フリースペース「したいなぁ〜松戸」&松戸−登校拒否を考える会「ひまわり会」
ホーム代表者と顧問医師のコラム

ホームスタディー制度 週刊金曜日第403号 2002.3.15

 埼玉県志木市は学習意欲がありながら引きこもっている不登校児の自宅に教員を派遣し、自宅で授業する「ホームスタディー制度」を新年度から始める。学ぶ権利を保障し、小中学校に復帰させることが目的で、授業を受ければ出席扱いとする、との記事が新聞に出ていました。

 志木市のこの試みはすばらしいように見えますが、重要な点を見落としている可能性があります。それは「学習意欲がある」と判断する根拠です。きっと子供が勉強したいと言う場合を学習意欲があると指していると思います。その言葉が子供にとって、本心の場合と知識の場合とがあります。引きこもっている子供達が「勉強をしたい」と言った場合、大半は知識からです。本心は学校、又は学校に関連する物で恐怖を感じるから引きこもっています。勉強は学校に関連する物ですから、引きこもっている子供は勉強をしようとはしません。勉強をさせようとすると色々な症状や不適応行動を出してきます。

 現在登校拒否以外の理由で自宅に引きこもっている子供は皆無に近いです。それらの子供達は学校や学校に関連する物に恐怖を感じています。先生、それに類似する人に会うと恐怖を生じます。勉強そのものも恐怖を生じさせる場合が大半です。そのような子供には、学校又は学校に関する物に恐怖を生じさせないようにする必要が有ります。その為の対応を抜きにして、学習を押しつけることは子供の人権侵害になります。学習を拒否している子供への支援とは、学校や学校に関する物に恐怖を感じている子供達の心を癒す対応です。義務教育を受けるかどうかは子供が自分の心の状態から、結果的に自分で決めることです。引きこもりの子供の心の成長のためには、子供は学校に関係しないで成長する必要があります。

いじめ自殺と親 不登校新聞97号2002年5月1日

 新聞に上越市のいじめ自殺事件の裁判の結果が報じられていました。判決の中で「家庭が防波堤にならなかった」という部分があります。それは自殺した子供の親には過酷な表現です。多くの人もそのようなことを指摘して、子供の自殺で辛い思いをしている親に追い打ちをかけるべきではないと思われいるのではないでしょう。ところが自殺した子供にとっては「家庭が防波堤にならなかった」という事実はとても重大な問題であることを知って欲しいと思います。

 いじめ自殺の原因は、いじめる相手がいたからです。自殺した子供はいじめた相手に計り知れない恨みを感じていたであろうことは遺書の中に書かれています。きっと親はその気持ちを汲んで裁判に訴えたのだろうと思います。今後いじめる子供が出ないように、親がいじめた相手や、いじめを解決できなかった学校を非難し、裁判に訴えるのにはそれなりの意味があります。

 けれど遺書には書かないけれど、自殺した子供は親に対しても計り知れない恨みを抱いていたはずです。それはいじめを受けたが自殺しなかった子供達が、後から振り返って私たちに教えてくれています。いじめを訴えても理解してくれない親、それどころかかえっていじめられている子供を責める親、いじめの場所に押し出す親、いじめだと理解しても表面上の解決だけを行った後いじめの場所に押し出す親、その結果今まで以上に辛いいじめを受ける結果となったことに気づかない親。そのような親の対応で、子供は自分の存在を否定せざるを得なくなり、死を選択しています。

 いじめられている子供にはいじめを解決する能力はありません。親がいじめの場所から子供を安全な家庭に隔離してあげると、いじめはそれ以上続きません。子供が自殺する必要が無くなります。しかし親が子供を安全な家庭に隔離しなかったからと言って、いじめをした相手やいじめを防げなかった学校の責任が減るわけではありません。いじめた相手や学校はそれなりの責任をとる必要があります。それと同時に、親は被害者意識を全面に出すのではなく、親が子供を隔離しようとしなかった、いじめが原因での不登校を認めようとしなかったこと親の問題点をもっとはっきりと指摘して、他の親たちに注意を喚起していくべきだと思います。

