、子どもに大人の希望する行動を習慣化しようとしても、習慣化しません。子どもの方から進んで、その大人の希望する行動をするようにはなりません。見かけ上習慣化したようにして大人の希望する行動をしていたとしても、それは大人からの恐怖を感じていたからです。何かの理由でたまたま、その大人の希望する行動を子どもがしたとしても、その行動をした時、子どもはその大人から感じた恐怖も思い出すことになり、その大人の希望する行動を行う際に、子どもは子ども自身も理解できない辛さを感じてしまいます。とても辛くなります。

少子化対策と子どもの心 2006.6.14

 出生率の低下が続き、少子化対策が叫ばれています。そのために政府も色々な政策を始めています。労働時間などの社会の仕組みや、育児にかかるお金の問題を解決して、若い夫婦に子どもを生み育てやすい環境を作ることは大切なことだと思います。しかし、それらが整ったとしても、依然として若い夫婦は子どもを産んで育てようとはしないでしょう。政策により乳幼児期の時間的な、経済的な負担を軽減してもらえても、それ以後の教育費、養育費に対する若い夫婦の不安は大きいです。子育てにかかる負担を考えると、子どもは一人でよいと考える若い夫婦が多くなります。

 若い人たちは、子ども時代に親や学校、社会からの要求に耐えて、我慢を重ねて大人になっています。大人になったのだから、その人なりに人生を楽しもうとします。そのためにはお金が必要です。自分たちの楽しみを満足させるためにお金を使わなければならないので、子育てに回すお金が無くなります。それは結婚しても育てる子どもの数を少なくすると言うことになります。

 若い人たちは辛いことに我慢ばかりをして育ってきています。生きる喜びを感じて育っていません。自分が育った経験から、子どもが育つのに、子ども自身がいかに辛い思いをし続けてきたかを知っています。子どもが楽しく成長する方法を知りません。子どもを育てるのがいかに大変だかと言うことを、身をもって実感しています。若い人たちには子どもを育てる自信もないし、子育てをしてみたいという希望もあまり持っていません。結婚しても子どもを一人しか作らないと言うことになります。

 以上の理由から、少子化対策のもう一つの柱は、若い夫婦に子育ての楽しさを感じてもらうことでしょう。子育てが楽しければ、経済的に少々辛くても、若い夫婦は子どもを生み育ててくれると思います。楽しい子供時代、楽しい青春を過ごせた若い夫婦には、子育ての楽しさが分かります。子どもの立場から子どもが楽しく成長できる家庭も作ってくれます。子どもたちの楽しそうな会話であふれた家庭を作ってくれると思います。

 全然関連がないよう話ですが、現在のように我慢ばかりを要求する、辛さを我慢ばかりさせる学校制度の中で育ってきた子どもにとって、成績ばかりで評価された子どもにとって、大人になって結婚をしても、子どもを育てる気持ちにならないだろうという事実は、私には分かるような気がします。

子どもが親の財布からお金を盗んだことについて 2006.7.3

 子どもが親の財布を含めて、親のお金を盗むには、それなりの理由があります。子どもはその子どもなりの理由から、必要に迫られてお金を盗んでいます。この種の子どもは概して性格の良い、頭の良い子どもです。子どもに関する問題が解決すれば、後々の悪影響はありません。ただし、そのまま放っておくと、次第に習慣化して、盗み癖になります。

 子どもの理由として、その第一はお金が必要だったことです。お小遣いを貰っていない、またはお小遣いが少なくて、その子どもの必要としている物を買うことができなかったからです。もし子どもの性格が悪ければ、子どもは盗んだ親の金で買い物をしないで、直に欲しい物を盗んでしまいます。その理由の第二は、お金を使って欲しい物を買わないと、子どもが自分を維持できない何か辛いことがあるからです。学校が辛い、勉強が辛い、虐められているなどです。その理由の第三は、両親と子どもの間に信頼関係がないことです。信頼関係がないから、子どもは自分の辛さを親から癒されないでいます。信頼関係がないから、親に子どもの辛さを伝えられません。また、伝えたとしても親には理解されません。

 子どもでもお金が必要ですから、少なくとも現在の社会習慣ぐらいのお小遣いを上げるべきでしょう。ただ、各々の家庭にはその家庭なりの都合があります。その都合に沿って子どもと相談して、お小遣いを増やしたり減らしても大丈夫です。子どもが納得する小遣いを子どもに上げる必要があります。また、小遣いをあげていることに拘らないで、子どもに何か大きな買い物が必要なときには、親は可能な範囲でお金を出した方が良いです。出せないときには子どもと相談することでしょう。

 お金を盗んでまでお金を得る場合には、その子どもが何か大きなストレス刺激を受けています。ストレス状態にあります。それを解消するためにお金を盗んで使おうとしています。お金を盗んで買い物をするしか、ストレスの解消法がなかったことに、親は気づくべきです。お金を盗んで買い物をするしかなかった子どもの辛さを、親は理解してあげるべきです。その辛さの原因の多くは学校や勉強、友達に関係しています。もし学校に原因があるなら、しばらく学校を休んで貰って、家でその子どもなりに時間を過せるようにしてあげる必要があります。

 親と子どもの間に信頼関係がないことは、現実に子どもが親の財布からお金を盗んだことからわかります。親と子どもとの間に信頼関係がないと、親は子どもの盗みにばかり注目してしまいます。子どもが辛くて、自分の辛さを解消するためにお金が必要なことに気づきません。子どもも自分が辛いことを、その辛さを解消するためにお金を使いたいことを、子どもは親に言葉に出して言えません。子どもは親に言いたくても言えません。そして親の財布からお金を盗んだら、親から叱られて、ますます子どもは辛さへ追い込まれます。親が子どもの辛さを理解できていないから、子どもを叱ってしまいます。親が子どもを信頼していないから、親が子どもを理解できないことを、子どもに原因を求めてしまいます。親が子どもを信頼しないから、親が理解できないことしたことから、子どもを病気と見てしまいます。これではますます子どもは辛くなり、また親の財布からお金を盗んで自分の辛さを解消せざるを得なくなります。その様な子どもを叱ることで解決しようとすると、今度は万引きとか、他の社会的な犯罪に発展する可能性があります。

 子どもには全く悪いことはないです。確かにお金を盗んだことを親から見たら、悪いことに見えるでしょうが、子どもとしては自分の辛さをご両親から解消してもらえなかったから、子どもができそうなお金を盗んで物を買うという、子どもなりのストレス解消法をしただけです。他の方法が子どもに許されていたら、子どもはその方法をして、自分のストレスを解消したはずです。親が子どもを信頼して、子どもを守ろうとするなら、この問題は意外と簡単に解決します。

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