フリースペース「したいなぁ~松戸」&松戸-登校拒否を考える会「ひまわり会」
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心療内科 赤沼医師のコラム

カウンセリング 2003.1.3

 カウンセリングと表現すると、特殊な仕事のように感じられますが、日本語に直すと相談という意味です。ですからカウンセリングとは心の問題だけにあるのではありません。どんなことでも相談することがカウンセリングであり、相談を依頼する人がクライエントであり、相談を依頼される人がカウンセラーです。カウンセラーという公的に認定された職業はありません。相談を受ける限り、相談を受けた人はカウンセラーとして、料金を貰おうと無料でおこなおうと、それは相談を受ける人の自由です。

 医療の傍ら、登校拒否、不登校、引きこもりの相談を受けて数年になります。カウンセリングの基本は、ただただ訴えを聞いて、共感してあげることです。訴えを聞いても、決して評価を与えないことです。ですから、いわゆる専門的な知識は必要としません。かえってない方が、訴えをすなおに聞くことができます。

 子どもに対するカウンセリングはほとんど必要がありません。子どもの話を聞きながら、子どもの全てを認めようとします。親に対しては、親が落ち着くまで、親のありのままをやむを得ないと認めます。親の受け取り方を見ながら、子どもの目線や子どもが十分に信頼に足ることを教えてあげます。親が落ち着けば子どもも落ち着いてきます。登校拒否、不登校、引きこもりのカウンセリングには、子どもへの確固たる信頼と子どもの目線だけは知っておく必要があります。それは登校拒否、不登校、引きこもりの経験者とつきあうことで知ることができます。

 一番難しいのは、親が具体的な対応策を質問してきたときです。具体的な対応はいらなくて、子どものありのままを認めて欲しいと伝えても、親は納得しない場合が多いです。私の場合医者(現代の精神医学や心理学を信用していない)で、脳科学的な見方ができますから、その子どもに即した答えを出してあげられますが、多くの方では「How to」になってしまうようです。

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仮面を被った子供達(小、中学生に限定する) 2003.1.20

{仮面を被るとは、良い子を演じるとは}

仮面を被るとは、良い子を演じるとは、子どもが嫌な情動刺激を受けたとき、見かけ上情動反応からの動物的な回避行動や不適応行動を示さないで、それまでに学習た知識を用いて習慣の心から反射的に、周囲の大人に受け入れられるように反応することです。見かけ上は大人の求める理想に近い反応や行動をする子どもの反応の仕方です。時にはその反応が大人びていて、子どもらしさが無いように感じられます。

 仮面を被る、良い子を演じるには、過去に仮面を被るための、良い子を演じるための知識を学習していなければなりません。それだけの学習をしておくためには、子どもはかなり知的に高くなければなりません。本来良い子供で、知的にも優れている子どもが、辛い状態になると、仮面を被る、良い子を演じるようになります。

 仮面を被る、良い子を演じること自体は、子どもにとって辛いことでも、努力を要することでもありません。子どもは受けた刺激に反射的に習慣の知識から反応しているだけです。けれど同時に情動の心が反応して、辛い症状が体中に出ています。子どもはその辛い症状に耐えています(耐えられなくなったときに仮面を取っている、良い子を演じるのを止めている)。大人の目から見たら、とても良い子で問題ないと考えられやすいですから、大人はその子どものためと思って、結果的に子どもに辛い思いをさせ続けることになります。大人からは、とてもそのようなことはあり得ないと思える状態の子どもが、その心の中で辛さに耐え続け、新たに心を傷つけ続けています。

{子ども達の心の状態からの概念的な分類}

 現在の子ども(小中学)たちの心に大きな影響を与えているのは学校です。殆ど全てと言って良いほどの子どもたちが、学校との関係で心を成長させています。学校との関係で子どもたちの心を見ることで、実際上子どもたちの心を知ることができますし、そうすることで問題もありません。

 現在の子どもたちを学校との関係で見るなら、子どもたちは概念的に、考え方として、大きく三つに分けられます。正確ではありません。その三つの子供達の区別の仕方は、

1)学校へ問題なく行っている子ども、

2)学校へ行き渋る子ども(登校拒否)

3)学校へ行こうとしない子ども、行くことが出来ない子ども(不登校)

とで、区別できます。

2)の学校へ行き渋る子どもと、3)の学校へ行こうとしない、行くことが出来ない子どもとの区別はさほど難しくありません。1)の学校へ問題なく行っている子どもと、2)の学校へ行き渋っている子どもの区別は大変に難しいです。

 子どもが仮面を被る、良い子を演じるという意味では、1)の学校へ問題なく行っている子どもはありのままの自分で仮面を被らないか、即ち子どもの本心から良い子である場合か、良い意味で仮面を被る、良い子を演じて、それを自分の経験や知識として、心を成長していっている場合です。多くの子どもがこれに属します。

2)の学校へ行き渋る子どもは、辛い刺激を受けなければ仮面を被らないで、即ちありのままの自分で良い子でいれます。ところが辛い刺激を受けたときには、元来ならありのままの自分で反応して不適応行動を取るのですが、相手を選んで仮面を被り、良い子を演じてしまいます。そこには理由はありません。単なる反応の仕方です。なぜ、仮面を被る、良い子を演じるような行動を取るのか、それは解りません。情動反応の表現として、これらの行動が選択されているだけです。最近、子の状態の子どもの数が増えてきています。

3)の子どもは仮面を被る余裕が有りません。良い子を演じる余裕がありません。辛い刺激を受けたら(辛い刺激は自分の中で作られることもあります)、ありのままの自分で反応して、不適応行動を取ってしまいます。ただし、辛い刺激が無ければ、ありのままの自分で、良い子でいれます。不適応行動を取ることはありません。不登校、引きこもり、不良行為をする子どもたちです。

{先生と子ども}

 ある割合の子供達は先生の前では仮面を被っています。良い子を演じています。子供達は親からも、先生からも良い子であることを求め続けられて育ってきています。子供達はそのために、先生の求める形になろうと、習慣の心から反応します。先生方から見た子どもの姿がその子供の自然体の姿ではない状態の子どもがかなりの数います。受けた刺激に素直に反応することなく、過去に学習した知識で反応している子どもがかなりの数います。先生方の見ている子どもの姿とは通信簿に良い点数を着けて貰うための子供達の姿である場合(仮面を被る、良い子を演じる)があります。その子どもが知識から振る舞っている姿を、その子どもの本当の姿だと判断しておられる先生方が多いようです。「あんないい子が?」と先生方は言われます。子どもが習慣の心から反射的に良い子を演じている姿を子どもの本当の姿だと思っておられる先生方の大きな落とし穴です。子どもの本当の姿は先生の居ないところで見られます。ある意味では、先生と言う立場からでは、子どもの本当の姿は見ることはできないと考えても過言ではありません。ただし、その良い子を演じている子どもがその演技が子どもの本当の性格に移行すればそれでいいですし、また、多くの子どもがそれをしています。学校へ問題なく行ける子どもたちはそれをしています。ですが、良い子を演じられなくなったとき、いろいろな問題を生じる子どもとして気づかれることになります。つまりこころの傷が疼きだして、良い子を演じられなくなった子供達です。

 多くの先生は、子どもが良い子を演じるのを、それが子どもの本当の姿だと判断しています。子どもが良い子を演じるのを止めたとき、先生はこんなはずではなかった、子どもが問題だと考えられます。子どもは周囲の環境に順応しようとして、無意識ですが、精一杯成長しています。その成長の過程で子どもの心が傷ついて、仮面を被ることすら出来なくなり、不適応行動を起こしたとしても、子どもには全く責任がありません。子どもに責任を求めることは間違いです。

{親と子ども}

 本質的には先生と子どもとの関係と同じですが、親と子どもには生まれ落ちてからそのときまでの親子の信頼関係があります。親子の信頼関係が強ければ子どもは仮面をかぶらない、よい子を演じる必要がなくなります。信頼関係がないと子どもは親の前でも仮面を被る、よい子を演じなければなりません。

