フリースペース「したいなぁ〜松戸」&松戸−登校拒否を考える会「ひまわり会」
ホーム代表者と顧問医師のコラム

学校における差別 2004.1.19

 学校における子どもたちの勉強をみていると、頭が良くてどんどんマスターしていく子ども、特に目立たない普通と表現できるの子ども、勉強になかなかついていけない子ども勉強を拒否する子どもがいます。知的能力、理解能力、学習態度など、子どもによりいろいろです。それはもって生まれた子どもの能力(言われているほど大きな要素ではないと私は思っています)、生まれてからの経験などに由来すると考えられます。

 学校に対する社会の要請として「どの子ども子どもを差別してはならない」という、教育の機会均等の原則があります。それは民主主義の概念です。それは差別が横行していた頃確立した概念です。能力は有るのに、経済的な理由、社会的な地位からの理由で差別されてたとき、その差別を解消するための概念でした。現在のように義務教育が普及して、どの子どもも同じように教育されるようになり、逆に能力が有るのに能力を伸ばせて貰えない、能力がないのに能力を付けることを求められるという、子供達への教育の矛盾が表面化しています。

 父母からは「子どもの能力を伸ばして欲しい」という要請があります。父母には、自分の子どもがより有名学校へ進学して欲しいものです。他の子どもよりも自分の子どもの能力を特別に伸ばしてくれと学校に要求します。この要請に応えるためは、子ども一人一人に沿った指導が必要です。それは「子どもを差別してはならない」という教育の機会均等という概念に反します。人によっては、子どもによっては差別と感じられる場合も有ります。

 父母から要請される「子どもの能力を伸ばして欲しい」の能力には勉学以外に、運動能力、芸術の能力、技能なども入ります。時に学校は父母から、子どものしつけまで求められる場合が有ります。ところがしつけは能力ではありません。経験を増やせば解決する問題ではありません。元来しつけは親子の信頼関係で作られるものです。親しかできないものを学校に求める方が問題です。親が子育てを放棄(しつけというものは親との生活の中で成立していく)して置いて、元来出来ない学校にしつけを求めることは、学校には迷惑な話です。学校は子どもをしつけることができませんから、ついつい恐怖を用いて子どもの行動を規制しようとします。それは子どもを大変に苦しくしています。

 父母からも子どもたちからも「教師は子どもをエゴひいきするな」と要求されます。教師も人間ですから、エゴひいきしていないつもりでも、知らない内にエゴひいきをしている場合が有ります。教師としてはエゴひいきではないと思われるのに、父母や子どもたちから見たときエゴひいきになっている場合が有ります。父母や子どもたちからの訴えを聞き入れて、子どもたちへの対応を変えたなら、今度は別の父母や子どもたちからエゴひいきだとの訴えを生じる場合があります。それらの原因として教師の素質の無さが指摘される場合が有ります。それ以外に父母や子どもたちの要求が強くて、教師への理解に余裕が無くて、教師の対応へ不満ばかりを持っている場合もあります。

 一人の教師が複数の子供を同時に教育するのには、実際上いろいろな障害があります。どうしても時間の制限といものがあるので、「子どもを差別してはならない」という要素が成立しない瞬間を生じます。伸びる子どもをもっと伸ばさなければならない瞬間、普通の子どもの能力をもっと伸ばさなければならない瞬間、能力が不足の子どもの能力を持ち上げてあげる瞬間、これらを全ての子どもが満足するように行っていくことは至難の業だと思います。そればかりでなく、心の傷ついた子どもたちへの対応も教師は求められています。

 子どもを有名学校へ進学させられたときには教師も親も嬉しいでしょう。有名学校でなくても、無事に進学させられたら教師として一応満足だと思います。子どもも有名学校や希望校へ進学できたときには嬉しいと思います。希望する学校へ進学できなくて、やむを得ない進学をする子どもの気持ちはいろいろだと思います。進学した学校でその子どもなりの学校生活を見つけられた子どもは幸せです。進学はしたものの敗北感に襲われている子ども、進学できなかった子どもの思いは、多くの場合取り残されて放置される傾向にあります。そのような子どもたちの中には辛い思いをしている子どもたちがいます。そのような子どもたちの心は傷つきやすいです。この辛い思いをしている子どもたちの心への対応に、現在その子どもたちの周囲からの配慮がなされていない傾向にあります。

 そこまで考えてしまうと、教師は教育ができなくなります。現在の学校教育で問題を生じた子どもをフォローするのは親の役目です。学校で生じた不公平の穴埋めをするのも親の役目です。一人一人の子どもを見守れるのは親しかいません。また親にはその能力が授かっています。けれど親の内には子どもに衣食住に関する物質だけを与えて、子どもの心を見つめない親もいます。子どもの心に関しては、親に心の余裕が無いと学校に一方的にその対応を任せたり押しつけています。その場合には、子どもが辛い状態であることを親が見落とす場合も多いと思います。

不良行為をする子ども、家出をする子ども 2004.2.7

 子どもの身なりや言葉が乱れたり、子どもが家出をしてしまった場合、家出と言えないまでも、家を出たきりに三日家もに帰らないで、盛り場をほっつき歩いたり、知り合った仲間の家に泊まったりする場合、親は大変に心配になる。犯罪に巻き込まれないか、危害を加えられないか、親として心配が続く。そこで子どもを叱ったり注意すると、子どもは激しく反発して、また家を出ていってしまう。親としてどうして良いか分からなくなる。どうしてこんな子どもになってしまったのか、親の子供への不信と怒りが尽きない。配偶者がもっとしっかりと子どもの監督をしないから、学校が子どもをしっかりとしつけないからと考える親もいるようだ。

 学校から見れば、授業にもろくに来ないで、学校の風紀を壊して、教師の言うことを聞かないばかりでなく時には反発する子ども、所謂不良の生徒に困り果てている。親が子供を放任している、親の育て方が悪い、親がきちんと躾をしてこなかったからこのような子どもを生じたと考えているようである。ところがこのような子供の多くは、小さいときにはとても良い子だった場合が多い事実がある。これらのとても良い子だった子どもたちが有るときから突然その行動がおかしくなっている。親がその子供の行動を正そうと、規制しようとしても、逆に子どもは反発して親を無視したり、家を出ていってしまうから、親としても手の打ちようがないように見える。親の力ずくでも子どもはその行動を変えようとしないのである。

