フリースペース「したいなぁ〜松戸」&松戸−登校拒否を考える会「ひまわり会」
ホーム代表者と顧問医師のコラム

子供の立場からの教育 2005.1.5

 大人の立場からの子供への教育とは、学校や家庭での勉強のように、子供に必要な知識を与えて、又は反応の仕方を指導して、それを子供の身につけさすことでしょう。それを脳科学的に表現するなら、大人が意味があると考える陳述記憶や操作記憶(情動記憶は除く)を子供に与えて、学習させる(経験させる。その結果として、大人が希望するように反応する神経回路ができる)ことでしょう。

 けれど子供の立場からいうなら、大人から与えられて、身に付けさせられた知識や反応の仕方は、子供がする学習の一部に過ぎません。つまり、子どもは生まれ落ちたときから、その子どもとその環境との間に絶えず学習を続けて成長してきています。それは、大人が与えた勉強という形ではないので、大人が与えた訓練という形ではないので、大人からは教育とは認められていません。けれど子どもにとっては教育と全く同じ学習です。子どもにとっては、瞬間瞬間の経験がその子どもにとっての学習です。それは「大人が既に学習した結果から環境に反応するだけで、新たな学習にはなっていない」のに反して、子どもの場合は「絶えず自分の反応結果から、新たな知識や反応法を身につける」という、新たな学習を絶えず繰り返しています。

 その学習の仕方も、子どもに与えられた環境に順応する形で学習を続けて成長します。子どもの環境に順応しようとする本能から(接近系)の学習ですから、学習速度が速く、しっかりと記憶されています。それに対して、教育という形で大人から与えられた物は、子どもの本能からの学習でないばかりでなく、子どもにとっては興味を持てない物(回避系)のことが多いから、学習速度が遅くなり、なかなか子供の身に付きません。その結果、大人は子どもの目に見える学習結果を得るために、物質的なご褒美(より強い接近系)を与えるか、又は手っ取り早く恐怖(より強い回避系)を与えるという形で学習させようとします。

 子どもはその環境から絶えず学習しています。その学習内容は大人の求める物と異なっている場合が多いですが、その子どもなりに、社会に順応するように学習を続けています。その子どもなりの学習している経過の中で、子供の心が安定しているなら、大人から受ける学習、つまり教育も子供たちは受け容れることになります(受け容れる子ども側の条件が整うという意味で、必ずしもすぐに受け容れるという意味ではない)。

子どもの登校する心 2005.1.22

子どもが学校に行くかどうかという行動を、子どもと学校との力関係から、分析してみたいと思います。それは子どもがどのような心の状態で、学校と関わっているのかを、示しています。力と書いたのは、物理的な力ではなくて、動機と理解してください。子どもたちは以下に示します、これら四つの力関係の中で、学校と関わっています。


1.子どもが学校を求めるための内的な欲求(学校に行きたい、友達と遊びたい)として、子どもの「エネルギー」があります。これが子どもが学校と関わる最も自然な姿です。

2.子どもが学校に行くための「押す力」として、子どもの周囲(子ども自身の学校には行かなくてはならないという知識、親、兄弟、近所、教師)からの圧力があります。これは子どもが学校に行きづらくなったときに作用し出します。

3.学校が子どもを引きつける吸引力(心の傷を癒す作用)として、または排斥力(心の傷を深める作用)として、学校側の「受け入れ態勢」があります。これは子どもが学校に行ってみて、子ども自身が直に感じる力です。それは学校側のもくろみと子どもの感覚と異なっている場合を、私はしばしば経験しています。

4.学校の中に子どもの嫌がるものがある、または、学校で子どもの心が傷ついしまったという事実からの、学校を回避するための「回避力」として、学校そのものから受ける嫌悪刺激があります。これは家庭で時間をかけて解消することができます。


普通の元気な子どもは、「エネルギー」がとても大きくて、「押す力」がなくても、少々「受け入れ態勢」が悪くても、少しぐらい「回避力」があっても、学校に行ってしまいます。学校生活を楽しむことができます。

学校で子どもの心が傷つくと、だんだん「回避力」が大くなっていきます。子どもは苦しみながら学校に行き続けます。それでも学校側の「受け入れ態勢」が良くて、学校が子どもに吸引力になっていれば、子どもの苦しみはその分、少なくなります。苦しみながらも学校に行ってしまいます。学校側の「受け入れ態勢」が悪くて、子どもへの排斥力となっている場合には、子どもの苦しみはその分大きくなります。子どもの心の傷をより広げ、「回避力」を強くしていきます。この「回避力」は主として家庭で癒すことができますが、学校で子どもが傷つく時間に比べて、遙かに長い時間を要します。

