フリースペース「したいなぁ~松戸」&松戸-登校拒否を考える会「ひまわり会」
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心療内科 赤沼医師のコラム

子供の立場からの教育 2005.1.5

 大人の立場からの子供への教育とは、学校や家庭での勉強のように、子供に必要な知識を与えて、又は反応の仕方を指導して、それを子供の身につけさすことでしょう。それを脳科学的に表現するなら、大人が意味があると考える陳述記憶や操作記憶(情動記憶は除く)を子供に与えて、学習させる(経験させる。その結果として、大人が希望するように反応する神経回路ができる)ことでしょう。

 けれど子供の立場からいうなら、大人から与えられて、身に付けさせられた知識や反応の仕方は、子供がする学習の一部に過ぎません。つまり、子どもは生まれ落ちたときから、その子どもとその環境との間に絶えず学習を続けて成長してきています。それは、大人が与えた勉強という形ではないので、大人が与えた訓練という形ではないので、大人からは教育とは認められていません。けれど子どもにとっては教育と全く同じ学習です。子どもにとっては、瞬間瞬間の経験がその子どもにとっての学習です。それは「大人が既に学習した結果から環境に反応するだけで、新たな学習にはなっていない」のに反して、子どもの場合は「絶えず自分の反応結果から、新たな知識や反応法を身につける」という、新たな学習を絶えず繰り返しています。

 その学習の仕方も、子どもに与えられた環境に順応する形で学習を続けて成長します。子どもの環境に順応しようとする本能から(接近系)の学習ですから、学習速度が速く、しっかりと記憶されています。それに対して、教育という形で大人から与えられた物は、子どもの本能からの学習でないばかりでなく、子どもにとっては興味を持てない物(回避系)のことが多いから、学習速度が遅くなり、なかなか子供の身に付きません。その結果、大人は子どもの目に見える学習結果を得るために、物質的なご褒美(より強い接近系)を与えるか、又は手っ取り早く恐怖(より強い回避系)を与えるという形で学習させようとします。

 子どもはその環境から絶えず学習しています。その学習内容は大人の求める物と異なっている場合が多いですが、その子どもなりに、社会に順応するように学習を続けています。その子どもなりの学習している経過の中で、子供の心が安定しているなら、大人から受ける学習、つまり教育も子供たちは受け容れることになります(受け容れる子ども側の条件が整うという意味で、必ずしもすぐに受け容れるという意味ではない)。

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子どもの登校する心 2005.1.22

子どもが学校に行くかどうかという行動を、子どもと学校との力関係から、分析してみたいと思います。それは子どもがどのような心の状態で、学校と関わっているのかを、示しています。力と書いたのは、物理的な力ではなくて、動機と理解してください。子どもたちは以下に示します、これら四つの力関係の中で、学校と関わっています。


1.子どもが学校を求めるための内的な欲求(学校に行きたい、友達と遊びたい)として、子どもの「エネルギー」があります。これが子どもが学校と関わる最も自然な姿です。

2.子どもが学校に行くための「押す力」として、子どもの周囲(子ども自身の学校には行かなくてはならないという知識、親、兄弟、近所、教師)からの圧力があります。これは子どもが学校に行きづらくなったときに作用し出します。

3.学校が子どもを引きつける吸引力(心の傷を癒す作用)として、または排斥力(心の傷を深める作用)として、学校側の「受け入れ態勢」があります。これは子どもが学校に行ってみて、子ども自身が直に感じる力です。それは学校側のもくろみと子どもの感覚と異なっている場合を、私はしばしば経験しています。

4.学校の中に子どもの嫌がるものがある、または、学校で子どもの心が傷ついしまったという事実からの、学校を回避するための「回避力」として、学校そのものから受ける嫌悪刺激があります。これは家庭で時間をかけて解消することができます。


普通の元気な子どもは、「エネルギー」がとても大きくて、「押す力」がなくても、少々「受け入れ態勢」が悪くても、少しぐらい「回避力」があっても、学校に行ってしまいます。学校生活を楽しむことができます。

学校で子どもの心が傷つくと、だんだん「回避力」が大くなっていきます。子どもは苦しみながら学校に行き続けます。それでも学校側の「受け入れ態勢」が良くて、学校が子どもに吸引力になっていれば、子どもの苦しみはその分、少なくなります。苦しみながらも学校に行ってしまいます。学校側の「受け入れ態勢」が悪くて、子どもへの排斥力となっている場合には、子どもの苦しみはその分大きくなります。子どもの心の傷をより広げ、「回避力」を強くしていきます。この「回避力」は主として家庭で癒すことができますが、学校で子どもが傷つく時間に比べて、遙かに長い時間を要します。

学校で子どもの心がもっと傷つくと、「回避力」が「エネルギー」を上回って、子どもは学校へ行きづらくなります。すると、「押す力」が作用しだして、子どもは学校には行けない状態で、とても辛い状態で、学校に行き続けます。登校拒否の状態になります。当然、「押す力」が弱ければ子どもは心の傷が浅い状態で、早く不登校の状態になります。それは早く不登校状態を脱出(元気で社会へ出ていける、時には学校に戻れる)できることを意味しています。

学校での子どもの心の傷が深まると、「回避力」が「エネルギー」や「押す力」、「受け入れ態勢」の力を上回ったときには、子どもは不登校状態になります。どのようにしても子どもは学校に行けなくなっています。ただし、「回避力」は時間の経過や、家庭での対応で、弱まる傾向にあります。


不登校状態の子どもが学校に戻ろうとするときも、これらの力関係で子どもが学校に戻れるか戻れないか、決まります。

不登校状態の経過の中で、子どもの中のエネルギーが蓄積されてくると、経過の中に弱まってきた「回避力」より「エネルギー」と「押す力」とが上回ってきます。すると、子どもは学校に戻る場合があります。そして学校に戻ったとき、「受け入れ態勢」が吸引力となれば、その吸引力の程度によって、子どもは苦しみながら学校に行き続けます。その後の上記の4っつの力関係によって、学校を卒業することも可能ですし、そのまま社会へ出ていけるようにもなります。

「受け入れ態勢」が排斥力として働くなら、子どもはまた不登校状態に戻り辛い状態になるか、学校を利用しないで蓄積されたエネルギーを発散しようとします。不登校状態に戻ったとき、「エネルギー」が大きいと学校を利用しないでエネルギーを発散しようとする傾向が大きいし、「押す力」が大きいと、子どもは辛い状態に戻る傾向にあります。

ただし、子どもの「エネルギー」が高まったとしても「押す力」が弱かったら、子どもは必ずしも学校に戻るとは限りません。学校に戻らないで、その子どもなりに直に社会へ出ていってしまう場合も多いです。「押す力」が子どもを学校に戻す重要な要因の一つですが、「押す力」によって子どもを学校に戻した場合、そして「受け入れ態勢」が子どもに排斥力として働いたなら、子どもは「受け入れ態勢」からの排斥力を長く、強く受けて、せっかく高めた「エネルギー」を使い果たしてしまいます。子どもは大変に辛い状態に戻って引きこもってしまいます。

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なぜ子どもは働くか 2005.02.01

 人間が働く理由は、生きていくためです。生きていくための物質を手に入れる(経済的な自立)ために働きます。生活に余裕ができて、生きていくための物質を手に入れる必要がなくても、自分の欲望を満足させるために働きます。ただし、どこまでが生きていくためのものか、どこまでが欲望を満足させるためなのか、その区別は大変に難しいです。大人が働く場合には、それでよいと思います。

 現代社会の働くという概念を考えるときには、働く人の要素(身体と心)と働く場所のと関係を考えなければなりません。
1.ある人が働く能力があって、働こうとするときには、その人が働ける場所がある
2.ある人が働く能力があって、働こうとしても、その人が働く場所がない
3.ある人が働く能力があって、働く意欲もあるが、働くこと以外のことにより高い価値を見つけた場合。ただし、この場合には、他人によって経済的に支えられる必要がある。
4.ある人が働く能力はあるが、働こうとする意欲がない(自立心が何かで障害されている。必ずしも育っていないわけではない)場合。
5.ある人の身体的に(未成熟を含めて)働けない、働いてはいけない場合。ただし働く環境を身体的な問題にあわせれば働ける場合がある。

 子どもは親に守られて、成長し、社会性を得て、独立して社会に出ていきます。大人として自立するには、どうしても働かなくてはなりませんし、自立心のある大人になれば働くことに納得がいきます。けれど、大人でも自立心のない大人がいます。そのような大人は、何かの理由で(多くは心に傷を持っていて、それが疼くために)自立心が発揮できないでいます。ただし、大人で自立心がなくても、運良く経済的に働かなくても良い大人もいますし、自立心があって働きたくても、働く場所がない大人もいます。また、自立心があって働いていた大人が、自立心を失い、働かなくなる場合もあります。当然その結果は悲劇になります。