 このような子どもたちの問題を考えるとき、2つの前提条件がある。一つは「子どもは親が好きだし、自分の家が大好きである」と言う事実である。もう一つは「動物は辛い状況になると逃げ出す。逃げ出せないときには攻撃する。攻撃できないときにはすくんでしまう。人間の場合には知識が有るから、辛い状態になって逃げ出せないときには、攻撃をする場合と自分から強い刺激を求めようとする行動を取る場合がある」と言う事実である。この場合強い刺激として、感覚的に強い刺激の場合もあるし、価値観としての強い刺激もある。価値観として強い刺激としては酷くほめられるような刺激と、逆に酷く嫌がられるような刺激が有る。酷く誉められるような刺激として、所謂子どもは良い子を演じてしまう場合がある。酷く嫌がられるような刺激として、子どもは所謂不良行為をしてしまう。

 子どもの言葉や身なり行動が乱れるのは、子どもが辛い状態にあり、それから逃れられないからである。これは人間の本能的な行動である。しかし親や周囲の大人から見て「子どもが辛い状態にないのに子どもの言葉や身なり行動が乱れる場合がある」と言われるかもしれない。けれどその判断はその親や大人たちの判断であり、それらの人の気づかないところで子どもは苦しんでいる。大人が子どもは苦しんでいるはずはないと言っても、当の子どもは苦しんでいるのが、親や大人には分からないだけである。

 子どもの生活の場は家庭か学校が大半である。だから子どもが辛くなる場所は学校であることが多い。学校で辛くなると子どもは学校を拒否して、学校へ行こうとしなくなる。けれど子どもが学校に行かないことは、親にも教師にも許せないことである。子どもを無理矢理に学校へ行かせてしまうから、子どもは学校内で辛さから逃げられないことになる。そこで子どもは学校内での辛さを解消しようとして、言葉や身なり行動が荒れてくるようになる。子どもの言葉や身なり行動が荒れると親は心配になり、それを正そうとして子どもに働きかけるから、子どもがその辛さを解消すべき家庭にいても楽にならないばかりか、新たな辛さを経験することになる。家庭が辛くなり、子どもの居場所が無くなってしまうから、子どもは家庭から出ていってしまって帰ってこなくなる。それが子どもの家出である。

 不良行為を行う子ども、家出をする子どもの問題を解決するには、なぜ子どもがこれらの行動に出なければならないかを考えれば分かる。辛い学校に行かなくて済む。家の中で安心して過ごせる子どもの居場所がある。この二つが有りさえすれば子どもは家を出ていかないし、安心して過ごせる居場所が家にあると分かると、子どもは家に帰ってくる。子どもは安心して過ごせる家庭にいる限り、言葉や身なり行動が荒れる必要が無くなるし、犯罪や事件に巻き込まれることもなくなる。ただしその安心して過ごせる居場所とは、子どもの判断で安心して過ごせる場所であり、親の判断での安心して過ごせる場所でないことに注意をする必要がある。

不登校経験者の芥川賞受賞 2004.2.28

今年の芥川賞受賞者の一人に、不登校経験者の金原ひとみさんが選ばれました。私はまだ金原ひとみさんのことを詳しくは知りません。

 不登校経験者の金原ひとみさんが芥川賞を受賞したその事実は、私達不登校の子供達に対応してる者としてとても大きな意味があります。勿論、金原ひとみさんの素晴らしい能力を賞賛しますが、それに加えて、金原ひとみさんの存在自体が、不登校の子どもを持つ親にとても明るい光を投げかけたことです。

 不登校の子どもを抱えて、その子どもの将来に不安を感じている親はたくさんいると思います。私の対応している親達も、子どもの将来の不安から、子どもの不登校を認められない親が多いです。ところがこの金原ひとみさんの芥川賞受賞から未だ何日も経っていないのに、不登校の子どもを持つ親の表情が変わった方が何人かいらっしゃいます。言葉でもはっきりと不登校に自信を持たれたと表現なさっていらっしゃいます。心の奥底から不登校に対して安心感を持たれたようです。

 不登校の子ども達の活躍の現実をはっきりと目の前で見たときには、私達の説明よりも遙かに強力な説得力が、不登校の子どもを持つ親たちには有るようです。

不登校は甘えか、弱虫か?元養護教諭 2004.2.28

 全国の小・中学校で不登校は十数万人ということです。これを学校現場はどのように解釈しているのだろうか。元養護教諭として、不登校親子の苦悩を見聞し、その相談を受ける立場から提言したいと思います。

 昨年末、不登校の中学生親子二組と小学生親子一組と塾の先生と自由活動を持ちました。そのとき、自分の学校のこと、担任の先生のことになると、子どもたちは声を大にして、身振り手振りで話し始めました。その一例として、「小学4年の時、先生から訳も聞いてもらえず、いっぱいどつかれた。学校へ行くのがいやになった。5年の先生はおもしろかった。休まず行けた。6年になって、きっちりさせようとする先生。俺には合わない。」とか、「もう学校には行かないと思う。」こんな会話が聞こえてました。その後「不登校はつまらん」といい、いろいろ考えたり、パソコンに向かうことが多くなったそうです。

 ずっと後になって会ったとき「フリースクール、山村留学などを見つけた。」とか、「やっぱり山村留学がいい」とか、「山村留学でも自分にあっているのは**や、あそこがいい。」とか、言っていました。そしてそれを実現しています。それも寒い時期に、より寒さ厳しい山村へ向かって一人元気に行っています。この姿を見るにつけ、子どもってすばらしいと感じています。自分が見つけた道ならどこまでも、力強く突き進む子どもの姿を見るにつけ、簡単に勉強ができるできないで子どもの価値は決められないと、つくづく感じています。その子ども真価はその子が持ち合わせています。学校での評価改善などをつくづく思い知らされた例でした。

