フリースペース「したいなぁ〜松戸」&松戸−登校拒否を考える会「ひまわり会」
ホーム代表者と顧問医師のコラム

学校基本調査速報 2002.8.20

 文化省から「学校基本調査」速報の発表があった。その中で「不登校状態になった直接のきっかけ」として、学校生活に起因、個人の問題に起因、家庭生活に起因、等を上げている。しかしこれらの不登校のきっかけは何によって起こしているかの分析が成されていない。それは文化省に子供が学校への行き渋っている状態についての認識が無いからである。

 子供が学校へ行き渋っている状態と不登校とは本質的に同じである。その違いは子供が未だ無理してでも学校へ行けるか、全く行けなくなったかの違いである。子供が学校へ行きづらくなっている状態で、無理矢理に学校へ子供を行かせているから、子供の学校生活や家庭生活が乱れてくるのだし、子供の性格がゆがんできている。

 つまり文化省の上げているきっかけとは、子供が不登校になる状態で、不登校を避けるために子供に負担を掛けた結果生じた物である。それは不登校が認められない結果子供達が示している状態である。文化省の分析は、不登校状態の子供の結果生じている子供の状態を不登校のきっかけとしているとてもおかしな分析である。

 「不登校状態が継続している理由」についてもおかしな分析を行っている。不登校状態が継続している理由として文化省は、不安など情緒的混乱、複合、無気力を上げている。これらについてもそれらを起こしている原因の分析が行われていない。これらは子供が不登校状態になっていて、登校刺激を受けたために生じている状態であり、不登校から二次的に生じた状態である。その根本にある、学校へ全く行けない状態なのに、学校へ行かそうとする対応が不登校状態を継続させている理由であるのに、文化省はそのことに全く注目しようとしないのである。

教師イコール悪について 2002.8.30

 「教師イコール悪」に反対する意見が有ります。一般的には、「教師イコール悪」でないことは誰でも知っていることです。教師も子供達のためにと一生懸命努力をしています。けれど子供達の中には「教師イコール悪」と、潜在意識で感じている子供達が居る理由を是非理解して欲しいと思います。

 登校拒否、不登校の子供の立場から言うなら、子供達の心傷つけて、子供達を登校拒否、不登校の状態にしたのは教師です。その結果登校拒否、不登校の子供達は先生に強い回避行動を取ります。登校拒否、不登校の子供達にとって、「教師イコール悪」と潜在意識で反応してしまうのです。そのような登校拒否、不登校の子供達に「教師イコール悪」ではないと表現すると、登校拒否、不登校の子供達の否定になり、登校拒否不登校の子供達の心を大変に不安定にさせます。登校拒否、不登校の子供達が自分達の問題を解決して元気になったときには、「教師イコール悪」などとは決して言いません。しかし登校拒否、不登校で辛い状態にある子供達へは、「教師イコール悪」と言ってあげて、常識では悪でない教師に回避行動を取っている登校拒否、不登校の子供達の有るがままを認めて上げる必要があります。

 先生の立場から言うなら、先生達は子供達のために良いことをしていると考えて対応しています。その結果子供達の心を傷つけています。子供のために良いことをしているのに、それに応えない子供が悪いとしています。子供の立場で考えられない教師はそれ自体で悪と、子供達は感じてしまうのです。

 子供達の為に一生懸命な先生もいるという議論もあります。けれど殆ど全ての教師が、子供達の立場でなく、教師の立場で、一生懸命心の傷ついた子供達に対応しています。外見上はとても良い先生に見えますが、心が傷ついた子供達には辛さから逃げ出せなくて、ますます心が傷つけられて、目の前の教師は悪魔以上の悪い存在になっています。

 一般的に元気でまだ心が傷ついていない子供達にあてはまる事柄は、登校拒否、不登校の子供達には当てはまらない場合があります。登校拒否、不登校の子供達への対応には、常識に反するような表現が出てきます。これらの常識に反する表現は登校拒否、不登校の子供達にはそれなりに意味があります。それを問題だと感じる人は、登校拒否、不登校を理解していない人だと考えられます。

小中学校の学力の低下 2002.9.9

 週休二日制になって、問題になっているのが子供達の学力の低下です。親や教師達は無くなった土曜日の分の授業時間や授業内容をどこかで補おうとしています。それが果たして子供の学力の向上になっているかどうかの問題があります。勉強をしたくて補充授業に参加している子供は殆どいません。多くの子供達は遊びたいのだけれど、親からの命令で仕方なく授業に参加しています。親としては遊んでいるよりは増しだという考えでしょうが、それが子供の親に対する不信感を増している事実があります。