 子どもと大人との境界線上の子どもに関しては難しい問題があります。多くの子どもは自立心を意識しなくても、年齢とともに自立心が成長し、確立してきて、学校を終えた段階(すでに肉体的には成長している)で就職し、労働環境などの子どもの周囲の環境に順応して、心的にも経済的にも自立していきます。又、多くの親も子供にそれを望んでいます。

 子どもと大人との境界線上の子どもが学校を卒業(仕方なく終えることも含めて)しても、就職しない子ども、就職してもすぐにやめてしまいそれ以後就職しない子どもの数が増えて社会問題になっています。それは親や大人たちが、学校を終えた子どもは就職すべきだという常識から生じる問題点です。大人たちはいろいろな理由を付けて、これらの働かない子どもたちを問題視しています。子どもの立場から問題視することは良いのですが、多くの場合、大人の立場から問題視して、子どもに原因を求めてしまっていますから、子どもたちはより苦しくなってしまいます。子どもたちには責任がない場合が多いからです。

 では、なぜ子どもたちが学校を終えても仕事に就かないかを考えてみます。

 その第一は、子どもたちの心に傷があり、働く環境が子どもたちの心の傷を疼かせるからです。それは外見上、自立心がない、働く気がない、働いてもすぐにやめてしまう、と大人たちに理解される形で現れています。大人たちが、子どもの心が育っていないと感じる場合です。子どもたちの表現では、働かなければならないと意識するのですが、働く意欲が出ない、働くことを含めて社会と関わることを考えると辛くなるという事実から働きません。また、働く場合にも無理して働くということになり、長続きしないという現実があります。

 子どもたちの中には、経済的な自立(お金を得る)という理由よりも、自分の存在価値を大切にして、学校を終えてもその子どもらしさを求めるために、就職しない子どもがいます。その子どもなりの生き甲斐のある仕事を探している子どもたちです。それは間違った生き方ではなくて、学校を終えても、その子どもなりの生き方の勉強をしていると考えられます。つまり学生と同じ意味合いです。それは子どもたちが真剣に自分の生き方を考えだしたこと、その子どもを支える親にそれだけの余裕があることが、背景にあります。

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戦場からの負傷兵 2005.2.18

 日本はこの60年間、直接戦争に加わっていません。その意味では平和な国です。けれど子ども達の間では、学校内で、激しい競争があります。学校や多くの大人は、子ども達の成長のため、子どもの将来のためとして、子ども達のために学校を作り、子ども達のために先生方も働いています。けれど多くの学校では、学校内で行われていることは競争です。学校内で行われていることが全て競争ではないですが、競争の部分が必ずあります。その競争の部分では子どもたちは勝ち残るために競争相手を傷つける子どもがいます。その結果心が傷ついてしまう子ども達がいます。

 学校側も、学校自体が勝ち残るために、学校としての成果を出すために、そして先生自体が勝ち残るために、学校側や先生達の都合で子ども達に働きかけます。その働きかけが、子どもたち個々のあり方を無視した形で行われるために、心が傷つく子どもたちがいます。大人や先生たちにとっては、子ども達の将来のために良いように、現在の子どもたちに喜びを与えられるように、と思っているでしょうが、それでもかなりの割合の子どもたちにとっては、学校は戦場になっている部分があります。

 学校という戦場で心が傷ついた子ども達はそれぞれの家庭に帰還します。けれど親達や先生達には、子ども達の心についた傷は見えません。その結果、心が傷ついた子ども達を学校へ送り出そうと、学校へ来させようとします。それは心が傷ついた子ども達には大変に酷なことです。傷ついた心で、どうしてもう一度、学校という戦場で戦うことができるのでしょうか?子ども達は自分たちの心の傷が癒えるまで、家庭でゆっくりと時間を過ごさせてくれと、叫び続けています。親たちや先生達はその子ども達の叫びを無視し続けて、戦場である学校へ行かない子ども達を異常だと判断しています。

 もちろん学校の中に子ども達にとっての戦場がなければ話は別です。けれど実際には、子ども達のとっての戦場の部分が学校の中にあるのです。それでいて、親たちや先生達は、学校の中に子ども達にとっての戦場はないと思っていますから、学校で心が傷ついた子ども達と親達や先生達との間では、感じ方のずれを生じています。子ども達の感じ方が正しいのに、親たちや先生達は自分たちが正しいとして、力の弱い子ども達が、無理矢理に戦場である学校に行かされて、ますます心の傷を深くするという現実があります。

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不登校の子ども達の声が届いていない 2005.2.27

 現在不登校や引きこもりの問題が社会問題になっています。不登校の子どもの数を減らすこと、引きこもりの子どもの数を減らすことが、地方の自治体の課題の一つになっています。その課題を達成するために、地方の自治体では何々相談員という名前で、また、何々支援員と言う名前で、不登校や引きこもりに対応する人、不登校や引きこもりの子ども達に関わろうとする人を用意している自治体があります。これから用意をしようとする自治体があります。学校に相談室を作って、子ども達の相談や家庭訪問をさせていますし、させる予定のようです。これらの自治体の対応では「学校復帰を優先するのではなく、子どもに寄り添った支援をする」といううたい文句のようです。

 そのような仕組みを作ることは行政側の論理からの対応でしょう。不登校で辛い状態の子ども達は、相談員などの他人に助けを求めているのではありません。自分の親に対して不登校を認めてくれと訴えています。それを言葉で表現している子どももいますが、多くの子どもは言葉では「学校に行きたい」と言いながら、行動で「親に対して不登校を認めてくれ」と訴え続けています。この相矛盾する子どもの訴えでは、行動で親に不登校を認めてくれという子どもの訴えが、子どもの本心からの訴えです。ですから、「子どもに寄り添った支援」とは、子どもの不登校を認める、子どもを静かに引きこもらせてあげるという意味になります。子どもの心に寄り添った対応をする相談員とは、親に不登校や引きこもりを認めさせるような対応をとる人たちでなければなりません。

 相談員などの役割には、「家庭訪問などもして、不登校の未然防止を図る」とあります。不登校を未然に防ぐには、不登校とはどうして生じるか、その仕組みを理解する必要があります。不登校とは学校に問題があって子どもが学校に行きづらくなった状態です。子どもに問題があるのではありません。学校内の子ども達が不登校になるような問題を解決するのなら不登校を未然に防ぐ意味があります。すでに学校に行きづらくなった子どもは学校内の問題が解決しない限り学校には行きづらいままです。自治体の対応が、その行きづらい学校へ子ども達を行かそうとする対応なら、子どもはますます学校を拒否して、相談員などを拒否して、そして親を拒否して、とても辛い状態になります。

 不登校の子どもは親に不登校を認めてくれと行動で訴えています。他の人には関わって欲しくないと訴えています。相談員などと関わるのは嫌だと、不登校の子ども達はいっています。それを言葉で言う場合もありますが、多くは行動や症状で表現しています。相談員などが来ると拒否したり、逃げ出したり、不登校の子ども達は行動で表現しています。すなわち、不登校の子どもに寄り添う関わり方とは、学校関係者や相談員など、不登校の子どもに関わろうとする人たちが、子どもに関わらないことなのです。不登校の子どもに関わらないで、その親に子供の不登校を認めさせるような対応をとることです。

 確かに中学1年時に不登校が急増する傾向にあることは事実です。それは中学校の学校自体に問題があるからです。教師の生徒への対応法や、学級運営、学校運営に問題があるからです。子ども達が中学生活に慣れていないというような問題ではありません。中学校で子ども達の心が傷ついてしまうから、子ども達が不登校になっています。ただし、中学校に入学する時点で、すでに子ども達の心がストレスに敏感になっていて、中学校に入って心が傷つきやすくなっているという事実もあるでしょう。例えそうだとしても、中学校の教師により子どもの心が傷つけられて良いという理由には成りません。子どもがそれほど傷つき易い状態であるなら、教師もそれなりの心構えをして子ども達への対応をすべきです。

 現在教師の方は勉学を教えるだけでは勤まらない時代になっています。教師の子ども達の心を理解する能力も必要になっています。教師の子ども達の心を理解する能力をつけないなら、心が傷つく子ども達は無くならないでしょう。それは不登校の問題は解決しないことを意味しています。昔からの熱血先生で良い生徒もいます。けれど不登校の子どもの問題を考えるなら、生徒の心のわかる先生と言う意味で、先生の質を変えない限り、そして、子どもの心が学校で傷ついて不登校になっているという事実を理解しない限り、自治体や学校側が目先の対応を変えても、不登校の問題は解決しません。

