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心療内科 赤沼医師のコラム

ある人への手紙 2006.1.18

 あの1月10日の異様な事件はご近所で起きたのですね。被害者は知人だったとのこと、吃驚なさったでしょう。本当に悲しい事件ですね。それは被害者について、本当に悲しい事件ですが、私にとっては加害者についても悲しい事件の様に感じられてなりません。まだ、犯人は捕まっていませんが、今までの報道を見る限り、きっと今まで何回かあった、そしてマスコミが特異な犯罪だと騒いだような、青少年の犯罪の一つではないかと推定しています。

 今までの特異だと騒がれた青少年犯罪の多くは、私には特異とは思えないのです。ただし、実際にはどの事件も正確な情報が公開されていませんから、マスコミで報道された範囲を用いて、私の経験からの判断です。今まで何人かの、子ども達の傷害事件に心の医者として関与した、私の経験からの判断です。私が関与したり、私が知る限り、青少年による万引きなどの窃盗事件から傷害事件に至るまで、それらの事件の犯人であった子ども達は大人達の被害者でした。子ども達は好きこのんで事件を起こしたのではなかったのです。親や大人達に追いつめられて、苦しさのあまり事件を起こしていました。

 その犯人の親や関係する大人達は、その子どものため、その子どもの将来のためと考えて、子どもに勉強や躾という形で色々なことを求めてきました。その親や関係する大人達の要求は常識的にはとてもすばらしいものでした。所謂偉人や有名人が言ってきたことを、やってきたことを、子どもに求めていました。それはマスコミなどでもしきりに扱われ、常識的な要求でしたから、一般の人にもわかりやすかった物でした。その要求が本当に実現できたら、子ども達はどんなに優れた人間になれるのか、理想的な人間がたくさん出てきて良いはずです。

 ところが、親や関係する大人達から子供への要求は、子どもという概念に対しての要求だったのです。子どもとはこういう物だという発想から、だからこうすると良い、こうしたらこのような立派な人間が生じたという、頭の体操にしか過ぎません。大人の常識的な知識からの要求だったのです。親や大人の持つ知識からの子どものあり方を、成長の仕方を、子どもに押しつけていて、目の前の子どもの姿をありのままに見つめようとはしていませんでした。それは現在のありのままの自分から、その子どもなりに成長をしたいという子どもの欲求を持っている子どもを否定したり、無視していることになります。子どもはその子供に即した対応を親や大人に求めているのであって、大人が知識として持っている理想的な対応を求めているのではないです。

 その子どもに対する不適当な対応は、大人の知識からの対応は、子どもを大変に苦しめて、子どもに色々な問題行動を起こさせています。苦しみ続けて、心の逃げ場を失った子供が、大人の嫌がる行動に走っています。大人の理解できない行動に走っています。心の逃げ場を失った子供が、具体的にどのような行動るのかの判断は、大変に難しいです。その子供の環境や経験によって異なります。子供によって異なっていますが、そこに共通することは、大人が奇異に感じるような行動であり、大人が吃驚するような行動です。そして未だに大人達は、この子供達のこのような反応の仕方の存在に気づいていません。大人達は子どもが起こした事件の異様性だけに注目して、理解できないと騒ぐことだけを繰り返しています。そして、事件後しばらくすると忘れてしまっています。

 では、子供に沿うという子供の思いとは、子供の希望とは何かという問題があります。ある大学教育学部教授が「青少年の考えを尊重し、社会ではぐくむ」と書かれていました。各々の子供が持っている思い、希望は、この教授が言う「青少年の考え」とは何かと言うことになると思います。その子どもらしさ、その子どもの個性とは何かと言うことになると思います。それを知るために、大人が子どもに質問したとしても、その子どもからの言葉による答えは、子どもの思いを知るのに参考にはなるでしょうが、必ずしも子どもの思いそのものではありません。子どもの思いの多くは、子どもが認識して、言葉に出せるような意識的な心の中にあるのではなくて、子どもが認識して、言葉にすることができない潜在意識の中にあるからです。潜在意識にあるその子どもらしさを、その子ども自身も知ることができないからです。それは脳科学からしか知ることができません。

 現在の子ども達は、家庭の中で、生まれ落ちたときから、その子どもらしさを尊重されて育ってきています。その子どもが学校教育を受けるようになると、学校は個性の尊重を原則としながら、実際は画一教育により、個性(の輝き)を奪う教育が行われています。確かにそれでも良い多くの子ども達がいることは事実です。少なくとも日本が貧しい時代にはそれで良かったのです。けれど現在、多くの子ども達はその子どもらしさが奪われることに、大きなストレス刺激を感じています。それは結果として、一部の子ども達の心理的、社会的な成長を阻害し、子ども達の心を傷つけています。所謂不登校、引きこもり、フリーター、ニートと呼ばれる子ども達の辛い心を作ってしまいます。

 大人達は、所謂不登校、引きこもり、フリーター、ニートと呼ばれている子ども達を問題の子どもだと表現しています。けれど実際には、これらの子ども達は、極普通の子ども達であり、成長の過程で、学校生活の中で、運悪く心に傷を受け手苦しんでいるだけです。ただしこれらの子どもの中には、何かで簡単に、そして激しく疼く心の傷を持っている子供が居ます。その様な子供の心の傷が激しく疼いたときには、子どもは以前何かで見聞きしたことを無意識に真似て、まるで夢遊病者のように、何かの犯罪に走ってしまいます。大きな事件を起こしています。つまり、所謂不登校、引きこもり、フリーター、ニートというような、つらい状態の心を持った子供を、子どもの立場から理解しない限り、問題行動をして、大きな事件を起こした子どもを理解することはできません。

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心の教育の仕方 2006.2.3

心の教育のような、知識を問題にするのではなくて、反応の仕方を問題にする教育は、体育などの実技と同じように、反応の心に情報として蓄積させなければなりません。

知識の心の情報から行動する場合には、大人でも、知識の心の情報から、反応の心の中にある、思考の心で、または反射的に、過去に経験した反応の仕方の情報を探し出して、それに基づいて行動します。ですから、過去に経験した反応の仕方が、反応の心の中になかったら、大人でも混乱してしまいます。知識の心の情報に相当する反応の仕方が無くても、思考の心で、それに近いか、それに準じる反応の仕方を思い出して行動できる大人はまだ、知的に高い、大人らしい大人と言うことになります。

多くの大人はその人なりにごまかしてしまう訳ですが、子どもはごまかすことができません。子どもは、心の教育として求められていることと、現実の自分のあり方との間の違いが大きい場合には、葛藤を生じ、ストレス状態になります。

子どもの場合心の教育は、まず行動で教えるべきです。行動で教えれば、必要な状況になったときに、反射的に教えられた行動で反応するからです。そして、行動が習慣化すれば、その次に言葉で知識の心の情報として教えると、知識の心の情報が反射的に反応の心の行動と結びつきます。

子どもに行動で教える場合、現実に経験させることが一番良い方法です(実験を含めて)。
その次によい方法が劇などのロールプレイングゲームです。模擬体験でも十分に良い反応の心の情報になります。ゲーム感覚で楽しみながら行うと、早く習慣化します。

ヴァーチャルな世界での経験も反応の心の情報になります。テレビゲーム感覚や、映画、ビデオ、などで実際に見せることは、文字や言葉だけで教える知識より遙かに効果的です。それは動物には真似をする能力があるからです。なぜ視覚から、真似て行動できるのか、反応の心の知識として蓄えられるのか、そこは未だよく分かっていませんが、赤ちゃんの時から、子どもは見て、真似をして、人間としての行動様式を確立してきています。

視覚から反応の心の情報を蓄積するという意味では、先生方の嫌がる漫画もそれなりの効果があります。少なくとも文字や言葉だけから教える心の教育よりは遙かに、反応の心の情報として蓄積されますし、必要なときには反射的に思い出されて反応することができます。

子どもの場合、文字や言葉だけからの知識の心への情報は、試験などの文字や言葉としての反応には効果的ですが、実際の行動には役立たないことになります。

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子どもの問題行動について 2006.2.16

 問題行動とは、万引きなどの盗みや、傷害事件などの、法に触れるような非行と呼ばれるものから、ケンカやいたずらなど、親から見て、社会から見て、好ましくない行動を指します。子どもがこれらの問題行動を起こしたときには、子どもを罰し、注意し、説得して、子どもに二度とこのような行動をさせないようにするのが常識的な対応でしょう。そして、子どもが大事件を起こしたときには、社会や多くの大人は、親が子どもを十分に罰しなかったからとか、注意の仕方が不十分だとか、説得をもっと強くするべきだったと言います。親は親なりに十分に子どもを罰し、注意し、説得していますが、現実には問題行動を続ける子どもがいます。大事件と思える問題行動をする場合もあります。いろいろな病気の症状を出すような子どもも出てきます。中には自殺してしまう子どもも出てきます。
 問題行動を起こした子どもを罰したり、注意をしたり、説得することで、該当する問題行動を起こさなくなる場合も多いですが、中には、見かけ上問題行動を起こさなくなった代わりに、親や大人の気づかないような問題行動を起こしている場合も多いです。ただし親や大人が気づかないから、親や大人は、子どもを罰したり、注意をしたり、説得した効果を強調することになります。また、子どもの方でも、成長して大人になってしまうと、問題行動を起こした頃の辛さを忘れてしまいますから、「あのときの罰が、注意が、説得が、良かった」と振り返ることになります。
 子どもの問題行動には、偶然の事故として問題行動を起こしてしまう場合と、子どもがストレス状態にあり、その辛さからの回避行動として、問題行動を起こしてしまう場合があります。この二つの問題行動を外見的に区別することは大変に難しいです。経験的には、子どもの問題行動の多くは、辛さからの回避行動として成されている場合が多いようです。ここでは、子どもがストレス状態にあり、その辛さからの回避行動としての、子どもの問題行動について、考えてみます。

 子どもは本質的に、これらの問題行動をしたくてしていません。何か辛いストレス状態にあって、そのストレス状態から抜け出すために、何かをしようとして、その手段として、問題行動を起こしています(何かをしようとしない子どもは、神経症状や精神症状を出して、病気のようになり、動けなくなります)。そのストレス状態の子どもが何かをしようとするのは、決して意識的に行っているのではありません。ストレス刺激への回避行動として、潜在意識から行っています。
 その何かをする手段として、今までの経験から行った行動が、結果としてたまたま問題行動になっています(勿論問題行動にならなければ一番良いのであり、また、問題行動として気づかれて、騒がれることもなくなります)。つまり、何かしようとすること、その何かをするための手段として行った行動も、情動反応の回避行動として、今までに経験したことを発作的に行っています。それは当然、当人には意図的な意味がないので、罪悪感がありません。現実にしたという感じもありません。周囲から指摘されても、大人の感じ方とは違って、「本当に自分がしたのかなあ」という感じ方、他人事のようです。
 このような状態の子どもについて、子どもの問題行動を責めても、大人のような後悔はありません。反省もありません。それどころか無実の罪で責められているように感じ取ります。子どもの問題行動を責めても、それは反省にも、後悔にもならないだけでなく、子どもは自分への否定と感じ、子どもへの新たなストレス刺激となってしまいます。今までのストレス状態がより悪化します。それはその子どもの回避行動をより強めます。より強く何かをしようとします。そのためにより強く、何かをするための手段を行使して、新たな、またはより問題となる問題行動を行ってしまいます。ストレス状態と問題行動の悪循環を生じています。
 このような子どもの問題行動を解決するには、このストレス状態と問題行動との悪循環を断ち切る対応をする必要があります。その第一は大本の子どものストレス状態を解消するために、子どもに加わっているストレス刺激を断ち切ることでしょう。このストレス刺激を断ち切れたなら、これ以下の議論は全く不要になります。子どもが行った問題行動を放置しておいても、子どもはそれ以上問題行動を行わなくなります。しかし、現実にはこのストレス刺激を見つけるのは大変に難しいです。常識では当たり前のこと、日常生活の中で普通なことが、子どもにはストレス刺激になっている場合が多いからです。例えば学校に行くこととか、勉強をすることとか、家の外に出ることとか、就職することとか、親にとっても、社会にとってもごく当たり前のことが、子どもによっては大きなストレス刺激になっています。これらのことが、親や社会も子どもへのストレス刺激となっているとは考えていませんから、親や社会は子どもにストレス刺激を与え続けることになりますし、子どもはストレス刺激から解放されることはないです。
 次に考えなければならないことは、このストレス状態と問題行動との悪循環を断ち切るために、子どもがストレス状態を回避するために何かをしようとすることを許可してあげることです。そうすれば、何かをしたいために、物を盗むとか、お金を盗むとかの、子どもの問題行動は無くなります。例えばゲームをしたいとか、CDを聞きたいとか、何かを買いたいというようなときには、可能な限りそれを親が認めて実現させてあげることです。勿論親の可能な範囲でよいですが、可能な限りの最大限です。お金が勿体ないという気持ちから、親が制限すると、それは買ってあげないのと同じ意味合いになってしまいます。どこまでが可能な限りなのかを、子どもと相談する必要がありますが、その可能な限りを親が子どもに押しつけたときにも、それも相談したことの意味が全く無くなってしまいます。また、この対応によって、子どもの問題行動が無くなったとしても、子どもが依然として辛い状態にあることには変わりありません。子どもの問題行動の根本的な解決ではないです。
 子どもを罰したり、注意したり、説得して、親や大人の恐怖で子どもの問題行動を起こさせないようにする場合、そのときに加えた恐怖以上の喜びを、同時に与えてあげると、子どもは問題行動を起こさなくなります。しかし、辛い状態にある子どもでは、依然として辛い状態にいるのには、変わりありません。また、未だそれほど辛くない子どもの場合、親や大人が気づかない方法や場所で、その子なりの辛さを解消してしまう場合もあります。これも親や大人の目の前の問題行動は消失しますが、長い目で見ると、やはり好ましくありません。どのような子どもの場合でも、子どもを罰したり、注意したり、説得するときには、その際に子どもが感じる辛さを打ち消すほどの喜び刺激を耐える必要があります。その意味で、家の外では罰せられるが、家の中ではその罰以上の喜び刺激を与えられるようにするか、父親からは罰せられるが、母親からはその罰以上の喜び刺激を得られるような対応が好ましいです。
 子どもの問題行動を子どもが辛いというサインだと考えて、子どもを辛くする刺激から子どもを守ってあげると、子どもの問題行動を正そうとしなくても、子どもは問題行動をしなくなると、前述しました。子どもを辛くする刺激から子どもを守らないで、子どもの問題行動を放置しておくと、子どもは問題行動を繰り返して習慣化していきます。それは問題行動を起こす環境的な条件がそろえば、子どもの辛さとは関係なく問題行動を起こすようになってしまいます。問題行動の習慣化です。ですから、子どもを辛くする刺激から子どもを守れないなら、子どもの問題行動が習慣化するのを防ぐために、子どもの問題行動は罰するなどの対応を受けなければなりません。ただし、上記のように、ただ罰するのではなくて、それ以上の喜び刺激を同時に与える必要があります。ただ罰するだけでは問題が多いことを親は明記しておく必要があります。ストレス状態と問題行動との悪循環に入ってしまうからです。