 補充授業では生徒を集めるために、学校の授業とは違った、魅力的な授業にする試みが行われています。それは子供達にとってとてもありがたいことですが、補充授業が有るために、遊びたくても遊べないということと比べると、やはり子供達には有って欲しくない補充授業だと思われます。補充授業の中で子供達に尋ねると「授業は楽しい」と言います。それは平素の授業より楽しいという意味かも知れません。楽しいと言わなければならないと吹き込まれているのかも知れません。そこで「本当に楽しいの?」と尋ねると「でも遊びたい」と躊躇しながら答える子供が多いことを考える必要が有ります。

 小学生で学力が高いと中学受験には有利でしょう。中学で学力が高いと高校受験には有利でしょう。高校で学力が高いと大学受験に有利でしょう。けれど小学校で学力が高くても中学で学力が高くなるとは限りません。中学校で学力が高くても高校で学力が高くなるとは限りません。小中学校の学力と高校、大学、社会人として学力が必ずしも関係がありません。それよりも、小中学校の学力は優れなくても、高校、大学、社会人と学力が優れた方が、学力をより高められますし、学力を社会の中で生かすには好ましいようです。学力の応用性が高いようです。小中学校の学力を他の国のそれと比較する必要は無いと思います。

 小中学校時代での学力を高めることと、小中学校時代を子供らしく楽しく過ごすことと、どちらがよいかという問題が有ります。小中学校時代に学力を高めることが好ましい子供には学力を高めるような学校のあり方が良いでしょう。小中学校時代を子供らしく楽しく過ごして、高校大学、社会人になって学力を高める方が良いお子さんは、学力を高めるより、小中学校を子供らしく楽しく過ごすべきです。そして、実際には、小中学校で学力を高めた方が良い人はごく一部のように感じます。多くの子供達は、小中学校時代を子供らしく楽しく過ごして、高校、大学、社会人になって必要な学力をつけて実力を発揮した方が、「個人として」は学力をより高められるように思われます。 

子供は子供の中で育つ 2002.9.19

 「子供は子供の中で育つ」これは事実です。「いろいろな子供がいる学校こそ、育つ場として最高の環境」と言われていますが、最高かどうかは別として、子供達は本質的に学校が好きです。学校にはいろいろな子供がいることは事実です。しかし、学校には教師がいて、子供達を管理しています。管理のために、子供達の子供らしさを奪っています。子供らしさを奪われた子供の集団の中で、子供達は素直には育たない事実に注目する必要が有ります。教師の子供を管理しようとする行為そのものが、子供達を傷つけてしまっている場合がしばしばあります。

 この事実は子供の集団を管理している教師には認められないことでしょう。教師の立場で子供達を見ている限り、教師に都合の良いところだけしか見えてきませんから。子供達は教師の前では目一杯良い子を振る舞っています。それを見て教師は自分の対応に自信を持っています。けれど目一杯良い子を振る舞った子供は、教師の目の届かないところで、教師の前でやったことの全く逆のことをやっています。子供が他の子供を傷つけるという行為を行っています。

 学校が子供らしい子供の集団でしたら、学校復帰は大きな意味が有ります。ところが現実には、教師が管理する子供の集団の学校は、子供の子供らしさ、子供の有るがままを否定する集団であり、子供に枠をはめて、子供の人間らしい成長を阻害させています。元気の良い子供達には、それでも大きな問題を生じませんが、登校拒否、不登校で苦しんでいる子供達には、子供の立場で子供を見ない教師が管理する学校はとても辛い環境なのです。

 教師の立場で登校拒否、不登校の子供の学校復帰を考えても、上記の意味は分からないでしょう。登校拒否不登校の子供の立場から見れば、教師が管理していて、子供の心を傷つけて、辛い状態に追い込んだ学校は、地獄より辛い場所になっています。

登校拒否、不登校はPTSD 2002.9.26

 登校拒否、不登校は子供のPTSDに求めることができます。登校拒否、不登校を近視眼的に見るのでなく、子供が症状を出していく経過を考えるなら、登校拒否、不登校はPTSDと断言できます。ただし、PTSDで説明しにくい登校拒否、不登校の子供もいることは確か(DSM−Wの分類が不完全なためと考えます)ですが、多くの登校拒否、不登校の子供はPTSDであると言えると思います。