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学校の中の戦場 2005.3.8

 学校は子どもにとって楽しいところです。その楽しい学校に競争が持ち込まれています。競争が生じることはやむを得ないことですが、その程度が子どもの耐えうる能力の限界を超えている学校が多くなっています。競争の中で勝てる子どもはよいです。負けた子どもは、その子どもの回復力以上に打ちのめされています。また、競争に勝てた子どもも、その競争の辛さから、弱い立場の子どもを、いじめるという問題行動を起こしています。

 「学校の中の戦場」と表現したのは、学校の中での子ども達の姿を私が戦争に例えただけです。戦争と言っても、決して二つの軍隊がぶつかり合っているような戦争ではなくて、一人一人の人が生き残るために、その人以外の人と、互いに相手を傷つけあっている戦争を描いてみました。それは子ども達が良い成績を取って、親や先生に認められて、条件の良い学校に進学するための競争に似ているからです。

 この子ども達の競争の中で(私の例えた戦争)競争に勝ち続けている子どもは良いのです。その勝ち続けた子ども達も、別の勝ち続けた子ども達と競争を強いられ、その新たな競争に勝った子どもと負けた子どもに分かれます。そして、子ども達の間の競争に負けた子ども達は立ち直られないほどに打ちのめされてしまっているのです。心がずたずたに傷ついています。その事実に気づいて欲しいとお願いしています。

 子どもには能力の限界があります。子どもの心が傷ついたなら、その心の傷が疼かないところで子どもは成長するしか方法がありません。心が傷ついた子ども達に大人と同じことを要求したら、子どもはますます辛くなって、大人を拒否するようになります。大人は自分の頭で考えたことが子どもにもできると考えがちです。子どもならこうあるべきと考えがちです。けれど心が傷つき、疼く子ども達は、自分を維持するのが精一杯なのです。このような子どもの特性を、大人の人に理解して欲しいとお願いしています。


 補足(掲示板より)

 私は自然科学から考えます。人間以外の哺乳類も、集団を作るとそこには、表現はどうであれ、競争が生じています。また、競争が個体と心の発展をさせています。その競争の中で、その個体なりの生き方を見つけて、その個体なりの生き方をしています。

 人間の場合には、多くの事柄について競争が存在していて、その競争では、あるところでは勝ってもあるところでは負けて、全体としてその人らしさとなっていると、私は判断しています。

 動物によっては、その競争の中では、命を懸けた競争もあることも事実です。それが生存競争です。人間の場合、知識があり、人間同士自然淘汰から守りあう傾向があります。それは肉体的な生存競争であり、心に関する競争には、現在のところ気づいている人は少ないです。肉体的な生存を保証していますが、心は平気で相手がずたずたになるまで傷つけている場合があります。

 私は子ども達の間に競争があることを勧めているのではないのです。競争はない方がよいが、どのように工夫しても、全くなくすることはできないという意味で言っています。競争があっても心の傷つく人がないような程度の競争なら、仕方がないという意味です。けれど人によっては競争でひどく傷つく人も出てきます。その場合には可能な限り早くその人を競争の場から引き離して、まず心の傷が癒えるようにするのが先であるという意味で、これらの文章を書いています。

 その意味で、人々が心の傷とは何かを理解して欲しい、心の傷があるかどうかを、しっかりと認識して欲しいと思います。

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不登校の原因 2005.3.6

 あくまでも一般論として、不登校の子どもを持つ親に、注意を喚起しておきたいと思います。

 親は子供の不登校の原因を見つけだして、それを解決して、子どもを学校に戻したいものです。その際に、子どもにあれやこれやと聞き出して、不登校になった原因を探し出そうとします。

 子どもは母親の質問に答えて、いろいろと辛かったことを母親に言います。その子どもの言ったことが、不登校の原因になっているかというと、必ずしもそうではありません。
 子どもの言ったことが、不登校の原因になっている場合もあります。ただし、そのようなケースはきわめて少ないです。
 子どもの言ったことが、不登校の原因の一部になっている場合もあります。この場合は多いです。
 子どもが自分の不登校の原因となっていないことを、原因と考えている場合があります。このような子どものケースも結構多いです。
 子どもが答えられない場合があります。子どもが不登校の原因を意識していない場合です。自分に起きた事柄としては記憶していても、自分の不登校の原因とは意識していない場合です。その結果自分の不登校の原因に気づいていません。このような子どものケースも結構多いです。
 以上は子どもに不登校の原因を聞きただして、子どもが答えた場合です。

 それ以外に、親が子どもの不登校の原因を聞きただしたときに、子どもの心の傷が疼いて子どもの状態が悪化する場合がとても多いです。子どもが大変に辛くなります。

 次に子どもの不登校問題が解決して、子どもが元気に社会と関わりだしたときに、子どもに不登校になった原因を問いただした場合です。
 子どもは辛かったことを言うことができます。けれど注意して欲しいことは、子どもは自分が辛かったことの詳細をほとんど忘れていることです。あれほど親を苦しめるほど反応していたことのほとんどすべてを、子どもは忘れています。

 もっと時間が経過する(完全に大人の心になったときには)と、あれほど苦しんだことを、あれほど苦しめられた学校を、自分の人生に必要だったと、肯定的に考えるようになります(大人になって自分の不登校のことを考えたときには、それは苦しんでいたときの不登校とは全くといって良いほど異なっている)。

 又それでよいのです。子どもは過去に捕らわれなくて、未来に向かってどんどん羽ばたいていけばよいのですから。

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登校拒否の原因 2005.4.2

 このトピックでは、脳科学的に登校拒否、不登校を考えます。脳科学的には、登校拒否は学校または学校に関するものを恐怖の条件刺激とする恐怖の条件反射です。

 学校を恐怖の条件刺激にしているのですから、学校で恐怖体験をしています。その恐怖体験は教師から、ほかの子供から、そして学校内の事件から、などが考えられます。これらの原因のひとつが作用して恐怖の条件刺激を学習している場合もありますが、これらが相乗して恐怖の条件刺激を学習している場合もあります。

 恐怖に対する耐性(心を強くする)も考える必要もありますが、これは大変に難しいです。下手をすると、親としては子供に、恐怖に対する耐性をつけたつもりが、逆に心に傷をつけている場合があります。現在のように、まだ心の傷を知らない大人が多い中で、子供の心に恐怖に対する耐性をつけることは失敗する可能性が高いと考えられます。成功例はほんのわずかだと思います。ただし、成功例は目立ちますから、注目されやすいです。

 一般論として、恐怖に対する耐性をつけるのは自然の成り行きが一番よいと思います。親は絶えず子供の心を癒す役割がよいと思います。ただし、特殊な目的を持って子供を育てる場合には、その親なりの恐怖に対する耐性を、親の責任で子供につけさせてもよいわけですが、子供が傷つきやすいことを絶えず頭に入れておく必要があります。特に教師は子供に一生懸命指導するあまり、逆に子供を傷つけている可能性を考えておく必要があります。傷ついた子供に気づかないからです。

 原因の除去は大変に難しいです。学校内で子供が恐怖体験をする条件を取り除かなければならないからです。ある子供には恐怖でも、別のある子供には恐怖でないか、時には喜び刺激になっている場合があります。また、いくつかの恐怖体験から恐怖の条件刺激を学ぶ場合には、ひとつの問題を解決したからといって、すべてが解決するわけではありません。また、現在のようにいろいろな感性のばらつきがある子供たちの間で、集団生活をする場合、程度の差はあっても子供は恐怖体験を経験すると考えたほうがよいです。

 程度の差はあっても、子供が学校で必ず恐怖体験をするなら、親も子供は学校で必ず傷ついていると考えたほうが、子供を育てるのには好ましいと思います。親はその子供の心の傷を癒す役割と考えたほうがよいようです。あくまでも原則であり、元気でどんどん伸びていく子供にはこのことを考えなくてもよいわけですが、そのような子供でも、状況が変わるといつの間にか心に傷を帯びている場合をしばしば経験します。

 そのような意味で現在のいわゆるよい指導者は、成功例も持っているでしょうが、その影に隠されて、傷ついて苦しんでいる子供がいることにも注意してください。

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良い子を演じる 2005.04.07

教師が児童に強いストレス刺激を与えると、児童は程度の差はありますが、その教師から逃げ出そうとします。逃げ出せないときには、暴れます。暴れられないときには、いろいろな症状を出します。程度の差があることを注意してください。周囲から見ても気づかない場合もあります。

子どもの場合、これらの反応をしないで、所謂良い子を演じる場合があります。なぜ良い子を演じるのか、その点は分かりません。理由はいろいろと考えられますが、脳科学的には不明です。傾向として、良い子であるようにと親から繰り返し対応されている子どもにその傾向が強いです。