学校で子どもの心がもっと傷つくと、「回避力」が「エネルギー」を上回って、子どもは学校へ行きづらくなります。すると、「押す力」が作用しだして、子どもは学校には行けない状態で、とても辛い状態で、学校に行き続けます。登校拒否の状態になります。当然、「押す力」が弱ければ子どもは心の傷が浅い状態で、早く不登校の状態になります。それは早く不登校状態を脱出(元気で社会へ出ていける、時には学校に戻れる)できることを意味しています。

学校での子どもの心の傷が深まると、「回避力」が「エネルギー」や「押す力」、「受け入れ態勢」の力を上回ったときには、子どもは不登校状態になります。どのようにしても子どもは学校に行けなくなっています。ただし、「回避力」は時間の経過や、家庭での対応で、弱まる傾向にあります。


不登校状態の子どもが学校に戻ろうとするときも、これらの力関係で子どもが学校に戻れるか戻れないか、決まります。

不登校状態の経過の中で、子どもの中のエネルギーが蓄積されてくると、経過の中に弱まってきた「回避力」より「エネルギー」と「押す力」とが上回ってきます。すると、子どもは学校に戻る場合があります。そして学校に戻ったとき、「受け入れ態勢」が吸引力となれば、その吸引力の程度によって、子どもは苦しみながら学校に行き続けます。その後の上記の4っつの力関係によって、学校を卒業することも可能ですし、そのまま社会へ出ていけるようにもなります。

「受け入れ態勢」が排斥力として働くなら、子どもはまた不登校状態に戻り辛い状態になるか、学校を利用しないで蓄積されたエネルギーを発散しようとします。不登校状態に戻ったとき、「エネルギー」が大きいと学校を利用しないでエネルギーを発散しようとする傾向が大きいし、「押す力」が大きいと、子どもは辛い状態に戻る傾向にあります。

ただし、子どもの「エネルギー」が高まったとしても「押す力」が弱かったら、子どもは必ずしも学校に戻るとは限りません。学校に戻らないで、その子どもなりに直に社会へ出ていってしまう場合も多いです。「押す力」が子どもを学校に戻す重要な要因の一つですが、「押す力」によって子どもを学校に戻した場合、そして「受け入れ態勢」が子どもに排斥力として働いたなら、子どもは「受け入れ態勢」からの排斥力を長く、強く受けて、せっかく高めた「エネルギー」を使い果たしてしまいます。子どもは大変に辛い状態に戻って引きこもってしまいます。

戦場からの負傷兵 2005.2.18

 日本はこの60年間、直接戦争に加わっていません。その意味では平和な国です。けれど子ども達の間では、学校内で、激しい競争があります。学校や多くの大人は、子ども達の成長のため、子どもの将来のためとして、子ども達のために学校を作り、子ども達のために先生方も働いています。けれど多くの学校では、学校内で行われていることは競争です。学校内で行われていることが全て競争ではないですが、競争の部分が必ずあります。その競争の部分では子どもたちは勝ち残るために競争相手を傷つける子どもがいます。その結果心が傷ついてしまう子ども達がいます。

 学校側も、学校自体が勝ち残るために、学校としての成果を出すために、そして先生自体が勝ち残るために、学校側や先生達の都合で子ども達に働きかけます。その働きかけが、子どもたち個々のあり方を無視した形で行われるために、心が傷つく子どもたちがいます。大人や先生たちにとっては、子ども達の将来のために良いように、現在の子どもたちに喜びを与えられるように、と思っているでしょうが、それでもかなりの割合の子どもたちにとっては、学校は戦場になっている部分があります。

 学校という戦場で心が傷ついた子ども達はそれぞれの家庭に帰還します。けれど親達や先生達には、子ども達の心についた傷は見えません。その結果、心が傷ついた子ども達を学校へ送り出そうと、学校へ来させようとします。それは心が傷ついた子ども達には大変に酷なことです。傷ついた心で、どうしてもう一度、学校という戦場で戦うことができるのでしょうか?子ども達は自分たちの心の傷が癒えるまで、家庭でゆっくりと時間を過ごさせてくれと、叫び続けています。親たちや先生達はその子ども達の叫びを無視し続けて、戦場である学校へ行かない子ども達を異常だと判断しています。

 もちろん学校の中に子ども達にとっての戦場がなければ話は別です。けれど実際には、子ども達のとっての戦場の部分が学校の中にあるのです。それでいて、親たちや先生達は、学校の中に子ども達にとっての戦場はないと思っていますから、学校で心が傷ついた子ども達と親達や先生達との間では、感じ方のずれを生じています。子ども達の感じ方が正しいのに、親たちや先生達は自分たちが正しいとして、力の弱い子ども達が、無理矢理に戦場である学校に行かされて、ますます心の傷を深くするという現実があります。