引きこもりの調査 2002.5.9

 不登校新聞97号をあけてびっくりしました。尾木直樹氏のアンケート調査が第一面のトップ記事に載っていたからです。このアンケート調査が普遍性のある調査の結果ならとても意味があることですが、少なくともその調査対象に偏りがあり、普遍性があるとは考えられないから問題だと思うのです。記事によるとその対象者は「全国引きこもりKHJ親の会」の月例参加者を中心にしていると書いてあります。つまりこの調査対象では事実でしょうが、この調査対象外では事実ではないのです。不登校の子供達の対応をしている私の経験とはほど遠い事実です。統計のまやかしに属す物だと思います。

 問題の第一点は前述のように調査対象が偏っていることです。普遍性がなく、この調査結果を不登校の子供達について当てはめると大変な間違いを生じ易いことです。

 問題の第二点は、調査対象の大半が親であるという事実です。引きこもりの子供はそうは考えていないがあることを考慮に入れる必要があることです。また、この調査対象の親達のように考えるから、子供が引きこもりを続けなければならないと言う可能性も考えなければならないと思います。

 問題の第三点は「全国引きこもりKHJ親の会」に関係している人たちを中心とした調査であるから、調査対象の人たち特に親たちは、この調査の前にこの会の考え方をすでに教え込まれている可能性が高いです。対象者達の素直な意見ではなくて、この会の活動結果の影響を強く受けている可能性が高いです。

 これらを踏まえて考えるなら、この調査は一つの事実でしょうが、不登校新聞が何の評価もしないで第一面に記載すべきでなかったと思います。この第一面のトップ記事を読めば多くの人は不登校新聞がこの記事には大きな意味があると肯定的に理解すると思います。それは引きこもりをしている子供達には大変迷惑な話だと思います。できましたら不登校新聞の編集者から、不登校新聞がこの調査の結果を認めていないとの記事を載せられた方が良いと思います。

いじめと学校 2002.5.20

 「いじめの見極め」は大変に難しい。殴る蹴るなどのはっきりとした暴力が行われた現場を見たなら、その子供はいじめられていると判断ができる。多くの暴力を使ったいじめは人目のつかないところで行われている。激しい暴力を使わないいじめの多くは、長間同士の遊びと区別することが難しい。いじめの現場を見ても、多くの人はいじめとは気づかないし、例え気づくことがあってもいじめであると証明するのは大変に難しい。

 子供に関するいじめとは、周囲の人がいじめの現場を見て見ていじめと思ったときがいじめではなく、子供がいじめられていると思ったとき、または思わなくても他人から辛い思いをさせられている状態であった時、その子供がいじめられていると解釈すべきだ。だから親や先生は子供がいじめられていないかどうかを絶えず注意しておく必要がある。少しでもいじめの可能性がある場合には、いじめの場である学校を休ませて、いじめから隔離してあげる必要がある。

 元来子供は好きこのんでいじめをするのではない。いじめをする子供には何か辛いことがあるから、その辛さをいじめることで解消している。親や先生が子供に辛い思いをさせる場合にはいじめとは言わない。けれど子供とっては、親でも先生でも仲間でも、その子供に辛い思いをさせる限り、そしてその辛くさせられた状態をいじめと言わなくても、心の中では同じ反応が起こっている。子供はその辛さから逃げ出す必要がある。その結果、他の子供をいじめたり、いろいろな問題行動を起こす。いじめる子供も辛かったり、いじめられていたから、いじめを行っている。この悪循環を生じる学校制度を改革しない限り、学校内でのいじめは無くならないことになる。

大人の引きこもり 2002.5.27

 最近、大人の引きこもりの相談が目立ってきています。引きこもっている状態を細かいところまではっきりと概念化することは大変に難しいです。相談機関から見ると、引きこもっている子供(親から養われている)の状態には、生理的な用件以外に自分の部屋から出てこないもの、家の中での生活は可能だが家の外には一歩も出ないもの、自分の必要な買い物などの用件の時には外出するが、それ以外の時には家の中だけで生活するもの、外出や遊びに出かけるが就職をしようとしない、しても長続きをしないものなどがあげられます。

 子供たちがこれらの引きこもり状態なる原因として、多くの大人たちは子供たちの性格をあげています。けれど私が見る限り、その性格は決して生まれつき持っていたものではありません。ほとんどすべての例で、この性格は成長の過程で形成されています。周囲の大人の対応のまずさの積み重ねで、子供たちは引きこもらなければならない性格を獲得してしまっています。