良い子を演じる子どもは、良い子を演じなくて良い状況では、反社会的行動をしやすいです。これも子どもを観察した結果の、子どもの傾向です。脳科学的な説明は付きません。

良い子を演じる子どもは先生や親の前ではとても行儀正しいです。模範すぎるぐらいに良い子です。成績も良い場合が多いです。先生のお気に入りの子どもになります。けれど、先生や親のいないところでは反社会的行動、不適応行動をとります。いじめ、ものを壊す、万引きをする、などを行います。

良い子を演じている子どもについて、親や先生から見たら、とてもいじめを起こすとは考えられません。その結果、先生や良い子を演じている子どもの親、大人たちは、いじめられている子どもに問題があると考えてしまいます。

人間、誰でも、自分で見聞きしたことを信じます。自分で経験しないことを信じられません。子どもが良い子を演じてしまうと、周囲の大人はことの本質が分からなくなります。ですから、科学的に考えなければならないのです。

登校拒否、不登校、引きこもり問題に関わる人たちの中には、子育ての経験のない人、不登校の子どもを育てた経験のない人が結構多いです。そのような人は自分の経験の範囲で、自分の知識から、この問題を考えます。ですからそのような人には、登校拒否、不登校、引きこもりの子どもの理解は大変に難しいです。それでいて、登校拒否、不登校、引きこもりを良く知っていると主張しています。

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子どもはどこまでテストをするのか 2005.4.23

 登校拒否、不登校、引きこもりで辛い状態の子どもについて、たとえば茶髪にするとか、ピアスをつけるとか、たばこを吸うとかの、子どもが親の嫌がる行動をする(以下で言う、親をテストする)ことについてです。この場合、子どもが自己主張をしていると考えて良いです。この問題行動を起こすと言うことで自己主張する場合の自己主張は、子供が自分を守るための自己主張です。情動の回避系の反応です。子供に嫌悪刺激が加わらなければ、回避系の反応であるこの問題行動を起こすという自己主張をしません。言葉を換えれば、登校拒否、不登校、引きこもりの子供(一般論でないことに注意してください)が嫌な思いをしなければ子供はこのような自己主張をしないという意味です。子供を安全な場所に隔離してあげれば、子供は親の嫌がる自己主張をしないという意味です。

 その子どもの親を苦しめるような自己主張に対して、親が反応としてなにもしなければ、親が反応してくるまで、子どもの親の嫌がる行動はエスカレート(親ではどうにもならなくなってしまうころまで)してくる可能性があると、心配している親を見かけます。ところが上記のように、子供は安全な場所にいる限り親をテストしません。子供が親をテストする限り、子供はそのとき辛い状態にいる、安全な場所にいないことを意味しています。子供のテストがエスカレートするとは、親の出した答えが間違っているという意味です。親が子供にストレス刺激を与えているという意味です。親が答えを変える必要があります。この際に、子供がおかしいと親が考えたなら、それは子どもの否定になり、子どもの問題の解決が大変に難しくなります。

 子供がテストする限り、子供は辛いのですから、子どものテストの正解は、子供に加わっている辛い刺激を取り除いてあげるのが正解なのです。けれど多くの場合、子供が辛くなっているストレス刺激が何か、親には分かりません(子どもも分かっていません)。分かったと親が判断しても、間違って判断していることが多いのです。ですから、子供に加わっているストレス刺激を取り除こうとする対応は多くの場合失敗します。間違った答えを子どもに与えた結果、子供のテストがエスカレートする原因になります。

 子どもを苦しめているストレス刺激が何か分からない子どもにとって、テストの答えとして求めていることは親からの信頼です。親にとって子供の辛くなる原因が分からないなら、その原因を取り除かなくても良いから、「子供が辛いこと」を認めて欲しいことです。決して子どもが行った行動や、言った言葉に沿って答えを出してくれと言っているのではないことに注意してください。子どもの行った行動、子どもの言った言葉に惑わされないで、子どもに「信頼しているよ」というMSGを親からもらいたいのです。子供にって親、特に母親からの信頼感は最高の接近系です。子供に加わっているストレス刺激は回避系ですから、その逆向きです。その嫌悪刺激を中和してくれます。嫌悪刺激の作用を弱めてくれるから、子供はテストを止めることになります。それはテストに合格したことになります。

 子どもが親を苦しめるような行動(自己主張)をして親をテストしてるとき、親は具体的にどうしたらよいかの問題を考えてみます。前上述のように、親は子供が辛いことを認めれば良いわけですから、それをどのように親が表現するかの問題になります。ある時には子どものテストに親が反応した方がよい場合もあります。ある時には反応しない方が良い場合もあります。子供の自己主張の内容や状況などによっても異なります。一概に言えませんが、親が迷ってしまうときには、反応を起こさない方が経験的に無難なようです。

 たとえば、登校拒否、不登校、引きこもりの子供(一般論でない)が茶髪にしたとします。これらの辛い状態の子供には余裕がありませんから、興味本位から問題行動を起こすというようなことはできません。ストレス刺激が加わっているから、そのストレス刺激の回避行動として、その子供なりの記憶から茶髪にしたのです。その茶髪が親にとって問題行動でなければ、親は子供の茶髪を気にとめません。子どもにとって親へのテストになりません。子供はそのうちに茶髪のことは忘れてしなくなり、他の問題行動をするようになります。親が子供の茶髪を問題だと感じたときには子供は茶髪を続けます。茶髪を続ける労力に見合う親を苦しめるという強い刺激がなければ、子供にとって目の前の自分の辛さを変化させる、和らげ他の辛さに転化する、作用がないからです。

 子供は自分の辛さを和らげるために、親に親の辛くなるようなものを親にぶつけるのです。それは、哺乳類が嫌悪刺激に遭遇すると、まず逃げ出し、逃げられないときには攻撃するという、情動反応があります。その逃げられないときには攻撃するというのに相当していると思います。ただし、攻撃する対象が、ストレス刺激発生源とは違うものになっています。そのストレス発生源とは違う物を攻撃対象にするという点も、ほ乳類には見られています。

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知識か実習か 2005.5.9

 子どもの教育に関して「理屈より体験することが重要だ」と主張する人たちがいます。この言葉を言い直すと「子どもは、理屈を体験にはできないが、体験は理屈にできる」と、なります。勿論例外や、完璧に成立するわけではないですが、子どもに関しては基本的には正しいです。子どもの特徴の一つだと考えられます。そして現在の学校の先生方や教育学者が気づいていないことなのです。

 これは、学校教育においてはとても大切なことです。学校教育とは体育や音楽、図工、家庭科など、実際に体験する時間もあります。けれど、言葉だけで教えられる時間も多いです。国語、算数、理科、社会などの、言葉で教えられた知識は、言葉だけで答えればそれでよいテストなどには役立ちますが、子どもの実生活の中では、子どもの知識はそれだけでは役立ちません。大人になって知識から動けるようになってはじめて、学校で習った知識が実生活の中で役立つようになります。

 校長先生の訓辞、先生のお説教、道徳の時間、命の尊さを教える、これらはすべて知識であり、例え子ども達がその知識を身につけたとしても、質問されればその知識に沿って答えられますが、実生活でその知識を利用することができないのです。それが子どもとしての自然な姿なのです。

 子ども達は教えられたことを実生活で利用できなければ、その知識を用いなければならなくなった状況下で、子ども達はその知識を用いた行動ができません。その結果大人達から、その子どもは非難される、叱られることになります。それは新たにそのような知識を取り込む意欲を奪い去ります。いくら校長先生が良い訓辞をしても、先生がいくら良い説教をしても、道徳の時間にいくら良い道徳を教えても、子ども達は上の空になっていきます。

 「子ども達が子ども達の時期に実際に行って欲しい」と、大人達が思う子ども達の行動の仕方は、子ども達に知識で教えるのではなくて、子ども達にいろいろな形での練習で教える必要があります。子ども達への実習の形で教える必要があります。実習が難しい場合には、ロールプレイングという形や、コンピューターを使ったヴァーチャルな世界のなかでの模擬体験という形でも、練習が可能です。是非、このMSGを見られた人は、このことを覚えておいて、実行してください。そうすればそれだけで子ども達との信頼関係ができてきます。

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思春期と不登校 2005.5.23

 脳科学的に、登校拒否、不登校は学校で受けた心の傷で、学校や学校に関する物で心の傷が疼くことから生じています。子どもが学校で侵害刺激を受けて辛い思いをしたとき、子どもの周囲にある学校が学校に関する物を恐怖の条件刺激として学習しています。その後、その子どもが学校や学校に関する物に遭遇したとき、子ともは恐怖の条件反射を生じて、とても辛くなります。学校や学校に関する物を回避しようとします。それが登校拒否、不登校です。

 登校拒否、不登校になるためには、学校で心の傷を受けています。その心の傷を受ける受けやすさ、心の傷つき易さに、思春期が影響しているかどうかの証明は大変に難しいです。思春期が不登校に影響する事が絶対にないとは言えないと思います。