不登校の子ども達の声が届いていない 2005.2.27

 現在不登校や引きこもりの問題が社会問題になっています。不登校の子どもの数を減らすこと、引きこもりの子どもの数を減らすことが、地方の自治体の課題の一つになっています。その課題を達成するために、地方の自治体では何々相談員という名前で、また、何々支援員と言う名前で、不登校や引きこもりに対応する人、不登校や引きこもりの子ども達に関わろうとする人を用意している自治体があります。これから用意をしようとする自治体があります。学校に相談室を作って、子ども達の相談や家庭訪問をさせていますし、させる予定のようです。これらの自治体の対応では「学校復帰を優先するのではなく、子どもに寄り添った支援をする」といううたい文句のようです。

 そのような仕組みを作ることは行政側の論理からの対応でしょう。不登校で辛い状態の子ども達は、相談員などの他人に助けを求めているのではありません。自分の親に対して不登校を認めてくれと訴えています。それを言葉で表現している子どももいますが、多くの子どもは言葉では「学校に行きたい」と言いながら、行動で「親に対して不登校を認めてくれ」と訴え続けています。この相矛盾する子どもの訴えでは、行動で親に不登校を認めてくれという子どもの訴えが、子どもの本心からの訴えです。ですから、「子どもに寄り添った支援」とは、子どもの不登校を認める、子どもを静かに引きこもらせてあげるという意味になります。子どもの心に寄り添った対応をする相談員とは、親に不登校や引きこもりを認めさせるような対応をとる人たちでなければなりません。

 相談員などの役割には、「家庭訪問などもして、不登校の未然防止を図る」とあります。不登校を未然に防ぐには、不登校とはどうして生じるか、その仕組みを理解する必要があります。不登校とは学校に問題があって子どもが学校に行きづらくなった状態です。子どもに問題があるのではありません。学校内の子ども達が不登校になるような問題を解決するのなら不登校を未然に防ぐ意味があります。すでに学校に行きづらくなった子どもは学校内の問題が解決しない限り学校には行きづらいままです。自治体の対応が、その行きづらい学校へ子ども達を行かそうとする対応なら、子どもはますます学校を拒否して、相談員などを拒否して、そして親を拒否して、とても辛い状態になります。

 不登校の子どもは親に不登校を認めてくれと行動で訴えています。他の人には関わって欲しくないと訴えています。相談員などと関わるのは嫌だと、不登校の子ども達はいっています。それを言葉で言う場合もありますが、多くは行動や症状で表現しています。相談員などが来ると拒否したり、逃げ出したり、不登校の子ども達は行動で表現しています。すなわち、不登校の子どもに寄り添う関わり方とは、学校関係者や相談員など、不登校の子どもに関わろうとする人たちが、子どもに関わらないことなのです。不登校の子どもに関わらないで、その親に子供の不登校を認めさせるような対応をとることです。

 確かに中学1年時に不登校が急増する傾向にあることは事実です。それは中学校の学校自体に問題があるからです。教師の生徒への対応法や、学級運営、学校運営に問題があるからです。子ども達が中学生活に慣れていないというような問題ではありません。中学校で子ども達の心が傷ついてしまうから、子ども達が不登校になっています。ただし、中学校に入学する時点で、すでに子ども達の心がストレスに敏感になっていて、中学校に入って心が傷つきやすくなっているという事実もあるでしょう。例えそうだとしても、中学校の教師により子どもの心が傷つけられて良いという理由には成りません。子どもがそれほど傷つき易い状態であるなら、教師もそれなりの心構えをして子ども達への対応をすべきです。

 現在教師の方は勉学を教えるだけでは勤まらない時代になっています。教師の子ども達の心を理解する能力も必要になっています。教師の子ども達の心を理解する能力をつけないなら、心が傷つく子ども達は無くならないでしょう。それは不登校の問題は解決しないことを意味しています。昔からの熱血先生で良い生徒もいます。けれど不登校の子どもの問題を考えるなら、生徒の心のわかる先生と言う意味で、先生の質を変えない限り、そして、子どもの心が学校で傷ついて不登校になっているという事実を理解しない限り、自治体や学校側が目先の対応を変えても、不登校の問題は解決しません。