 以下に精神科医の用いるDSM−WのPTSDの診断基準と登校拒否、不登校の子供との関係を述べてみます。
【309.81 外傷後ストレス障害の診断基準】
A.その人は、以下の2つが伴に認められる解消的な出来事に暴露されたことがある。
(1)実際に又は危うく死ぬ又は重症を負うような出来事を、1度又は数度、または自分または他人の身体の保全に迫る危険を、その人が体験し、目撃し、または直面した。
(2)その人の反応は強い恐怖、無力感または戦慄に関するものである。注:子供の場合はむしろ、まとまりのない又は興奮した行動によって表現されることがある。
B.外傷的な出来事が、以下の1つ(またはそれ以上)の形で再体験され続けている。
(1)出来事の反復的で侵入的で苦痛な想起で、それは心像、思考、又は知覚を含む。注:子供の場合、外傷の主題又は側面を表現する遊びを繰り返すことがある。
(2)出来事についての反復的で苦痛の夢。注:子供の場合は、はっきりとした内容のない恐ろしい夢であることがある。
(3)外傷的な出来事が再び起こっているかのように行動したり、感じたりする(その体験を再体験する感覚、錯覚、幻覚、及び解離性フラッシュバックのエピソードを含む、また、覚醒児又は中毒時に起こるものを含む)。注:小さい子供の場合、外傷特異的な再演が行われることがある。
(4)外傷的出来事の1つの側面を象徴し、又は類似している内的または外的きっかけに暴露された場合に生じる、強い心理的な苦痛。
(5)外傷的出来事の1つの側面を象徴し、又は類似している内的または外的きっかけに暴露された場合の生理的反応性。
C.以下の3つ(又はそれ以上)によって示される、(外傷以前には存在していなかった)外傷と関連した刺激の持続的回避と、全般的反応性の麻痺。
(1)外傷と関連した思考、感情、または会話を回避しようとする努力。
(2)外傷を想起させる活動、場所又は人物を避けようとする努力。
(3)外傷の重要な側面の想起不能。
(4)重要な活動への関心または参加の著しい減退。
(5)他の人から孤立している、または疎遠になっているという感覚。
(6)感情の範囲の縮小(例:愛の感情を持つことができない)。
(7)未来が短縮した感覚(例:仕事、結婚、子供、または正常な一生を期待しない)。
D.(外傷以前には存在していなかった)持続的な覚醒亢進症状で、以下の2つ(またはそれ以上)によって示される。
(1)入眠、または睡眠維持の困難
(2)易刺激性または怒りの爆発
(3)集中困難
(4)過度の警戒心
(5)過剰な驚愕反応
E.障害(基準、およびの症状)の持続期間が1ヶ月以上。
F.障害は、臨床上著しい苦痛または、社会的、職業的または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。
▲該当すれば特定せよ:
急性 症状の持続期間が3ヶ月未満の場合
慢性 症状の持続期間が3ヶ月未満の場合
▲該当すれば特定せよ:
発症遅延 症状の始まりがストレス因子から少なくとも6ヶ月の場合

 登校拒否不登校をPTSDと認められない人々は、この診断基準のA.が認められないからである。それは大人の立場からA.の(1)や(2)が無いと判断しているのであり、子供の立場から言うなら、(1)や(2)の経験をしているのである。大人でも(1)や(2)の経験をしていても、PDSDにならなかったために子供の経験した(1)や(2)がPTSDになるほどのものではないと判断しているだけである。登校拒否不登校の子供達の訴えを丁寧に聞いたり、登校拒否不登校の問題が落ち着いた子供達からは(1)や(2)の経験を聞くことができる。

 特に、注:の子供の場合はむしろ、まとまりのない又は興奮した行動によって表現されることがある。子供達が辛いことに遭遇したときによく見られ、その結果大人達がPTSDと関係ないと見過ごしていることである。場合によっては、子供が訴えられない、訴えても大人が聞いていない等も考慮する必要がある。この注:の条件は、子供達がいつでも登校拒否、不登校になりうることを説明していると考えられる。

 また診断基準の最後にある、発症遅延症状の始まりがストレス因子から少なくとも6ヶ月の場合が子供では頻繁に見られるために、A.の条件が見落とされやすいのである。
登校拒否、不登校の子供について、B.の(1)(3)(4)(5)を満たすことは、良く経験することである。
登校拒否、不登校の子供について、C.の(1)(2)(3)(4)(5)(6)も良く経験することである。
は殆どの登校拒否、不登校の子供で見られている。