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温かい布団 2006.3.6

 寒い冬の朝、目が覚めても、私たち大人は寒さを我慢して、服を着替えて働き出すより、暖かい布団の中でうとうととしていたいものです。後五分、後一分と、時計を気にしながら、暖かい布団の中で、許されるぎりぎりまで過ごして、時間がきたら仕方なく起きて、身支度をして、動き出します。ところが幼い子どもは大人と少し違います。子どもは目が覚めると、暖かい布団の中で遊びだして、遊びに飽きたら、寒くても自分から起き出してきます。眠っている幼い子どもにとって、暖かい布団は絶対に必要ですが、目が覚めた子どもには、暖かい布団だけでは不満足なのです。

 登校拒否、不登校、引きこもり、ニートと呼ばれる子ども達が、家に引きこもって、家の中で好き勝手に生活をしていることを、温かい布団の子どもに例えると、「なるほどうまいことを言うなあ」と思う人が多いでしょう。そして、暖かい布団にくるまれていることからの問題点を指摘されると、納得する人もいるでしょう。しかし実際の子どもは、暖かい布団の中ですら大人とは違うことは、上記の通りです。暖かい布団のなかの大人の姿を用いて、暖かい布団の中の子どもの姿を説明することは間違いですし、登校拒否、不登校、引きこもり、ニートと呼ばれる子ども達が、暖かい布団に例えられた温かい家庭で過ごす姿を、暖かい布団の中の大人の姿で説明することも間違いです。

 登校拒否、不登校にしろ、高校中退、大学中退、出社拒否からの引きこもりやニートと呼ばれる子ども達にしろ、子どもの逃げて行けるところは、少なくとも学校や社会と比べて暖かいはずの家庭です。暖かい布団に例えられる家庭です。けれど、これらの子ども達が逃げていった家庭が本当に暖かい布団に例えられるでしょうか?子ども達の家庭で、自分の部屋で、暖かい布団にくるまれて時間を過ごせていると例えられるような子どもはどれだけいるでしょうか?これらの子ども達がくるまっていると例えられる布団は、必ずしも温かくはない、必ずしも居心地の良くない布団ではないかと私は思います。これらの子ども達が生きる家庭が温かくて、居心地が良かったなら、それは暖かい布団の中で目覚めた子ども達のように、子どもは家庭の中でつらい症状を出す心の傷をゆっくりと癒して、その子どもなりに動き出すと思います。その子どもなりの生き方を見つけられると思います。

 ところが多くの登校拒否、不登校、引きこもり、ニートと呼ばれる子ども達の逃げていけるところは、これらの子ども達を待っているものは、針のむしろ、冷たい家庭です。親や大人達は、子ども達にとって温かい家庭のつもりでしょうが、子どもにとっては、違うように感じ取っています。無言の拷問のある居心地の悪い家庭だと思っています。布団に例えるなら、冷たくて居心地の悪い布団だと思います。そうであっても、これらの子ども達には、自分の家庭にしか逃げていく場所がないです。学校へ行っているよりは、職場や社会に居て心が傷つくよりは、冷たくて居心地が悪くても、生まれ育った家庭の方がまだましですから、そこにうずくまって辛さに耐えていなければなりません。それは依然として、子どもにとって不自然なことですから、子どもには辛くて、好ましくないことですから、子どもは病気と間違えられるいろいろな症状を出してきます。逆に言うなら、子どもがいろいろな症状を出しているときは、その子どもは温かい家庭の中にいない、布団に例えるなら、温かい布団の中にはいないと考えて良いと思います。

 登校拒否、不登校、引きこもり、ニートと呼ばれる子ども達が逃げて、閉じ込もっているところが温かい家庭でないとしたら、そこで子どもは自分のつらい症状を出す心の傷を癒すことができません。場合によってはその心の傷をより悪化させてしまうこともあります。そこで、子どもは辛さに耐えかねて、親に助けてくれと訴えます。それは言葉で表現することもありますが、多くの場合、言葉で表現しても通じないことが経験からわかっていますから、子どもは暴力という形や、病的な症状でで訴えることになります。布団に例えるなら、今掛けている布団は寒くてつらいから、寒すぎて我慢の限界を超えているから、もっと暖かい布団に換えてくれと言っています。そして、子どもが暴力や病的な症状を出しているときには、その子どもに問題があるのではなくて、その子どもにとって家庭が温かくないことを示唆しています。親にとって温かい家庭だと判断されても、その子どもの心に沿った温かい家庭に、親が変える必要が借ります。その子どもに合った暖かい布団に換える必要があります。

 言葉で子どもの辛さが親や大人に通じるぐらいなら、子どもは引きこもる必要はありません。何度も言葉で子どもの辛さを親や大人に、子ども達は伝えてきています。その言葉を親や大人が聞いたとき、それは子どもが悪いとか、もっとがんばれとか言って、子どもの訴えを素直に聞いてくれません。そこで子ども達は言葉で訴えるのをやめています。辛くて引きこもっていても、親が理解してくれなけれなくて、子どもを責めれば、「子どもがどれだけ辛いか、その辛さを親は気付いてくれ」と言う意味で、親の大切にしているものを選んで子どもは壊します。それでも気が付かないときには、親に対して暴力を振るいます。または、親のものを壊したり、親に対して暴力をふるう代わりに、子どもは辛いいろいろな病気のような症状を出すようになります。

 それでも親の思いから、親の都合から、子どもの行動や症状をみていると、それは子どもの心を素直にみていないという意味で、色眼鏡を通してみていると表現されますが、その色眼鏡をかけて子どもをみている親には、子どもの訴えが全くわかりません。色眼鏡を通して子どもをみている親には、いつまでも暖かい布団の中で、好き勝手に過ごす、途方もない子どもと理解することになります。親は親を犠牲にして、これだけ子どものために尽くしてあげているのに、子どもが言葉を使うこともなく、子どもが何かと暴力をふるうことより、子どもが異常だと考えます。病気だと考えます。それでは子どもはますます苦しくなるばかりです。子どもの辛く感じている本当の心を、色眼鏡をはずして、子どもの心に沿って、親は知ろうとすべきです。子どもに本当に暖かい布団にくるませてあげて、子どもがその暖かい布団の中で動き出して、やがて暖かい布団に満足できなくなって、子ども自身で布団から出ていくのを待ってあげてください。

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また、学校が不幸な子どもを作った 2006.3.30

 東京都世田谷区宮坂のマンション2階の男性会社員(40)方で2006年3月9日未明に起きた火災について、未だ詳しい内容が分からないし、もしもっと詳しい内容が報道されても、放火という先入観、恨みという先入観で報道される限り、本当の少年の心は私たちに伝えられてこないでしょうから、今までの私の経験から勝手に、この少年の心を代弁してみたいと思います。

 報道されている内容から、少年は登校拒否の状態にあったことは間違いないです。登校拒否とは、学校という概念に対して恐怖を生じる状態です。それはお化けが怖い、蛇が怖いという心の状態と同じです。少年は学校という概念に、お化けのような、蛇のような恐怖感を生じていたはずです。少年の両親は、少年が学校というもので恐怖を感じているとは気づいていませんから、離婚後も母親は少年を学校に行かせ続けようとしました。中学生の少年は力では母親には負けませんから、そこで母親に乱暴という行動で、常識的な人には乱暴と理解されるような行動で、学校がどれだけ辛いのか訴え続けていました。勿論学校が辛いことを、言葉でも言っていたはずです。それはきっと母親から無視されたか、説得されたかして、少年は言葉では学校が辛いことを伝えるのを止めていたはずです。きっと少年は、母親だけには少年の辛さを理解して欲しかったはずです。それすらも無視されて、少年は離婚した父親の元で、学校に行かされる対応を受け続けたのでしょう。母親では手に負えないと言う、親の立場からの判断の他に、学校を換えたら、学校に行けるようになると、親の判断があったと思います。

 父親の元で、一月下旬から学校に行く対応を受けていました。少年は優しくてまじめな性格だったのだと思います。この再出発という親の思いを正直に受け取って、少年が可能な限り学校に行き続けました。辛さを一生懸命我慢して、我慢して、学校に行き続けていましたが、その限界が来ました。どうやっても学校に行けなくなってしまったのです。学校に行けない少年を父親は力で家の外に押し出しました。少年は力では父親に勝てなかったのでしょう。勿論言葉では父親が少年の辛さを理解してくれないことはよく知っていたはずです。そこで少年ができる父親への訴え方を無意識に探して思いついたのが、火を付けることです。きっと少年はそれまでの経験から、家の中で火を燃やすということを知っていたのでしょう。ただし、少年は家を燃やしてしまおうと言う意図はなかったはずです。父親やその妻に怪我をさせたり、その子どもを焼死させることを意図していたのではありません。ただ、父親に、父親の対応が間違っているというメッセージを、家の中で火を燃やすと言う行動で示そうとしただけです。それは、不登校の子どもがその親に暴力をふるうのと同じ意味合いです。

 新聞報道で自供と書かれている少年の言葉の内容は、担当検事の先入観から誘導されている言葉です。少年は放火という思いもなかったでしょうし、父親が嫌だったことは間違いないことですが、父親に恨みを晴らすという思いもなかったでしょう。

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何のために学校に拘る? 2006.4.7

 ある科学雑誌に、「悩める大学生、大学院生が急増?」という記事が載っていました。それによると、2003年度の大学生の休学率が男子で2.9%、女子で2.4%。平均で2.8%。退学率が男子で1.9%、女子が0.9%。平均で1.6%でした。留年率が男子で8.3%、女子で3.1%平均で6.6%でした。これらの割合は近年増加の傾向にあります。大学院生の休学率が男子で5.0%、女子で9.2%、退学率が男子で4.8%、女子で5.0%。留年率は男子で9.0%、女子で11.8%でした。