 思春期に不登校になっても、それ以前に登校拒否になっている子どもも多いです。つまり、思春期以前にすでに学校で疼く心の傷を持っているのですが、その心の傷のうずきで学校を拒否する要因より、子どもを学校に押し出す要因の方が大きいために、子どもは学校に行き続けていたという意味です。親や先生、大人はこの子どもが無理をして登校している時期に気づきません。

 心の傷が疼きながら学校に行くと、子どもの心は侵害刺激に敏感になっています。他の人では何でもないような侵害刺激で、その子どもの心の傷は深くなっていきます。他の人では何でもないような侵害刺激を繰り返し受けている内に、子どもは心の傷の疼きから全く動けなくなって、不登校になっています。

 その不登校になった時点がたまたま思春期であったという事実だけの可能性が高いでしょう。親や先生、大人が、子どもの思春期の時期に子どもの不登校に気づいたという事実であり、子どもが不登校になる大本の要因はそれよりも前にあることに気づいていないと言う事実だと思います。

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子どもの持つ死の概念 2005.6.21

 大人の立場から言うなら、子どもが死の概念を身につけてくれて、人間の死に繋がるようなことをしないで欲しいものです。子どもの立場から言うなら、大人と同じような死の概念を大人と同じように理解するには、やはり大人にならなければ無理だと思います。勿論子どもはその子どもなりの死の概念を持っています。その概念は大人から見たら笑ってしまうものから、大人とほぼ同じものを持っている場合もあります。

 子どもは知識としては、教えれば死の概念を持つことができますが、それが行動に反映され出すには大人にならなければなりません。子どもが死とはこのような物だと言葉で大人の希望するようなことを言ったとしても、その言葉通りに死に対して対応できるかというと、それは特別な場合を除いてできないです。つまり、子どもの試験と同じで、ペーパーテストでは正解をかけても、子どもはその内容に沿って行動できないというのと、同じようなことです。子どもは死を知らなくても、生きていけるし、成長もできるからです。

 なぜ大人が、子どもに死を知って欲しいかと言うことを考えてみてください。大人にとって子どもが死を知っているかどうか、それは問題ではないはずです。それよりも大人の嫌なことを子どもがすることを防ぐために、子どもに死を知って欲しい、命の大切さを知って欲しい、その結果、命に関するような大人の嫌なことを子どもにやって欲しくないという意味でしょう。子どもが命に関する大人の嫌なことをしなければ、大人は子どもに死を知って欲しい、命の大切さを知って欲しいとは、思わないと思います。思う必要がないからです。それどころか軍隊のように、相手の死や命を考えていたら成り立たない生き方も大人にはあるのです。これに軍隊の話に対しては異論を言われる方が多いと思います。

 私は子どもに死を知識として教える必要がないと思っています。子どもが子どもなりの経験で死を知るのでよいと思います。敢えて教えるとしたら、実際に動物を飼うことで知れる範囲で十分だと思います。私に言わせれば、子どもに死を教えるよりも、大人が子どもの心を子どもの立場で知ることの方が遙かに大切だと思います。大人は子どもの心を忘れています。それでいて大人は子どもの心を知っているつもりです。大人は子どもの心を知らないのに、知っているつもりで子どもに関わり、子どもの心を傷つけています。その心を傷つけられて辛くて生きるか死ぬかの間際にある子どもが、命に関する大人の嫌がることを無意識にやってしまっています。

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自我がどのようにして成立するか 2005.8.12

 自我がどのようにして成立するかを、脳科学的に考えてみます。それは脳の成熟と密接な関係があります。

 子どもは親の鏡だと言うでしょう。正しいとは言いませんが、これはある意味では正しい部分もあります。つまり子どもが自我を出しだしたときには、すでに子どもは親(この部分が鏡に相当)や子どもの周囲の人の影響を受けて自分の基本を作り上げたと言うことを意味しているからです。

 脳の解剖学的な事実を見る限り、子どもは生まれてくるときには、一部の感覚器に相当する領域と一部の運動に相当する領域とを完成してきています。それ以外はまだ脳ができあがってきていないから、ほとんどの部分の脳は生まれ落ちてから完成させていきます。完成させながら情報を記憶していくのですから、例えれば吸い取り紙に水を吸い込ませるように記憶していくのだと思います。ただし、それは知識の領域でなく、感情や反応の領域のようです。知識の領域での記憶は4,5歳にならないとできてこないようです。

 子どもは生まれ落ちて、感情や反応の領域が完成させていくと同時に、その子どもに関わる人の感情や反応を受け入れて、自分の感情や反応の基本を完成していきます。その間はまねであり、親やその子どもに関わる人はおもちゃのような子どもを感じているでしょう。けれど子どもの感情や反応の仕方が完成したときには、子どもはその完成した感情や反応の仕方で反応をするようになり、まねの行為がその分少なくなります。

 胎教という言葉があります。妊娠10ヶ月に近くなると聴覚の領域は完成してきて、音に反応するようになります。その反応の仕方は本能的な物(生得的=動物の反応の仕方と同じはず)です。それは大脳辺縁系で評価されて、中心灰白質で反応の情報を作って、錐体外路を通して体中の筋肉に伝えられて、また自律神経を介して内臓のすべてに送られるはずです(情動反応=感情の表現)。

 具体的な記憶はできないでしょうが、使われた神経回路は強化されていくはずです。その結果聞き慣れた音の種類について、より反応しやすくなると考えられます。どのような音が胎児に届いているのかの研究があったと思いますが、手持ちにはありません。聴覚による学習は出生後、大脳新皮質連合野の発達で、具体的な音の記憶をするようになります。このごろの音の経験の方が遙かに大切だと思います。胎児や乳幼児は、刺激に関してほとんどすべて受け身であり、受けた刺激の種類や量、そしてその刺激を処理する脳神経細胞の量などから、胎児の時受けた刺激の影響より、出生後の方が遙かに大きな機能が脳内で働いているからです。

 視覚野が成熟して目が見えるようになると、光に対してはいろいろな生得的な反応があります。それらは光からの情報を取り込もうとする動物としての本能(生得的な機能)です。そしてその生得的な機能から得られた情報は、完成しつつある連合野に記憶されていきます。基本的な、これから成長するに必要な情報が、蓄えられていきます。その蓄えられた情報を元に、反応することができるようになった能力(多くは生得的な機能)を利用して、反応をはじめるようになります。特に、感情に関する記憶がどんどん蓄えられていって、2,3歳ぐらいまでに、感情に関する基本的な反応の仕方が成立してしまいます。
子どもが自我を出して、親から見たら反抗期に見える時期は、感情に関する能力が確立した時期です。大人と同じ感情の仕組みを持っていることになります。感情に関する能力という意味では大人と対等です。基本的にはもう変えることができないほど、完成しています。その結果時には大人顔負けの感情の反応の仕方、表現をする場合もあります。また、一方では大人より遙かに小さい子どもですから、大人は子どもの感情の反応の仕方も未熟と考えて、無視してしまうことも多いです。その際には、すでにその子どもの自我を否定したことになり、子どもに葛藤状態を生じてしまいます。

 子どもの感情の能力、情動を変える方法は、条件反射をつかいますが、現実の生活の中で子どもが条件反射を利用して子どもの感情の反応の仕方を積極的に変える対応を受けることはありません。ところが実生活の中では、子どもは大人からきわめて大きな恐怖を受ける場合があります。大きな恐怖でなくても、恐怖を繰り返し受けることがあります。その際には、子どもは恐怖を生じる条件刺激を学習してしまいます。それは子どもの性格の変化、子どもの心がゆがんだと、周囲の大人が感じられるようになります。

 親から見て反抗期を感じる時期を過ぎると、感情に関する能力は、恐怖の条件反射を学習して、子どもの心がゆがんだと感じるような感情の変化しか、現実にはありません。感情の反応の仕方と平行して、子どもは機械的な反応の仕方を学習していきます。これは感情に裏付けされますが、感情とは独立した反応です。繰り返すことで、その反応の仕方は強化されていきます。たとえば手の使い方、歩き方など、いわゆる癖として親が感じる部分の多くがこれに属すると思います。

 幼児期になると、子どもの感情に関する能力は大人と同じように確立しています。基本的な感情の反応の仕方(大脳辺縁系の機能)は決まっていますが、感情に関する情報処理の脳(大脳新皮質連合野)の発達により、より細かく条件分けされて、より細かい条件下での反応の形になります。

 その発達と機能強化(記憶といえる)は繰り返しの経験であり、その繰り返す動機はまねであり、まねの繰り返しです。芸術的な能力はこの時期に基本的な物ができあがっていきます。言葉や表情、雰囲気に関する反応は、このような形の反応で始まっています。刺激に対して、感情の表現としての操作記憶が、強化されていきます。類人猿の脳の機能に相当します。