人は誰のために生きるか 2002.10.7

 心には思考の心と習慣の心と情動の心があります。思考の心と習慣の心は生まれ落ちた後人為的な教育と利害的な目的のための学習から作られてきていますから、テーマの「人は誰のために生きるのでしょう」は情動の心と本能とについて考えればよいと思います。思考の心と習慣の心は、人間が生きるために助けとなる情報を処理するところです。

 本能は生まれ落ちてから生きていくための最小の情報と、子孫を残すための情報が書かれています。情動の心は危険を経験したときにそれを記憶して危険を回避する学習と、本能を発現させるために学習した情報が書かれていきます。それらを総合すると人は動物としては、自分のために生きています。生きて子孫を残すために生きています。死ぬことは考えられていません。女性には子孫を守り育てる能力を持っていますが、男性には有りません。男性には女性を得るための方法が存在しているようです。

 人間には動物にない知識があります。その中に人間は誰のために生きるかの情報を学習して習慣の心に書き込んでいます。それはその人が属する文化に大きく依存します。その文化からの知識の中に、倫理的な、哲学的な、宗教的な、その他の生きる目的が書き込まれます。親子の関係の大部分、恋人、夫婦、国民、これらのこととの関係は習慣の心に有る情報から行われます。

 思考の心はそれらとは全く関係なく、自分の周囲を認知することと、記憶を選択加工して、ある目的を作って生きる反応、時には死ぬための行動を行わせます。思考は全く新しい物を作り出すときに大切な役割を果たします。けれど多くの場合働いていないことが多いようです。思考の心や習慣の心は情動を抑制する作用を行っています。

 これらの三つの心に書き込まれた情報がどのように使われるかは、その人の置かれた状況、その人のどの心が動いているかに関係します。ですから、誰のために生きているか生かされているかの答えはその人の心の中に有る知識によるのであり、またその知識のどの部分が利用されるかによるのであり、一般論としては言えないのです。

 ただ、子供に関しては、習慣の心、思考の心が未発達のことが多いので、子供は自分のために、本能や情動の心に従って、自己中心的に生きていきます。 

子供の自殺 2002.10.17

 人間の脳の中には自殺するための神経回路はありません。それは普通なら自殺しようとしてもできないことを意味しています。危険から身を守るための神経回路が発達しています。危険から身を守ることができないとき体中にいろいろな辛い症状がでてきます。その辛さから人間だけは死にたいと思うようになります。

 子供の自殺は大人の自殺と異なります。子供では死にたいと言葉で表現することと自殺することとは別です。自殺した子供は、死ぬ直前には表現できないぐらいの辛さで苦しんでいたのだと思います。

 「生きているだけですばらしい」とか、「生きていたら何か良いことがある」と言われても自殺するほど辛い状態に有る子供達には目の前の辛さに耐えるので精一杯なのです。命の電話なども有りますが、電話を掛けられるようでしたら子供は自殺をしません。目の前の辛さに耐えられなくて発作的に死を選んでいます。その時には普通では考えられない状態に子供はなっています。

 子供がとても辛そうにしていて自殺しそうなとき、「生きているだけですばらしい」とか「生きていたら何か良いことがある」と側にいる人が言ったら、子供はきっと自殺してしまうでしょう。「そう、自殺したいの。自殺したいほど辛いのね。」と一緒に泣いてあげられたら、子供は一筋の光明を感じて自殺をしないでしょう。

 自殺をしてはいけないと私たちが言ったとき、「そうだね」と思うような子供は、自殺をしてはいけないと言われなくても自殺をしません。私たち大人は子供に自殺をしてはいけないと言う前に、子供を自殺するほどまで追い込まないことを考える必要があります。自殺をしそうな子供には自殺したい気持ちを受け取ってあげることで自殺は防げそうです。

精神病が存在する証拠はない 2002.10.24

 小沢牧子さんの論説(2002年10月1日号の不登校新聞)「精神病は病気じゃない」への道は画期的なものです。

 今まで「登校拒否は病気ではない」というコンセンサスはあました。登校拒否不登校とは別に精神病があって、登校拒否不登校の子供達も精神疾患を患うと考えられています。不登校新聞の中でも、不登校と医療のシンポジュウムでも、そして今回の不登校と医療アンケート調査でも、精神疾患が有ることが前提でなされています。一昨年の東京での夏合宿の「不登校と医療の分科会」でも、精神病が存在することを前提に話が進んでいました。けれど小沢さんの論説は、小沢さんの広い経験から、精神病は無いと言い切っています。そればかりか不登校を経験した子供やその親たちの繋がりから、今度は「精神病は病気ではない」という言葉のうねりを起こそうという提起をしています。