 これらのデータから、大学に行ったけれど、大学生活の挫折や、大学生活の意味が分からない大学生が、無視できない数になっていることが分かります。また、増加の傾向にあるとの指摘もあり、大学に行ったけれどその目的や意義が分からない学生達が増えてきていると言うことになります。苦しんで、苦しんで、やっとの思いで大学に入学して、そして又苦しんだあげくに中途で大学を去る若者が100人中に1.6人、それらの人の多くは、ニートと呼ばれる人になっていると推定されます。

 日本の高度成長期までは、今から20~30年ぐらい前までは、大学を出るとほぼ確実に就職できて、年功序列で長く勤めれば勤めるほど、収入が増えて、一生を保証される経済構造になっていました。子供達も、若者達も、物質的に満たされてくることの意味を知ることができました。現在よりは貧しくて、物が無かった生活の中で、欧米の生活にあこがれ、収入が増えれば、欲しい物を買うことができるようになるという、喜びを感じることができました。経済的に満たされることを生きる目的にできましたから、親や教師から尻をたたかれて、嫌な勉強に励んで、無味乾燥な勉強に耐えて、一流大学に入る努力ができました。親や教師の多くは、その時の思いから学校に、子供達や若者達に関わろうとする人が多いようです。

 この物質的に豊かな時代に生きる子供達は、若者達は、自分たちが欲しい物に満たされて生活しています。学校に通い続けて、「条件の良い就職をしたい」と言葉では言うでしょうが、そのために辛くて面白くない勉強をする欲求は持ち合わせていません。その代わりに、親や教師から勉強で競争して勝つことを求められています。競争に勝つという喜び、勝って親に褒めてもらえる喜びから学校での勉強、塾での勉強に励んでいます。その勝った証がどの学校に入学できたかと言うことで示されています。それは勉強ばかりでなく、スポーツでも、芸術でも、子供達は競争に勝つという意味で、競わされています。競い合って勝った子どもには、若者にはスポットが当てられ、より難しい競争に追い込まれています。

 若者達の中には、やっとの思いで大学に入学して、苦しんで大学を卒業したけれど、就職できないでニートと呼ばれる人のなっている人がかなりの数いると言われています。勿論研究をしたいから大学院に行く人の方が多いでしょうが、中には、就職したくないから大学院に残った(大学院生の増加に関係している?)けれど、大学院に行き続けることができなくなった若者も居るでしょう。それらを含めて、大学院を去る若者が100人に5人近くいます。それらの人の多くもニートと呼ばれる人になっているようです。

 子供達にとって本能的に興味があり、楽しいはずの幼稚園や小学校、中学校。そこでも既に、子ども同士で競争することを要求され、またしつけと称して、子供達の行動や生活は縛り付けられ、子供達は息詰まるような生活をしています。これらの大人からの要求をうまく満たせる子供達にとっては、現在の学校はそれでよいと思いますが、かなりの数の子供達はこの時点で既に、程度の差はありますが、心に傷を帯び、学校に行きづらくなっていています。勉強に拒否反応を生じるようになっています。その様な子供達は、本当は学校に行きたくないのですが、親や周囲の人の圧力で、やむを得ず学校に行き続けています。その様な子供の一部は親や周囲の人の圧力があっても、学校に行き続けられなくて、学校を拒否して不登校になっています。

 小学校、中学校で不登校にならなくても、その様な心の状態で子供達は高校に進学し、より激しい学業や運動などの競争により、また子供達の心を無視した学校運営により、子供達の心がますます苦しくなって、学校から家の中に逃げ出した不登校の子どもや、家の中にも逃げこめなくて、町中に逃げ出して、万引きや薬物などの不良行為などの問題行動をする子供達も出てきます。この町の中に逃げ出して、不良行為を行う子どもについて、その子どもが悪い、親の子育てやしつけが悪いというのが常識でしょうが、子供達をこれらの行為に走らせた大本は学校であり、その事実を知らない親や大人達が、責任を子供達に求めて、それにより子供達を追い込んで、これらの不良行為に走らせています。

 これらの事実をふまえて考えると、学校制度にすがりついて生きることの意味をもう一度考え直す必要があると思います。勿論、多くの若者が学校制度を利用して、成長し、知識を深めて、社会に貢献しています。これらの人には、これ以下の議論は考える必要がないです。また、多くの親は自分の子どもが学校制度を利用して成長し社会に出て行ってくれるものと確信していて、学校制度から自分の子どもが脱落することなど、全く考えていないです。子どもの心がどうであれ、子どもが学校に行っているだけで、多くの親は安心しきっています。学校にすがりついていないと、子どもの将来が開かないだろうと信じています。学校側や先生方は、子供達に何かも問題を生じたときには、学校が問題ではなくて、子ども自身が問題だと、またはその子どもの親の子育てが問題だと考え、学校が持つ問題点を考えようともしません。

 一方でこの学校制度から逃げ出しても、自らの生き方が見つからなくて、苦しんでいる若者がいますし、その数が増えてきています。そして現在、引きこもりと呼ばれる人たち、ニートと呼ばれる人たち、フリーターと呼ばれる人たちの問題が、社会問題となっています。これらの人の親たちは悩み、慌てふためいて、若者達を学校に戻す対応を、社会に押し出す対応を、あれやこれやと試みています。それが若者達の心に傷を作り、または元々ある学校や人で疼く心の傷を深め、広げていきます。これらの若者達を苦しめていますが、その苦しみの原因を若者達に求めていて、若者達が学校で苦しんだこと、親や大人達の対応が若者達を追い込んでいることを認めようとはしません。

 これらの若者達がなぜ学校制度から逃げだしたのか、その原因を考えてみる必要があります。その原因について、いろいろな人がいろいろな立場から述べていますが、若者達の立場からその原因を考えた物はあまり無いと思います。若者達が学校生活を続けている内に感じだす無力感、その無力感の中には、学業の意味が分からない、自分の生きる目的や将来が見えないことへの不満、学校で疼く心の傷の疼きを解消できない、なども含まれます。その若者達の無力感はどこから来るかという問題を考える必要があります。

 無力感とは潜在意識の反応です。嫌なことから逃れられないときに生じます。学業が楽しくない若者達にとって、学業を続けることは苦痛です。苦痛でもその苦痛に見合う何か楽しみや喜びがあるのなら、若者達は楽しくない学業を続けられます。けれど現在の学生達は、学校制度に沿ってやっとの思いで進学し、学校生活をしても、苦痛だけで、喜びが見つからなくて、学校生活から逃げ出しています。それも無理をして、無理をして、ぎりぎりまで無理をして、全てのエネルギーを失ったところで、学校制度から離れていますから、その後すぐに社会生活の中に入っていけません。親の元でエネルギーを蓄積しなければなりません。まだ、エネルギーを蓄積しないうちに、親や周囲から後押しされて社会に入っていっても、エネルギー不足により社会から逃げ出さなければならなくなっている人たちがいます。その際に、人で疼く心の傷を受けたり、自分を駄目な人間だと否定してしまう若者達が出てきます。

 私が観察する限り、学業が楽しくない若者達の中には、学校で疼く心の傷を既に持っている若者達を多く見かけます。学校から逃げ出したいのですが、親や周囲からの力で学校に行かされていて、学校から逃げ出せないでいる若者達です。これらの若者達にとって、学校は既に行きたくないところになっています。勉強もしたくないものになっています。けれど学校に行かざるを得ない、勉強をせざるを得ないので、形だけ繕って勉強をしている振りをしている、学校に行っている振りをしている若者達です。親や周囲の人たちは、若者達が形だけ装っている、若者達の表面的な姿を見て、若者達が喜んで学校に行っていると、目的を持って学校に行っていると考えています。それで若者達の将来が保証されていると考えています。

 私が経験する限り、親から信頼されて、不登校を認められて、学校に関わらないで元気になった子どもは、その子どもなりにいろいろなことに挑戦できた子どもは、時期が来たら、学歴がないなりに社会に出て、その人なりの仕事をして、しっかりとした大人になっています。中には必要を感じて学校に行き、それなりの資格を得て、その人なりに社会で活躍する子どもも出てきています。不登校を経験していないが、無理をし続けて学校に行き続けた子どもより遙かに人間らしい生き方を、社会の中でしてくれています。

 一方で、親から一応不登校を認められても、つまり不登校を続けられても、親から信頼されていなで、その子どもなりに納得のいかない生き方を続けていた子供達は、いろいろな病的症状を出しますし、大人になっても元気が出ないで、人に対して不安を感じ続けて、社会生活ができないばかりでなく、経済的にも心に関しても自立できなくて、親に依存した生活を続けるようになっています。これらの子どもですら、大学で学校に行けなくなって引きこもった人、卒業しても社会に出て行けなくて引きこもった人、就職したけれど仕事を続けられなくて引きこもった人よりも、心の傷が浅いようです。私の経験の範囲での結論ですが、これらの大学や就職してから引きこもった人たちより、より早く元気になって社会に出て行きやすいようです。

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「子どもを守る いま、できること、すべきこと」について 2006.5.11

 4月30日の朝日新聞に、シンポジウム「子どもを守る いま、できること、すべきこと」が載っていました。大人の立場から子どもがいろいろな事件に巻き込まれないようにする考え方が述べられていました。その評価については人それぞれでしょうし、今までいろいろなところで述べられてきたことが集約された形になっていたと思います。けれど私が読んだ限りにおいて、子どもの立場からの意見、子どもの心についての意見がないのが、片手落ちのように感じました。

 子供達が日中の大半を過ごす学校、その学校は家庭と同様に安全でなければなりません。多くの大人は学校は安全で、その学校への行き来の危険性を問題にする場合が多いように思います。ところがその学校が子供達の心を傷つけたのに、知らない顔をしています。それどころか、学校で子どもの心が傷つて、子どもが苦しみだしても、学校はその原因を子ども自身や家庭のしつけに求めてしまう場合すらあります。

 ある学校に酔っぱらった男が進入しました。廊下を歩いていた子どもに襲いかかり、一人を押し倒して暴行をしました。他の子供達が教員室に連絡をして、一人の教師が犯人の側まで来たのですが、それから引き返して、他の教師を連れて犯人を取り押さえました。その事件についての証言が、被害者の女の子を含めた子供達の話と、教師達の証言とが異なっていました。教師達の証言は教師達がすぐに犯人を取り押さえたことになっていて、最初犯人の所まで来た教師はいないことになっていたのです。

 マスコミには、事件の事実と、学校側の証言が載っただけでした。両親がマスコミに訴えても、学校側の証言が正しくて、被害者の女の子がちがっている、記憶を混同していると判断されて、受け付けてもらえませんでした。現在、被害者の女の子は中学生になっていますが、心の傷が疼いて学校には行けていません。それ以後も学校は何事もなかったように運営されて、学校側の問題点は全く指摘されないで、関係した先生方も転勤で居なくなっています。

 身体に傷が付くような事件なら、外から見て分かりますから、学校側はそれないの対応を取らざるを得ません。けれどこの女の子に限らず、学校で子ども達の心が傷ついています。この女の子の場合は外から侵入した男による暴力でしたから、いくらか事件性を持ってあつかわれましたが、多くの場合、学校内での事件は目撃者が子どもしかいない学校という隔離された社会の中で、学校側に都合の良いように、うやむやにされてきています。場合によっては、教育という名の下に必要なこととして、子どもの心に傷を付けるようなことが行われている場合もあります。

 戸塚ヨットスクールの戸塚宏が服役を終えて出てきています。出てきてはっきりと体罰を行うと言っています。子どもの心を正すために必要なことだと言っています。その大人の思いばかりを優先して、子どもの心を無視している戸塚宏を都知事である石原慎太郎が後押ししています。また、この戸塚ヨットスクールに子どもを預けようとする親もいることも事実です。子供達を親の都合の良いように育てたいという気持ちも分からない訳でもないですが、子どもの心を無視した対応で子どもの心が大きく傷ついて、子どもがいろいろな病気として扱われるようになってしまう場合を、私はしばしば経験します。大人にとって都合の良いように子どもを育てようとして、子どもの一生が台無しになっている例を、私はしばしば経験しています。子どもが心を傷つけられて辛い状態になった責任を、社会はその子ども自身やその親に求めていて、子どもの心を傷つけた人(体に傷を付けた人は別ですが)は責任を取る必要がないという不合理な仕組みになっています。

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こどもの日 2006.5.11

 5月5日は子どもの日でした。子どもの日には、各地で、各家庭で、子どもの成長を祝わう催し物が行われたようです。子どもの健康と成長は、親にとってとても嬉しいものです。親も安心して自分の人生を生きていけますから。自分の子育てに納得ができますから。