 これらの引きこもりの子供達は共通して、何かに反応して、神経症状、精神症状(無気力を含む)を出しています。子供によっては神経症状や精神症状を絶えず出ているものから、普段は全く出さないが、何かの折りに神経症状、精神症状を出すものもあり、親が神経症状、精神症状と気づいていない場合もあります。これらの神経症状、精神症状があるから子供たちは引きこもっていると大人たちや当人も考えている場合も多いです。

 これらの神経症状、精神症状は決して病気ではありません。それは親の対応次第で、これらの症状を出さないようにできるからです。けれど不登校の子供達が出す神経症状、精神症状よりも対応が難しいことも事実です。そのために神経疾患、精神疾患の患者にされている例も多いです。

仲良し刺傷事件 2002.6.4

 長野県で中一の男子が仲良しの友達をナイフで刺したと言う事件が報道された。その後の学校や父兄の反応は「まさか、なぜ?」、「現時点では把握できなかった」、「人をあやめては行けない」、「ナイフを持っては行けない」など、この種の事件が起きたときの対応はいつも同じである。 型どおりの対応が繰り返されている。

 事件が起こって以後、この事件に触れている新聞記事は殆どない。少ない情報からの推測であるが、今回の事件のポイントは仲良しと見られていたことであろう。加害者の少年は被害者の少年に、一見仲が良いように振る舞うように要求されていたのかも知れない。親からも言葉で、対応で、仲良しのように振る舞うように要求されていたのかも知れない。仲良しのように見えたから、害者からのいじめを我慢するように親や教師から要求されていたのかも知れない。加害者の少年は仲良しのように振る舞わなければならなかったから、自分自身の辛さを誰にもうち明けられなかったのであろう。一生懸命耐えて耐えて、その結果事件を起こしたようである。

 加害者の少年はナイフを用意して被害者を刺している。それは加害者の少年が辛くて辛くて、夢遊病者のようにナイフを用意して、犯罪を起こしている。そこには大人に見られるようなはっきりとした、打算的な、被害者を殺傷しようととする意図はない。潜在意識に支配された行動だったからである。

 いくら加害者の少年を問いただしても大人のような犯罪への因果関係は見つからない。この事件の本質をつかむには、子供の心と大人の心とは大きく異なっていることを踏まえて、考える必要がある。この事件の後の学校や教育委員会のおきまりの対応は、殆ど意味がないか、逆の効果がある可能性があることに気づくべきである。

登校拒否の子供へのTVゲームのすすめ 2002.6.14

 中年以上の多くの大人は、TVゲームに良い印象を持っていません。それは彼らが、彼らの親や先生たちからTVゲームを否定されて育だったからです。ところが私たちの経験では、子供たちへの癒やしという意味で、TVゲームにはそれなりの長所を持っています。欠点もありますが。

 親に理解してもらえない登校拒否、不登校、引きこもりの子供たちの辛い思いを癒やしてくれるのはTVゲームです。その子供たちの他にぶつけられない怒りを発散させてくれるのもTVゲームです。その子供たちの経験できない世界を経験させてくれるのもTVゲームです。バーチャルの世界で普段経験できない経験をすることができます。バーチャルの世界での経験でも子供たちには実際の経験と同じ効果があります。引きこもっていてもいろいろな経験をすることができます。

 TVゲームにのめりこむことで、登校拒否の子供たちは自分を維持しています。自分たちの心の傷が癒えたときには、子供たちはTVゲームにのめり込むのをやめて常識的な行動をとるようになります。ここで注意して欲しいことは、TVゲームにはまっている子供は必ずしも辛い状態の子供とは限りませんし、大人がTVゲームにのめり込むのとその心の中は異なっていることです。

 親たちは子供が暴力的だったり、残酷なゲームをするのを嫌います。子供がゲームの世界で経験を、実際の行動に移すのではないかと、大人たちは心配します。けれどそれは違います。大きなストレスがかかっていない子供たちは、バーチャルの世界と実生活とをはっきりと区別して行動をします。問題は大きなストレスがかかっている子供たちです。大きなストレスがかかっている子供達は発作的に、または集団心理的に、バーチャルの世界での経験を実際に行ってしまうことがあります。その結果として事件になってしまうこともあります。