学校の中の戦場 2005.3.8

 学校は子どもにとって楽しいところです。その楽しい学校に競争が持ち込まれています。競争が生じることはやむを得ないことですが、その程度が子どもの耐えうる能力の限界を超えている学校が多くなっています。競争の中で勝てる子どもはよいです。負けた子どもは、その子どもの回復力以上に打ちのめされています。また、競争に勝てた子どもも、その競争の辛さから、弱い立場の子どもを、いじめるという問題行動を起こしています。

 「学校の中の戦場」と表現したのは、学校の中での子ども達の姿を私が戦争に例えただけです。戦争と言っても、決して二つの軍隊がぶつかり合っているような戦争ではなくて、一人一人の人が生き残るために、その人以外の人と、互いに相手を傷つけあっている戦争を描いてみました。それは子ども達が良い成績を取って、親や先生に認められて、条件の良い学校に進学するための競争に似ているからです。

 この子ども達の競争の中で(私の例えた戦争)競争に勝ち続けている子どもは良いのです。その勝ち続けた子ども達も、別の勝ち続けた子ども達と競争を強いられ、その新たな競争に勝った子どもと負けた子どもに分かれます。そして、子ども達の間の競争に負けた子ども達は立ち直られないほどに打ちのめされてしまっているのです。心がずたずたに傷ついています。その事実に気づいて欲しいとお願いしています。

 子どもには能力の限界があります。子どもの心が傷ついたなら、その心の傷が疼かないところで子どもは成長するしか方法がありません。心が傷ついた子ども達に大人と同じことを要求したら、子どもはますます辛くなって、大人を拒否するようになります。大人は自分の頭で考えたことが子どもにもできると考えがちです。子どもならこうあるべきと考えがちです。けれど心が傷つき、疼く子ども達は、自分を維持するのが精一杯なのです。このような子どもの特性を、大人の人に理解して欲しいとお願いしています。


 補足(掲示板より)

 私は自然科学から考えます。人間以外の哺乳類も、集団を作るとそこには、表現はどうであれ、競争が生じています。また、競争が個体と心の発展をさせています。その競争の中で、その個体なりの生き方を見つけて、その個体なりの生き方をしています。

 人間の場合には、多くの事柄について競争が存在していて、その競争では、あるところでは勝ってもあるところでは負けて、全体としてその人らしさとなっていると、私は判断しています。

 動物によっては、その競争の中では、命を懸けた競争もあることも事実です。それが生存競争です。人間の場合、知識があり、人間同士自然淘汰から守りあう傾向があります。それは肉体的な生存競争であり、心に関する競争には、現在のところ気づいている人は少ないです。肉体的な生存を保証していますが、心は平気で相手がずたずたになるまで傷つけている場合があります。

 私は子ども達の間に競争があることを勧めているのではないのです。競争はない方がよいが、どのように工夫しても、全くなくすることはできないという意味で言っています。競争があっても心の傷つく人がないような程度の競争なら、仕方がないという意味です。けれど人によっては競争でひどく傷つく人も出てきます。その場合には可能な限り早くその人を競争の場から引き離して、まず心の傷が癒えるようにするのが先であるという意味で、これらの文章を書いています。

 その意味で、人々が心の傷とは何かを理解して欲しい、心の傷があるかどうかを、しっかりと認識して欲しいと思います。

不登校の原因 2005.3.6

 あくまでも一般論として、不登校の子どもを持つ親に、注意を喚起しておきたいと思います。

 親は子供の不登校の原因を見つけだして、それを解決して、子どもを学校に戻したいものです。その際に、子どもにあれやこれやと聞き出して、不登校になった原因を探し出そうとします。

 子どもは母親の質問に答えて、いろいろと辛かったことを母親に言います。その子どもの言ったことが、不登校の原因になっているかというと、必ずしもそうではありません。
 子どもの言ったことが、不登校の原因になっている場合もあります。ただし、そのようなケースはきわめて少ないです。
 子どもの言ったことが、不登校の原因の一部になっている場合もあります。この場合は多いです。
 子どもが自分の不登校の原因となっていないことを、原因と考えている場合があります。このような子どものケースも結構多いです。
 子どもが答えられない場合があります。子どもが不登校の原因を意識していない場合です。自分に起きた事柄としては記憶していても、自分の不登校の原因とは意識していない場合です。その結果自分の不登校の原因に気づいていません。このような子どものケースも結構多いです。
 以上は子どもに不登校の原因を聞きただして、子どもが答えた場合です。

 それ以外に、親が子どもの不登校の原因を聞きただしたときに、子どもの心の傷が疼いて子どもの状態が悪化する場合がとても多いです。子どもが大変に辛くなります。

 次に子どもの不登校問題が解決して、子どもが元気に社会と関わりだしたときに、子どもに不登校になった原因を問いただした場合です。
 子どもは辛かったことを言うことができます。けれど注意して欲しいことは、子どもは自分が辛かったことの詳細をほとんど忘れていることです。あれほど親を苦しめるほど反応していたことのほとんどすべてを、子どもは忘れています。