多くの親にとって嬉しくない子どもの成長があります。その例として、不登校、引きこもり、家庭内暴力、盗みなどの問題行動があります。これらの子ども達の行動は子どもに問題があり、その問題を正す必要があると、多くの親や大人達は考えています。これらの問題行動を正して親や大人に都合の良いように子ども達を変えることが、子どもの将来のためだと多くの親や大人達は考えています。親や大人達のために都合の良いように子どもを変えるためには、一部の親や大人達は子どもに何をしても良いと考えているようです。

そのために子どもがどれ程苦しんでも、それも子どものためだと考えています。社会的な風潮も、子どものためのしつけと表現されるものなら、大人から見てたいしたことがないと思われる子どもへの暴力や酷い扱いは、社会的に許される傾向にあります。ただし、大人から見てたいしたことがないと思われる子どもへの暴力や酷い扱いは、当の子どもにとって大変に辛いものであることに、大人達は気づいていません。

 それは已然として、長田百合子氏が子どもの意志を無視した脅迫を用いて、不登校や引きこもりの子ども達へ対応し続けることが、おおっぴらに許されています。戸塚宏氏が刑期を終えて出てきて子どもへの体罰を容認する発言をしても、たいした批判も受けないでマスコミで報道されています。子どもに大きな影響を与える石原慎太郎都知事が、体罰を容認する戸塚宏氏を後援していることが、全く問題にされていないという事実もあります。

 今回、杉浦昌子氏による28才の男性を非人道的な扱いから死亡させても、それほど大きな社会問題にならないという事実もあります。その事実の由来は、引きこもりや家庭内暴力をふるう子どもにも、それなりの問題点があるから、ある意味で仕方がないと言うような日本社会における考え方のようです。また、一方では、子どもが辛い目に遭うことを知りながら、子どもをこのような人たちの元に送って、子どもの問題を解決しようとする親が、已然としていることも事実です。

 多くの大人は信じようとはしませんが、不登校、引きこもり、家庭内暴力、盗みなどの問題行動を起こす子ども達は、その子ども達なりに一生懸命生きています。一生懸命成長しようとしています。けれどこれらの子ども達を受け入れる学校を含めた社会が、これらの子ども達を苦しめています。辛くてどうにもできなくなったから、子ども達は不登校になったり、引きこもったり、家庭内暴力を起こしたり、盗みなどの問題行動を起こしています。子ども達は決して好きこのんで、これらの行動を起こしていません。辛い状態の子ども達が、無意識に自分を守るために行った行動が、結果として大人には都合が悪いだけです。

 大人に都合の悪い子ども達の行動を、大人達は子ども達のためだといって、力で止めさせようとします。辛い状態の子ども達は辛さを解消しようとしてそれらの行動に出ていますから、大人に力でそれらの行動を押さえつけられてしまうと、子ども達はますます辛くなってしまいます。その結果、ますます不登校、引きこもり、家庭内暴力、盗みなどの問題行動の程度が酷くなってしまいます。大人の都合で動いていく社会の中で、その社会の中で心が傷つき辛い状態にある子ども達について、もっと子どもの立場から考える必要があります。

 現在少子化問題が重要な政策になっています。政府の政策は生まれる子供を多くしようとするものです。いくら子どもが生まれても、子どもが成長の過程で心が傷ついて辛くなり、大人になっても社会を支えられないなら、少子化政策の意味がありません。少子化時代だからこそ、大人は一人一人の子どもを大切にして、社会を支えていく大人にしていく必要があります。

 これからの日本を支えていく子ども達、その子ども達を守らなければ、大人達が老いていったとき、誰が大人達を助けてくれるのでしょうか?辛い状態の子ども達の辛さを解決しないで、子ども達を急いで社会に引き出すのでは、辛い状態の子ども達は元気になれません。大人達が余裕のある内に、辛い状態の子どもの辛い心を癒して、元気になって社会に出て貰い、大人達が老いたときに、これらの子ども達に守って貰う必要に、どうして大人達は気づかないのでしょうか?

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子どもを叱ってしつけてはいけない 2006.5.30

 多くの大人は子どもを叱ることで子どもをしつけようとして、子どもにしつけられなかった経験を持っています。その際に、未だ叱り方が足りなかった、子どもを甘えさせてしまったと考えがちです。しかしそれは子どもをしつける方法が間違っていたのです。子どもを叱ったり罰を与えたりしてしつけようとしても、それはしつけになっていないことが動物実験から分かります。ここで子どもとは、一応中学生年齢までを考えて下さい。なぜ、中学生年齢までの子どもかという理由ですが、それはこの年齢までの子どもは、言葉を話しますが、その心は動物の心にとても近いからです。また、以下で言う大人とは、母親を除く大人です。父親については、子どもの本心である潜在意識が他人のように反応しています。

 痛みに関するネズミの実験があります。ケージの中のネズミに電気刺激で痛みを与えた場合、ネズミは痛みから暴れます。そのケージの中にスイッチを用意します。ネズミの前肢が乗るとスイッチが切れるようなスイッチです。スイッチが切れると、ネズミを電気刺激して痛みを与えている電流が切れるようにします。するとネズミは電気刺激で痛みを受けるとすぐにすぐにスイッチを切ることを学習します。電気刺激の痛みを受けるとすぐにスイッチを切るようになります。苦痛から逃れる方法を学習します。スイッチを切ることで、痛みから逃れられることを学習したネズミは、痛みを受けた回数や期間にもよりますが、痛みがないときでも所謂不穏状態を示します。

 この動物実験はネズミだけでなく、犬や猫、猿、類人猿でも同じ結果が得られます。人間の子どもでは、実験をすることができませんが、同じ結果が得られます。ただし人間の子どもでは、大脳新皮質の機能が大人ほどではないですが、他の動物以上に働きます。人間の子どもに関しては、この基本的な動物実験の事実に、人間的な大脳新皮質の機能を追加して考える必要があります。それでも基本的には、上記の動物実験のネズミを人間の子どもと書き換えても、おおむね同じ結果が得られます。この実験を人間の子どもに置き換えて書き直してみます。子どもが大人の求める行動をしない、大人がして欲しくない行動をしたことにより、大人が子どもを叱ったり罰を与えた場合です。ネズミに加えた電気刺激による痛みが、子どもを叱ったり罰を与えたことに相当しています。

 子どもに叱ったり罰を与えた場合、子どもはその辛さから泣いたり暴れます。中には泣いたり暴れたりしない子どももいますが、それは既に次のよい子を演じていることになります。

 子どもが既に、その叱られたり罰を与えられることを回避する方法(ネズミが電気のスイッチを切るに相当する方法)を学習していると、子どもはその学習している方法を行います。例えば大人の言うことをおとなしく聞く、大人の言う通りに従うなどです。また、その大人の言うことをおとなしく聞く、大人の言うとおりに従うだけでなく、その大人の言うこととは全く関係なく、その大人が普段から喜びそうなことをすることで、大人が叱ったり罰を与えるのを回避することも、子どもはします。それが所謂よい子を演じると表現されているものです。ただし、叱られたり罰を受けることを回避できたとしても、子どもはその大人に対して警戒することを学習しています。ネズミでの所謂不穏状態に相当します。

 この子どもがその大人を警戒している状態は、その子どもにとってとてもつらい状態です。その辛さを解消する必要があります。その結果、子どもはその子どもなりの楽しみに耽り出します。その子ども達の姿も、多くの大人には良くない姿だと判断されやすいです。その大人達の判断が子どもに伝わると、子どもは大人の嫌がる行動を無意識にやってしまいます。それが時には犯罪になる場合もあります。ただしこの事実は、つらい状態の子ども達を観察した結果から分かってきたことです。

 子どもを叱ることでしつけることは、見かけ上、子どもが大人の希望する行動をするようになり、子どものためにも良いことのように大人は考えますが、子どもの立場から言うなら、それは大人からの恐怖を回避するための行動であり、大人からの恐怖が無くなったら、基本的にその行動をしません。何度も叱って、子どもに大人の希望する行動を習慣化しようとしても、習慣化しません。子どもの方から進んで、その大人の希望する行動をするようにはなりません。見かけ上習慣化したようにして大人の希望する行動をしていたとしても、それは大人からの恐怖を感じていたからです。何かの理由でたまたま、その大人の希望する行動を子どもがしたとしても、その行動をした時、子どもはその大人から感じた恐怖も思い出すことになり、その大人の希望する行動を行う際に、子どもは子ども自身も理解できない辛さを感じてしまいます。とても辛くなります。

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経験させる 2006.6.6

 「子供は、早いうちにいろいろな体験・経験をするべき」という意見があります。それは正しいと思います。けれど、元気な子どもなら、親がそのような配慮をしなくても、大人がそのような配慮をしなくても、その子どもなりに環境と関わって、その子どもなりにいろいろな体験や経験をしていきます。その子どもなりに、十分に必要な経験をしていきます。

 人間には知恵があります。子どもの自然な成長を待つばかりでなく、子どもをある方向へ導くことも可能です。そのために親や大人は、子どもに積極的にいろいろな体験や経験をさせることができます。また、子どもの才能を伸ばすために、親や大人が意識的に子どもに、何かの経験をさせる場合があります。その場合、子どもが意図的に経験させられた事柄を克服できたなら、全く問題がありません。克服できないときには、子どもはそれから逃げようとします。そして、逃げられる限り、子どもは逃げ出せた場所で時間を過ごして、機会が来たら克服できなかった事柄に再挑戦しようとします。

 子どもに意図的にある経験をさせる場合、子どもがその経験を克服できなくて逃げようとすると、それを許さない場合が多いです。親や大人は結果を急ぐ場合が多いからです。いったん退いて再挑戦させるという方法を選ぶ場合が少ないからです。それは、子どもが克服するまで、子どもにその経験をさせ続けさせます。

 子どもが克服できない事柄を経験し続けている内に、その事柄を克服できたなら、克服できた喜びで、子どもに大きなエネルギーを与えます。それは新たな挑戦を可能にします。その子どもの能力を高めます。その事柄を克服できないときには、子どもの心は傷ついてしまいます。それを欲求不満性無報酬といいます。しかし、傷ついた子どもの心は見えません。「がんばれ」、「根性だ」と言って、心の傷ついた子どもに挑戦を続けさせます。それはますます子どもの心の傷を深めることになります。

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少子化対策と子どもの心 2006.6.14

 出生率の低下が続き、少子化対策が叫ばれています。そのために政府も色々な政策を始めています。労働時間などの社会の仕組みや、育児にかかるお金の問題を解決して、若い夫婦に子どもを生み育てやすい環境を作ることは大切なことだと思います。しかし、それらが整ったとしても、依然として若い夫婦は子どもを産んで育てようとはしないでしょう。政策により乳幼児期の時間的な、経済的な負担を軽減してもらえても、それ以後の教育費、養育費に対する若い夫婦の不安は大きいです。子育てにかかる負担を考えると、子どもは一人でよいと考える若い夫婦が多くなります。

 若い人たちは、子ども時代に親や学校、社会からの要求に耐えて、我慢を重ねて大人になっています。大人になったのだから、その人なりに人生を楽しもうとします。そのためにはお金が必要です。自分たちの楽しみを満足させるためにお金を使わなければならないので、子育てに回すお金が無くなります。それは結婚しても育てる子どもの数を少なくすると言うことになります。

 若い人たちは辛いことに我慢ばかりをして育ってきています。生きる喜びを感じて育っていません。自分が育った経験から、子どもが育つのに、子ども自身がいかに辛い思いをし続けてきたかを知っています。子どもが楽しく成長する方法を知りません。子どもを育てるのがいかに大変だかと言うことを、身をもって実感しています。若い人たちには子どもを育てる自信もないし、子育てをしてみたいという希望もあまり持っていません。結婚しても子どもを一人しか作らないと言うことになります。

 以上の理由から、少子化対策のもう一つの柱は、若い夫婦に子育ての楽しさを感じてもらうことでしょう。子育てが楽しければ、経済的に少々辛くても、若い夫婦は子どもを生み育ててくれると思います。楽しい子供時代、楽しい青春を過ごせた若い夫婦には、子育ての楽しさが分かります。子どもの立場から子どもが楽しく成長できる家庭も作ってくれます。子どもたちの楽しそうな会話であふれた家庭を作ってくれると思います。

 全然関連がないよう話ですが、現在のように我慢ばかりを要求する、辛さを我慢ばかりさせる学校制度の中で育ってきた子どもにとって、成績ばかりで評価された子どもにとって、大人になって結婚をしても、子どもを育てる気持ちにならないだろうという事実は、私には分かるような気がします。

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子どもが親の財布からお金を盗んだことについて 2006.7.3