 学校、教師は一般的に信頼尊敬の的であるはずです。「心こそ大切」を訴えたいと思います。

解決したと考えられても 2004.3.26

カウンセリングを行なっていて、あらためて気づいたことがあります。大人が陥りやすいまちがいが、子育てのなかでしばしば見られている事実です。

ある子どもが学校で、その子には納得できない理由で教師から叱られました。それに気づいた母親が教師にその事実を説明すると、教師は納得して、翌日教室で子どもたちの前でその子に謝りました。先生が自分の非を認めて子どもの前で謝るのは勇気ある対応だ、すばらしい先生だと大人は思います。それでこの件は落着だと親も先生も考えました。けれどそれ以後もその子は元気が出ないで、不登校になりました。親も先生も、不登校になったのは本人に問題があると考えました。

そこで「お子さんの問題(その子が先生に叱られたこと)で、先生が非を認めて子どもたちの前で謝ったとしても、子どもの心に受けた傷は少しも治癒していません」と私が指摘すると、親はとてもびっくりしていました。つまり親としては、先生が謝ったのだから問題は解決して、先生と子どもとの関係は先生が叱る前の状態に戻ったはずだと考えていたのです。けれど実際は、その子の心には、先生が謝ったという事実があったとしても、依然として学校や先生で疼く心の傷が存在し続けることには変わりないのです。いったん子どもの心が傷つけられると、謝られたり、仲を取り戻す対応を受けても、そう簡単には心の傷は治癒することはないということなのです。結果、その子は不登校になっています。

この事実を私が指摘するまで母親は、先生とその子との問題はすでに解決していて、子どもに何も影響を及ぼしていないから、本人に何か問題があって不登校になったと考え続けていました。先生も子どもに何か問題があるから、不登校になったと考えています。親も先生もその子の問題が何か一生懸命探してみましたが、見つからないでいます。いろいろな相談機関に相談して子どもや子育ての問題点を指摘されて、親はとてもつらい状態にありました。

心の傷は目には見えません。子どもがどのような傷を受けたのか周囲の人にはわかりません。けれどいったん深い心の傷ができたなら(この子の場合は学校を拒否する反応が出た)、その傷を急激に治癒させる方法はないので、子どもに深い心の傷はつけてはならないし、心に傷を受けてしまった子どもは、その傷が疼かない場所に隔離してあげる必要があるのです。

診療所から見た不登校の未然防止法 2004.4.20

 不登校は子供にとって好ましいものなのか好ましくないものかの議論があります。子供の不登校に直面した当初の親の多くは悩み続けています。子供も学校へ行けない辛さからいろいろな症状を出しています。親が子供の不登校を受け入れられ、子供も自分の不登校が認められたと納得すると、普通の子供のように元気になれますが、それでも多くの親にとって、子供の不登校は経験したくない物でしょうし、子供も学校へ行きたくても行けない辛さを経験したくないでしょう。

 子供が不登校になる前に、多かれ少なかれ子供が学校へ行きづらくなる時期(登校拒否の初期の状態。このことまで不登校と表現する人もあるようですが)が必ずと言って良いほどにあります。この時期には、子供は「頭が痛い」とか「おなかが痛い」とか「気持ちが悪い」とか、いろいろな身体症状を出して学校へは行こうとしません。けれど親が子供を叱かったりなだめたりしたり、強引に学校に連れて行くと、子供は学校に行ってしまいますし、子供によっては意外と元気に学校で生活してきます。その子供の姿から、親や教師は、行かそうとすれば子供は学校に行くことが可能だと考えます。親や教師は子供の怠けだ、仮病だとして、子供の学校への行き渋りを見過ごしてきています。また、いろいろな症状から子供を病院に連れて行くと、風邪だ、腸炎だ、自律神経失調症だとの診断で、投薬を受けた後子供は学校へ行かされます。親や教師は子供が病気で学校を休んだと判断して、子供が学校に行きづらい状態であることに気づきません。けれど医者通いの頻度が高くなると、親もこれはおかしいと思うようになります。

 診療所の医者として子供達の診療に当たっていると、学校へ行きづらい状態の子供がいろいろな症状を出して来院することを経験してきています。子供を担当する医者にとって、子供が本当の病気から症状を出しているのか、学校へ行きづらくて症状を出しているのかの区別は難しいことではありません。最近学校へ行きづらくて症状を出して来院している子供が増える傾向にあります。

 このような学校へ行きづらい子供が来院したときに、注意しなければならない事実が幾つかあります。子供は言葉では学校へ行きたい、学校が楽しいと言います。子供は病気として認めて欲しいのです。病気として学校を休み誰からも責められないで過ごしたいのです。親は子供が学校へ行き渋っていると考えたくないし、病気による医者からの指示ですと、子供が家でゆっくりと過ごすことに納得できます。そこで風邪だとか腸炎だとかの診断名を付けて偽薬を投与します。薬を飲んでいる間は学校を休むように指導します。休んでいる間は勉強をしないで、ゲームをしたり漫画などの雑誌を見ているようにと指導します。親へは、子供の学校への行き渋りを受け入れられる親には、子供の学校への行きしぶりを説明をします。しかし多くの多くの親は始めて経験する子供の学校への行きしぶりを理解できません。病気で投薬(偽薬であることも説明しません)を受けていると説明を受けた方が、親として心が安定します。子供を責めませんから、子供はゆっくりと家で自分の心を癒すことができます。

 私の経験では、不登校に近い状態の子供でなく、学校へ行き渋りだしたばかりの頃の子供は、2,3日から1週間ぐらい学校をすっかり忘れて家でゆっくりと過ごすと、自分から学校へ行き出します。それ以後(新たな問題が生じれば話は別だが)そのことで、それ以上行き渋りの問題を生じることはありません。自分で自分の息しぶりの問題を解決して学校へ戻ります。親も子供をゆっくりと休ませますから、子供は自分の問題を解決しやすいです。