 現在精神病の病態はわかってきていても、精神病の原因は見つかっていません。現在の脳科学の発展は、鬱病に関してそれは回避できないストレスへの人間の反応の形だと分かってきています。分裂病(統合失調症)は高度な大脳新皮質の問題なので動物実験が難しいのですが、類人猿の子供でストレスを与えることで、分裂病にそっくりの症状を出させることができます。

 登校拒否不登校の子供達でもストレスを与え続けると分裂病やその他の精神病の症状を出すから、医者にかかると精神病として治療をされてしまいます。けれどその子供のストレスを取り除いて生活をしていると、分裂病などの精神病の症状が消失してしまいます。小沢さんの指摘しているように、ストレスと精神病の症状と密接な関係が有ることがわかります。またストレスを与え続けると精神病の症状が取れなくなることも見られます。

 登校拒否不登校問題を考えるとき、精神病の存在を認める限り、親が踏み込めない医者の領域を作ってしまいます。その結果医者によって精神病にされてしまう子供を作ってしまいます。登校拒否不登校を解決するための問題点が病気に転化されて、登校拒否不登校の問題の解決を難しくしてしまいます。現在の医者は登校拒否不登校の子供に精神病だと言わない場合が多くなってきています。けれど実質的に精神病の薬が投与されており、その薬自体が子供のストレスへの解決能力を奪うばかりでなく、登校拒否不登校の問題点を薬を飲むことに転化させています。子供に薬への依存を生じさせています。

子供の目線とは 2002.10.31

 子供の目線とは、大人が腰を低くして、自分の目の位置を子供の目の位置に持ってきて、そこで周囲を見ろという意味ではありませが、そのようにする積もりになって、大人の感じ方、知識や判断を用いないで、子供がこう感じているであろうと言うことを、共感という形で、肌で感じ取ることです。こういう状況に置かれると、子供はこうなるという事実を、そのまま認めることです。

 昔から今まで子供達が育ってきた様子、私自身が子供だったときの様子、親として子育てをしてみて、医師として病院内や地域の医療活動の中で、校医として学校へ行ってみて、子供に関して私が強く感じることがあります。それは、「子供達は本質的に意欲に富んでいて、子供なりに何かを求めて動き回っている」という事実を感じることです。「何かを求めて動き回らない子供でも、子供を苦しめているストレスから一時的にでも子供を解放してあげると、何かを求めて動き回り出す」のです。

 大人達が子供達にああしろ、こうしろと強要しなくても、子供達は子供達なりに成長して立派な大人として、社会へ出て行っています。大人は、子供達の目線で子供達が何を感じているのかをしっかり把握して、求めている子供には求めている物を与え、拒否している子供には拒否している物を強要しないで、その子供の判断を尊重して、成功をほめ、失敗を許して、子供の成長を見守りさえすれば、子供は自分の周囲についてそれなりの反応を示して、その子供なりに社会性を得て、大人へ向かって伸びています。

 ここで間違えて欲しくないことは、子供にああしろ、こうしろと指図しても良い子供、ああしろ、こうしろと指図すると却ってよくの伸びる子供もいるので、全ての子供に普遍化して、子供達の成長を子供の目線で見る必要は無いことです。元気が良くて、大人の指図で伸びる子供はそれでよいのですが、辛い立場にあって自分を維持するのに精一杯の子供には大人の指図は子供をますます苦しくします。辛くして、子供の心を傷つけていってしまいます。大人の指図で伸びる子供も大人の指図で辛くなる子供も、子供の目線で子供の要求を大人が感じて、子供の判断を大切にしさえすれば、子供は所謂偉人にはなれないけれど、平凡なそれでいて生命力のある大人に向かって成長していきます。

 ところが現実には、大人達の勝手な欲求が子供達を苦しめています。大人達が子供を所謂優れた子供に育てたいと思うのは、大人として当然だと思います。親たちは子供達のことを考えて一生懸命であることには間違いないのですが、自分たちの判断を尊重して、子供の感情を無視して、大人達は子供達へ子供達の嫌がることを押しつけています。大人の押しつける物を嫌がる子供、大人の要求に応えられない子供については、それは子供に問題があると大人達は判断しています。