 子どもが親の財布を含めて、親のお金を盗むには、それなりの理由があります。子どもはその子どもなりの理由から、必要に迫られてお金を盗んでいます。この種の子どもは概して性格の良い、頭の良い子どもです。子どもに関する問題が解決すれば、後々の悪影響はありません。ただし、そのまま放っておくと、次第に習慣化して、盗み癖になります。

 子どもの理由として、その第一はお金が必要だったことです。お小遣いを貰っていない、またはお小遣いが少なくて、その子どもの必要としている物を買うことができなかったからです。もし子どもの性格が悪ければ、子どもは盗んだ親の金で買い物をしないで、直に欲しい物を盗んでしまいます。その理由の第二は、お金を使って欲しい物を買わないと、子どもが自分を維持できない何か辛いことがあるからです。学校が辛い、勉強が辛い、虐められているなどです。その理由の第三は、両親と子どもの間に信頼関係がないことです。信頼関係がないから、子どもは自分の辛さを親から癒されないでいます。信頼関係がないから、親に子どもの辛さを伝えられません。また、伝えたとしても親には理解されません。

 子どもでもお金が必要ですから、少なくとも現在の社会習慣ぐらいのお小遣いを上げるべきでしょう。ただ、各々の家庭にはその家庭なりの都合があります。その都合に沿って子どもと相談して、お小遣いを増やしたり減らしても大丈夫です。子どもが納得する小遣いを子どもに上げる必要があります。また、小遣いをあげていることに拘らないで、子どもに何か大きな買い物が必要なときには、親は可能な範囲でお金を出した方が良いです。出せないときには子どもと相談することでしょう。

 お金を盗んでまでお金を得る場合には、その子どもが何か大きなストレス刺激を受けています。ストレス状態にあります。それを解消するためにお金を盗んで使おうとしています。お金を盗んで買い物をするしか、ストレスの解消法がなかったことに、親は気づくべきです。お金を盗んで買い物をするしかなかった子どもの辛さを、親は理解してあげるべきです。その辛さの原因の多くは学校や勉強、友達に関係しています。もし学校に原因があるなら、しばらく学校を休んで貰って、家でその子どもなりに時間を過せるようにしてあげる必要があります。

 親と子どもの間に信頼関係がないことは、現実に子どもが親の財布からお金を盗んだことからわかります。親と子どもとの間に信頼関係がないと、親は子どもの盗みにばかり注目してしまいます。子どもが辛くて、自分の辛さを解消するためにお金が必要なことに気づきません。子どもも自分が辛いことを、その辛さを解消するためにお金を使いたいことを、子どもは親に言葉に出して言えません。子どもは親に言いたくても言えません。そして親の財布からお金を盗んだら、親から叱られて、ますます子どもは辛さへ追い込まれます。親が子どもの辛さを理解できていないから、子どもを叱ってしまいます。親が子どもを信頼していないから、親が子どもを理解できないことを、子どもに原因を求めてしまいます。親が子どもを信頼しないから、親が理解できないことしたことから、子どもを病気と見てしまいます。これではますます子どもは辛くなり、また親の財布からお金を盗んで自分の辛さを解消せざるを得なくなります。その様な子どもを叱ることで解決しようとすると、今度は万引きとか、他の社会的な犯罪に発展する可能性があります。

 子どもには全く悪いことはないです。確かにお金を盗んだことを親から見たら、悪いことに見えるでしょうが、子どもとしては自分の辛さをご両親から解消してもらえなかったから、子どもができそうなお金を盗んで物を買うという、子どもなりのストレス解消法をしただけです。他の方法が子どもに許されていたら、子どもはその方法をして、自分のストレスを解消したはずです。親が子どもを信頼して、子どもを守ろうとするなら、この問題は意外と簡単に解決します。

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母親についての子どもの心理 2006.7.3

 奈良県田原本町の自宅に火を付け、母や弟妹を殺害したとして、有名進学校の私立高1年の長男(16)を、長男の立場から考えてみたいと思います。これまでに新聞や週刊誌から得られた長男の供述や長男の文章、両親が離婚している家族関係などを手がかりに、長男の立場から分析してみました。現在までの所警察や所謂専門家は、動機の中心が教育熱心な医師である父親(47)への反発としています。

 確かに長男に勉強を強要して長男を苦しくさせたのは、教育熱心な父親の対応でしたが、それだけで義理の母親と異母兄弟二人を焼死させるようなことはしなかったでしょう。もし、長男が父親を殺したいほど憎かったなら、父親を殺せたはずです。報道によると長男は事件の前日に、父親を殺そうと思ったができなかったと書いてありました。それが事実だったかどうか、私たちには分かりません。辛い状態の子どもが、警察に逮捕されて、隔離されていて、孤立させられているのですから、言葉巧みな尋問官の誘導からその様な発言をした可能性があります。簡単に尋問官が作り上げたストリーに沿っての長男が供述をしてしまった可能性もあります。その様な経過で子どもが口述調書を作られて裁判にかけられた経験を、私たちはしています。

 長男が父を殺したかったと言うことは間違いだと思います。本当に父親を殺したかったなら、刃物などを使って父親を殺せたはずです。また、父親が家にいるときに、家に火を付けたはずです。長男は父親を殺したいほど辛い状態にあったことは間違いないでしょうし、長男を苦しめる父親をどうにかしたかったことは確かでしょう。長男は父親を殺してしまうほど、父親を憎んでいたでしょうが、実際には殺すほどではなかったはずだと、私は思います。

 長男が「努力して夢(医者への道)をかなえたい」とか「将来の夢…医者」とか書いています。これらの文章は長男が心底その様に感じていたと言うことではなくて、単に父親から受け継いだ知識です。長男は医者とは何か、未だ良く知らないと思います。医者について一般的な知識はいくらか持っているでしょうが、その知識から医者になろうという意欲は湧いてこないはずです。将来の職業という意識も殆ど無かったでしょう。ただ、父親から医者になれと言われ続けたから、医者になる物だと習慣的に反応しだして、言葉の上で医者になると言っていただけだと思います。よい子を演じていたことからの言葉です。

 父が長男に勉強とテストの成績を求め続けたことは事実のようです。その父親の長男への対応が、長男を苦しめ続けて、高校一年の段階で長男を耐えきれなくさせました。長男は勉強にも、スポーツにも優れていた子どもだったようです。父親からの要求が辛くても、父の要求に見事に答え続けました。「医者になる」と言って、所謂よい子を演じ続けたのです。そして高校一年になって、父親からの要求に応えられなくなってしまったのでしょう。よい子を演じ続けられなくなったという意味です。もっと早く父からの要求に答えられなくなっていたら、もっと早くよい子を演じるのを止めていたら、父も長男を医者にするのを諦めていたかも知れません。長男はもっと違う人生を生きられたと思います。

 父親は極めてよい子を演じ続ける長男に、父親がやっている対応が良いことだと、長男のためになると信じ続けていたと思います。小学校までの長男にやらしたら、見事にやってくれて結果を出してくれました。高校になると父親はもっともっとと欲が出たのだと思います。長男に要求し続ければ父親の求める答えを出してくれると、短絡的に父親は考えたのだと思います。

 「(事件当日の)20日の保護者会で中間試験の成績についてのうそが発覚する」と長男の供述が報道されています。長男が中間試験の成績について嘘を言っていたかどうか、それは分かりません。報道を信じるしかないでしょう。ただ、中間試験の成績発表と事件とが一致していると言うことから、必ずしも偶然とは片づけられないはずです。何か関係はあるはずです。父親が当直で不在の日と言うことから、義理の母親が中間試験の成績を聞きに行くと長男も判断していたはずです。長男としては、母親が成績を聞きに行ってから家に火を付けても良かったはずですし、父親の成績が報告されるまでの間に、家に火を付けても良かった訳です。父親が中間試験の成績を知って長男を叱ったとき、それに反発して家に火を付けても良かったはずです。なぜ母親が寝ている深夜に火を付けたかです。

 それは決して長男の成績が落ちたからではないと思います。長男の成績が落ちたのは、多分学校の勉強について行けなかったのは、よい子を演じるのに限界を生じたからです。よい子を演じようとしても、高校での勉強は長男のよい子を演じる能力の限界を超えていた可能性があります。長男は葛藤状態に陥って苦しんでいたはずです。報道では、父親からの暴力で苦しんでいると友達や周囲の人が言っているとなっていますが、それは長男が勉強をしなくてはならないという思いと、現実に勉強について行けなくなったという事実との間に、葛藤状態にあったということを示しています。

 長男は義理の母親を母親と思っていなかったようです。これからは子どもの心理という立場からの、長男の潜在意識の推論ですが、長男は義理の母親を自分から母親を奪った悪人だと、憎い人だとなっていたはずです。それは子どもにとって、辛ければ辛いほど子どもにとって、母親と子どもが認識する母親の存在が大切だからです。勿論高校一年まで義理の母親に対しても、長男はよい子を演じ続けていました。それが高校に入ったある時点から、よい子を演じるのを放棄しているはずです。報道はされていませんが、長男は義理の母親にも、二人の義母兄弟にも、何か問題行動を始めていたはずです。そして、長男の中間試験の成績を聞きに行くという、母の役割を義理の母が行うことに、長男の怒りが最高に達したのでしょう。長男は二階で寝ている義理の母親に牙を剥きました。

 長男は義理の母親を殺すという意識は無かったはずですが、自分と同じぐらいに苦しめと言う潜在意識からの反応から、階段に火を付けています。どのようにして階段に火を付けたのか分かりませんが(きっと長男が階段に火を付けてから、家が燃え上がるまでにかなりの時間を要したと思います)、長男としては家を全焼させようとした訳ではなくて、二階から降りるのに通らなくてはならない階段に火を付けると言うことで義理の母親に怒りを示しただけです。長男としては、義理の母親が死ぬ必要はなかったはずです。長男の苦しみを癒すことができない義理の母親、自分から大好きな母親を奪った義理の母親、その義理の母親が自分と同じように苦しめという潜在意識からの反応で、階段に火を付けました。長男は二人の義母兄弟には誤ってくれます。しかし、義理の母親と父親には、言葉では誤ることがあるかも知れませんが、心の底からは謝らないでしょう。

 長男は自分を苦しめていた父親も憎いはずです。それでも、父親には殺したいと言うほどの怒りは持っていませんでした。報道はされていませんが、父親以上に義理の母親を憎んでいたはずです。長男のよい子を演じることすらできなくなった苦しみから、発作的に、潜在意識からの反応で、長男の一番憎む義理の母親に、単に長男が潜在意識の反応として、攻撃を行ったのが、家の階段に火を付けるという行動になり、義理の母親と二人の兄弟の死になってしまいました。ですから、長男の意識にも、記憶にも、なぜ長男が母親を殺してしまったのか、はっきりとした記憶はなかったと思います。多くの長男の行動は潜在意識からの行動だったからです。

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大反抗 2006.7.26

ある不登校の母親からの手紙の一部です。

 私たち夫婦と同居している義理の母は、女傑として事務所を一人で切り盛りをしてきました。私たち夫婦が事務所で働きだして10年。現在まで事務所が存続して、私たち一家が食べて行かれるのは、本当に母のお陰です。現在、事務所内では勿論、家庭内でも母の発言力が強くて、何かにつけて母が口出しをしてしまいます。私はいつまでたっても自立できず、自分の子どもでさえ自分の考えで育てられていませんでした。

 息子が不登校になったとたん、母は息子の不登校の原因と責任を全て私に求めました。毎日のように、母親の私を責める言葉は、一つ一つ私の胸を思いっきりえぐりましたが、私は耐え続けました。私が耐え続ければ耐え続けるほど、母親の言葉は酷くなり、ついに私は耐えきれなくなって、キレてしまいました。私は食事のテーブルを蹴り飛ばし、母に殴りかかり、暴言を吐きました。「死んでくれ」とまで、私は母に叫んでしまいました。

 その様子を息子は、心配そうな顔をして見ていましたが、その時は私の大反抗が息子にどのような影響を与えるのか、全く考えられませんでした。ただ、ただ、母親への激しい怒りが私を捕らえて、母へ激しく攻撃をしてしまいました。あまりにも激しく私が母へ攻撃したので、危険を感じた息子が、「母さん止めて!明日から、僕、学校に行くから」と言って、私を止めに入ってくれました。もし息子が私を止めてくれなかったなら、私は母に大けがを負わしていたと思います。

 その日以後、息子は自分の部屋に閉じこもり、私たちの前には姿を見せなくなりました。私も酷く落ち込んでしまうときと、心の奥底からわき出す怒りと恨みで、仕事も家事もできなくなり、寝込んでしまいました。現在精神科から薬を貰い飲んでいますが、一向に無気力の状態から抜け出せません。