 不登校を未然に防ぐ一番良い方法は、子供が行きづらくなるような条件を学校内から無くすること、つまり教師が考えて楽しい学校でなく、子供達それぞれにとって学校が楽しいところになることでしょう。二番目の方法は、子供が学校へ行き渋りだしたときには、子供が納得するまで、つまり子供の方から学校へ行くと言い出すまで、登校を促されることなく、家庭でゆっくりと過ごさせてあげる事でしょう。学校への行き渋りを生じても、子供が自分で行き渋りの問題を解決して、子供が不登校状態にならないで済みます。

引きこもりについて 2004.5.18

 最近の引きこもりと言う言葉が意味するものが、メディアの発達や生活様式の変化で、だんだん様変わりしています。一般の人が使っている、引きこもりと言う言葉についての使い方を見ていると、はっきりと分けられるわけではないですが、

1.家から出て、アルバイトなどの社会生活をしているが、生活を親に依存している(親に生活能力が有るため)場合
2.たまに家から出て買い物などをするが、殆ど一日中家の中で生活をしている場合
に分けられます。

1.の生活を親に依存していても既に社会活動をしている子どもの場合には、引きこもりと言う言葉は好ましくないと思われますが、それでも以前の日本では社会に出てそれなりの生産活動をして、社会の一員として活動すべき年齢の子どもが、生産活動をしないときに、子どもが自分の生活費を稼がない場合に、引きこもりと言う言葉を使うのも解らないわけではありません。この時期のそのような子どもは、社会の一員として生産活動に加わるには未だ自信が無くて、その子どもなりの生き方を探している段階です。その子どもなりの生き方が見つかったなら、既に社会人となって生産活動に参加している子どもと同じように社会の一員として生産活動に参加できる子どもです。

 参考の為に、引きこもりと考えられていない子ども達の中で、一応自分の生活費は自分で稼いでいるが、自分が社会に出て社会生活をするのに納得していない子どもの存在を指摘しておきます。また、学校に行っていて引きこもりと考えられていない子どもの中で、自分が学校に通うことに納得できていない子どもの存在を指摘して起きます。

 元来なら、親が保護をして子どもは親の保護の元で子ども自身の生き方を見つけなければならないのに、親が子どもの保護をしないために、子どもが無理をして社会活動をしてる場合、子どもがむりをして学校に行っている場合です。子どもは無理をして社会活動や登校をしているために、ストレスに大変弱いです。仕事が長続きをしませんし、学校に行っている場合には単に体を学校に運んでいるだけです。ストレス解消のために犯罪などの思わぬ不適応行動を取ったり、ある時から突然病的な症状を出したり、暴れたり、家の中に引きこもったりします。

2.の殆ど家の中で生活している場合の子どもは
 a.家の中での生活が落ち着いていて、その子どもなりの生活をしているが家の外には出ていかない子ども
 b.家の中で辛い症状や暴力などの不適応行動をしている子ども。家の外に引き出そうとしてらもっと状態が悪くなります。
の二つに分けられます。

a.の状態の引きこもりの子ども達は、家の外に出ることは無くても、ゲームやメール、チャット、インターネット、テレビを介して社会とつながっていて、意識していませんが、それらを介して自分の生き方を探している状態です。自分の生き方が見つかったなら、自分から社会に出て、社会活動をし出します。自分の生き方が見つかるまでは(親に生活を守られているから)社会に出る必要を感じていないので、一応安心(親が揺れるときには子どもは安心できない)して家の中に引きこもっているだけです。家の中に引きこもったままその子どもなりの社会との接触を始めています。

親や周囲の大人は、その子どもが家に引きこもってとても社会活動をしているとは感じられないでしょうが、それらのメディアを介して何かを求め、喜び、悲しみ、苦しんで、その子どもなりの社会との接触を続けて、その子どもなりの生き方を見つけようとしています。このような子ども達は、無理をすれば社会へ引き出すことができます。その際に社会に受け入れられると、そのまま普通と考えられる社会人になれますが、多くの子どもは社会に受け入れられないで、また家からほとんど出ることのない引きこもりの状態に戻ります。

 b.の状態の子どもは、自分の命を維持するのに精一杯の状態です。自分を守るために少しでも安全な自分の家に、自分の部屋の中に引きこもっています。子どもは自分を守るために精一杯ですから、子どもは社会と接触しようとはしません。受け身の喜びを、その時の辛さを癒すための喜びを求めるだけであり、メディアを介して社会経験をすると言う意味でも、社会と接触することは出来ません。

登校拒否、不登校と心の傷 2004.8.10

 人間の心の仕組みを分析してみますと、人間の心には考える機能と、知識を蓄積する機能と、経験をすることで反応する仕組みを蓄積する機能と、感情を生じる機能があります。これらの内で、感情を生じる機能は情動と呼ばれ、人間の本能もその中に含まれています。情動は人間の心の基本をなしていますし、人間の命と直結していて、人間の命を守るための心と言って良いと思います。この情動は感情として意識することはできても、情動自体を直に意識することができない機能で、潜在意識と言われています。なお、知識を蓄積する機能も、反応を蓄積する機能も、共に普段は潜在意識に属しますが、知識を蓄積する機能は、必要に応じて意識に上らすこともできます。

 人間は外界から刺激を受けたとき、蓄積した知識を用いて考える機能から行動する場合と、経験し蓄積した反応の仕組みから無意識に反射的に反応し行動する場合と、情動から無意識に、反射的に反応し行動する場合とがあります。蓄積した知識を用いて考える機能から行動する行動の仕方は、人間に特有で、他の動物には見られていません。また、子どもでも、この蓄積した知識を用いて考える機能からの行動はほとんどないといって良いようです。蓄積した反応の仕組みから無意識に反射的に行動する仕方は、人間では年齢や訓練によって発達していきます。動物では猿などの頭の良いと言われている動物でも見られている行動の仕方です。情動からの無意識な反応は、動物に共通な反応の仕方で、特に類人猿と人間とは殆ど同じであると考えられるので、私達は他の動物や類人猿の情動を科学的に研究することから、情動の機能を知ることができます。