 大人達と違って、子供達は子供達にとって嫌なことをすることができません。大人は自分の嫌なことでも我慢をしてすることが出来ますが、子供にはそれが出来ないことを大人達は理解しよとはしません。大人は、自分が子供たっだころ嫌なことはすることができなかった事実を忘れています。その結果、大人達は子供達に大きな恐怖を与え、その恐怖からの回避行動として、子供達が嫌がることを子供達に無理矢理にさせています。それをしつけだ、教育だ、と言って美化しています。

 ところが子供達の立場から見れば、嫌なことだからできないのに、大人達から大きな恐怖を与えられて、無理矢理に嫌なことをさせられた結果、心に傷を受けてしまうという現実があります。大人達は自分たちでは良いことをしているつもりでしょうが、結果として子供達を傷つけ続けており、子供達が心の傷から苦しみだしたときには、子供達がおかしいとして子供達に原因を押しつけています。

 子供へのしつけだ、教育だと言って、子供に恐怖を与えて子供が嫌がることを行わせることは、外見上は子供をきちんと管理しているように見えますが、子供の心の中には心の傷が出来て来ることを意味しています。大人が気づかない内にどんどん子供の心の中の傷が増えていき、深まっていき、その結果として所謂問題児を作っています。問題児を作るぐらいなら、その子供にしつけや教育をしない方が良かったはずなのに、大人の立場からしか見ていない大人には、子供の心の中のことが分かりません。

 大人達は大人の立場だけで子供達を見ないで、子供達の心の中をもっと知る必要が有ります。子供の心の中を知るには、子供の目線で、そして自分の肌で子供が何を感じているかを感じ取る必要が有ります。

 子供にはその子供なりに大人になり社会へ出ていく能力を持っています。それを阻害しているのは大人です。特に成果だけを求め続けている教師が、一方で子供達の心を傷つけていることに気づいて欲しいと思います。成果を出せるような子供は、大人が与えればそれを吸収してどんどん成果を出していきます。どのような教師でもそれは難しいことではありません。

 子供がどんどん成果を出していくような子供か、それとも今は癒してあげて、時期を待ってあげるのが良いのかを見極める能力を現在の教師は持っていません。持っていないわけではないのですが、成果を出すことに一生懸命の余り、子供の目線で子供とふれあい、子供の心を知ろうとしない教師が多いという現実が有ります。

 教師の批判をしてもここでは意味がありませんのでこれぐらいにしておきます。親も自分たちの常識や欲に捕らわれて、子供の目線(ありのままの子供の姿をそのまま認めることで、大人の理屈はいらないと言う意味)で子供とふれあい、子供の心を肌で感じ取ってほしいと思います。子供一人一人を理解するのには理屈は入りません。肌で感じ取ればよいのです。子供達は親が頼りです。親に助けて欲しいのです。社会が何であれ、親が子供を支えようとすれば、子供はその子供なりに自分の問題を克服していきますから、子供を信じて、子供を支え続ければよいだいなのですが。

義務教育が不登校の子供の心を蝕む 2002.11.14

 憲法に義務教育がうたわれています。それは子供が学校へ行く義務ではなくて、子供が学校へ行けるように環境を整えなければならないという大人への義務です。ところが学校関係者は子供を学校へ行かせる義務と理解しているようです。子供が学校または学校に準じるものに通わなければならないと理解しているようです。そこで学校または学校に準じるものに行けるような環境を整えたなら、何が何でも子供をそこへ行かせなければならないと考えているようです。ですから学校関係者は自分たちの思いで(子供の思いとはこうであろうと推量しています。実際は子供の思いとはかけ離れています。)、小手先で今の学校をいじり回し、または学校に準じるものを作って、そこへ子供が行くように不登校の子供に強要しています。

 教育関係者の思いが子供たちの思いを反映していればこの対応でも間違いがありません。現実に今の学校制度で自分をのばせていける子供は多いです。また、学校に準じる機関で元気になる子供もいます。けれどそれでも学校へ行けない不登校の子供が多いばかりでなく、その数が増えてきていることも事実です。それは大人たちの思いが不登校の子供たち思いと違っているからです。大人たちは子供たちの思いを掴んだつもりでいて、その実、不登校の子供の心を掴んでいないからです。

 教育関係者のあらゆる施策でも学校へ行けない不登校の子供が多いと言う事実を、文化省「不登校問題に関する調査研究協力者会議」では親や教育関係者が子供を学校へ行かそうとする対応が不十分だと考えているようですね。親や教育関係者が子供に学校へ行って欲しくてあらゆる対応をした結果でも不登校の子供が学校へ行こうとしないという事実を、どうして認めようとしないのでしょうか?多くの不登校の子供たちにとって、学校復帰の対応をされると状態が悪くなり、より難しい状態になることは、今までの経験からはっきりしています。小学校の低学年では、学校復帰の対応で、かなりの不登校の子供が学校へ一時的には復帰すると思います。けれど後になって、問題がよりいっそう難しい不登校問題になることも、今までの経験からはっきりしています。