 この大反抗を期に、母は私たちの家庭のことには口を出さなくなりました。でも私の母への不満や恨みは以前として続いています。私はこの思いを母にぶつけたいですが、家の経済を握っている母には、ぶつけることができません。息子を守ってやれないばかりでなく、自分自身の問題も解決できません。本当に辛いです。

私からの返事

 息子さんが不登校になったのは**さんが原因ではないです。**さんは**さんなりに可能な限り息子さんを支えてきていらっしゃいます。**さんが、お母様との関係で思うように息子さんを守れなかったのは仕方がないことです。息子さんを守るのに限界を感じられて、**さんは大反抗をなさったのです。一見**さんの辛さから大反抗をなさったように見えますが、**さんが息子さんを守ろうとなさっていらっしゃったから、**さんが辛くなり、大反抗を起こしています。**さんが息子さんの母親として、大反抗をなさったことは正しいことです。まだ、お母様に大反抗を続ける必要を感じられているなら、絶対に大反抗を続けられるべきです。それは息子さんを守るために必要なことです。お母様には事務所に専念して貰い、**さんの家庭内の問題は全て**さんが**さんの意志で解決すべきです。**さんのお母様への大反抗は、息子さんにとってとても良い影響を与えると思います。

 現在息子さんは自分の部屋に引きこもっています。それは**さんの大反抗が、息子さんを学校に行かすことでの、お母様との騒動だったと、息子さんが誤解しているからでしょう。**さんが息子さんに、「息子さんが学校に行かないで、家で息子さんらしく生活するのを認めるために、**さんがお母様に大反抗をした」と伝えられると、息子さんは引きこもりを止めて、元気に家の中で生活してくれると思います。

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分かっていなかったなのは私の方 2006.7.5

ある母親からの手紙

 家の中を整理していました。6年生の文集が出てきました。「さぞかし荒れた作文だったかしら。どんないいかっこをして書いていたかしら。忘れたなぁ」なんて思いながら、我が子の作文 読むと、ちゃんと書いてありましたよ。今だからわかってやれるあの子らしい本音が。それはくしくも、この5年**がずっとおっしゃったことでした。びっくりでしたし涙が出ました。わかっていなかったのは大人の私ですね。将来のゆめと生き方を書いたものですけど…

 「 夢はほんとうになれるかなんてわかりません。だから このように(人が喜んだり笑ってくれるような仕事)するには、勉強をしなければなりません。僕は勉強は苦手な方ですが、夢のためなら、きっとがんばれると思います。たぶんみんなも、きっとそうだと思います。僕は初め夢という言葉に、あまり関心をもっていませんでした。でも後からになって、なんだか大切なように思えてきた…自分がきめた夢によって、ほんとうに自分の人生が 決まるかもしれないと思ったからです。だから 今では夢という言葉にすごく関心を持っています。何よりも夢を大切にしていきたいと思います。僕はこれから、ちゃんとした生活を送り、僕なりのやり方で、がんばって行きたいと思います。」って書いてありました。

 4年生頃には「飼っていたハムスターを通じて小さな生き物や動物を大切にしたい」と、書いていました。当時の我が子にとって、学校はもう楽しい場所ではなくなっていたと思いますが、我が子は精一杯努力していたのだろうなと思います。陰で、その我が子なりのやり方をわかって、支えてやれなかったことに、母親として、人間として、私は失格だったと思うのです。「毎日成長しない子はいない。まして6年生。どの子も不安や自信やプライドや夢を持っていたんだなあ」と色々な文を読みながら思いました。本人が無意識でもちゃんと、「初めから自分で生きていくよ」と言っていたんだと思いました。「**は全部わかっておられて、私たちのように、難問にぶつかり悩んで、子供についてわからなくなった親を助けようとされているのかな」と思いました。

 「それからも我が子は、馴染みのない、ましてあまりに環境の良くない新しい学区に飛込まされて(中学校に入学したという意味)、必死で一人で馴染もうとしたでしょうね。我が子にとって、かわいそうな人生になってしまいましたが、待っていた辛い現実からとうとう逃避して、誰一人理解者のいなかったこんな家庭に、我が子はよくまあ 帰ってきて、現在まで過ごしてくれたなぁ」と思います。

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自傷行為 2006.7.31

 蚊に刺されてかゆいとき、どうしますか?刺されたところを掻いてしまうでしょう。かゆみが強ければ強いほど、爪を立てて強く掻いてしまいます。それをかゆくないときにしてみて下さい。きっと痛みを感じられると思います。では、蚊に刺されてかゆいとき、蚊に刺されたところとは全くかけ離れたところを掻いたらどうなりますか?蚊に刺されたところを掻くよりは効果が減りますが、矢張りかゆみを軽減してくれます。蚊に刺されたとき、かゆみ止めを塗る、かゆみ止めを飲むということでも、かゆみを抑えることができます。けれどかゆみ止めが手元にないなら、かゆみを我慢するし、かゆみを我慢できないときには、掻いてしまいます。

 何かで辛くて、どうにもできないときに、体をかきむしったり、頭をかきむしったりします。これは多くの人は理解できると思います。また、子どもが辛くてどうにもならなくなったときに、自分の頭を壁にぶつけたりするのを見かけた人もいらっしゃると思います。これは多くの方には理解できないでしょう。大変なことだ、どうにかしなくてはと思われると思います。外見上はとんでもないことをしているようですが、当人にとっては、どうにもできない辛さを、痛みが一時的に軽減してくれて、痛みが無くなってもある期間一時的に楽になっています。お灸や鍼が肩こりや腰痛を取ってくれるのと似ています。ただし自傷行為と同じ仕組みで辛さを軽減しているのではないです。お灸や鍼が末梢神経の関連通の仕組みを利用しているのに対して、自傷行為は中枢神経の仕組みを利用しています。

 リストカット(所謂リスカ)やたばこの火で自分を傷つける行為(所謂根性焼き)など、自傷行為を多くの人は理解できないと思います。なぜ人が好んで自分を傷つけるのか分からないと思います。自傷行為をまともに見ることができない人も多いと思います。自傷行為をする精神状態を病気と考える人が多いと思います。自傷行為をする人は、しばしば死にたいと言います。ですから、自傷行為を自殺の前兆だと理解する人も多くて、何が何でも自傷行為を止めさせるべきだと考える人が多いと思います。確かに自傷行為で動脈を傷つけて、出血多量で死亡してしまう人もない訳ではないです。その場合には、自傷行為をする人は、辛さがとても強くて、自傷行為をしても痛みを感じていない場合です。痛みを感じるまで、血が噴き出すまで自傷行為をしますから、辛さが強くて痛みを感じにくい場合には、傷が深くなり、動脈や太い血管を傷つけることになってしまいます。

 自傷行為を自分に対する虐待だと理解する人もいるようですが、虐待ではないです。自分の辛さから自分の命を守るための行動だからです。当然自分を苦しめて、それを楽しんでいるというサディズムのような物でもありません。自傷行為をする人は、本当は自傷行為をしたくはないです。しかし自傷行為をしないと辛くて辛くてどうにもできない状態にいます。その結果自傷行為を行ってしまいます。

 医者も、自傷行為は異常な状態だと考えています。病気の状態だと、統合失調症だと考えているようです。ただし客観的な根拠がある訳ではありません。自傷行為を防ぐ方法を医者は持っていませんし、親や周りの人から子どもの自傷行為を止めて欲しいと要求されたら、医者はその子どもを病気としてしまい、その病気の治療のために、その子どもを拘束室に閉じこめて自傷をしないように拘束するか、病気としてその子どもに向精神薬をどっさりと投与して、脳の機能を麻痺の状態に近くするしか方法論を持っていないからです。

 自傷行為のおおざっぱな仕組みを説明します。人が自傷行為をしなければならないほど辛いというときは、その辛さとは心臓や肺、胃や大腸、皮膚やホルモンなど、体中の臓器が普段にないような、非生理的な動きや反応をしています。その人に辛いと認識させるような反応しています。その時に軽度な痛み、その時の辛さ以上の、警戒信号に相当する痛みを人が受けますと、体中の臓器がそれまでの非生理的な動きを止めて、痛みに対する警戒状態に変化します。生体を守るための動きに変化します。体中の臓器は生物としてのあるべき姿に戻ることになりますから、今までの辛さが無くなって、生きているという実感を取り戻すことができます。

 脳科学的には、人が辛い状態にある場合には、その人の体外、体内にある回避できない恐怖の条件刺激に大脳辺縁系扁桃体が反応して、視床下部や脳幹から体中に恐怖の反応を表現し続けています。その状態で、新たな痛み、回避できない恐怖の条件刺激よりも強い痛みを受けますと、大脳辺縁系扁桃体から視床下部や脳幹に情報が送られて、体中の臓器はその痛みに対する反応に変わります。痛みにより大脳辺縁系や脳幹は生命の危険に対する警戒状態になり、体中の臓器が痛みに対して対応するための生理的な緊張状態に変わります。

 このように大脳辺縁系扁桃体で恐怖の条件刺激から痛みに対する反応に、置き換えられる必要がありますから、恐怖の条件刺激の方が痛みより強く作用している間は、その人は痛みとしての反応が出てきません。生体として痛みは感じているのでしょうが、認識に上らないことになります。恐怖の条件刺激が強く作用していればいるほど、強い痛みでないと、大脳辺縁系扁桃体は痛みへの反応に置き換わらないことになります。それまでは、その人は痛みの認識をしないということになります。

 自傷行為を行う人は若者に多いですが、壮年の人でも行う人がいます。自傷行為を行う人は、いろいろな原因で辛くなり、解決できなくて苦しんでいます。その苦しみを薬やその他の方法でも解決できないから、自傷という行為に出ています。自傷行為を行う人の多くは、自傷行為が自分の苦しみを軽減すると言うことを、自傷行為で自分の心が楽になることを、何らかの方法で知っています。しかし自傷行為とは何かを知らなくても、苦しさのあまり無意識に、夢中で、自分の腕を刃物で傷つけた人の場合も経験しています。また、自傷行為を行うことで体に傷の跡が残りますが、苦しさから一時的でも解放されて、生き延びるために、やむを得ず自傷行為を行っています。

 現在の社会一般の理解、精神医学では、自傷行為が誤解されて理解されています。自傷行為をする人はとてつもなく辛いだけであって、心に病気を持っている訳ではないです。また、自殺をしようとして自傷行為をするのではなくて、生きたいから、辛さから逃れたいから自傷行為をしています。そのために、他の人から自傷行為を止められると、ますます辛くなるから、その後ますます酷い自傷行為をするようになる場合があります。

 自傷行為には体に傷を付けるという問題点の他に、時には生命に危険が及ぶという問題点があります。脳科学的な説明のところに書きましたように、心が辛ければ辛いほど、傷の痛みを感じにくくなっています。体に傷を付けても痛みを感じにくくなっています。辛くなれば辛くなるほど、傷の痛みを感じにくくなっていますから、痛みを感じるために、出血を見るために、作る傷が大きく深くなっていきます。それは自傷行為が生命に関係する組織を切断する場合があり、死に至る場合があることです。自傷行為からの死亡の場合には、必ずいくつかの浅い傷を伴った致命的な傷(ためらい傷)を持っています。それに対して、意識的に刃物で自殺をしようとした場合には、致命的な傷だけのことが考えられます。

 現在、日本社会の中で行われている自傷行為を防ぐ方法とは、自傷行為を行う人を精神科病院に入院させて、拘束室で拘束状態にしてしまうことです。それと同時に、向精神薬を大量に投与して、意識を朦朧とさせて、判断力を無くしてしまうようにしています。それは自傷行為を行う人の人権を障害していますが、医者が統合失調症と診断して、自傷行為をする人の生命を守り治療をするという形にすることで、社会的に容認されてしまいます。

 また、この拘束して、大量の薬で判断力をなくするという対応は、当面の自傷行為を無くすることはできますが、その自傷行為を行った人が、自傷行為を行わなければならなかった問題の、本質的な問題の解決には全く繋がりません。

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学校に行きたい 2006.9.21

 本心とは潜在意識(情動=命に直結する脳の機能)ですから、子ども自身も子どもの本心を知りません。親は子どもの本心を、子どもの表情や行動から知るしか方法がないです。子どもの言葉は子どもの知識であり(子どもの場合、言葉は子どもの本心に基づかないことが多いので)、子どもの言う言葉通りに解釈すると、子どもの知識には答えられても、子どもの本心に答えたことになりません。