 もっと時間が経過する(完全に大人の心になったときには)と、あれほど苦しんだことを、あれほど苦しめられた学校を、自分の人生に必要だったと、肯定的に考えるようになります(大人になって自分の不登校のことを考えたときには、それは苦しんでいたときの不登校とは全くといって良いほど異なっている)。

 又それでよいのです。子どもは過去に捕らわれなくて、未来に向かってどんどん羽ばたいていけばよいのですから。

登校拒否の原因 2005.4.2

 このトピックでは、脳科学的に登校拒否、不登校を考えます。脳科学的には、登校拒否は学校または学校に関するものを恐怖の条件刺激とする恐怖の条件反射です。

 学校を恐怖の条件刺激にしているのですから、学校で恐怖体験をしています。その恐怖体験は教師から、ほかの子供から、そして学校内の事件から、などが考えられます。これらの原因のひとつが作用して恐怖の条件刺激を学習している場合もありますが、これらが相乗して恐怖の条件刺激を学習している場合もあります。

 恐怖に対する耐性(心を強くする)も考える必要もありますが、これは大変に難しいです。下手をすると、親としては子供に、恐怖に対する耐性をつけたつもりが、逆に心に傷をつけている場合があります。現在のように、まだ心の傷を知らない大人が多い中で、子供の心に恐怖に対する耐性をつけることは失敗する可能性が高いと考えられます。成功例はほんのわずかだと思います。ただし、成功例は目立ちますから、注目されやすいです。

 一般論として、恐怖に対する耐性をつけるのは自然の成り行きが一番よいと思います。親は絶えず子供の心を癒す役割がよいと思います。ただし、特殊な目的を持って子供を育てる場合には、その親なりの恐怖に対する耐性を、親の責任で子供につけさせてもよいわけですが、子供が傷つきやすいことを絶えず頭に入れておく必要があります。特に教師は子供に一生懸命指導するあまり、逆に子供を傷つけている可能性を考えておく必要があります。傷ついた子供に気づかないからです。

 原因の除去は大変に難しいです。学校内で子供が恐怖体験をする条件を取り除かなければならないからです。ある子供には恐怖でも、別のある子供には恐怖でないか、時には喜び刺激になっている場合があります。また、いくつかの恐怖体験から恐怖の条件刺激を学ぶ場合には、ひとつの問題を解決したからといって、すべてが解決するわけではありません。また、現在のようにいろいろな感性のばらつきがある子供たちの間で、集団生活をする場合、程度の差はあっても子供は恐怖体験を経験すると考えたほうがよいです。

 程度の差はあっても、子供が学校で必ず恐怖体験をするなら、親も子供は学校で必ず傷ついていると考えたほうが、子供を育てるのには好ましいと思います。親はその子供の心の傷を癒す役割と考えたほうがよいようです。あくまでも原則であり、元気でどんどん伸びていく子供にはこのことを考えなくてもよいわけですが、そのような子供でも、状況が変わるといつの間にか心に傷を帯びている場合をしばしば経験します。

 そのような意味で現在のいわゆるよい指導者は、成功例も持っているでしょうが、その影に隠されて、傷ついて苦しんでいる子供がいることにも注意してください。

子どもはどこまでテストをするのか 2005.4.23

 登校拒否、不登校、引きこもりで辛い状態の子どもについて、たとえば茶髪にするとか、ピアスをつけるとか、たばこを吸うとかの、子どもが親の嫌がる行動をする(以下で言う、親をテストする)ことについてです。この場合、子どもが自己主張をしていると考えて良いです。この問題行動を起こすと言うことで自己主張する場合の自己主張は、子供が自分を守るための自己主張です。情動の回避系の反応です。子供に嫌悪刺激が加わらなければ、回避系の反応であるこの問題行動を起こすという自己主張をしません。言葉を換えれば、登校拒否、不登校、引きこもりの子供(一般論でないことに注意してください)が嫌な思いをしなければ子供はこのような自己主張をしないという意味です。子供を安全な場所に隔離してあげれば、子供は親の嫌がる自己主張をしないという意味です。