 大切なことは学校復帰の対応で不登校の子供が一時的に学校へ復帰することではありません。不登校の子供に関しては、学校復帰の対応が子供の健やかな心での成長を阻害します。教育関係者はせっかく教育環境を整えたのだから学校へ来なさいと言う対応ではなくて、今まで行ったいろいろな施策でも不登校の子供の心を掴みきれないのだから、学校へ行かない生き方を認めるという対応をして欲しいものです。義務教育だから子供が学校へ行っていなければならないと言う施策で不登校の子供の心が蝕まれては、教育の意味が全くなくなるからです。不登校という形に捕らわれないで、子供の心の中を大人の立場でなく、子供の立場で、もっと正確に知って欲しいと思います。

子供は集団でなく個人である 2002.11.25

 子供と大人との大きな相違点は、子供は成長するということである。成長とはきわめて個人的な問題である。子供は家庭という小さな集団の中で成長をしながら、社会と関わってその子供なりに社会性を得ていく。個人として子供が成長を成し遂げたなら、大人になった時点で集団に順応し、もっと大きな集団である国家や人類を守り維持していこうとするようになる。無理矢理に社会を守れ、国家を守れと、強制する必要はない(異論は多いであろうが、子供を心底信頼して対応すると信頼するとこの事実が分かる)。

 家庭は集団であるが、その家庭が属する社会とは別物である。家庭では個人としての子供が尊重されるが、社会では構成要素としての子供として扱われ、個人としての子供して扱われることは少ない。そして多くの子供たちは社会の構成要素の子供として扱われて全く問題がない。大人たちは多くの子供たちが扱われて良いような扱い方をしようとしているし、現実に行ってきている。

 けれど全ての子供たちが社会の構成要素の子供として扱われて良いかというとそれは違う。子供たちの中には社会の構成要素として扱われると、大変に辛くなる子供がいることも事実である。集団の中で心が傷ついた子供たちがそれである。登校拒否、不登校、引きこもりの子供たちである。いじめをする子供、いろいろな暴力行為や社会へ不適応行動に走る子供たちである。また成長の過程で、子供たちは自分と社会との関係を見つめ直そうとする傾向がみられ、その子供の個性を主張し、その際に社会の構成要素の子供として扱われることを拒否する子供が出てくることも事実である。

 国としては、国の方針に従う大人に子供たちを育てようとしている。それは国としての一つの教育の在り方であろうが、教育基本法の改正議論に見られるような集団としての子供のありかたばかりを問題にしていると、前述の集団に属してはいけない子供たちを無理強いして集団に戻そうという議論になってしまう。現実に無理強いして集団に戻そうとした結果、心がよけい傷ついて、ますます集団からはみ出した子供たちが増えてきていることも事実である。それは不登校の子供の増加からもわかる。

 国が多くの子供たちを効率よく子供たちを教育したいのは当然であろう。だけどそれだけが教育の全てではない。全てが全て、国が用意した教育機関で全ての子供を育てるのは不可能である。国が行う教育にそぐわない子供の教育もあって良いはずだ。国が行う教育にそぐわない教育までも国が抱え込まないで、その子供にあった人に任せたほうが効率的であり、その子供の幸福に繋がる。

大学が役立っていない 2002.12.2

 最近の統計によると、大学卒業生の20%ぐらいが就職しないと言う。また大学卒業生で就職した人の30%ぐらいが3年以内に仕事を止めてしまっている。つまり大学卒業生の半分近く( (100−20)x0.3+20=44 で50%弱 )が就職しないか就職してもすぐに止めているという事実は現在の学校制度が就職に役立つ人が二人に一人しかいないことを意味している。これらの就職しないか就職してもすぐに止めている人たちは、決して社会や職業を否定しているのではない。自分探しをしているか、自分にあった仕事を探しているだけである。仕事に自分をあわせようとはしないのである。そして、しっかり自分に合った物を見つけて社会へ出ていっている。