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学校での体罰 2003.2.8

 文化省から2001年度の体罰が、小学校から高校までで955件1579人の子供が体罰を受けたことになっています。これは学校側が隠しきれなくて報告した体罰の総数でしょうから、本当はもっともっと多いと思われます。体罰を受けても親に言えなかった子供、親に言っても親から「おまえが悪いんでしょ」と言われて無視された子供、家庭の都合で学校に抗議にいけなかった親もいるでしょう。それらの結果の被害者は全て子どもたちです。

 文化省から発表された体罰はほとんど全てが子どもたちの体に加えられた暴力です。子どもたちに加えられた暴力は体に傷を付けたから発覚しています。体につけた傷以上に問題なのは子どもたちの心につけた傷です。心につけた傷は外から見えません。けれどその心の傷が子どもたちを苦しめ、子どもたちが登校拒否や不登校になっていっています。子どもたちが登校拒否、不登校になると、今度は子どもたちの苦しみは無視されて、辛い学校へその子どもたちを戻そうとする対応で、子どもたちは苦しめられることになります。

 学校の中では立法官も、行政官も、警察官も、司法官も、すべて教師です。教師の意向に反する子どもたちは罰せられ、子どもたちが自分たちのありのままの正当性を主張すると、それもまた罰せられて、時には体罰を受けています。それも教師が子どもたちを愛するがためだ、かわいい子どもたちを正すためだという名目で、子どもたちの意志を全く無視して行われています。現在の校の中で、多くの子どもたちは学力を伸ばしているかもしれませんが、その一方で教師たちが自分たちの職場を守ることを優先するために、深く心を傷つけられて苦しむ子どもたちをも作っています。

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万引きについて 2003.2.27

 あるテレビニュースで、調査した小中学生のほぼ全員に万引きの経験があるとの報道がされていました。どのような調査をしたのかはっきり示していませんでしたから、その結果をそのまま素直に信じるわけにも行きませんが、かなりの数の子どもたちが万引きをした経験があることは事実のようです。それらの子どもたちは「万引きは悪いこと」と知っていると報道されまていした。けれど自分が万引きをしたことに関しては、欲しかったからと釈明し、悪びれた様子が無かったようです。

 子どもたちは、知識としては万引きは悪いと知っています。調査の中で、万引きが悪いと言わなかった子どもたちは、調査についてまじめに答えていなかったのだと思います。意図的(思考を重ねてという意味でなくて、習慣の心から、反射的にという意味です。すでにこの種の調査など、社会からの働きかけに不適応行動を取ることを学んでしまっている子どもたちです)に、別の答え方をしたのだと思います。

 日本文化の中で成長している限り、子どもたちは万引きは悪いことと学習しています。それと同時に、このような調査について、調査を受けることを遊びにしてしまっている子どもたちもいるといます。それ自体は決して悪いことではないのです。調査する方の、調査の仕方が悪いのです。

 万引きをした子供の親の中には「たかが万引きぐらい」と言う親もいました。親たちは進学に必要な知識ばかりを求めて、子供の心の成長を無視している傾向を表していると思います。子どもたちが生活していくのに必要な知識を発展させていくのを、無視するだけでなく、阻害していると言えると思います。この種の知識の発達が、人間として社会生活をしていくのに大切なことをこの種の親たちは知ってはいますが、無視(学業が将来の物質的な豊かさを保証していると信じ、それを優先しているためだと思います)していると思います。これらの親たちは子どもたちの万引きを、子どもたちの間ではよくあること、あって良いとは思わないが、深刻に考える必要がないこと、放っておけばそのうちにしなくなることだと思っているようです。

 万引きとは他人が店で売るための商品として陳列している物を盗む(代価を払わないで取る)ことです。自然界にあるような、誰にも属していないような物を取るのとは違います。親の所有物を取るのとは違います。万引きを悪いことと決めたことは人間です。万引きが悪いことだからしてはいけないという知識は、人間の約束事です。知識が少ない幼い子供が万引きをするのは決して異常ではありません。幼い子供は生活の中で、他人が所有している物を取っては行けないことを、自然と学習していきます。自我の成立とともに、自分の物、他人の物という概念が成立していきます。自分の物が取られるという経験から、人の物を取ることの問題点を、自然と生活の中で学習していきます。知識が不十分で他人の物を取った結果、親やその他の大人から罰せられたという経験からも、盗むという概念が、盗むことは悪いことだという知識が形成強化されていきます。これらの知識は一生続いて、有効に機能していくはずですし、機能していきます。

 現在の教育は知識の詰め込みです。親も社会も子供に「万引きは悪いこと」と知識では教えています。けれどその知識が、子どもたちの生活に役立っていない事実(経験していないために強化されていない)があります。子どもたちが持つ知識から、子どもたちが行動しようとしていません。子どもたちの持つ知識を使って行動すべき状況下で、子どもたちの持っている知識からの行動を行う経験をしていない、練習をしていない事実です。持っている知識を利用して生活をする練習ができていません。子どもたちは知識ばかりを詰め込まれていて、その知識が生活に役立っていないこと自体は、現在の教育の性格上やむを得ないところがありますが、この万引き一つを考えても、現在の教育の在り方を変える必要があります。つまり子どもたちの知識を生活に用いる練習や、子どもたちの情動にもっと注目した教育を考える必要があります。親たちも、子どもたちの知識から行動する機会があるのに、子どもたちの知識から行動をさせようとしない問題点があります。

 非常に幼い子供のように、盗むという概念のない子供立場別として、盗むことが悪いことであると知っている子供が、あえて万引きをする理由には、前記の子どもたちの持っている知識を使う経験がない場合のほかに、子どもたちに加わっているストレスがあります。ストレスによって、普段は全く万引きをしない、しそうもない子供が、突然万引きをしてしまいます。万引きの際の心の緊張(冒険心のような物、新奇刺激に属する)がストレスをうち消してくれるからです。子供によってストレスの内容は異なります。けれど子供にストレスが加わった状態の時に、子供に欲しい物があるときに、時には別に欲しいと思っていなくても潜在意識で欲しい物に、反射的に欲しい物に手を出して万引きをしています。後から振り返って、自分が欲しいと思ったからと理由付けをしています。その万引きをする際の子供の行動は発作的で、無意識ではありますが、それまでのその子供の経験がフルに生かされて行われるところが、私達子どもの心を研究している者にも、とても分かりづらいところです。

 動物の行動は、同一の行動を繰り返すことで、習慣化していきます。状況が整うと反射的にその行動を行うようになります。それは子どもの万引きにも当てはまります。習慣化した万引きの習慣性を取り除くのは大変に難しいです。いわゆる癖という物に相当しますから。その結果、いくら学業ができてもその子どもの一生を台無しにしてしまう場合があります。大人になっていくら社会的に認められた地位を獲得しても、何かの折りにその人の一生を台無しにするようなことをしてしまう場合すらあります。

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見えない不登校は実質的に不登校 2003.3.11

 不登校新聞3月1日の論説「見えない不登校」を読んで、勇気づけられて、意見を述べさせていただきたいと思います。

 不登校とは、大人が納得する理由がないのに、子どもが学校へ行かないことです。この不登校という概念を用いる限り、内田さんがご指摘のいろいろな事実の子供達は、形の上で登校していますから、学校側が不登校として扱わなくても非難されないわけです。学校側がこれらの子どもを不登校問題の対象外にする理由になります。けれどこれらの子供達に学校へ行かす対応を止めたなら、これらの子供達は学校へ行かなくなります。実質的に不登校状態の子供達です。

 ただ単に、行政側や学校側の「不登校の子供の数を減らす」という目的のために、実質的な不登校の子供に、見かけ上、不登校になっていない行動を取らせる対応が続けられています。それを内田さんは「見えない不登校」と表現なさいました。そして今回の「協力者会議」の目指しているのも、不登校の子どもを「見えない不登校」にする対応を行政が後押しするようになっています。