 不登校をしている子どもの本心は、学校に行こうとしない子どもの行動から、不登校をしているという子どもの事実から、学校が辛い、先生が辛い、勉強が辛いとなっています。理性は経験や知識からの判断です。そこには理屈や理由があります。本心は単なる反応ですから、子どもの学校が辛くて、学校には行けないという反応に、理屈や理由はありません。その子どもの本心に反する子どもの言動は、子どもの本心とは異なった知識だけから生じています。

 その子どもの「学校に行きたい」という本心に反した言葉に、母親が肯定的に答えたなら、母親は子どもの本心に反したことになります。言葉には肯定的に応えても、本心に反した答えは、子どもの本心を否定したことになり、子どもは苦しくなります。子どもを苦しめることになります。子どもの「学校に行きたい」という言葉に肯定的に答えないで、子どもの本心、学校が辛い、勉強が辛い、その結果人に会うのが辛い、という子どもの本心に沿った答えを母親が出すと、その答えは子どもを一見否定しているようですが、子どもの本心に沿っていますから、子どもはほっと安心して、母親を信頼するようになります。このことをテストと私たちは表現しています。

 日本の子ども達は学校に行くべきものと知識の上で徹底的にすり込まれています。子どもの知識の中で、最も重要な知識になっています。行くべきものと徹底的にすり込まれた学校に行こうとしない子どもは、学校に行けないことが、他の何物にも比べられないぐらいに優先度が高くて重要な問題に、知識ではなっています。知識の上では学校に行かなくてはならないと知っていても、学校が辛くて実際に学校には行けないという事実(本心に付けられた傷、その傷から生じる反応を本人ではどうにもできない)に、子どもは葛藤状態になっています。

 言葉では「学校に行きたい」と言いながら、実際には学校に行けない子どもにとって、その学校に行けないという問題以上に優先されるのが、子どもと母親との信頼関係です。これは子どもと母親という関係で誘発される子どもの本能であり、母親の本能です。言葉では「学校に行きたい」と言いながら、実際には学校が辛くて学校には行けないという子どもの心の状態を感じ取れるのは母親の母性です。母性を働かせると、子どもの問題は理屈抜きで理解できるようになります。

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休みたかったら休んでもいいよ 2006.10.2

 学校に行き渋る(はっきりと学校に行かないと表現はしていない場合)子供に、母親が「休みたかったら、休んでいいよ」とか、「行きたくないなら、学校に行かなくてもいいよ」と言った場合です。母親は子供に「お母さんとしては、学校を休んでいいから、後は自分で決めなさい」、または「お母さんとしては、あなたが学校に行かなくていいから、学校に行くか行かないかは自分で決めなさい」言ったつもりの場合が多いです。その言葉を聞いたとき、子供はどのように理解するかを考えてみます。

 学校に行き渋る子どもの本心(潜在意識の心)は学校に行けない、学校を休みたいとなっていますから、本来なら「休みなさい」、または「学校に行かなくていい」という母親からの言葉を待っています。子どもの本心から、学校に行くことはできませんから、学校に行こうとはしません。母親も、子どもが学校に行かないことを、認めようとしたつもりでいます。子どもが学校に行かないのを認めたのではなくて、子どもが学校に行かないなら、学校を休むなら、その事実を母親は認めるという意味になります。

 現在の子どもは、知識として、「学校には行かなくてはならない」という知識をしっかりと持っています。「母親が学校に行って欲しいと願っている」事実をよく知っていますから、学校に行き渋る子どもは、今まで通りに学校に行こうとします。しかし本心は学校に行けないですから、子供の行動としては、親から見て学校に行くのか行かないのかわからない、ぐずぐずしている子どもの姿、行き渋りの姿になります。

 母親はこの子どもが学校に行こうとするが、それでいて学校に行こうとしない子どもの姿を認められないのです。行くなら行く、行かないなら行かない。どちらかにして欲しい。「何時までもつきあっていれない、行かないなら行かないで良いから、行かないようにしなさい」という意味の言葉を子どもに送っています。

 子供は相手の心を読むことはできません。言葉通りに素直に理解しようとします。子供が言葉通りに理解する場合、「休みたかったら」または「休みたかったら」という母親の言葉を聞くと、今まで持っている「自分が学校に行って欲しいと母親が願っている」という優しい子どもの母親への思い(知識)から、また「学校には行かなければならない」という子どもの持っている知識が強く思い出されてしまいます。

 「学校に行って欲しいと母親が願っているから、それに従うべき」という、母親へ優しい子どもの思いが強く思い出されて、子どもは「母親の思いに従って、学校に行こう」という結論に達します。その際に、子どもの本心が学校には行けないとなっていることは、配慮されません。子ども自身が自分の本心に気づいていないからです。

 母親ばかりでなく、子どもに強い影響を与える人から言われた、「学校に行きたくなければ」とか、「学校を休みたかったら」という言葉から、子どもは「学校にいかない」、「学校を休もう」とは思いません。それどころか、より強く学校に行こうとします。「学校に行こう」という結論に達しても、子どもの本心が「学校には行けない」となっている事実から、子どもの体は学校に向かって動けません。そこで子どもはより強い葛藤状態に陥ります。子どもはより辛い状態になってしまいます。

 つまり、学校に行き渋る子供に、学校に行くかどうかの判断を預けた場合、「学校には行かなければならない」ということを知っている子ども、「母親が学校に行って欲しいと願っている」ことを知っている子どもにとっては、「学校に行かなければならない」、「学校に行きなさい」、「学校を休んではいけません」といわれたのと同じ結果になり、より強い葛藤状態に陥ります。

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子どもはいつからいい子を演じ始める? 2006.10.13

 いい子とは、親にとって、子どもに向かい合っている大人にとって、好ましい姿や行動をする子どもです。子どもは成長の過程にありますから、子どもの周囲にその子どもなりに働きかけて、いろいろとその子どもなりに学習して、その子どもを取り巻く環境に、その子どもなりに一番良い生き方ができるように育っていきます。子ども自身を習慣づけていきます。子どもにとって一番大切な大人は親です。子どもにとって一番大切な環境とは家庭です。子どもは生まれ落ちるとまもなく、家庭でいろいろな経験をして、親が喜べばその経験を繰り返し、親が悲しがれば、その経験をやめようとして、その子どもなりの価値判断を作っていきます。それは親や大人から見たら、その子どもの性格と判断される物です。

 子どもの性格は、子どもとしての本能が満たされる課程でも形成されていきます。自力で動けるようになった子どもは、本能的に子どもは何かを求めて行動を始めます。その何かを求めることが、子どもの本能を満たしてくれるときには、親が喜んでくれた経験と結びつくときには、それがうれしいこととして繰り返し、習慣化して性格を形成していきます。その何かを求めることが、子どもの本能を否定するときには、親が悲しがった経験と結びつくときには、それは嫌なこととして避けようとし、繰り返すことで習慣化して、子どもの性格を形成していきます。

 子どもの性格として判断される子どもの反応の仕方は、行動の仕方は、子どもの本能がどのようにして満たされていくか、どのようにして否定されていくかで形成されるとともに、親が喜ぶか、親が嫌がるかという要素からも形成されていきます。親が喜ぶ反応の仕方、行動をその子どもなりに発展させて、親が嫌がる反応や行動をその子どもなりに放棄して、子どもの性格を形成していきます。

 親との関係で自分の性格を形成していく過程を別な見方をすれば、子どもとは親にとっていい子でありたいと本能的に願って育っていく姿であるとも表現できます。どの親も子育てで一生懸命で気づくことはないのですが、親から見たら、子どもは「本質的にいい子」であることになります。

 このようにして母親のそばで、家庭の中で、子どもの性格の基本が形成されて、子どもは少しずつ母親や家庭から離れた場所で、新たな経験を始めるようになります。そのときまでに形成された性格、親から見たらいい子の性格から行動をして、その結果が自分の喜びを生じるか、嫌な気分を生じるかで、自分の行動を繰り返したり修正して、習慣化して、新たな性格を付け加えて成長していきます。このようにして付加された性格がそれまでの子どもとは違った子どもを作り出して、親や大人たちにとって良い場合もあり、悪い場合もあり、それらを総合してその子どもその子ども特有の性格として、理解されるようになります。

 いい子を演じるとは、ある人に子どもが責められて辛くなり、その辛さを解消する方法がないときに、そのある人に気に入られるような、そのある人が納得するようなことをすることによって、そのある人から逃げ出し、辛さを解消する方法です。子どもとしてはしたくないけれど、辛さを解消するために、仕方なく演じています。無理をして行っています。その場限りのいい子です。ですから、いい子を演じるには、子どもは自分を責める人の気に入るようなこととは何かを見つける必要があり、見つかったらそれをいかにも自分の本心から納得しているかのように、演技をしなければなりません。

 子ども自身がいい子であることと子どもがいい子を演じることとは、見かけはよく似ていて区別がつきませんが、子どもの心の中は真反対です。子どもがいい子であることは、子ども自身の喜びであり、子ども自身の能力を高めていきます。子どもがいい子を演じるときには、子どもが辛くても逃げられないから、やむを得ずいい子を演じてその場をやり過ごそうとする子どもの行動です。発展性がないばかりか、その辛さを解消するために、親や大人たちの嫌がることをどこかで行わなければなりません。いわゆる問題行動をする子とになります。

 学校が辛い子どもは言葉で、行動で、学校が辛いことを表現している場合もあります。学校が辛い子どもで、言葉や行動で、学校が辛いことを表現できない子どもは、学校でいい子を演じることで、学校での辛さをやり過ごそうとしています。いい子を演じ続けて、演じ続けられなくなって、不登校になっています。学校が辛い子どもは不登校になるまで、学校内でいい子を演じ続けています。そして不登校になって、親や先生方などの大人がことの重大さに気づいています。

 ですから、親や大人たちが、いくら子どもの様子を遡って考えてみても、いつから不登校になった子どもがいい子を演じだしたのか分かりません。いつから不登校になった子どもがいい子を演じだしたのか、はっきりと線を引けません。不登校になった子どもは、辛くなると少しずついい子を演じることを覚えていったのです。不登校になる子どもは頭がよくて優しいから、親が知らないうちに、いい子を演じてきています。

 いい子を演じることが悪いことではないです。子どもがいい子を演じることは、親や大人にとって困ることがない子どもの辛さの解消法です。いい子を演じて、それが続けられる限り、そして、いい子を演じているうちに子どもの辛いことが解消するならば、辛いことが解消して、子どもがいい子を演じる必要がなくなりさえすれば、それでも良いのです。ところが不登校の子どもには、学校内がそれを許してくれなかったのです。学校内での辛さに耐えきれなくなって、いい子を演じ続けられなくなって、学校に向かって体が動かなくなってしまっています。

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虐め自殺 2006.10.25

 現在、マスコミで、北海道と北九州のいじめ自殺のことがいろいろと述べられています。政府もいじめ自殺をなくするためにと動き出しました。そこで主に述べられていることは、いじめを早期に見つけ出して、いじめを解決しようという議論が主流となっています。ところが、いじめによる事件が起きてしまうと、その時点から振り返っていじめがあったことがわかりますが、子ども達の間でいじめがなされている段階で、大人達が子どものいじめに気づくことは大変に難しく、いじめの早期発見ができるかどうか疑問です。

 子ども達の間のいじめは、遊びの形で行われていることを、大人達は気づくべきでしょう。子ども達が楽しそうに遊んでいる中の一部に、いじめが存在しています。ですから、いじめている子どもには基本的に悪いことをしているという意識はありません。そして何かの事件の形になって、初めて大人が子ども達の間のいじめに気づいています。子ども達の中には、楽しそうに遊ぶ子ども達の中にいじめらしきものがあることに気づくことがあります。その場合でも、いじめに気づいた子どもが先生や大人にいじめの存在を指摘しても、先生や大人達は子ども達の遊びの姿としてしか理解できません。

 そして何かはっきりとした事件となったとき、初めていじめと気づき、それまではいじめはなかったと、いじめには気づかなかったと、いじめを見つけられなかった責任を回避しています。今回北九州のいじめ自殺の事件でも、いじめていた先生の存在には、自殺した子どもの遺書が見つかるまでは、どの大人も気づいていません。それどころか優秀な先生としていじめた先生は理解されていました。それほどいじめが行われている最中にいじめを見つけ出すことは大変に難しいことです。

 次に大人がよく知っておかなければならないことは、いじめを止めさせようとすると、いじめが酷くなる事実があります。大人がいじめに気づき、いじめる子どもに働きかけていじめを止めさせようとすると、多くのいじめは一見なくなったように見えます。しかし、大人達から見えないところでいじめが行われるようになり、そのいじめも酷くなるので、いじめられている子どもはいじめの存在を訴えなくなってしまいます。いじめられている子どもからいじめの存在を知ることは大変に難しいことです。また、大人が直にいじめる子どもに関わっていじめをなくそうとすると、いじめられている子どもが大変に辛くなる場合が多いです。