 子どもにより若干異なりますが、遅くとも5,6歳になり、陳述記憶が可能になってくると、言葉や文字と陳述記憶や操作記憶との関連ができあがっていきます。概念が成立してきます。概念を表現する言葉ができあがってきます。言葉による情報交換が可能になり、完成していきます。表象からできあがった単純な言葉や文字から、単純な概念を持ったり、概念を利用して、単純な陳述記憶や操作記憶を呼び起こして、行動するようになります。しかし全体としては感情的な反応が多くを占めています。

 小学生段階になると、依然として感情的な反応が多いですが、陳述記憶の発達により、また前頭葉のワーキングエリアの発達により、表象からできあがった単純な言葉や文字から、だんだん複雑な言葉や文字になっていき、単純な概念を組み合わせた複雑な概念が持てるようになっていきます。複雑な概念を利用して、複雑な行動をするようになります。けれどそれはあくまでも過去の経験を思い出して、複雑な行動をするだけであり、決して概念同士を組み合わせて、その概念に沿って(思考をするという意味)、自分で行動の情報を作り上げて、その作り上げた情報から行動するのではありません。

以上をまとめてみます。
子供の自我に関して、感情としてとらえられる部分は、基本的に、母親を通して、日本文化を受け入れて、2,3歳で急激に完成している。
その後の(親を通しての)感情経験から、学習から、その表現はとぎすまされたり、修正されていく。感情としてとらえられる部分の自我が完成すると、子供はその完成した自分の自我で行動しようとする。それが親や周囲の大人の反応の仕方と違うときには、親や周囲の大人は子供が自我を発揮していると感じる。
他方、感情が壊されたとしてとらえられる部分は、恐怖の条件反射の学習として、生じてくる。
子供の自我に関して、知的としてとらえられる部分は、感情としてとらえられる部分の後から、できあがってくる。
幼い子供が、その子供の経験から、学習から、最初に作り上げる概念は操作記憶である。
陳述記憶が可能になる小学生ぐらいになると、子供の経験から、学習から、作り上げる概念は陳述記憶の物の割合が増えてくる。
小学生の後半ぐらいから、複数の概念を組み合わせて新しい概念を作ることが可能になってくる(=思考が可能になってくる)。
子供は操作記憶の概念から行動することは可能であるが、概念を組み合わせた新しい概念(思考)から行動することは大変に難しい。

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子どもを理解する 2005.8.12

さもわかったような言い方で申し訳ありません。いわゆる不登校、引きこもりで辛い状態にある子どもと親との関係を観察して、そして子どもの心の構造から推定していることです。

 多くの辛い状態にある子どもは、自分を完全に理解してとは言っていないと思います。多くの辛い状態にある子どもが行動や症状で言っていることは、自分を信じて見守っていて欲しいということだと思います。子どもにとって必要なことは言うから、言うことだけを親はしてくれて、それ以外のことは何もしないで待っていて欲しいと言うことだと思います。子どもが要求しない限り、親は子どもの辛さや不安を共有しなくても良い、また、親が揺れてしまうのも仕方ないけれど、できたら揺れないで、ただ信じて待っていてくれればよいということだと思います。

 子どもが辛さや不安を共有してくれと言った場合には、親は子どもの辛さや不安を共有するために、子どもに付き合わなければならないのですが、その際に子どものすべてを理解できるわけではありません。特に子どもの反応や行動の多くを占める潜在意識については、親は子どもから感じ取るしか方法がありません。それは子どもの要求に応えられているかどうかの不安を、そして子どもの辛さや不安に十分に共感できているかどうかの不安を、新たに親に生じさせます。その不安から、親は揺れ動くことになります。それは仕方がないことだと思います。親はその不安から揺れ動く割合を少なくすればよいだけだと思います。親はその不安から揺れ動く割合を少なくするために、親なりの努力をすればよいだけだと思います。そのためにはパートナーの協力も必要でしょう。そのためにカウンセラーも必要な場合もあります。そのために親の会も上手に使う必要があります。

 子どもは一人一人性格も違うし、経験も違います。親も一人一人皆違います。同じ子どもや親の言葉でも、その言葉の意味合いや背景は皆違います。しかし子どもと親との関係の基本は皆同じのようです。そこさえ十分にふまえて子どもと向き合えば、後は可能な限り子どもを理解すればそれでよいのであり、完全に理解しようとすることが無理なのだと思います。
この子どもと親との基本的な関係を理解すること、子どもを理解することは親の能力の範囲でよいことを、現在子どもの問題で苦しんでいる親に伝えるのが経験者の親の役割だと思います。

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恐怖の学習 2005.9.1

 恐怖には生得的な恐怖と、学習した恐怖があります。人間の場合、生得的な恐怖としては、痛みと強すぎる感覚、欲求不満があります。それ以外は全て学習した恐怖と考えられます。これに関しては、議論が多いところですが、ほぼ間違いないでしょう。痛みと強すぎる感覚が恐怖刺激であることは、経験から全ての人が感じているところです。

 痛みと強すぎる感覚とは、大脳新皮質に関係ないようです。多分視床から直に大脳辺縁系扁桃体に情報が送られていると考えられます。その痛みや強すぎる感覚ですら、条件反射で恐怖でなくすることもできます。

 欲求不満自体は生得的な恐怖ですが、具体的な刺激の内容は学習によって異なります。習慣や慣れと言う状態が途絶したときに生じます。ただし、多くの人はこの欲求不満が恐怖であることに気づいていないようです。欲求不満は欲求不満、恐怖とは異なると感じている人が多いです。けれど脳科学的には、人の認識はどうであれ、脳のレベルから言うなら、欲求不満は恐怖と同じ物です。恐怖を起こす原因が痛みや強すぎる感覚でないという事実だけです。

 その他の恐怖は、痛みや強すぎる感覚、欲求不満から、恐怖の条件付けという形で学習しています。たとえば刃物が恐怖になる人は、刃物で痛みやその他の辛い経験をしたから、刃物が恐怖の条件刺激になっています。あの人が恐怖だという場合には、あの人から暴力などの痛みなどの恐怖を受けたことから、あの人が恐怖の条件刺激になっています。

 その他の恐怖の中には、痛みや強すぎる感覚、欲求不満から、恐怖の条件付けという形で学習した恐怖の条件刺激を、改めて経験した際に、新たに恐怖の条件付けという形で学習した物があります。この場合には直に恐怖経験の記憶と関係していないために、なぜ恐怖を感じるのかわからないものです。それどころか恐怖を感じていても、その恐怖に気づかない場合も多いです。自分の性格が変だ、病気だと感じてしまう場合が多いです。

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何のために子どもは勉強をするか? 2005.9.15

 ある会でのある人の意見です。
「子どもが、役に立たないから勉強したくないと言っているのは、自分で自分の首をしめているようなものですよね。このような、甘えたことばかり言って、嫌なことから逃げてるんですからね。主要科目は確かに実生活からは役に立たない一面があるものの、子供の時期にやっておかないと誰も補ってくれなくなってしまうのですからね。」
この意見の中の、役立たないから勉強をしたくないという意味は、子どもから見たら二つあると思います。

 その一つは言葉通りに、「将来の自分のなりたい職業が思い当たらない。勉強が役立つような職業にはなれそうもない。勉強をしても勉強が役立つような職業に就けないなら、勉強しても意味がない」という意味です。

 もう一つはその裏で子どもが意味していることです。それは「その子どもにとって、今している勉強が勉強が楽しければ、勉強に興味を持てるから勉強するけど、勉強をしても楽しくないから、勉強に興味を持てないから、勉強ができないし、勉強をしたくない。勉強ができなければそれ相当の職業に就けない。その結果自分のなれそうな将来の自分の姿を想像できない。希望がない。夢がない。」という意味です。

 子どもに勉強させるというのは、大人の発想です。子どもが大人になって条件の良い会社や官庁に就職できるように願うからです。学校の成績が良くないと、社会で認められた大学に入れません。その後の就職に不利だから、親は子どもに勉強をして欲しい物です。子どもの生活の安泰は、親の老後の安泰を意味していると考えているからです。経済的には子どもに頼らないと考えている親でも、子どもの煩わしい問題には関わりたくないという意味でもあります。

 子どもの立場から言うなら、一部の子どもは、勉強することがおもしろいから、又は親からほめられるなどの、ご褒美が欲しいから、自分から勉強をしています。そうでない多くの子どもは、勉強しないと親や先生から叱られるから、仕方なく勉強をしています。親や学校からの恐怖がなければ、勉強しない子どもが多いです。だからこれらの子どもの勉強はきわめて効率が悪いです。

 子どもが興味を持たない勉強を、子どもにして貰うには、勉強をしたらその子どもにご褒美をあげるか、勉強をしないとその子どもに恐怖を与えるかの方法があります。現在の学校の多くは子ども達に恐怖を与えることで勉強をさせようとしています。勿論先生方はその積もりはないのですが、子ども達はそのように理解しているからです。その結果、先生方にはその積もりはなくても、子ども達の心は傷ついていきます。現在の子ども達の問題を生じています。

 学校の勉強は、子どもがその気になれば短時間に追いつけます。たとえば中学生年齢の子どもがその気になって小学生の勉強をはじめると1~2週間で追いついた子どもを経験しています。高校生年齢の子どもがその気になって中学校の勉強をはじめたなら、2~3ヶ月で追いついた子どもを経験しています。普通の大人でも、大学時代に勉強したこととは全く関係ない職場に就職して、全く新しいことをその人なりにマスターして仕事が可能になっている人は多いです。

それでは何のために、子ども達は勉強するのでしょうか?