 不登校の子どもや「見えない不登校」の子どものように、学校へ行きづらくなっている子供達の状態を登校拒否といいます。不登校とは、子どもが学校へ行かない状態ですからわかりやすです。不登校以外の登校拒否はわかりにくいから、いろいろと理由を付けて、不登校とは別として考えています。「見えない不登校」の子供達を目に見える不登校にさせないために、大きな労力とお金を掛けています。

 「見えない不登校」の子供たちを学校へ戻そうとする現在の対応が本当に好ましいものなら反対をしません。ところが「見えない不登校」の子供達も、登校刺激を受けている不登校の子どもたちと同じように苦しんでいます。親や周囲の大人達が理解しようとしないストレスを受け続けて辛い状態になっています。それに気づかない現在の学校の対応は、一時的には不登校の子どもを「見えない不登校」の子どもにします。けれどその後に、子供達はいろいろな症状を強く出しますし、辛い状態での不登校や引きこもりと言う形で動けなくなってしまいます。学校側では「みえない不登校」の状態で子どもを卒業させてしまえば一件落着でしょうが、当の子どもは、その後も長い時間、いろいろな辛い症状で苦しみ続けなければならないのです。

 ストレスを与えることが良くないことは医学的にも認められています。けれど行きたくない学校へ行かされるというストレスで、子供達が苦しむことは体に悪いことだとは、大人達は考えないのです。現実に学校へ行かせることでストレスを与え続ければ、子どもの心と体がおかしくなってしまうのは大人と同じです。それなのに、不登校の子ども達にストレスを与え続ける対応を続け、子供達にかかっているストレスをいろいろな理由を付けて無視し続けるか、そのストレスを自分で克服しろと言っているのです。大人でもできないことを、子ども達に要求しているのです。そしてストレスの結果子ども達がいろいろな病的症状を出したときには、子どもは病気だから治療しなければならないとするのです。

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医学的に不登校を考えるなら 2003.3.23

 医者として不登校の子どもに関わり合って十数年になっています。私が医者として不登校の子供達を見ていると、現在の学校や教育委員会の対応に、否定的に成らざるを得ません。その理由を述べてみたいと思います。

 不登校だった子どもが、不登校になる前の元気な状態で学校へ行きだしたのでしたら、全く問題が無いのですが、今までの私達の経験から、不登校の子どもを不登校になる前の元気な状態に戻すことは、大変に難しです。学校の先生の対応、友達の対応で子どもが学校へ行きだし、その過程の中で不登校の子どもが元気になった例もありますが、それらはほんの一部であり、多くの場合、先生の対応や友達の対応で、不登校の子どもはかえって状態を悪くしています。多くの場合、不登校の子どもの親でない人達には、不登校の子どもを元気にすることはできない場合が多いです。それも不登校の子供の親でさえ大変に時間が掛かることがわかります。

 私が数百人の登校拒否、不登校の子どもを観察する限り、不登校の子どもに学校へ行けるような状況を作り、子どもが学校へ行きだした場合でも、またすぐに学校で辛い経験をして、前にも増していろいろな神経症状、精神症状を出して、不登校になる場合が多いです。また、長く学校へ戻れた場合でも、学校を卒業後にいろいろな身体症状、精神症状を出して、引きこもってしまう場合が多いです。これは不登校を経験した子どもを学校へ戻すためには、今までの対応ではまずい場合が多いことを示しているのです。不登校の子どもを学校へ戻すには、どのような対応が良いのか、それをはっきりとさせる必要があります。それも今までの対応ではまずい場合が大半なので、はっきりとした不登校の子どもへの対応での良い方針が見つからない限り、不登校の子どもを学校へ戻そうとすることは、不登校状態を強めることになります。現段階では学校の対応や一般の対応は、医学上も好ましくないようです。

 医学上から言うなら、不登校の子どもの反応はストレスからの反応そのものです。不登校の子どもには学校がストレスになっています。ストレスの原因は何であれ、結果的に学校がストレスになっていることを、現在多くの医者が感じているところです。ストレスを人に与えると、人はいろいろな身体症状や精神症状を出すことが分かっています。大人ではストレスに対する配慮はいろいろと取られるわけですが、こと不登校に関してはストレスに対する対応が学校で取られないばかりか、ストレスの原因となっている学校へ子どもを行かそうとする対応がより一層強められようとしています。学校がストレスになる原因を解決しない状態で学校へ子どもを戻そうとする対応は大変に危険です。医学的な事実を無視して、不登校の子どもを学校へ戻そうとする対応は、学校として大変にゆゆしい問題であることを指摘しておきます。

 不登校の子どもの学校がストレスになっていることが自体が問題であり、不登校の子どもにとって、学校にストレスを感じないようにしようとすることを考える人もいるようです。ところが、大人でもストレスの存在する状態でストレスを無くする対応は大変に難しいです。まして学校内での問題点が解決されない状態で、ストレスを感じる学校へ不登校の子どもを戻して、不登校の子どもの性格を変えようとする(行動療法を念頭に置いた学校の対応)ことは却って子どもにストレスを与え続けることになり、ストレスに対する反応を強めるばかりで解決には成りません。これは医学的にはっきりと言えることです。

 不登校の解決は決して子どもの形の上での学校復帰ではありません。学校で不登校だった子どもについて、学校でストレスを感じなくなる状態が、不登校の解決です。学校がストレスにならない状態になるまで、不登校の子どもを学校へ戻すべきでないことは、はっきりと医学的に言えることなのです。そうしないなら、不登校の子どもにとってストレスにならない学校を作る必要があります。ただし、学校内の問題が不登校の子どもにとってストレスになるのかならないのかは、個々の不登校の子どもの心の問題であり、学校内での問題をその学校なりに解決したからといって、不登校の子どもにはストレスにはなっていない、ストレスにならなくなっている、と言う様なことはあり得ないのです。

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教育基本法に欠けているものは 2003.4.9

 教育基本法の改正が取りざたされています。その中で教育の危機が叫ばれています。本当に教育の危機が存在するのでしょうか?不登校の子どもの数の増加や学級崩壊を危機と言うなら、それなら危機かも知れません。それ以外のいじめや非行などは昔からあったことであり、今に始まったことではありません。

 これらの学校側からみて子どもたちの不適応行動の原因は、子どもたちにありません。これらの不適応行動を取った子どもたちは、自分たちの通う学校の中で一生懸命生活して、その結果どうにもできなくなって、これらの不適応行動を取っています。子どもたちがやりたくてやっている不適応行動ではありません。学校側や教育行政側では認めたくないでしょうが、原因は学校の中にあります。教師が多様性のある子ども達への対応をしきれないことにあります。これらの子どもたちの不適応行動が問題にならなかった時代には、教師は子どもたちの多様性を問題にする必要がありませんでした。教師達が子どもたちをどんどん引っ張っていけば、当時の子どもたちはついてきました。けれど現在ではそれができなくなっています。教師達は自分たちが子どもたちを引っ張れなくなった責任を自分たちの能力でなく、多様性のある子ども達に転化しています。

 多様性のある子どもたちへの学校側の対応も少しずつ変わってきています。一学級内の子どもの数を減らしたり、ゆとりのある授業や、子どもたちをいかに引っ張っていくかの研究がなされています。一見子どもたちの立場に立った対応のように見えますが、依然として学校側が子どもを全体として見ていて、子ども一人一人を丁寧に見ていない事実があります。授業の際の子どもの姿は、あくまでも授業という条件下の子どもの姿であり、成績という評価のために多くの子どもたちは良い子を演じています。子どもたちの無理をした姿なのです。子どもたちは教師の目の届かないところで、良い子を演じることを止めています。それが生き生きとした、その子どもらしさであったならそれでよいのですが、子どもたちの中にはいじめなどの不良行為を行っている場合もある事実を教師が信じようとしていません。教師は自分の見た、授業中の子どもの姿しか信じようとしないのです。