 情動を科学的に研究した結果によると、情動は子どもの内でも早期に完成して、その動物特有の反応を始めています。人間では3,4歳頃には既に大人と同じ情動の機能を確立しています。情動には基本的に楽しいに属する機能と恐いに属する機能の二つしか存在しません。その二つの楽しい、恐いのより強い方が、選択されて、その個体の本能や経験に基づいて個体の反応として行動に表現されます。それを情動行動と言います。例えば、空腹時に食べ物を見ればそれを得ようとします。雷の音を聞けば逃げようとします。

 子どもの集団である学校に関しては、子どもの情動行動は学校に楽しいと反応してして、子どもの集団を求めて、子どもは学校へ行こうとします。ただ、子どもは何故学校へ行こうとするのか理解できません。大人から学校は楽しいところだと教えられているものですから、または、実際に学校に行って楽しめたと言う経験を持っていますから、「学校は楽しいから、学校へ行く」と表現します。子どもは、学校を思い出すとそれだけで楽しくなるのですが、その楽しさを感じ取って、学校が楽しいと言っているのではないのです。

 その子どもの情動が、何かの理由で、学校を思い出したとき、子どもの体に恐怖の表現を感じるようになったとき、つまり、学校を思い出したとき、動悸がしたり、息苦しくなったり、手足が震えたり、頭が痛くなったり、気持ち悪くなったり、お腹が痛くなったりする場合が有ります。それと同時に子どもは学校へ行こうとしなくなります。子どもは何故これらの症状が出るのか理解できません。子どもは自分から学校へ行こうとするのですが、体がそれに答えて動いてくれません。決して子どもはこれらの症状から、又は学校が嫌なところだからと意識して、学校へ行こうとしないのではないのです。現実として学校を思い出したり、見たりすると、辛い症状が体に出ると同時に、体が動かなくなり、学校へ行けなくなります。この状態が登校拒否です。

 前記のように、子どもの情動では学校は楽しいところです。それが学校で疼かない、傷ついていない情動です。ところが何かの理由で、子どもの情動で、学校が恐怖の場所になったとき、この子どもの心が傷ついたと言います。そして学校を見たり意識したときに恐怖の症状を示して辛くなることを、学校で心の傷が疼くと言います。子どもの情動が傷ついて、学校で心の傷が疼くこの反応は潜在意識で生じますから、子どもは何故自分が辛くなるのか、学校へ行けなくなるのか解りません。子どもは他の人に説明するときには、その人が理解できる、自分の症状で学校へ行けないと説明をします。

 親も周囲の大人も、子どもが何故学校を見たり意識したりすると、恐怖を表現するのか理解できません。「学校の先生が怖いから」、「いじめる友達がいるから」、「学校の授業がおもしろくないから」、「怠けたいから」、などと理由を考えて、その結果「学校へ行くのをやめてやろう」と子どもが考えて、登校拒否という行動に出たと考えがちです。しかし本当はそうではありません。ただ、学校を見たり、友達を見たり、教科書やノートを見ただけで、胸が苦しくなり、足が動かなくなり、気分が落ち込んでくるのです。それと同時に学校へ行けなくなります。そこには多くの心の専門家や大人達の考えるような理屈はありません。理屈抜きに、自然にそうなってしまうのです。けれど親や大人からは、怠けだ、意欲がない、弱虫だ、頑張れなどと言われても、子供にはどうにもできない領域の生理反応なのです。

 登校拒否は決して子供の意思による拒否行動ではありません。それどころか子供の持っている知識としては、学校へ行こう、学校へは行かなくてはならないとなっています。しかしそう思っただけでも体の内から沸き上がるつらさや怒り、恐怖、体の硬直した動きという情動反応から、子供の知識に反して、学校を避ける行動をとってしまいます。それは子供が成長の過程で、学校生活の中で情動が傷ついた、つまり新たに獲得したいわゆる性格であり、生理反応であり、その事実は子供はどうにもできないものなのです。その子どもの情動が学校を拒否する反応が、親や大人達には受け入れられないという事実があります。自分の情動に生じた反応が、自分の知識に反した生理反応のために、そのとき子供は大変に辛い葛藤状態にあります。

 現在の多くの大人は登校拒否を経験していません。例え子ども時代に学校で辛い経験をして登校拒否の状態であったとしても、その人は学校に行き続けていましたから、大人になってからは、子ども時代にどんなに学校に行きづらかったのか忘れています。大人になってしまうと、子どもが学校に行かないことを、家で好き勝手にしていることを理解できません。登校拒否の子どもにとって、学校が恐怖を生じるところとは考えることができません。親は子どもに学校へはほぼ毎日行ってもらわなくてはなりません。その結果学校へ行こうとしない、学校を恐がる子供をおかしいと、異常であると考えてしまいます。子供の正常な生理的な反応とは考えることができません。そこで子供を無理やりに病院や心の相談所に連れて行きます。正常に反応できる子供を異常な子供として、正常でない反応を取るように強制することになります。それは子供をより一層強く回避行動を取らすことになります。

 多くの大人は登校拒否の状態の子どもを、学校への行き渋りと言う形で気づくことができますが、この学校へ行き渋る子どもの心が傷ついていて、学校や学校に関する物でその子どもの心の傷が疼き、学校へ行けなくなっていることに気づきません。親や大人は子どもの姿を親なりに勝手に判断して、それに基づいて、子どもを何とか学校へ行かそうとします。また、子どもは言葉では「学校へ行く」、「明日は学校へ行く」と言います。けれどいざ行く段になると子どもはいろいろな身体症状(神経症状、精神症状)を出して学校へ行こうとしません。そこで親は「この子どもは学校へ行きたがっているのに、病気で行けないのは可哀想。何とかして学校へ行けるようにしてあげたい。」と子どもを思う気持ちから、子どもを学校へ行かすあらゆる方策を取ります。学校の先生方も学校へ来るように促します。その結果子どもの情動にできた傷の疼きがますます強くなり、全く子どもは学校へ向かって動けなくなります。全く子どもは学校へ行けなくなります。その状態が不登校です。不登校になると、どの親も、どの大人も、子どもが不登校であることに気づきます。