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辛い状態の子ども、元気な子ども 2005.10.13

 子どもは生物ですから、本能的に与えられた環境や社会に順応しようとして成長します。何かを求めて動き回り、自分から経験を重ねて行きます。その姿が元気な子どもの姿です。

 人間を含めて全てのほ乳類では、嫌なことがあると逃げ出します。逃げ出せないときには暴れます。暴れられないときにはすくみの状態になります。このすくみの状態が、人間の子どもの場合の元気のなさに相当しています。子どもにとって嫌なことが続くと、子どもは元気を失っていきます。子どもにとって嫌なことがとても強いと、又は嫌なことが長く続くと、子どもははっきりと分かる病気の症状を出して、動けなくなります。

 人間の場合、この嫌なことが何か分からない場合が多いです。子どもには嫌なことだと分かっても、親が嫌なこととは認めない場合が多いです。それは、親から見たら原因もなく、子どもが元気を失っていると判断される場合です。原因が無いと大人が考えても、それはその大人が気づかない嫌な刺激が子どもに加わっているからです。心の傷がある場合にはその反応が強く出るという意味になります。

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暴れる子、おとなしい子 2005.10.19

 子どもには生きる世界があります。それは主として家庭と家庭の外(学校以外)と学校です。家庭の外、学校で子どもにとって嫌なことに遭遇すると、子どもは家庭に逃げ帰ります。家庭内で子どもにとって嫌なことがないと、子どもは家庭内で元気に成長できます。それが元気な引きこもりです。

 家庭内でその子どもにとって嫌なことが存在すると、子どもには逃げ出すところがありません。その結果暴れますし、暴れられないときには所謂すくみのじょうたい、辛い神経症状や精神症状を出します。その意味で、暴れる子どもの方が、辛い神経症状や精神症状を出す子どもよりも、元気になるという意味での回復が早いです。

 子どもその子どもにとって嫌なことに出くわしたとき、暴れるということを経ないで、所謂すくみの状態、神経症状や精神症状を出すようになる場合があります。所謂よい子に見られます。子どもが親に訴えることを放棄した子どもです。

 見方によっては親が上手に子どもを育てた、又は悪いことができない子ども、ということができますが、見方によっては親の思うがままに操縦される子どもという意味になります。親の思いで感じがらめに縛られた子どもといえます。

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強者の論理、弱者の論理 2005.10.25

 登校拒否、不登校、引きこもり、問題行動を起こした子ども達への対応を行っていて気づいたことです。親や大人達は、自分たちの経験や考え方から、子ども達と向かい合っていて子ども達を育てていますが、それでよい子どもと、それでは却って子ども達が辛くなる場合があるのはなぜか、その理由を分析してみました。そして、子ども達の反応の仕方(=いわゆる性格)は二つの傾向を持った子供達に分けられることが分かりました。

 一つの反応の仕方の子ども達は、積極的にその子どもなりに何かをしようとする動機を持っている、又は、積極的に自分の周囲に関わろうとする動機を持っている(エネルギーのある)子ども達です。それを元気な子ども達(強者)と表現しておきます。もう一つの反応の仕方の子ども達は、積極的な行動が少なく、自分の周囲との関わりにも積極性がないばかりか、逆に自分の周囲との関わりを避けようとする子ども達です。それを辛い状態の子ども(弱者)と表現しておきます。

 この二つの反応の仕方の子ども達を厳密に分けることはできません。その両者を併せて持っている場合もあります。ですから、全体にどちらの傾向が強いかと言うことで判断することになります。その両者を会わせて持っている子どものは、弱者として対応した方が良いように感じます。時間的にも強者にから弱者に変化したり、弱者から強者に変化していく場合もあります。

 この二つの反応の仕方の子ども達を厳密に分けることのできないもう一つの理由に、子ども達がいわゆるよい子を演じている場合があります。よい子を演じている子ども達は、親や大人達には元気な子どもとして判断されますが、自分を守るためによい子を演じているのですから、本来なら弱者に属します。よい子を演じる子どもは耐えられるだけ耐えて、親や大人達の要求を受け入れるように反応します。

強者の論理(心理)
 元気な子どもは興味を持った能力やものについて、大人の要求を受け入れて、それを伸ばす能力があります。子どもの心は、生物としての心の反応ですが、子どもは大人の希望するものを受け入れられます。大人の希望する物を受け入れて、大人の希望する方向へ成長していけます。その姿は大人の持つ経験や常識で子どもを理解できる事になります。現在の学校教育、家庭での子育て、スポーツ選手の育成などで、この論理(心理)が使われています。

弱者の論理(心理)
 辛い状態の子どもは自分を守ることで精一杯ですから、大人の要求を受け入れる余裕はありません。大人の要求を受け入れる余裕のない子どもに、大人の要求に従えと関わり合っても、子どもはますます自分を守る反応に出てきます。大人の要求に従えないばかりか、大人の要求を拒否するようになってきます。場合によっては大人の要求の逆の反応を起こしたり、自殺してしまうようになります。

 子どもの心は、生物としての心の反応を示し、その対応は、生物としての子どもの心に沿った物でなければなりません。子どもの心に沿った対応であるから、元気な子どもにも当てはめられる訳ですが、元気な子どもに敢えて当てはめる必要がない子どもの論理(心理)です。それは子ども特有の論理(心理)であり、大人の持つ常識で理解できない論理(心理)です。登校拒否、不登校、引きこもり、問題行動を起こした子ども達への対応で、用いなければならない論理(心理)です。そして大人についても、とても辛い状態になると、その大人にはこの論理が当てはまるようになります。

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親の嫌がることをする子ども 2005.11.10

 あるところで、子どもの問題行動についての話し合いがありました。その際にある人が「大体、子どもなんて、何をやらかすかわからない」と発言しました。この発言はとんでもない間違いです。子どものことを全く知らない人の発言です。私が経験する限り、大人こそ、その人自身だけの利益を考えて、その人自身の欲望から、何をしだすか分かりません。

 元気な子どもたちは(辛い状態にない子どもたちは)、自分の属する、与えられた環境に順応しようとして成長します。元気な子どもの行動は、一部の大人たちにとって好ましくない場合もありますが、多くの大人たちにとって問題だと感じるような行動を、子どもは好んでとることはありません。基本的には、親の嫌がるようなことをしません。子どもたちはその子どもなりに、失敗や誤りを犯すでしょうが、それらの失敗や誤りを自分で修正して成長をしていき、最終的には自分の属する社会に順応してしまいます。

 子どもが親の嫌がる行動をするのにはそれなりの理由があります。その理由とは、その子どもが耐えられないぐらいに辛い状態にあるという、子どもの側からの訴えです。辛くでどうにもできないから、助けてくれと言う子どもからの訴えです。もっと正確に言うと、子どもがその辛さを回避するための、回避行動です。その事実を知らないで、大人が辛い状態の子どもが起こした問題に関与されたら、子ども達がかわいそうです。多くの大人は認めないでしょうが、”どの子どもも、その子どもなりに、一生懸命生きている”のですから。

 多くの大人は認めようとはしませんが、子どもは原則として親の嫌がる行動をすることはありません。子どもが、親の嫌がる行動をしたときには、その子どもが何か辛い状態にあることを意味しています。子どもが辛くて、「辛いよ」と言っても、親が子どもたちの辛さを理解できない場合が多くあります。親にとって辛くないことは、子どもにも辛くないと判断するからです。親は、「こんなこと、少しも辛いことではない」と言います。親は、「こんなことで辛いと言って逃げ出してはいけない。がんばれ」と言って、子どもたちの辛さを解消しようとはしません。またある子どもについては、子どもが言葉にしようとしても、なぜ自分が辛いのか分からないから、子どもが言葉にしようとしても、できなかったという事実もあります。