子どもに教科書の知識を教えるだけなら、塾の先生の方が上手かも知れません。現在子どもたちが教師達に求めている物は、子どもたちがありのままの姿でつきあえる教師です。良い子を演じている子どもについても、良い子を演じることが子どもの喜びになるような教師です。教育基本法に不足している物は、「子どもたちが信頼できる大人、その結果子どもたちから信頼される教師」の姿を求めることです。

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オルターナティヴ 2003.5.18

登校拒否、不登校の子どもには、教室に入れないなら、保健室やスクールカウンセラーの部屋へ行くことが求められています。学校へ行けないなら、適応指導教室などの教育施設に行くことが求められています。しかし、学校へ行けないなら、自宅学習という選択は実際には存在しても、公には認められていません。その理由は、きっと学習したかどうかを調べようがないことが考えられます。自宅学習といわゆる引きこもりと区別できないことがあげられます。義務教育という名前にこだわって、文科省がその責務を放棄していると考えるのでしょう。子どもは集団に入って、社会性を学習すべきという考え方もあるのでしょう。そこには自宅でしか自分を取り戻せない子どものあり方が全く無視されています。その子どもなりの成長という考え方が全く無視されています。

いわゆる引きこもりと書いた引きこもりには、家の中で元気にしている引きこもりの子どもたちと、いろいろな病的症状を出して苦しんでいる引きこもりの子どもたちを指しました。いろいろな病的症状を出して苦しんでいるこの子どもたちには、学校に相当する勉学を期待することは不可能でしょう。害はあっても益はないです。家の中で元気にしている子どもたちには、場合によっては学校に相当する勉強もできる場合もあります。それ以外にも、学校やその他の教育施設に行かないけれど、家の中ばかりでなく家の外でも生活できる子どもも、場合によっては、自宅学習なら可能でしょう。

自宅学習はその子どもの親に、経済的な、時間的な、精神的な、大きな負担がかかります。日本の場合、親は心の豊かさよりも経済的な豊かさを求める傾向があります。親は子供に自宅学習をしようとはしません。学校に子どもの全てを任せ、親に負担になることを嫌います。親は自宅学習をいやがって、子どもを学校や他の教育施設に子どもを押し出そうとします。その結果苦しむのは家庭でしか生活できない子どもたちです。子どもたちが苦しむと、家庭の中がその影響を受けて親が苦しむことになります。

学校に行けない子どもたちにとって、フリースクールなどの教育施設は大切な選択肢です。それらの教育施設が充実することを望みます。けれど問題の一つは、多くの学校に行けない子どもたちに取って、学校の臭いのするところでは大変に辛くなることを、知らない大人が多いです。学校へ行けないなら、適応指導教室などの学校に関連する場所に行くように、子どもに求めます。学校でなくても、そのような学校の臭いのするところを、学校に行けない子どもたちは拒否するようになります。

学校の臭いのするところ、と書きました。それは実際に臭いがするわけではありません。学校の雰囲気や、子どもが学校で感じた物と同じ感じを、学校外の場所が子どもに与えることを、指しています。特に、学校と同じ情動を生じることを、学校の臭いがすると表現しています。学校で辛い思いをした子どもが、学校外の施設で、学校と同じ情動を生じるとき、そこでは学校の臭いがすると表現します。不登校の子どもは、情動で学校を拒否しています。学校の臭いのする場所を、不登校の子どもは拒否します。もっと正確に言うなら、不登校の子どもが学校外の場所を拒否するとき、そこにはその子どもにとって、学校の臭いがすることになります。同じ場所でも、ある子どもには学校の臭いがして、別の子どもには学校の臭いがしないことが、必然的に生じます。

自宅学習は家庭でしか生活できない子どもたちにとって、一つの大切で有効な選択しです。それを可能にする社会になることを望むものです。 

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教師の認識違い 2003.5.26

 教師という閉じた集団、学校という閉じた場所では、教師の希望的理解が正しい理解として扱われがちです。教育を科学的にアプローチしようとする教育学も、統計という科学を用いることで、科学性を持たせようとしていますが、その統計も母集団の選択を誤って使用したなら、そこには普遍性は無くなってしまいます。統計という道具を使った、教育に関する、単なるお遊びになってしまいます。

 ある相談を受けました。
 新学年になり、担任の教師が変わり、最近「学校で気持ち悪くなる」と言い出しました。病院につれていったところ、「病気はない」と言われました。学校からの連絡にも、「新学年になって、クラスの子ども達が勉強に集中していない。」と書いてありました。新学年になって、「目をぱちくりする癖」が気になります。今までそのような癖はありませんでした。担任の教師との家庭訪問があり、教師もその癖が気づいていて、「ストレスからくることがあるんですが、なにか気づくことはないですか?」と聞かれましたが、家庭内では特に何かあったわけではありません。教師は、「毎日一時間勉強することにしていますが、4年生にはそれはキツイかもしれませんよ」と言いました。子どもの学校での様子は、「授業中もしっかりと発言していて、休み時間も外で元気に遊んでいる」とのことでした。

 この子どもはストレスから身体症状を出しています。それは胃腸症状とチックです。この子どもと同じようなことがクラスの中で増えてきているのは、担任の教師の学級運営がクラスの子ども達にストレスを与えているからです。教師自体も子ども達にストレスを与える可能性を知っていますが、子どもたちの不登校が、その教師の与えているストレスと結びつけていません。子ども達が受けているストレスが自分の学級運営であることに気づいていません。その原因を家庭に求めています。一生懸命子ども達を伸ばそうと思う教師の思いが、子どもの苦しむ姿の理由を他に求めさせています。子どもたちの苦しむ原因をその教師は誤解しています。

 現在の学校のあり方が、成績の良い子ども、運動が良くできる子ども、教師に良く従う子どもを求めている限り、教師方への評価も、これらの子ども達をいかに作るかにかかっています。教師が自分たちの評価を気にするのは当然のことです。教師の興味は、成績の良い子ども、運動が良くできる子ども、教師に従順な子どもに行ってしまうのは、当然でしょう。その結果教師方の見方は、自分たちの都合の良いようになってしまっています。教師にとって都合の悪い現実も、自分たちの都合の良いように解釈してしまいます。その結果、教師方の見方が間違っていたことがわかっても、担任の期間が終われば済んだことで自分には関係ないととして、忘れ去られています。教師に傷つけられて苦しむ子どもたちだけが残ってしまいます。

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反論 2003.6.6

2003年5月15日の日本医師会雑誌に「思春期をめぐる諸問題ー医療と教育の立場から」という集中講座が特集されていて、筑波大学の宮本信也教授が「不登校の理解と対応」という論文を寄せている。これに対して現場の医師からの反論である。

現場から見た、小学校や中学校の子どもの不登校

 現在、不登校、引きこもりが社会の関心事になっている。しかし、診療所で子ども達を赤ちゃんから、小学、中学と子どもの成長の中で、不登校になった子ども達や不登校になりかけた子ども達(数百名)を見ていると、また、不登校や引きこもりで苦悩する母親達と密接に連絡を取りながら、不登校や引きこもりの子ども達に対応していると、今まで言われていることとだいぶ違うことが起こっている。それは小中学生の不登校では、間違いなくほぼ100%学校や学校に関係する物がストレサーになっている事実である。そして、家族との関係がストレッサーになるのは、家族が不登校の子どもに学校というストレッサーを与え続けている場合である。家族が学校というストレッサーを不登校の子どもに与えなければ、又は与えるのを止めれば、不登校の子どもにとって家族がストレッサーにならない、ならなくなっている。

 子どもが不登校になる原因はいろいろあるが、それらの原因の結果、不登校の子どもは周囲の人から見たらその程度の差は有るが、辛い事件を経験をしている。その程度の差というのは、周囲の人から見たときの判断であり、事件を経験した当人は、死ぬような思いをしている。それは不登校の子ども親との間に信頼関係を持てたとき、子どもが話してくれている。不登校の子どもにとって辛い事件とは、子どもの性格から生じた物、友達関係から生じた物、先生や部活動などによるものがある。ただ、これらの事件が有ったから、子どもが不登校になったのではなくて、これらの事件の結果、学校や学校に関係する物がストレッサーになったから、そのストレサーを回避するために、子どもは不登校になっている。大切なことは学校や学校に関連した物がストレッサーになっていて、子どもはそのストレッサーである学校や学校に関係する物を回避しようとするのであり、学校内で起こった事件が有ったから学校を回避しているのではない。だから、学校内で起こった事件を解決しても、子どもはやはり学校を回避しようとし続けるのである。