 子供達は何のために学校へ行っているのであろうか?子供達の内で約二人に一人には、学校は全く役立っていない。多くの学生は学校へ行かされるから学校へ行っている。学校で授業を受けさせられるから、やむを得ず授業を受けている。そこには学生達の意欲的な行動は殆ど見あたらない。それなら、学生の内からしっかりと自分探しをさせて、自分にあった職業を学生の内から探させておく方が子供のためでもあり、親のためでもあり、ひいては社会のためでも有ろう。

 前述のように、現在は学校教育の意味がある人は二人に一人ぐらいしかいない。子供達の半分近くは勉強よりも自分探しや自分にあった職業をしたがっている。この事実は子供達に学校で知識を押し込むより、学生の内から自分らしさを探させた方がよい。現在の登校拒否、不登校、引きこもりのように学校を選択しない子供を無理矢理学校に戻しても、学校が将来意味を持たないことは、今まで述べてきたことで明らかである。登校拒否、不登校、引きこもりの子供達には学校に戻そうという努力よりも、その子供らしさ、その子供にあった職業を見つけさせてあげた方が良いと考えられる。

家庭では心を癒す 2002.12.9

 不登校新聞12月1日号の論説で、「教育の基本は家庭教育だ」と書かれていました。21世紀の現在、家庭で教えられない教育の範囲は大変に広いです。親も時間的な余裕から、子供の教育などとてもしていれません。その結果、子どもの教育は学校や塾に任せざるを得なくなります。

 学校や塾では、論説の中にあるように、競争が要求されます。競争すれば勝者と敗者が出ます。その敗者の受け入れ先が家庭だという意味だと思います。けれど多くの家庭は、子どもが敗者であることを受け入れられません。敗者の子どもに勝者になることを要求し続けます。ところが全力を出しきって競争した結果敗者になった子どもには、もう競争に参加するエネルギーを持っていません。

 そのような子どもは、一部は競争の場を拒否して家庭に逃げ帰えって、競争の場へ出かけようとはしません。それが登校拒否、不登校です。また、一部の子どもは競争の場には参加しますが、競争そのものには参加しようとはしないで、否定された自分たちの存在を、いろいろな非行行為をする事で満たそうとします。

 家庭が教育の場にならなくても良いと思います。子供達の競争の場である学校や塾で心の傷ついた子供達の癒しの場であるべきだと思います。心が傷ついた子供達の安全な場所であるべきだと思います。家庭が心の傷ついた子供達の安全な場所であるなら、子供達は傷ついた自分の心を家庭で癒して、競争に再挑戦する子どもも出てくるでしょうし、競争しない生き方を選択して、社会へ出ていく子どもも出てくるでしょう。

学校復帰 2002.12.20

12月15日号の不登校新聞の記事、不登校問題「協力者会議」の中で、相模湖フリースクールの報告で、「学校復帰」と言う言葉がありました。この場合の学校復帰という言葉は、何を意味しているのか触れられていませんでした。不登校とは、子どもが学校へ行かないと言う意味ですから、学校復帰とは、不登校だった子どもが学校へ行きだしたという意味だと思います。不登校だった子どもが学校へ行きだした場合、その学校へ行きだした子どもには、次のような状態が考えられます。

 不登校だった子どもが、不登校になる前の元気な状態で学校へ行きだしたのでしたら、全く問題が無いのですが、今までの私達の経験から、不登校の子どもを不登校になる前の元気な状態に戻すことは、大変に難しくて、多くの場合、不登校の子どもの親でない人達には不可能なことを知っています。

 不登校になる直前の、無理して学校へ行っていた状態で学校へ行きだした場合では、私達の経験の範囲では、そのような子どもは、またすぐに学校で辛い経験をして、不登校になる場合が多いです。また、学校へは行ける状態ではないが、行かないとより辛いことになるから、無理して学校へ行きだした場合では、その子どもが再登校する要因が無くなったとき、いろいろな辛い症状が出て、学校へ行けなくなります。どちらもその際に、それ以前よりももっと強い身体的な、精神的な症状を出す場合が多いです。

 不登校の解決は決して子どもの形の上での学校復帰ではありません。不登校の子どもの、学校で傷ついた心の傷が癒えた状態が、不登校の解決です。子どもの心の傷が癒えたとき、その子どもが学校へ復帰する場合もありますし、学校とは関係しない生き方を選択する場合もあります。ですから、不登校の子どもの形の上からの学校復帰は、見かけ上不登校の解決のように思われますが、子どもの心の中の不登校の解決ではある場合は少なくて、殆どの場合、学校復帰後にもっと難しい不登校問題や引きこもりの問題を生じることになります。

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