 その子どもの辛さから、子どもを守ってあげたなら、子どもが辛いと表現するようなことから子どもを守ってあげたなら、子どもは親の嫌がる行動をしようとはしません。子どもが元気になったときには、親が子どもの行動に関与しなくても、子どもは親や大人の思いを感じ取って、社会に順応する行動をとるようになります。親や子どもに関与している人は、子どもが行った問題行動ばかりを見ないで、子どもがなぜそのような行動に出なければならなかったかという、その子どもの心の中をのぞいて上げてください。

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子どもが泣いた訳 2005.11.23

 子どもが不登校になって、一年になりました。毎日、朝から晩まで、家の中で、ゲームやテレビ、漫画にふけっています。昨日、友達から電話があって、その後子どもは、「明日は学校に行く」と言いました。そこで私が「行かなくてもいいんじゃない?」と言ったら、子どもは急に泣き出してしまいました。落ち着いたところで、どうして泣いたのか聞いたら、子どもは「学校に行っちゃいけないのかと思った」と言いました。

 私はその言葉をどう理解したらいいのかと考えました。常識的には、子どもが学校に行きたいのに、私が言い続けてきた「学校には行かなくてもいいよ」という言葉が、子どもを引き止めて、学校をさぼらせていると解釈されるでしょう。子どもに学校へ行かせる対応を、親の私が取るべきと考えられるでしょう。

 子どもが本気で、心の奥底から、学校に行きたいと思うのなら、子どもはもっと元気があるはずです。もっと子供にエネルギーを感じさせてくれるはずです。友達の誘いで本当に行きたいと思ったら、私がこのように学校に行くのを止めたら、子供は私に反発するはずです。私が学校に行くのを止めても、それを振り切って子供は学校に行ってしまうはずです。けれど、子どもは、ひと泣きした後、機嫌も良くなって、いつものようにずっとゲームとテレビと漫画にふけっていて、今日になっても学校には行こうとはしませんでした。

 子供が泣いた原因を、子供は良く理解できなかったのだと思います。子供が泣いた原因を、子どもが「学校に行っちゃ行けない」と思った、理解したと言うだけで、子供の心の奥底(潜在意識の情動)では違っていたと思います。それは子供が、学校に行けない自分自身を認識して、かわいそうに思ったという意味かもしれません。行きたくないが行かなくてはならないと考えた学校に、行かなくて良いと言われて、うれし泣きをしたのかもしれません。いずれにしても、「行っちゃいけない」と言われて悲しかったのではなかったことだけは間違いないと思います。私の対応が間違っていなかったと思います。

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退屈 2005.12.14

 中学二年生の一人娘が登校拒否をして、引きこもりっぱなしでした。昼近くに起きてきて、真夜中過ぎまで、ゲームや漫画、テレビ、ビデオ、DVDと、好き勝手なことをして生活しています。私は東京の会社に勤めていますから、朝早くから、夜まで家にいません。食事も手抜き、掃除洗濯も手抜きの生活をしなければ、お勤めが維持できません。

 それでも土日は、家にいて、貯まった家事をしながら、娘の相手をすることができます。娘は忙しい私を追いかけるようについて回って、一週間分の娘の思いを機関銃のように私にぶつけてきます。私も忙しさから、ついつい上の空で聞いてしまうことがありますが、そうすると娘が酷く怒り出します。

 平日は私が疲れ切っていることを知っているのでしょう、私に娘の思いをぶつけることはありません。自分の世界に閉じこもって、好きなことをしていました。それでも最近は、気が向いたときには洗濯をしたり、簡単な料理を作って待っていてくれることもありました。私が「ありがとう」と言うと、娘は嬉しそうな表情をしました。

 日曜日の夜、夕食の料理を作っていたら、娘が「手伝うわ」と言ってやってきて、私とおしゃべりをしながら、手助けをしてくれました。私が
「千代ちゃんが家にいてくれるから、お母さんは安心して仕事に行けるよ。ありがとうね。明日からまた留守番を頼むよ。」
と言うと
「土日、二日間って、本当にすぐに過ぎちゃうのよね。」
と子どもが答えました。私が
「どうして、そんなに土日が早く終わってしまうの?」
と聞くと、娘はそれに答えないで、
「あのね、毎日休みっていうのも、結構たいくつなのよ。」
と言うので、私が
「それじゃあ、土日が千代ちゃんにはとても忙しいのね。」
と言うと、娘は
「最近は本当に退屈なのよ。テレビやビデオも見飽きたし、ゲームにも飽きちゃったし。どうしたらいいと思う?」
と聞いてきました。私は
「家でゆっくりしてるのも良いんじゃない?」
と答えました。すると娘はしばらく考えた後、
「明日はジャスコに行ってみようかしら?」
と言いました。

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日本の人口減少と子供 2005.12.28

 今年から日本の総人口が減少に転じました。その理由は当然のことながら、死亡者の数よりも出生者の数が少なくなったからです。特に出生者の数が少なくなったことが大きく響いているようです。その出生者数の減少が将来の日本社会の不安材料になると心配している人が多いです。

 その不安を解消するために、出生者数の増加を期待するような政策も取られています。また、労働人口の減少を防ぐために、所謂フリーターという若者やニートと呼ばれる若者を、職に就かせようとする政策も行われています。

 私たち、登校拒否、不登校、引きこもり、ニートと呼ばれる子供達に関わっている者として、子供の環境を整える政策には納得できるのですが、その内容はあくまでも大人の立場であり、子供の心を無視したり、誤解している政策が多いと、つくづく感じます。

 例えば、引きこもりやフリーター、ニートと呼ばれている子供達に職業訓練をして就職させようとする政策を考えてみて下さい。引きこもりやフリーター、ニートと呼ばれている子供達の一部は、社会や人間関係に恐怖を感じるから、家庭の中に逃げてきています。また、引きこもりやフリーター、ニートと呼ばれている子供達の一部は、今の社会に埋没して自分を見失いたくない、自分らしい自分で納得できる生き方を探して、それが見つからないから、見つかるまで自分探しをしています。

 このような子供達に、職業訓練を施そうとしても、子供達は拒否してしまいます。それどころか、社会や人間関係に恐怖を感じて家庭の中に逃げている子供達や、自分らしい生き方を探している子供達のあり方自体を、現在の政策やマスコミの風潮が否定することで、子供達はとても辛くなり、ますます社会の中に出て行こうとしなくなります。

 引きこもりやフリーター、ニートと呼ばれている子供達の中には、前述のように、そのあり方を否定されて、いろいろな神経症状や精神症状を出している子供達がいます。その子供達の症状は神経疾患、精神疾患とそっくりですから、その子供達が医療にかかると、すぐに病気として治療が開始されてしまいます。子供達がそのあり方を否定されてるから辛くて症状を出しているのに、病気だから症状を出していると、問題の本質をすり替えられてしまいます。

 問題の本質をすり替えられてしまうと、そこには本質的な解決はありませんから、子供達は病気として大量の薬を飲まされ、必要ない処置を受けることになります。その様な子供達は、大量の薬や必要ない処置で余計苦しむことになります。

 そればかりでなく、子供の方でも、自分が神経疾患である、精神疾患であると信じ込む子供が出てきます。それらの神経疾患、精神疾患を信じ込んだ子供は、自分の辛さを解決するために、問題の本質をすり替えられた薬や治療を積極的に受けて、本質的な問題の解決を求めなくなります。病気でもないのに、何の疑いも持たないで、一生病気として生きていくことになります。

 なぜこのようなことが起こるのかという問題があります。それは現在の大人が子供を知らないからです。子供の心を知らない大人が、子供の心を知った積もりになって、大人の思いで政策を、対応を、医療をしているからです。日本では、子供の数が少なくなりました。将来の社会を支える人が少なくなります。

 その時のために日本では、引きこもりやフリーター、ニートと呼ばれる子供達を少なくしようとすることは正しいです。現在の子供への考え方、心理学や精神医療が好ましくないことは、現実が証明しています。現在の子供への考え方、心理学や精神医療がその好ましくない原因を、大人や研究者は子供に求めています。その原因を子供に求めることが間違っていることを、大人や研究者は気づいていません。

 子供を守るためには、子供一人一人を、子供の心に沿って大切にしていく必要があります。一人でも心が傷ついて苦しむ子供をなくす必要があります。子供は人間の形をして、大人と同じように言葉をしゃべります。大人顔負けのことを言うこともあります。大人顔負けの能力を発揮することもあります。

 けれどそれでも子供の心は大人と違います。子供には子供特有の心があります。子供についての理解を、子供についての心理学を、子供についての精神医学を、子供の立場から、成されるべきです。それは決して現在の風潮や、心理学、精神医学のように大人の推測であってはならないはずです。子供の心についての理解には、生物の心としての、客観的な、科学的な根拠から成されるべきです。

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