 学校や学校に関連する物がストレッサーになっているのだが、ストレスを与える度合いは物によって、また子どもによって異なる。一般に学校の概念や教室、先生が強いストレスを強く与えやすい。同じ学校でも保健室等は教室よりもストレスを与えない。

 子どもが不登校になる前に、程度の差は有るが、必ず学校への行き渋りが見られる。その際に多くの子どもは身体症状や精神症状を出す。この時期は、未だ学校や学校に関する物のストレッサーとしての機能が弱いときである。この時期に、子どもが不登校の前段階だと判断して、子どもをストレッサーから隔離する(子どもが納得するまで学校を休ませる)と、子どもは再登校を始める。不登校にならないで済む。この様に、子どもが学校へ行っていない状態でも、ストレッサーから隔離するために学校へ行かないのと、不登校で学校へ行けないのと、その内容は、その結果は大きく異なる。

 子どもが学校へ行き渋っているのに、登校刺激を与え続けると、学校や学校に関する物が強いストレッサーとして機能をし出す。また、子ども自身が学校や学校に関する物を思い出すだけでも、その事がストレッサーとして機能する。その結果子どもは全く学校へ行けなくなる。子の状態が不登校の状態である。強いストレッサーに晒されて、それから回避できないときには、子どもは強い神経症上や精神症状を出したり、暴れ出したりする。それは哺乳類に共通に見られることであり、異常ではない。哺乳類としての自然な反応である。

 この時期になると、学校や学校に関連する物がストレッサーで無くするのは大変に難しい。学校や学校に関係する物から徹底的に隔離して、学校の卒業を待ち、学校に関係しない生き方をさせるしかない。学校に関係しない生き方をしている内に、子どもの方で学校へ戻ろうとする子どもも出てくる。

 不登校の際に、子どもが出すいろいろな病的症状は、ストレッサーから回避できないために出しているのであり、病的であるが、病気ではない。それを病気として、投薬しても症状が軽くなっても、ストレッサーが存在していることに変わりはない。解決にはならない。医者としてその事に気づく必要がある。

 不登校問題は社会現象であるが、不登校の子どもに関しては、子ども一人一人の子どもの持って生まれた物、学校での事件、その結果学校や学校に関係する物がその子どもにストレッサーとして働くようになったという、個人的な心の問題であり、不登校の子どもに加わるストレッサーを回避でいないでいると、いろいろな病的神経症や精神症状を出すのであり、医者は病気でない子どもを病気として治療することは間違いであり、許されないことである。

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心神喪失者医療観察法案 2003.6.28

 現在、日本社会は、心の問題で苦しむ人たちを病人として、薬による治療を行うことが常識とされていて、安易に向精神薬を求める傾向があります。心の問題で苦しむ人たちの症状を無くすることが医療の目的になっています。それを助長しているのは精神科医が風邪などと同じ感覚で投薬を開始している事実がありますし、それを色々なメディアを通じて公表しています。ところが実際は、投薬の開始により一時的に症状が改善しても、また新たな症状を出す人が多くて、その結果新たに薬が何種類も追加されて、少ない人でも数種類、多い人では十数種類の薬を毎食後に飲んでいる人たちが多いです。まさに、心の問題で苦しんでいる人たちは、薬漬けになっている状態です。精神科医療では、よくなった例を持ち出して、精神医療の良さを宣伝していますが、その様な例は本当に一握りの人たちです。それも薬で解決したとは私は思っていません。薬では、心の問題で苦しんでいる多くの人たちの問題がいっこうに解決していないばかりか、薬の副作用に新たに苦しんでいる例を数多く見かけています。その事実はきっとご存じだと思います。

 ここで、私が心の問題で苦しんでいる人と表現して、精神病患者と言わない理由にふれておきます。それは私が担当している心の問題で苦しんでいる人たちの半分以上が精神科医で統合失調症、躁鬱病、パニック障害、自閉症、ADHD、LDなどと診断のついた人たちです。これらの人たちの薬を減らし、カウンセリングだけで、心の問題を解決している事実です。この事実から、精神科医療では、病気でない人を病気として治療をしている可能性が高いことです。精神科医が精神病と呼んでいる心の問題で苦しんでいる人に、病気としての根拠を持たないまま、病気として、副作用の強い薬を飲ませている、ある意味で人権侵害を犯している事実です。

 現在精神疾患とは精神科医が自分の感覚で心の問題で苦しんでいる人を精神病と決めています。科学的な、客観的な根拠は全くありません。DSM-4という診断基準があることは事実ですが、この診断基準に合致しているかどうかの判断は、精神科医の主観です。また、DSM-4自体が、精神科医がその主観から作り上げた物であり、科学的な紺強がありません。それどころかDSM-4で障害と規定している物の一部には、脳科学的に単なる生理的なストレスに対する反応であることが分かってきているものもあります。

精神科医の概念からだけで、人の人権を侵害するような法律を作ることは大変な間違いを生じます。確かに所謂心神喪失者による犯罪があり、それを防ごうとするのは理解できますが、医師として今までの経験から、心の問題で苦しんでいる人たちを所謂心神喪失者に追い込んでいることの片棒を担いでいるのは医療と言うことが出来ます。心の問題で苦しむ人たちに面と向かい合わないで、薬だけ投与して、心の問題ばかりでなく、薬の副作用で苦しむ人を作り、親不信、医者不信、人間不信に陥り、苦しいときに所謂心神喪失者として思わぬ行動に出ています。医者や親等の人間がが人間を所謂心神喪失者にして、犯罪を犯すように陥れていることになります。

 現在必要なのは所謂心神喪失者を隔離して、投薬することではありません。所謂心神喪失者にしてしまう親や医師を変えるにはどうするかを議論することです。今の精神医学を医者の独断からでなく、心の問題で苦しむ人たちの立場になって考えることです。これは可能です。現に、私が実行して成果を上げているのですから。ただ、精神科医や一般の人が、アメリカ流の精神医学を信じ込んでいるだけでは、いくら心神喪失者法案を作っても問題の解決になりません。問題の解決には心の問題で苦しんでいる人達への、心の問題で苦しんでいる人の立場に立ったカウンセリングなどの対応策を法的に確立することです。

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生徒達の学校 2003.8.6

 ある荒れた中学校で、生活指導担当になった教師が、「どうしたら学校を元の落ち着いた状態に戻せるか」と考えて、生徒達と積極的にスキンシップを取ろうと考えました。毎朝校門に立って、登校してくる生徒たちに挨拶をして、気楽に言葉を交わし、頭を撫でてあげ、握手をしたりしたりした。休み時間も校内を巡回して、生徒達と気楽に会話をして、生徒達の遊びに加わりました。それが良い結果を生じたという証拠はないのですが、一年間ぐらいで学校内の荒れが納まったという報告がありました。

 現在の小学生、中学生、そしてきっと高校生でも、生徒達は学校で息苦しさを感じています。学力を高めること、運動能力を高めることを目的に、(先生方は生徒達の事を考えているのですが、あくまでも先生からの立場であり、生徒の立場ではない)生徒達の心を無視した教育が行われています。学校で色々な問題を起こさないために、学校からの管理で、子どもらしさを押さえ込まれて、窒息状態の子どもが多く見られています。それら生徒たちはその辛さから、先生方のいないところで先生方への不満を言っています。このこと自体は昔の学校と同じです。そして、昔の生徒達は学校外で、学校への不満を解消することが出来ました。