 現在不登校問題がいろいろなところで議論されていますが、不登校とは既に子どもの心が大きく傷ついて、学校に対して強く拒否している状態ですから、不登校になった子どもに大人が気づいた時点から、その子どもの不登校問題を考えても意味が無いことになります。子どもが不登校状態になる前に、登校拒否をして学校へ行き渋っていた時期が必ずあります。その登校拒否をして、学校へ行き渋っていた時期に何が起きていたのかを分析したら、子どもが登校拒否、不登校になった原因が見つかります。けれど理論的にそうであっても、実際には、親や大人達は子どもが登校拒否をして学校へ行き渋っていた時期には、その子どもが不登校状態になる前段階だったとは気づいていませんから、多くのことを見落としていて、子どもが登校拒否を起こした原因を見つけることは大変に難しいことになります。もし子どもが登校拒否を起こした原因が見つかったとしても、間違っている可能性が高いです。

 登校拒否、不登校は、子どもの情動が傷ついて学校を拒否している状態です。学校や学校に関する物で心の傷が疼き、身体症状(神経症状、精神症状)を出して、とても辛くなる状態です。けれど、心の傷は疼かない限り、いろいろな身体症状を出しません。辛くは成りません。登校拒否、不登校の子どもでも、全く普通の子どもと同じように行動でき、生活できます。心の傷が疼かなければ、登校拒否、不登校の子どもでは、学校に関わることはできませんが、学校に関わらないで、その子どもなりの生き方を生きることができます。それが登校拒否、不登校の問題の解決法です。そして心の傷が癒えて学校や学校に関する物に反応しなくなったら、登校拒否、不登校の子供達の中からでも、学校に関わる生き方を選択する子どもも出てきます。

 情動には楽しい機能と、恐怖の機能しかありません。普通の子どもでは学校が楽しい機能になっているのに、登校拒否、不登校の子どもでは学校が恐怖の機能になっています。この登校拒否、不登校の子どもに、学校が恐怖の機能である度合いより強い何かの楽しい機能を与えてあげると、学校の恐怖機能が存在しても、子どもの情動には楽しい機能が働いて、恐怖の機能が働きません。登校拒否、不登校の子どもが、学校や学校に関する物を見たり、思い出したりしても、子どもは辛い身体症状を出さなくなります。これを心の傷に包帯をすると表現します。これも登校拒否、不登校の解決法の一つの方法です。

親兄弟との交流 不登校新聞8月15日号記事

 子どもにとって親や兄弟はとても大切な存在です。親との対話や、兄弟姉妹がいる場合のお互いの付き合いは、子どもの成長に欠かすことのできないものです。それは皆さんが認めるところです。
 ところが不登校・ひきこもりの子どもたちで、親から登校を刺激されたり、ひきこもりを否定されたり、兄弟姉妹の存在で登校が刺激されたり、ゆっくりとひきこもれない子どもの場合、親兄弟を拒否することもあります。その場合、子どもは親兄弟との会話や付き合いを拒否して、個室にこもってしまいます。

 彼らは、孤立していてつらいのです。親兄弟には自分のことを理解して欲しいのです。自分の心の内を話したいのです。けれど親兄弟が不登校やひきこもりの子供達の心を理解していないから、自分の心の内を話すとかえってつらくなるから、親兄弟との心の交流を拒否しています。彼らは、自分たちの心を変える余裕はないほど、つらいのです。

 つまり親兄弟が寄り添おうとする前、心を通わそうとする前に、必要なことがあるのです。それはありのままの不登校やひきこもりの子どもを認めることです。今は親兄弟から離れていたい、寄り添って欲しくないと無意識に判断していることを認めることから始まります。
 親兄弟が不登校やひきこもりの子どもの心を理解してたなら、親兄弟から心の交流を持ちかけるなどの対応をしなくても、不登校やひきこもりの子供達は自分の方から親兄弟との交流を求めてきます。

フリースクール 2004.10.4

 NHK第一放送の土曜ジャーナルで、「フリースクール白書」を紹介しながフリースクールについて特集があり、奥地圭子さんと江川紹子さんが出演されました。そこではフリースクールの利点や問題点が話し合われましたが、そこで話し合われなかったことで、重要なことがあると思いますから、触れさせて頂きたいと思います。

 学校に行きにくい状態になった子ども、そして不登校状態になった子どもの問題に対応していて経験することです。「保健室登校などの別室登校や、適応指導教室へ行くことが、不登校の子どもには辛いことが分かったが、子どもが学校に行けないのなら、せめてフリースクールに行って欲しい」という親の希望を聞くことがあります。「学校に行く生き方をしなくても良い」と、表面上は理解していても、平日に子どもが家の中にいることで不安になる親からの希望です。

 家庭の中でエネルギーをもてあましている子どもにとっては、フリースクールに行けることは大きな喜びになると思います。子どもの成長のための、良い選択肢になると思います。けれど、とても家庭から出るエネルギーを持ち合わせていない子どもにとっては、フリースクールも、学校と同じ意味合いになっています。親のフリースクールに行って欲しいという思いは、子どもを新たに苦しませることになると思います。

 家庭から出るエネルギーを持ち合わせていない子どもにとっては、フリースクールに行く前に、家庭が子どもの居場所になっていて、そこで十分に辛い心を癒して、家庭で十分にエネルギーを貯めておく必要があります。家庭でエネルギーを貯めた子どもの次のステップとして、その子どもなりの何かを求めてフリースクールに行くという形である必要があります。フリースクールが、学校に行きづらい子ども達の、学校に行けない子ども達の、新たな苦しみの原因になる場合があるからです。