 多くの大人は、いじめる子どもをなくすと、子どもの間でのいじめはなくなると考えがちです。ところがいじめる子どもはいじめをしようとしていじめをしているのではないです。何か辛い状態にある子ども達のうちで、その辛さを解消するためにほかの子どもで遊ぶ子どもが出てきます。遊ばれた子どもが出てきます。その遊ばれた子どもがいじめの被害者です。つまり、子どもが親や学校により辛くなったとき、いじめを始める子どもが出てくるという事実です。いじめる子どもは大人の被害者だと言うことです。大人が子どもを辛くするから、いじめをする子どもが出てきています。その結果いじめられる子ども、いじめ自殺をする子どもが出てきています。

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社会に出たら、また疲れてしまうかも 2006.11.21

 不登校で引きこもっている子どもを見て、たとえ不登校の問題が解決しても、社会に出たらまた同じように働けなくなって、引きこもってしまうのではないかと、親が心配する場合があります。それは本当に不登校の問題が解決されたら、全く心配のいらないことです。不登校が解決すると言うことは、子どもがその子どもなりに熱意を持って生きられるようになっています。子どもを苦しめる可能性のあるいろいろな問題をその子どもなりに解決できる能力を獲得したから、不登校の問題が解決できました。

 不登校の子どもは潜在意識で学校が辛くなっています。学校が辛いことを親が認めて、学校に行かない生き方を親が認めると、子どもは元気に、学校とは違う社会と関わるようになります。子どもが学校で辛いことを親が認められなくて、親が無理矢理に子どもを学校に行かせようとすると、子どもは家の中に、部屋の中に、引きこもってしまいます。辛さに耐えるので精一杯になり、元気が出てきません。引きこもりを続けることになります。

 子どもが引きこもりをやめるには、親が子どもの不登校を良いことだと認めなければなりません。親が本心から子どもの不登校を認めたなら、子どもは安心して、自分の不登校を問題視しなくなります。その子どもなりの活動を広げていきます。その子どもの活動は家の中にとどまらないで、家の外、社会にまで広がっていきます。子どもの活動が広がると、子どもはいろいろな問題にぶつかります。その問題をその子どもなりに解決するなり、親の手を借りて解決するなりして、子どもの活動を広げて、その子どもなりの生き方を見つけ出します。

 この子どもの活動を見守ることは、親にとってははらはらどきどきです。子どもがとんでもないことをしでかさないかと不安になります。それでも子どもから「助けて」と言ってくるまで待ってあげると、子どもはその子どもなりに、良い経験、悪い経験(時には親にとってとんでもないことをするかもしれません。それも子どもにとって重要な経験です。子どもを罰するのではなくて、子どもが希望すれば、親が責任をとって子どもを守ってあげてください)、ありとあらゆる経験をします。その経験が、以後の子どもが問題に遭遇したときに、その子どもなりに解決する能力になります。自立して一人の人間として生きていけることになります。親にとって、社会の中で、とても頼もしい生き方をします。

 現在の学校制度に乗ってどんどん進んでいける人はある意味ではかわいそうな人です。現在の学校制度が通用するような社会(昔の日本がそうでした)で生きていける人なら、それでも良いのですが、そのような人はほんの僅かな人たちです。多くの人は、いつか必ず現在の学校制度が、学校での経験が通用しない社会の中で生きていかなければならなくなります。今まで経験していない、自分の経験が役立たない社会の中で生きていかなければならなくなったとき、学校制度に乗って進んできた人たちは、社会経験のない人たちは、失敗を経験していない人たちは、とても弱い人間になる可能性が高いからです。

 学校の外の社会では、人はいろいろな問題にぶつかる可能性が高くなります。学校制度に乗って進んできて、社会経験がない人たちには、どのようにしてその問題を解決して、生きていったらよいのか分からなくなるからです。今まで失敗を経験していないから、失敗を経験してもその失敗を咎められてしまい、失敗を取り戻す経験をしていないから、社会の中ではとても不安になっています。

蛇足
現在、学校制度をやっとの思いで終えて、就職という社会生活をしている人たちがいます。その人たちの中には、やっとの思いで仕事をこなしている人たちがいます。仕事以外のことを考える余裕がないです。当然結婚のこと、結婚の結果の子育てのことを考えることができない、考えても自信がないです。結婚生活に飛び込んでいけない人たちがいます。それも多いと言われています。あまりにもまじめに、よそ見をしないで、学校制度に沿って成長したために、社会の中で生きていく能力、問題の解決能力を育てることのできなかった人たちです。

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子どもが母親に愛情を感じるとき 2006.11.22

子どもが一番信頼する母親が、登校拒否、不登校の子どもに学校には行かなくて良いと言うことで、登校拒否、不登校の子どもの心の中の葛藤を解消してくれます。安全な場所で、子どもが辛い心を癒そうとする行動を、そのままそれでよいと認めてくれる母親の存在は、子どもにその自分の辛い心を癒そうとする行動に没頭し、それを卒業し、次の何かを求める行動に繋がっていきます。それと同時に、母親の存在は、それだけで辛い子どもの心を癒してくれます。それは母親と子どもとの信頼関係がいかに子どもの心を安定化させて、成長していくことを認めるからです。

ある場所で母親の愛情とは何ですか?との質問がありました。ある母親は時間がたつと分かること、またある母親は信頼だと、また、ある母親はスキンシップで伝わる物だと言いました。これらは当たっています。母親と子どもとの間の愛情とは、母親と子どもとの間の信頼関係と言い換えることができます。その母親と子どもとの信頼関係を高めていく方法は、次の三つになります。

スキンシップ
母親とのスキンシップは、それだけで子どもの心に安心感を与えてくれます。母親とのスキンシップで、子どもの辛い心が消失していきます。子どもが辛ければ辛いほどスキンシップが大切です。抱いてあげること、手を握ってあげること、背中をさすってあげること、一緒に寝てあげること、一緒にお風呂に入ってあげることなどが良いようです。これは母親でなくてもできることですが、母親にしてもらうとその効果はとても強く作用します。

子どもの行動を素直に認めること
子どもの話を丁寧に聞くこと。子どもの行動や反応をそのまま素直に認めることです。大人は一般に、子どもの行動にいろいろな理由付けをして、理解しようとします。その理由付けが正しければそれでも良いのですが、まず正しいことはないです。子どもの行動や反応の大半は、受けた刺激に反射的に反応して行動しているからです。そこには大人の考えるような理由がないからです。

子どもの要求は100%認めること。
子どもが何かを要求するにはそれなりの子どもとしての意味があります。ただし大人にはそれが分かりません。ですから、子どもの要求を信頼して100%かなえてあげることが必要です。ただし、決して100%以上ではいけません。100%以上だと、子どもは親に依存を生じてしまうからです。100%以下では、子どもは親に不信感を持ってしまいます。親の理由として子どもの要求を100%かなえられないときには、子どもと交渉する必要があります。子どもは優しいですから、その交渉の結果を受け入れて納得してくれます。親に対して不信感を持ちません。

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いじめられる子どもがいじめる子どもに 2006.12.17

 いじめられる子どもの中で、いじめられっぱなしではなくて、いじめられた辛さを何かで遊ぶことで解消しようとする子どもが出てきます。それはいじめる子どもが自分の辛さを何かで遊ぶことで解消しようとするのと同じです。いじめられた子どもがその辛さを何かで遊ぶことで解消しようとするとき、その遊ぶ道具がなくて、他の子どもで遊ぶ、他の子どもをからかうことで遊ぶ子どもが出てきます。

 いじめられていた子どもの辛さはとても大きい場合が多いです。ですからそのいじめられていた子どもが他の子どもで遊ぶ場合、その遊び方はからかうという程度を越えて、いじめになっている場合が多いです。新たにいじめられる子どもが出てきます。

 そこで「いじめる子ども」、「そのいじめる子どもにいじめられているが、同時に他の子どもをいじめる子ども」、「そのいじめられていたが、他の子どもをいじめる子どもにいじめられる子ども」という、いじめ、いじめられの子どもの集団が出来てきて、その集団の中に、階層構造が出来てきます。その集団の中では、基本的にはいじめる子どもが一人(いじめの頂点)、いじめられっぱなしの子どもが一人(いじめの底辺)、いじめられるのを避けるためにいじめる子どもが何人(中間のいじめ)かという子どもの集団です。

 このいじめられるのを避けるためにいじめる子どもたちは、絶えず自分がいじめる相手を逃がさないようにしています。自分がいじめる相手を逃がすと、自分がいじめられとても辛くなるからです。それはいじめられっぱなしの子ども(いじめの底辺)がいじめから逃げ出せないように、あらゆる事をされることになります。

 このいじめ、いじめられの集団は、部外者から見たら遊び仲間に見えます。とても仲良く遊んでいる子どもたちのグループに見えます。とてもいじめが行われているとは見えません。その楽しく遊んでいる姿に、同級生などの周囲の子どもたちが巻き込まれ、時には教師などの大人も巻き込まれて、遊びが行われます。それはますますいじめる子どもたちを楽しくして、いじめられている子どもは一見楽しそうに遊ばれていますが、心の奥底では辛さに一生懸命耐えて、遊ばれている時間を乗り切ろうとしています。

 このいじめ、いじめられのグループに、何か大きなストレス刺激が加わった子どもが出てくると、その階層構造の下にいる子どもを酷くいじめることになり、それが最下位にいるいじめられっぱなしの子どもを酷くいじめることになり、周囲にいる子どもたちもいじめではないかと気づくようになります。それでもやはり、遊びの形でいじめが行われますから、いじめではないかと気づいても、いじめだとはっきりと分かりません。

 また、いじめ、いじめられのグループの側にいた子どもの内で、いじめではないかと気づいて、先生などの大人に連絡した子どもについては、その大人に通報した子どもがこのいじめのグループから、嫌がらせを受ける可能性を感じられて、なかなか先生などの大人に通報できない場合が多いです。また、通報しても、先生などの大人はいじめだと分からないことが多いです。

 いじめにより大きな事件や自殺者が出ると、いじめが注目されて、いじめている子どもが見つけ出されて、処罰を受けています。その際に気をつけなければならないことは、そのいじめている子どもとしてリストアップされて、処罰を受けている子どもの中に、実際はいじめのグループの階層構造の最下位近くにいて、いじめの責任を全て負わされている子供がいます。つまり、いじめ事件の全ての責任を負わされていて、または実際のいじめには関わっていなくてもいじめの首謀者として、濡れ衣を着されられている子どもです。実際のいじめ事件の首謀者は、別にいる場合です。

 いじめ事件が発覚すると、教師や大人は子どもたちに聞き回り、アンケートという形でいじめの関係者を調べます。そこでいじめのグループでは、いじめの首謀者を仕立て上げるのです。それはいじめグループの最下位に違い子どもが選ばれます。そのようにしていじめの首謀者として選ばれた子どもも、その後のいじめをおそれて、いじめの首謀者でないと反論をしない場合が多いです。いじめの首謀者として選ばれた子どもが、処分を受けることになってしまって、自分ではないと反論しても、聞き入れられない場合があります。またはそのまま処分を受けてしまう場合があります。

 先生や大人たちは、いじめ事件が調べられて、首謀者が見つけられて、処分されて、それでそのいじめ事件は一件落着と考えます。それ以上いじめ事件を調べようとはしません。先生や大人たちの、きわめて単純な発想、いじめる子どもが悪い。悪い子どもたちを守る必要はないという発想なのです。ところが実際のいじめはきわめて巧妙に行われていて、きわめて単純に発想している大人たちにはその全体像が見えなくなっています。

 先生や大人たちは、「いじめは悪い、いじめる子どもが悪い」とだけ考えて、そのいじめやいじめる子どもを作り出す学校は少しも悪くないと学校を擁護して、いじめを生み出す学校の問題点を探そうとはしないのです。いじめは一部の問題がある子どもが行っていることであり、その子どもたちを処分したら、それ以上いじめの問題は起こらないと考えようとしています。いじめを見つけようとも、いじめに本気で向かい合おうともしません。いじめの問題を本気で考えたなら、教師が責任を取ることになり、教師の素質が問われ、その学校が崩壊し、学校制度が崩壊する可能性があるからです。

 いじめられた子どもは学校制度の被害者であり、いじめたとして処分された子どもも学校制度の被害者であり、いじめのグループの子ども達も学校制度の被害者です。大人社会の被害者なのです。

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