 けれど現在の子どもたちは24時間大人から管理されています。学校での不満を解消する方法を持っていません。それどころか、進学率が高くなることで、多くの生徒たちが勉強するようにとの圧力で、一流の運動選手になるようにとの圧力で、苦しんでいます。それらは結果として、生徒達が学校内でいじめや非行行為、授業妨害を行うようになって来ています。それらは決して生徒たちがすき好んでしているのではありません。学校が辛いから、その辛さから無意識にいじめや非行行為、授業妨害を行っています。指摘されれば自分の行為が悪いことと知識では知っていますが、自分の行為が悪いことと認識していません。それらの悪いことをしているという認識のない生徒達を罰しても、生徒達は罰せられた意味を理解できません。罰せられたこと自体が新たなストレス刺激となり、そのような生徒のいじめや非行行為、授業妨害はより一層ひどくなり、学校内が荒れたり、事件を生じることになります。

 現在の生徒達が求めているのは、管理されて、無味乾燥とした学校ではありません。生徒達を厳しく指導したり、罰したり、勉強を教えようとする先生ではありません。生徒達が求めているのは、生徒達がありのままで触れ合い、つき合える先生です。子どもたちの普段の言葉が理解できる先生です。生徒達がその生徒なりに、生き生きと生活し、勉強できる学校です。それは決して生徒達の我が儘ではありません。生徒達は子どもの特性として、これらが満たされ、先生方に受け入れられると安心して、落ち着いて学校生活に臨めます。いじめや不良行為、授業妨害の必要が無くなり、学校生活が楽しくなり、勉強にも身が入り、成績も上がってきます。

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不登校の児童生徒の減少が意味するものは 2003.9.2

 学校基本調査の速報が発表された。昨年度のそれによると一昨年度より、不登校の子どもの数が7511人減って、文科省は「熱心な取り組み」の成果が出ていると判断している。この「熱心な取り組み」が見かけ上、不登校の子どもの数を減らすのに効果が有ったことは、現場で登校拒否、不登校の子どもの対応をしていると理解できる。ただし、それは統計上の不登校の子どもの数が一時的に減っただけで、根本的な不登校問題の解決にはなっていない。それは現在学校で行われている対応が、不登校の子どもを学校へ来させる対応であり、本質的に登校拒否、不登校の問題を解決するための対応ではないと判断されるからだ。

 不登校の子どもに学校へ行くようにとの圧力をかけると、それに反発して暴れる子ども、いろいろな病的症状を出して苦しむ子どもの他に、学校へ行ってしまう子供がいる。特に学校を休みだしたばかりの子どもや、小学校低学年の子どもは、強い登校刺激を与えると、学校へ行ってしまう場合を経験する。現在学校で行われている対応は、不登校の子どもをいかにして登校させるかの方法が取られているから、この種の対応を受けた子どもが、昨年度の不登校の子どもの数の減少に関係していると考えられる。

 不登校新聞のグラフを見る限り、小学生の不登校の子どもの数はこの数年間不変で、減っていない。中学生の不登校の子どもの数が今年に限って減っている。それが何を意味するのかを素直に考えてみる。それは、小学校では今の学校の対応でも不登校の子どもを減らされないのに対して、中学校では今年だけは減らせたと言うことであろう。小学校でも不登校の子どもをなくそうとする努力は熱心に続けられている。けれど効果がないという事実であろう。中学校ではなぜ減らせたか?に関しては、一時的な変化であり、今年度は反動でまた増えるのではないかと、私は推測する。

 現在の学校側の対応が、「早期発見、未然防止」を掲げて行われていたから、昨年度は元来不登校の子どもの数となるべき子どもが、学校側の無理な対応で登校してしまっているのであろう。その結果は、ある期間、そのように対応された子どもは学校へ行くが、その後全く学校へ行けなくなる子どもが多いと考えられる。ということは今年度にその子どもたちがどっと不登校になる可能性が高いと私は推測する。ただし、それらの子どもたちが昨年度は3年生で、今年卒業していたなら、この統計には乗ってこないで、高校へ行けないか、行っても退学してしまう子どもになっているであろう。

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多発する少年の事件は何を突きつけているか 2003.9.17

 小動物は、地震や火事など大変な状況をいち早く察知し、行動を起こすという。この不安定な時代に、人間であっても感受性の強い子どもや大人は、身震いするほどの何かを感じているのではないか。感じる力は理屈を越えている。

 世界は、弱いと思われる立場からでないと見えないものがある。親と子ども、教師と生徒、上司と部下、男と女、為政者と民衆・・・・等々、いろいろな上下関係の中で、自分はどの立場にいてどういう権威、支配力を持ち、またどういう抑圧を感じているか。自分が上の立場にいるとしたら、下にいる人の言い分を十分に聞いているか。開かれた対話とは、優位に立つものが謙虚に聞く耳を持たないと成り立たない。

 今、世間を騒がす事件を起こす少年達は、自分の中にある怒りに気づき、吐き出せていたのだろうか。鬱屈した怒りがその表現を誤らせてしまったのではないか。少年達の行動は、欺瞞に満ちた大人の世界に警鐘をならしている。命がけで、私たちに、訴えているように思えてならない。

 私は、25歳から2年間ほど、今で言う「引きこもり」をしていた。今は社会問題として取り上げられているが、20歳であっても30歳、40歳、いくつであっても、思春期をうまく乗り越えられなかった人には必要な期間だと思う。順調に育った大人にはそれが分からないだろう。分からないから問題視して、「引きこもり」というレッテルを貼って阻害する。これは、あらゆることに通ずると思う。

 必要とされているのは、子供達に共感出来て、子供達と一緒に真剣に悩み考え行動する大人達ではないか。グレる子どもを叱る前に、グレたい気持ちを聞いてやる、そんな大人の懐の大きさが欲しい。子どもの成長をいつも信じられる自分であるために、まず自分自身の成長を期待していきたい。子どもたちの不完全燃焼な思いを、希望溢れる未来を作るための「熱い思い」に変えられるような、熱と力のある”大人”になるぞ!
ある母親よりの投書

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不登校と精神科医療 2003.10.10

 あるところで、不登校と精神科医療の話が話題になっていました。ある方のMSGの「学校に行かない、行けないだけで、薬づけに苦しむ子どもたちを少しでも減らしていきたい。」は本当に実感が籠もった良い言葉だと思います。ただし、この場合、「学校に行かない、行けないことでいろいろな症状を出している子ども」についての話だと思います。

 子供が出すいろいろな病的症状を見て、親は何とかしなければならないと思います。相談機関に相談したら、一度医者に診てもらうようにと言われます。医者に行けば、ほぼ間違いなく薬が出ます。不登校を理解できない親には、薬で解決できるのならと思うのも非難できません。その際に「お子さんは心の病です」と言われたら、それを信じ込んでしまうのは親としてやむを得ません。病気と言われたら、親として一生懸命子どもを治そうとするのは当然です。

 以前は不登校は病気として投薬されました。現在は不登校は病気ではないが、子どもの出す症状自体が病気として、投薬されています。一般の開業医では診断をつけないで、症状に対して薬だけ投与されています。いずれの場合も、医者の医学的な既成概念から子どもが投薬を受けていることには変わり有りません。本当に投薬で子どもの不登校の問題が解決するのならそれで良いと思います。ところが子どもが出す症状は、行くと辛くなる学校へ無理矢理に行かされること(親はそのつもりでなくても、子どもがそのように感じている)から生じている事実は、長年不登校の子どもと向かい合った親なら分かることです。医者の持つ、不登校の子供のいろいろな病的症状への既成概念が間違っています。

 私が最近問題だとして指摘したいことがあります。不登校の子どもが長じるに従って、不登校と子供の出す症状とが不明瞭になってきている子どもたちが増えてきています。心の状態は不登校だったのに、無理矢理に学校へ行かされて、高等学校時代に、大学時代に、社会人になって、いろいろな病的症状で苦しむ子どもたちを多く見かけます。これらの子どもでは、不登校と子どもの出す症状との関係が親にも医者には全く分かりません。その結果いろいろな精神疾患として投薬治療を受けて、子どもの苦しむ問題点が見えなくなるばかりでなく、薬の副作用で子どもが辛い状態になっている場合が増えてきています。