 その子どもの親を苦しめるような自己主張に対して、親が反応としてなにもしなければ、親が反応してくるまで、子どもの親の嫌がる行動はエスカレート(親ではどうにもならなくなってしまうころまで)してくる可能性があると、心配している親を見かけます。ところが上記のように、子供は安全な場所にいる限り親をテストしません。子供が親をテストする限り、子供はそのとき辛い状態にいる、安全な場所にいないことを意味しています。子供のテストがエスカレートするとは、親の出した答えが間違っているという意味です。親が子供にストレス刺激を与えているという意味です。親が答えを変える必要があります。この際に、子供がおかしいと親が考えたなら、それは子どもの否定になり、子どもの問題の解決が大変に難しくなります。

 子供がテストする限り、子供は辛いのですから、子どものテストの正解は、子供に加わっている辛い刺激を取り除いてあげるのが正解なのです。けれど多くの場合、子供が辛くなっているストレス刺激が何か、親には分かりません(子どもも分かっていません)。分かったと親が判断しても、間違って判断していることが多いのです。ですから、子供に加わっているストレス刺激を取り除こうとする対応は多くの場合失敗します。間違った答えを子どもに与えた結果、子供のテストがエスカレートする原因になります。

 子どもを苦しめているストレス刺激が何か分からない子どもにとって、テストの答えとして求めていることは親からの信頼です。親にとって子供の辛くなる原因が分からないなら、その原因を取り除かなくても良いから、「子供が辛いこと」を認めて欲しいことです。決して子どもが行った行動や、言った言葉に沿って答えを出してくれと言っているのではないことに注意してください。子どもの行った行動、子どもの言った言葉に惑わされないで、子どもに「信頼しているよ」というMSGを親からもらいたいのです。子供にって親、特に母親からの信頼感は最高の接近系です。子供に加わっているストレス刺激は回避系ですから、その逆向きです。その嫌悪刺激を中和してくれます。嫌悪刺激の作用を弱めてくれるから、子供はテストを止めることになります。それはテストに合格したことになります。

 子どもが親を苦しめるような行動(自己主張)をして親をテストしてるとき、親は具体的にどうしたらよいかの問題を考えてみます。前上述のように、親は子供が辛いことを認めれば良いわけですから、それをどのように親が表現するかの問題になります。ある時には子どものテストに親が反応した方がよい場合もあります。ある時には反応しない方が良い場合もあります。子供の自己主張の内容や状況などによっても異なります。一概に言えませんが、親が迷ってしまうときには、反応を起こさない方が経験的に無難なようです。

 たとえば、登校拒否、不登校、引きこもりの子供(一般論でない)が茶髪にしたとします。これらの辛い状態の子供には余裕がありませんから、興味本位から問題行動を起こすというようなことはできません。ストレス刺激が加わっているから、そのストレス刺激の回避行動として、その子供なりの記憶から茶髪にしたのです。その茶髪が親にとって問題行動でなければ、親は子供の茶髪を気にとめません。子どもにとって親へのテストになりません。子供はそのうちに茶髪のことは忘れてしなくなり、他の問題行動をするようになります。親が子供の茶髪を問題だと感じたときには子供は茶髪を続けます。茶髪を続ける労力に見合う親を苦しめるという強い刺激がなければ、子供にとって目の前の自分の辛さを変化させる、和らげ他の辛さに転化する、作用がないからです。

 子供は自分の辛さを和らげるために、親に親の辛くなるようなものを親にぶつけるのです。それは、哺乳類が嫌悪刺激に遭遇すると、まず逃げ出し、逃げられないときには攻撃するという、情動反応があります。その逃げられないときには攻撃するというのに相当していると思います。ただし、攻撃する対象が、ストレス刺激発生源とは違うものになっています。そのストレス発生源とは違う物を攻撃対象にするという点も、ほ乳類には見られています。

子どもの持つ死の概念 2005.6.21

 大人の立場から言うなら、子どもが死の概念を身につけてくれて、人間の死に繋がるようなことをしないで欲しいものです。子どもの立場から言うなら、大人と同じような死の概念を大人と同じように理解するには、やはり大人にならなければ無理だと思います。勿論子どもはその子どもなりの死の概念を持っています。その概念は大人から見たら笑ってしまうものから、大人とほぼ同じものを持っている場合もあります。

 子どもは知識としては、教えれば死の概念を持つことができますが、それが行動に反映され出すには大人にならなければなりません。子どもが死とはこのような物だと言葉で大人の希望するようなことを言ったとしても、その言葉通りに死に対して対応できるかというと、それは特別な場合を除いてできないです。つまり、子どもの試験と同じで、ペーパーテストでは正解をかけても、子どもはその内容に沿って行動できないというのと、同じようなことです。子どもは死を知らなくても、生きていけるし、成長もできるからです。