 現実に、フリースクールに子どもが何かを求めてくる子どもと、学校には行けないからせめてフリースクールには行って欲しいという、親の思いから来る子どもがいます。親の思いから来る子どもは、その内にフリースクールには行けなくなります。その後、時間がたってから、子どもはフリースクールですら行けない自分を認識して、もっと辛い状態になります。つまり、このような子どもにとって、子どもの家庭が最高の居場所になってこそ、フリースクールの存在意味が出てきます。

親とその子ども 2004.10.22

 人が親になり、子どもを育てるのは、生物として自然の成り行きです。人が自然だけを相手にして生きていけばよかった時代では、人の本能のままに子どもを育てるので、子どもは十分に育っていきました。ところが現代は、人を相手にして生きていく時代になっています。人を相手にして、自分の子どもを育てて行くには、その人が生まれながらに持っている能力だけでは、子どもを育てられなくなっています。社会の要求に合わせて、子どもを育てなければならないからです。親は子どもに、社会からの要求を、押しつけるようになってきています。それが親としての義務のように考えるようになってきています。

 子どもはこの世に生を受けて、与えられた環境に順応するように、本能的に成長していきます。人が自然だけを相手にして生きていけばよい時代では、子どもは与えられた環境に順応できなかった子どもは淘汰されてしまいました。親もそれをやむを得ないこととして受け入れざるを得ませんでした。

 科学の発達で、子どもが自然淘汰から守られるようになると、人口の爆発的な増大を生じました。特に都市では、子どもも人を相手にして成長する時代になりました。子どもは人だけを相手にするという環境に順応しようとして成長してきています。親からの要求に沿って成長しようとしてきています。親からの要求に沿って、順調に成長できた子どもはそれで納得できています。自分の成長に満足できています。特に、親の社会的な地位よりも子どもがより高い社会的な地位を得たときには、「子どもが親を乗り越えた」と言って、美談として社会から褒め称えられてきています。美談になるような子どもを育てることが、親の役目だと考える親が多くなってきています。

 物質的に貧しかった時代には、親からの要求を受け入れることで、物質的に豊かになることを求めることで、その結果、物質的に豊かになることで、子ども達は納得できました。ところが現在は物質的に豊かになり、これ以上豊かさを敢えて求める必要が無くなっています。それを一番感じているのは子ども達でしょう。親は欲から、物質的な豊かさを維持することを子どもに求めますが、そしてもっと豊かになることを求めますが(この子どもに求める親の希望を愛情だと判断しています)、子どもは物質的な豊かさより、自分の心の豊かさを求めようとしますし、求めるようになっています。心の豊かさを計る方法は無いので、子どもが親を乗り越えると言う表現をすることは大変に難しいけれど、不登校の子どもは親の知らない世界を開拓しているし、親がそれを追いかけてついて行くなら、それだけで子どもは十分に親を乗り越えていると言えるかも知れません。

学校とは何か? 2004.11.30

 日本で学校が意味する物は、戦前、戦後、現在と違うようです。また現在でも、大人と実際に学校で勉強している子どもたちとの間では大きく違うようです。現在学校に通っている子どもたちの立場から学校とは何かを考えるときには、子どもたちが学校についてどのように感じているのかということから、考える必要があります。

 現在の大人は子どもの通う学校について、「学校は将来のために勉強をするところ」、「将来の人間関係を作る練習をするところ」、「子どもが自分自身の人格を磨くところ」などと、考えている人が多いようです。そして子どもたちに、子どもたちにとって「学校とは何?」と尋ねると、大人達が考えているような言葉が、優等生の返事が子どもたちから返ってきます。そこで私が「本当にそうなの、本当は何のために学校に行っているのか分からないのでは?」と質問を返したら、殆ど全ての子どもたちが「本当は何のために学校に行っているのか分からない」と答えてきます。

 子どもたちの中には、その子どもなりに学校に何かの目的を持って、生き生きとして学校に通っている子どもたちがいます。そのような子どもはとても少数のように見かけられます。大多数の子どもは、その発する言葉では学校に目的を持って通っているように見えますが、実際には学校に通う意味が分からない子どもたちです。特に中学生や高校生に多いです。そしてまた、少数ですが、学校に行くのは嫌だと言いながら、行かないと親から責められるから、やむを得ず学校に通っている子どもたちもいます。

 多くの大人や学校の先生達は、自分たちの目の前の子どもたちの姿や、子どもたちの発する言葉から、現在の学校を肯定しています。その学校からはずれてしまう子どもたちを問題だと考え勝ちです。つまり多くの大人や学校の先生達は、多くの子どもたちが自分たちの目の前で、所謂良い子を演じている姿を子どもたちの本当の姿だと判断して、子どもたちに対応しています。子どもたちの本当の姿や感じ方を知りません。その結果、子どもたちと感じ方などのずれを生じています。そのずれの原因が親や先生方にあることに気づかなくて、そのずれの原因を子どもたちに求めようとしています。それはますます子どもたちを苦しくしています。

 現実の学校の中では、子どもたちが学校に求めているものと、大人や先生達が子どもたちに求めているものと異なっています。子どもたちが学校で要求されることや、家庭で学校について要求されることが、子どもたちの負担になっています。その結果、学校が子ども達にとってストレス刺激を感じる場所になっています。そこで子どもたちは、大人や先生達の前で良い子を演じてします。それはますます、親や先生達が子どもたちを理解しがたくしてしまいます。けれど子どもたちが素直に発言できる場所では、子どもたちは学校が子どもたちのストレス刺激を感じる場所だと答えています。多くの中学生や高校生が、学校で辛い毎日を送っているようです。学校の中では、子どもたちがその子どもらしく生活できないところにあるようです。

思春期以前の子どもの人権 2004.12.18

 人権とは、生物としての人間の間での約束事です。一人一人の人間を大切にすると言う考え方から、人間が考え出した物です。人間のあり方も、身体的な状態、心(脳)の状態により、変わります。身体も心も成熟した大人、身体は成熟しているが心は未だ成熟していない思春期以後の子ども、身体も心も成熟していない思春期以前の子どもと分けて考える必要があります。そして、これらの区別もはっきりとできる物ではありませんから、当然、これらの時期には重なり合うところがあります。