 義務教育以降の子どもたちの内でいろいろな病的症状を出す場合には、見かけ上ははっきりとしていないけれど、小学校、中学校、高等学校の時の不登校に根ざしている場合が多いです。このような子どもたちの多くは、医療機関で精神疾患として投薬の治療を受けています。この場合、子どもも親も医者も、子どもの出す病的症状が不登校に根ざしたことから出ていることに全く気づいていません。症状の出し方からいろいろな精神疾患の病名が付けられて投薬されています。私の経験と脳科学的な事実からの判断ですが、現在の子どもの出すいろいろな病的症状は不登校自体か、不登校に関係していると判断して間違いないようです。その時の心の傷が癒えていない場合です。

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ある精神科医の話から 2003.10.30

 ある精神科医の話です。その精神科医は子どもの頃、父親の相次ぐ転勤で東京に行けば大阪弁を使うなといじめられ大阪に戻れば今度は東京弁でかっこつけるなとはじかれた経験を持っていると言っています。その経験から、くやしさを勉強に向け勉強をしていくうちにだんだん自信がついて成績が上がり、医師になれたと言っています。いじめを受けても耐えて頑張れば、いじめを克服できると言っています。

この精神科医は自分がいじめを受けたと認識しています。それはあくまでも認識であり、実際はそのいじめと認識している物で心が傷つかなかったから、傷ついたかも知れないけれど軽かったから、勉強をしようとして勉強ができました。または勉強をすることで運良く大きなご褒美を得られて、その心の傷を癒すことができた。ですから、この精神科医の経験を多くのいじめられいる子どもたちに当てはめることはできません。しかし、現実にはこの種の励ましが行われていて、多くのいじめで苦しむ子どもたちをより辛くしています。

 それと逆なことがよくあります。子供が受けたいじめが、その子供の人間としての知識や認識の上ではいじめではなくても、動物の人間として、いじめの場合があります。私の知る多くのいじめでは、いじめられている子どもが知識でいじめと認識しようとしても、周囲の教師や親からいじめでないと説得されている場合がしばしば見られます。または、「いじめはよくあることだから、耐えて乗り切れ」と言われています。そのような大人の対応で、自分の受けているいじめがいじめだと認識していない子どもです。

 それらの対応を受けた結果、いじめられている子供がいじめから逃げようとしないし、逃げられない場合が多々あります。そのような子どもは、認識としてはいじめを受けていないと言葉で言うけれど、心の中ではいじめで傷ついて、いろいろな症状に苦しんでいる子どもです。これらのいじめられている子どもは、いろいろな症状を出す自分がおかしいと認識するようになります。自分を否定してしまうようになります。いじめや登校拒否、不登校、引きこもりの子どもたちの中で、または大人が理解できない理由で自殺した子ども達の心の状態は、このようになっているはずです。 

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子どもたちへの見方 2003.11.8

 子どもたちの問題が生じるたびに、子どもたちをどのように指導すればよいかの議論がなされ、いろいろな提言がなされています。その際に議論する人たちは、子どもたちにはいろいろな性格の子どもたちがいることを認めていますが、そこで議論されている内容は、子どもたち全体をどうするかという内容になってしまっています。

 子どもたちへの対応は、個々の子どもに沿った対応が必要なはずです。また、子どもたちもそれを求めています。けれど学校という、多数の子どもを少ない大人で指導しようとするところでは、それは不可能なことです。けれど、おおざっぱにいろいろな性格の子どもたちがいることを想定するだけでなく、もう一歩踏み込んで、現代の子どもたちを今の学校のあり方との関係で見ていくなら、もっと違った対応が出てくると思います。

 それは
A.現在の学校で十分な子どもたち
B.良い子を演じる子どもたち
C.現在の学校に合わない子どもたち
と、子どもたちの心の状態を分けられる(境界は明瞭ではありませんが)と思います。このように子どもたちの心の状態が分けられるのは、子どもに原因があるのではありません。現在の学校のあり方で子どもたちの心が傷つて、その心の傷つき方から、現実に良い子を演じる子どもたちや、現在の学校に合わない子どもたちが生じています。

 多くの子どもたちは、Aの現在の学校で十分な子どもたちです。学校や親からの対応を受け入れて、どんどんのびていく子どもたちです。現在の学校も親も、子どもたちは現在の学校で十分だと思って対応をしています。

 クラスには少数だけどCの特別な場合をのぞいてどんな指導も受け入れられない子どもがいます。学校内や学校外で問題行動を起こすからわかりやすいです。これらの子どもたちは、すでに学校に合わないのですから、そのような子どもを学校に留めておこうという対応自体が無理なのです。

 難しいのは、そして学校側でも理解できないのが、Bの良い子を演じる子どもたちです。普段はとても良い子ども(成績や行動面でも)なのに、大人のいないところでは、または発作的に、思わぬ反社会的行動を行ってしまう子どもたちです。最近の子どもたちを見ていると、この良い子を演じる子どもたちに属する子どもたちが増えてきています。良い子を演じる子どもたちへの学校側の対応について、子どもたちが納得して学校側の対応に従ったと学校側が判断しても、教師や大人の前で納得したように演じている、対応を受け入れたように演じているが、心の奥底では葛藤に苦しんでいる子どもたちです。

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子どもの特性 2003.11.19

 これから申し上げますことは、幼稚園、小学生、中学生ぐらいまでの子供たちに関してです。診療所の外来で、校医として子供たちを赤ちゃんからそのときまでの成長の過程で、その子供を見ていての印象から話させていただきます。ある瞬間の子供を見ての話ではありません。印象ですから、理由はないと考えてください。ただし、人間以外の動物でも見られる子どもの特性でもありますから、私は子どもが持つ特性と考えて良いのではないかと思います。

ほとんどの子供が幼稚園、小学校、中学校に行くことを、本心(情動として)から喜んでいます。本心から学校へ行きたがっています。例外もありますが、そのような子どもではそれなりに原因があるようです。なぜ行きたがっているかというと、それは友達を求めているからです。決して勉強や規律を身につけるためではありません。これらの子供たちは子供の集団(現実に存在するのは学校が主である)に入っていくことを本心から喜んでいます。その子どもの集団の中で暮らすことで、子どもたちなりの学習や規律を身につけています。私の見る限り、このような特性は他のほ乳類の子どもたちにも見られるので、子供たちが本質的に持つ欲求のようです。

学校で子供たちは本質的に新しいものに興味を持ちます。興味を持ったものに没頭していきます。それは遊びと同じような感じてす。そのような意味で学校の勉強は子供たちに興味を提供します。しかし子供たちがこなせるもの以上のものを与えたとき、子供たちは興味を失っています。逃げだそうとします。このような新しいものへの興味は大人でも見られますが、子どもの方が格段に強いです。それは他の動物で見られる新奇刺激に相当すると思います。

子供たちが学校の先生やその他の大人の指導を受け入れるのは、親が喜ぶ姿を子供たちが求めているからのようです。先生方はご自分の指導を子供が受け入れたとき、ご自分の指導が良かったからと考えがちですが、子供たちは先生の向こうに母親の喜ぶ姿を見ています。先生からの対応を受け入れるのは、その後に子どもたちが母親からのご褒美を得られるからです。そうでないときには、子どもは学校の先生や大人たちからの指導を受け入れるのは、そのときに存在する恐怖を回避するためです。回避するためですから、一時的にしか指導を受け入れません。そのため、指導を定着させるためには、繰り返し恐怖を与えて指導しなければなりません。その結果子どもの心が傷つくばかりでなく、恐怖がないところではその指導と逆なことを行ってしまう場合が有ります。