 なぜ大人が、子どもに死を知って欲しいかと言うことを考えてみてください。大人にとって子どもが死を知っているかどうか、それは問題ではないはずです。それよりも大人の嫌なことを子どもがすることを防ぐために、子どもに死を知って欲しい、命の大切さを知って欲しい、その結果、命に関するような大人の嫌なことを子どもにやって欲しくないという意味でしょう。子どもが命に関する大人の嫌なことをしなければ、大人は子どもに死を知って欲しい、命の大切さを知って欲しいとは、思わないと思います。思う必要がないからです。それどころか軍隊のように、相手の死や命を考えていたら成り立たない生き方も大人にはあるのです。これに軍隊の話に対しては異論を言われる方が多いと思います。

 私は子どもに死を知識として教える必要がないと思っています。子どもが子どもなりの経験で死を知るのでよいと思います。敢えて教えるとしたら、実際に動物を飼うことで知れる範囲で十分だと思います。私に言わせれば、子どもに死を教えるよりも、大人が子どもの心を子どもの立場で知ることの方が遙かに大切だと思います。大人は子どもの心を忘れています。それでいて大人は子どもの心を知っているつもりです。大人は子どもの心を知らないのに、知っているつもりで子どもに関わり、子どもの心を傷つけています。その心を傷つけられて辛くて生きるか死ぬかの間際にある子どもが、命に関する大人の嫌がることを無意識にやってしまっています。

自我がどのようにして成立するか 2005.8.12

 自我がどのようにして成立するかを、脳科学的に考えてみます。それは脳の成熟と密接な関係があります。

 子どもは親の鏡だと言うでしょう。正しいとは言いませんが、これはある意味では正しい部分もあります。つまり子どもが自我を出しだしたときには、すでに子どもは親(この部分が鏡に相当)や子どもの周囲の人の影響を受けて自分の基本を作り上げたと言うことを意味しているからです。

 脳の解剖学的な事実を見る限り、子どもは生まれてくるときには、一部の感覚器に相当する領域と一部の運動に相当する領域とを完成してきています。それ以外はまだ脳ができあがってきていないから、ほとんどの部分の脳は生まれ落ちてから完成させていきます。完成させながら情報を記憶していくのですから、例えれば吸い取り紙に水を吸い込ませるように記憶していくのだと思います。ただし、それは知識の領域でなく、感情や反応の領域のようです。知識の領域での記憶は4,5歳にならないとできてこないようです。

 子どもは生まれ落ちて、感情や反応の領域が完成させていくと同時に、その子どもに関わる人の感情や反応を受け入れて、自分の感情や反応の基本を完成していきます。その間はまねであり、親やその子どもに関わる人はおもちゃのような子どもを感じているでしょう。けれど子どもの感情や反応の仕方が完成したときには、子どもはその完成した感情や反応の仕方で反応をするようになり、まねの行為がその分少なくなります。

 胎教という言葉があります。妊娠10ヶ月に近くなると聴覚の領域は完成してきて、音に反応するようになります。その反応の仕方は本能的な物(生得的=動物の反応の仕方と同じはず)です。それは大脳辺縁系で評価されて、中心灰白質で反応の情報を作って、錐体外路を通して体中の筋肉に伝えられて、また自律神経を介して内臓のすべてに送られるはずです(情動反応=感情の表現)。

 具体的な記憶はできないでしょうが、使われた神経回路は強化されていくはずです。その結果聞き慣れた音の種類について、より反応しやすくなると考えられます。どのような音が胎児に届いているのかの研究があったと思いますが、手持ちにはありません。聴覚による学習は出生後、大脳新皮質連合野の発達で、具体的な音の記憶をするようになります。このごろの音の経験の方が遙かに大切だと思います。胎児や乳幼児は、刺激に関してほとんどすべて受け身であり、受けた刺激の種類や量、そしてその刺激を処理する脳神経細胞の量などから、胎児の時受けた刺激の影響より、出生後の方が遙かに大きな機能が脳内で働いているからです。

 視覚野が成熟して目が見えるようになると、光に対してはいろいろな生得的な反応があります。それらは光からの情報を取り込もうとする動物としての本能(生得的な機能)です。そしてその生得的な機能から得られた情報は、完成しつつある連合野に記憶されていきます。基本的な、これから成長するに必要な情報が、蓄えられていきます。その蓄えられた情報を元に、反応することができるようになった能力(多くは生得的な機能)を利用して、反応をはじめるようになります。特に、感情に関する記憶がどんどん蓄えられていって、2,3歳ぐらいまでに、感情に関する基本的な反応の仕方が成立してしまいます。
子どもが自我を出して、親から見たら反抗期に見える時期は、感情に関する能力が確立した時期です。大人と同じ感情の仕組みを持っていることになります。感情に関する能力という意味では大人と対等です。基本的にはもう変えることができないほど、完成しています。その結果時には大人顔負けの感情の反応の仕方、表現をする場合もあります。また、一方では大人より遙かに小さい子どもですから、大人は子どもの感情の反応の仕方も未熟と考えて、無視してしまうことも多いです。その際には、すでにその子どもの自我を否定したことになり、子どもに葛藤状態を生じてしまいます。