子どもの人権を考えるときの子どもとは何かの問題があります。その問題は大変に難しいでしょう。ここでは思春期以前の子どもの人権について考えてみます。この時期の子どもの特徴として、
1.肉体的に成長の段階である。子ども自身も成長しようとする意欲を持っている。
2.物質的に親に、又は親に相当する人に依存をしなければならない
3.情動の心は完成しているが、習慣の心に知識や経験を蓄積している段階。思考の心は特別な場合を除いて機能していない
の、三つがあげられます。

子どもの時期は親に守られて、自然淘汰に耐えうる肉体と、自然淘汰に耐えうる永久記憶を作り上げていく時期です。その子どもの内に作り上げられた肉体や永久記憶(知識)の内容によって自然淘汰にうち勝ったり、自然淘汰されたりします。これらの前記の三つの特徴は、子どもが大人に守られない限り、自然淘汰を受けやすいことを意味しています(ただし、現代の人間文明の発達により、生命を失うという形での淘汰のされ方は少なくなりましたが、心を失うという形での淘汰は以前より多く存在しています)。これらの特徴は互いに関係しあっていますから、これらの特徴を一つ一つ分けて考えることは大変に難しいです。また、これらの特徴があることによって、大人の人権とは違っていますし、違った考え方が必要です。それをあえて行ってみます。

1.肉体的に成長の段階である。子ども自身も成長しようとする意欲を持っている。
=成長
これは子どもの本能です。肉体的な欲求を含めて、子ども特有の情動反応です。情動反応ですから、潜在意識であり、私たちは子どもを観察することから知ることができます。また、他の動物にも共通していますから、他の動物で実験をすることで、より詳しく知ることが可能です。
人間を含めて全ての哺乳類は、与えられた環境に順応するように成長しようとします。人間の場合、大人が意識的にそれを阻害しようとする場合があります。それも、子どもの幸福のためと大人が考えて、子どもによかれと考えて、子どもの成長しようとする意欲を奪い去る場合があります。その現れの一つの形として、子どもの登校拒否、不登校、引きこもりと言われているものがあります。親の子供への虐待も、この子供の成長する意欲を奪う物であると考えられます。

2.物質的に親に、又は親に相当する人に依存をしなければならない
=依存
 子供は自分の成長に必要なものを自分で得ることは原則としてできません。できたとしてもとてもそれには大きな危険を伴います。淘汰される可能性が極めて高くなります。子供が危険を回避して淘汰されないためには、大人によって子供は危険から守られる必要があります。また、子供も大人によって本能的に(情動から)守られようとします。
 以前の社会や、物質的に貧しい社会では、家族の生活を維持するための物質的な欲望から、子どもの成長に配慮をしない子どもへの対応がなされる場合がありましたし、現実にもあります。子どもの立場から言うなら、物質的に不足していても、子どもの成長をしようとする意欲を保証してあげた方が良いです。子どもの成長の程度によっても異なりますが、子どもに必要最低限の物質が与えられて、子どもの肉体的な成長が保証されれば、その他の物質的な不足、経験の不足、能力の不足の問題は子どもの方で解決していきます。

3.情動の心は完成しているが、習慣の心に知識や経験を蓄積している段階。思考の心は特別な場合を除いて機能していない
=子どもらしさである反射的な行動
 大人と子供との心の構造の違いを認めることにあります。それは子どもらしさを認めると言う意味にもなります。すなわち、人間を含めて動物の受けた刺激やそれに対しての反応は、全て脳の中に記憶されます。その記憶は強化されない限り、時間とともに消失していきます(一時記憶)。強い情動反応を伴った記憶や、強化された(繰り返し同じ情報が使われる)記憶は永久記憶となり、それ以後その記憶を利用することが出来ます。
 子どもの時期は親に守られて、この永久記憶(学校の勉強を含めて)を作り上げていく時期です。それは大人も同じですが、子供の場合そのときまでにできあがった永久記憶から反射的に反応して行動します。それに対して、大人はしっかりとできあがっているいろいろな永久記憶を組み合わせたり、加工したりして新たな記憶情報を作り、その記憶情報から行動すること(思考行動)ができますが、子供にはそれが原則としてできません。子供が大人になったら、この獲得した永久記憶を選択したり、加工したりしてできあがった記憶情報から行動をするようになります。その永久記憶の内容によって自然淘汰にうち勝ったり、自然淘汰されたりします。
 つまり子供は大脳辺縁系に存在する情動記憶と、大脳新皮質にある陳述記憶と操作記憶から、反射的に行動するのに対して、大人は情動記憶からの反射的な行動を押さえて、大脳新皮質にある操作記憶と、その大人なりに加工した陳述記憶から行動するという違いがあります。子供の場合、情動記憶からの行動を外力で押さえつけると、暴力的な反応を示すか、神経症状や精神症状などの病的な症状を出して、とてもつらい状態になってしまいます。

 大人側からみた思春期以前の子供の人権を守るとは、子供たちの尊厳を守るとは、成長の保証、依存の保証、反射的な行動の保証を大人が与えることでしょう。これらのどれかが阻害されると、子供は心に傷を帯びる(ストレス条件反射を学習する)ことになります。一端できた心の傷を完全に治すことは、心の傷が疼かなくするのは大変に難しいです。不可能に近いです。子どもの人権を守るためには、成長、依存、反射的な行動を保証するように心がけ、子どもの心に回復が不可能な、不可能に近い心の傷を付けないことではないかと思います。ただし、子供の人権をある程度傷害(回復可能な心の傷を子供の心に帯びさる)して、それを子供がその傷害を完全に回復できたなら、それは子供にストレスについての耐性をつけることになり、条件次第(心の傷が完全に癒えたなら)では好ましいことになります。ただし、回復可能な程度の子供の人権の傷害なのか、子供の心の傷が完全に癒えたのかどうか、それは個々の子ども次第です。子供の成長の度合いや環境によっても異なります。子供の行動や表情をよく観察して、子供の潜在意識を正確に判断する必要があります。

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