多くの子どもたち(人に心が傷ついていない)は、子どもの集団である学校に行きたがります。現代では子どもの集団というと学校が大きな役割を果たしています。けれど学校以外にも、友達仲間など、いろいろな子どもの集団があります。そこで新しい経験をする事を子どもは喜びます。子どもの集団である学校での子どもの成長を親が喜ぶとき、子どもはそれを受け入れて、よりいっそう困難を伴うものへの挑戦を行います。子どもの集団である学校での問題点は親の元で解決した後、子どもの集団である学校へ行こうとします。

これらの事実に関してはいろいろな反論が出てくると思いますが、子供の心の奥底をのぞいてみたときには、どうも子供の本質のような気がします。

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競争は人間の進化を保障するか? 2003.12.8

地球上の生物の存在のあり方に、自然淘汰の原理が大きく関与していることはほぼ間違いない事実です。この事実を信じる限り、生物の存在は絶えず自然淘汰の圧力を受けていると考えられます。この自然淘汰の圧力にいかに耐えて生き残るか、生き残って子孫を残せるかと言う事実に、多くの生物はその生物なりに優れた能力を獲得しています。また同一種でも、その子孫が結果的により自然淘汰の圧力に耐えられるようにと、個体同士の淘汰を行っています。これら全ての淘汰を、別の見方をすれば競争と言う概念で置き換えられると思います。淘汰という意味で見るなら、競争は進化を保障することになります。ただし、この場合の進化というのは種というレベルの見方であり、同一種内の個体一つ一つから見るなら、同一種であっても、進化に関与できなくて淘汰され、死滅している個体もあるのです。種としては競争に勝っても、その種の中では競争に負けて死滅する個体が出てきます。

人間という種のレベルで見るなら、環境と人間との戦い方の競争、人間同士での競争で発展、進化が見られます。競争が多ければ多いほど、人間の文化の発展が早い(それが人間に好ましいかどうかは別です)ようですし、また心が傷ついて苦しんでいる人も多いようです。競争が少ない場合には、人間の文化の発展は遅い様ですが、その代わりに心が傷ついて苦しんでいる人たちも少ないように思えます。そして人間に関しては、この競争に負けたからと言って、淘汰されて死滅して良いと言うことには成らなりません。それが他の生物と人間との違いです。この競争に負けて辛い状態にある人を助けようとするのも、(大人の)人間だけが持っている能力又は知識です。(大人の)人間だけは自然淘汰に逆行することも可能なのですし、それもまた人間を進化させる要素です。

子供達の間ではその能力の差から、子供達の間でランク付けが行われます(このランク付けの過程を競争というなら、競争といえるかも知れませんが、競争を目的とした競争とは異なることに注目する必要が有ります)。多くの場合子供達はその事実を理解でき、その子どもなりの対応ができて、子どもの心が傷つくことは少ないです。もし子どもの心が傷ついても、親の元で心の傷を癒せるなら、その子どもは心の傷を癒した後再挑戦が可能です。子ども達の間で行われるこのランク付けのあり方は、他のほ乳類と非常に似通っています。

子供達の間に競争のための競争を持ち込み、競争結果を判定するのは大人です。知識、スポーツ、芸術などの分野に競争を持ち込むことで、大人の望む子供達の能力の発展が早くなります。その意味では競争にはそれなりの価値が有ります。現在、子供達をいかに競争に巻きこむかの、どのような形での競争に巻きこむかの、研究は大々的になされています。けれど競争に負けた子供達への対応の研究はなされていないと言って良いと思います。競争に負けた子供達について現在なされている対応は、この大人の望む競争に負けた子どもをいかにしてまた大人の望む競争に戻すかの方法論だけです。この競争に負けた子供達で、いろいろな神経症状、精神症状、不適応行動を取る子供達に対しては、病気というラベルを貼り、非行というラベルを貼り、新たに大人の思う姿に強制することも、これらの症状で辛い状態にある子どもをますます苦しくし、肉体は生きているが心が死んだに近い状態の子どもを、そしてその子どもが肉体的に成長した結果の大人を作っているという現実が有ります。

現在の日本は競争の社会です。その現実を否定することは出来ません。また、その競争で日本の文化的、経済的、科学的な進歩がもたらされたと私も思います。競争を推奨するわけではありませんが、実際に存在する競争で傷つく人がないようにしたい物です。特に私達大人は、子供達の間で行われる競争を必要最小限にすべきです。実際に存在する競争に負けた子供達の心の奥底を見つめて、そこにある子供達の苦しみ(心の傷)を見つめて、その子どもに沿った対応を考えなければならないはずです。表面的な見かけから病気や非行としてそのような辛い状態の子供達に対応しては成らないのです。

他の生物と違って、人間に関しては人間特有の心と蓄積された知識が有ります。元来知識は自然淘汰にうち勝つ物でした。ところが知識が一人歩きを始め、元来人間を守るべき知識が一部の人間を苦しめだした事実が有ります。子どもに関しては知識のための知識を得るという人為的な競争が、スポーツや芸術でも、技能でも、それらを得るための競争が生じています。その競争に勝った子どもが将来物質的な富を得られる立場に立ち、負けた子ども達の内の一部は心が傷ついて、人間という心を持った生物として生命を維持しにくい状態になってしまっています。

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心の歪んだ子どもによる問題行動 2003.12.27

既に心の歪んだ子供達によって、他の子供達が登校拒否、不登校に追い込まれる場合があります。既に心の歪んだ子供達によって、他の子供達が問題行動に巻きこまれる場合が有ります。現在学校や教師は、これらの既に心の歪んだ子供達への対応に苦慮しています。時にはこれらの既に心の歪んだ子供達を正そうとすればするほど、これらの既に心の歪んだ子供達が問題行動を起こす場合があるからです。既に心が歪んでいるために、学校側の対応で、子どもの心が登校拒否、不登校になると、学校が主張する場合です。

 親が親の勝手な欲望や快楽を満たすことばかりをして、殆ど子どもとの関わりなしに子どもを育てたり、周囲の目ばかりを気にして子どもに沿った子育てをしなかったり、子どもの問題の責任を他に転嫁して全てを学校任せにする親がいます。それらによりひどく心が歪んだ子供達が現実に存在しています。これらの親に責任がある場合の子どもの問題まで学校側が責任をとれというのはおかしいという意見です。

 大人の立場からの誰に子どもの責任があるかという責任論という意味からでは、学校側のこの主張は正しいでしょう。けれど既に心の歪んだ子供達の立場から言うなら、この主張は責任の擦り合いにすぎません。既に心の歪んだ子供達の立場から言うなら、親とは別の教育に関する責任の親への転嫁にしかすぎません。どちらにしても被害者は既に心の歪んだ子供達です。

 どの子どもも与えられた環境の下で一生懸命生きて成長しています。その結果周囲の大人達によってその子どもの心が歪められたとしても、それは子どもの責任ではありません。心が歪められた子どもは被害者です。心が歪められた子どもは救済されなければなりません。子どもも本能的に救いを学校に求めています。その被害者である心を歪められた子どもを救済するのが教育の役目の一つです。子どもの心を歪めたものが何であれ、学校は子供達の学力を伸ばすばかりでなく、これらの被害者である心を歪められた子どもを助けるのも役目のはずです。少なくとも子供達はそのように判断しています。それなのに自分たちで教育しやすい子供達だけを教育し、自分たちに不都合な子供達の教育や救済を放棄して、その結果却ってその子供達の心を傷つけておいて、その子供達の心を傷つけた責任を子供達の親に求めるなら、心を歪められた子供達は救われません。そのようにして学校から傷つけられたら、心を歪められた子供達は激しい怒りと学校にぶつけるようになります。

既に心が歪められた子供達は自分たちの親にも激しい怒りを感じています。けれどそのような子どもたちでも子供達は自分の親には優しいです。いくら親が自分を苦しめていても、親には必要以上に怒りを向けません(子供達は万引きなどの不適応行動を取る場合や、いろいろな神経症状や精神症状を出す場合があります)。けれど学校には違います。そのような子供達の怒りが学校へ向けられた場合、校内暴力や学級崩壊と呼ばれている物になります。同級生に向けられたときにはいじめになります。

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