 子どもの感情の能力、情動を変える方法は、条件反射をつかいますが、現実の生活の中で子どもが条件反射を利用して子どもの感情の反応の仕方を積極的に変える対応を受けることはありません。ところが実生活の中では、子どもは大人からきわめて大きな恐怖を受ける場合があります。大きな恐怖でなくても、恐怖を繰り返し受けることがあります。その際には、子どもは恐怖を生じる条件刺激を学習してしまいます。それは子どもの性格の変化、子どもの心がゆがんだと、周囲の大人が感じられるようになります。

 親から見て反抗期を感じる時期を過ぎると、感情に関する能力は、恐怖の条件反射を学習して、子どもの心がゆがんだと感じるような感情の変化しか、現実にはありません。感情の反応の仕方と平行して、子どもは機械的な反応の仕方を学習していきます。これは感情に裏付けされますが、感情とは独立した反応です。繰り返すことで、その反応の仕方は強化されていきます。たとえば手の使い方、歩き方など、いわゆる癖として親が感じる部分の多くがこれに属すると思います。

 幼児期になると、子どもの感情に関する能力は大人と同じように確立しています。基本的な感情の反応の仕方(大脳辺縁系の機能)は決まっていますが、感情に関する情報処理の脳(大脳新皮質連合野)の発達により、より細かく条件分けされて、より細かい条件下での反応の形になります。

 その発達と機能強化(記憶といえる)は繰り返しの経験であり、その繰り返す動機はまねであり、まねの繰り返しです。芸術的な能力はこの時期に基本的な物ができあがっていきます。言葉や表情、雰囲気に関する反応は、このような形の反応で始まっています。刺激に対して、感情の表現としての操作記憶が、強化されていきます。類人猿の脳の機能に相当します。

 子どもにより若干異なりますが、遅くとも5,6歳になり、陳述記憶が可能になってくると、言葉や文字と陳述記憶や操作記憶との関連ができあがっていきます。概念が成立してきます。概念を表現する言葉ができあがってきます。言葉による情報交換が可能になり、完成していきます。表象からできあがった単純な言葉や文字から、単純な概念を持ったり、概念を利用して、単純な陳述記憶や操作記憶を呼び起こして、行動するようになります。しかし全体としては感情的な反応が多くを占めています。

 小学生段階になると、依然として感情的な反応が多いですが、陳述記憶の発達により、また前頭葉のワーキングエリアの発達により、表象からできあがった単純な言葉や文字から、だんだん複雑な言葉や文字になっていき、単純な概念を組み合わせた複雑な概念が持てるようになっていきます。複雑な概念を利用して、複雑な行動をするようになります。けれどそれはあくまでも過去の経験を思い出して、複雑な行動をするだけであり、決して概念同士を組み合わせて、その概念に沿って(思考をするという意味)、自分で行動の情報を作り上げて、その作り上げた情報から行動するのではありません。

以上をまとめてみます。
子供の自我に関して、感情としてとらえられる部分は、基本的に、母親を通して、日本文化を受け入れて、2,3歳で急激に完成している。
その後の(親を通しての)感情経験から、学習から、その表現はとぎすまされたり、修正されていく。感情としてとらえられる部分の自我が完成すると、子供はその完成した自分の自我で行動しようとする。それが親や周囲の大人の反応の仕方と違うときには、親や周囲の大人は子供が自我を発揮していると感じる。
他方、感情が壊されたとしてとらえられる部分は、恐怖の条件反射の学習として、生じてくる。
子供の自我に関して、知的としてとらえられる部分は、感情としてとらえられる部分の後から、できあがってくる。
幼い子供が、その子供の経験から、学習から、最初に作り上げる概念は操作記憶である。
陳述記憶が可能になる小学生ぐらいになると、子供の経験から、学習から、作り上げる概念は陳述記憶の物の割合が増えてくる。
小学生の後半ぐらいから、複数の概念を組み合わせて新しい概念を作ることが可能になってくる(=思考が可能になってくる)。
子供は操作記憶の概念から行動することは可能であるが、概念を組み合わせた新しい概念(思考)から行動することは大変に難しい。

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