登校拒否?不登校? 2002.6.25

 不登校新聞12月15日号論説を読んで、言葉のすれ違いを改めて感じさせられました。この論説の中では、「登校拒否」、「不登校」という言葉が曖昧に使われています。

 私は、子供が学校へ行かない状態を「不登校」というのはわかりやすいと思います。しかし、保健室へ、カウンセラーの所へ行っている状態を、果たして不登校と言えるのでしょうか?朝なかなか起きてこない。起きてきても学校へ連れて行かなければ学校へ行かない子どもを、「不登校」と言えるかどうかです。一般には、「不登校」は学校へ行かないことを言います。学校へ行っているのに、「不登校」と呼ぶことはできません。学校へ行くことを拒否しているが、親や周囲の圧力から学校へ行っている子どもの状態は、「行き渋り」と呼んだ方がわかりやすいと思います。

 子どもがはっきりとこと「学校へ行かない」と拒否の言葉を言えば、それは登校拒否とわかりやすです。けれども、そのような子どもも親が圧力をかければ学校へ行ってしまいます。周囲の人から見れば登校を拒否しているとは見えません。保健室やスクールカウンセラーの所へ行っている子どもが登校を拒否しているとは見えません。しかし子どもの心の中は、学校へ行きたくないのです。行きたくないのに行かざるを得ないのです。つまり学校へ行き渋っている子どもたちの心のなかは「登校拒否」なのです。

 学校へ行きたがらない子ども、学校へ行っていない子どもは、心の中では、登校を嫌がり、登校を拒否しています。心の中は「登校拒否」なのです。そして、そういう子どもたちの外観が、学校への「行き渋り」であり「不登校」なのです。

引きこもりは回避行動 2002.7.5

 最近引きこもりが意欲的な行動と考えておられる方が見かけます。その人達は、引きこもりが子供の意思に基づいた、子供の選択した行動と考えておられるようです。

 引きこもっている子供を観察していると、子供にとって嫌なことが無ければ、子供は引きこもらないで普通に生活をします。引きこもっていた子供に、その子供にとって嫌な刺激を与えると、瞬時に反応していろいろな回避行動や症状を出すと共に、その後自分の部屋に閉じこもります。その時の子供の状態はとても不安定です。引きこもっていてもいろいろな神経症状、精神症状を出しています。それは決して意欲的な子供の行動が示す物ではありません。嫌なことから逃げるための、子供の回避行動の姿です。

 引きこもりを良いこととして認めようとすることは正しいと思います。嫌なことを克服できないから、それから逃れて自分を守ろうとする子供の行動は正しいです。その子供が自分を守ろうとする行動を、親や大人が認めようとすることは、子供の命の安全を守るために、とても大切なことです。けれど引きこもりが意欲的な行動か回避行動かを間違えたら、それ以外の対応を間違えることになります。言葉に出して言いませんが、子供の潜在意識の中では、自分が引きこもらざるを得なくしているものを、親や大人が取り除いて欲しいのです。

 子供は潜在意識で何かに反応して、反射的に引きこもっています。今まで子供を責めていた親が子供の引きこもりを認めようとする変化は、子供にとってありがたいことです。引きこもりの子供を認めることは、引きこもる子供に対して、親として最低限必要なことです。けれどそれでも子供が依然として引きこもり続けるという事実は、子供が潜在意識で何かを回避続けていることも知って欲しいと思います。ただし、子供が回避している物を見つけることは大変に難しいのですが。

教育改革で登校拒否不登校が減らせるか? 2002.7.10

 登校拒否、不登校の子供を減らすために、「教育改革」を正面から論じろと言う意見が有りました。そこで教育改革でどれだけ心が傷ついた子供達を減らせるのか、考えてみたいと思います。

 教育改革は学校制度、学校内での教育の在り方を考えようとする物です。ところが子供の教育環境とは学校ばかりではありません。子供自身が持っている生い立ちや、家庭、社会ばかりでなく、テレビやラジオなども子供の教育に大きな影響を与えます。受験に関しては学校や塾の教育環境が大きな影響を与えますが、子供の人格の形成という意味での教育に関しては、現在の学校の役割はそれほど大きくは有りません。場合によっては足かせになっていることもあります。その足かせになっている部分を改革しようとする教育改革ならある程度教育改革の意味が有ります。

 現在の学校教育が子供達を傷つけている要素の主な物は先生方の学級運営です。現在のように多様性のある子供達を理解できない先生方が、学校を、自分の職場を優先して子供を傷つけています。子供が学校で傷ついているのに、その学校へ子供を押し出す親により、子供はよけい傷ついています。問題は先生や親のあり方であり、教育改革というような、学校のあり方をいじり回しても、その効果には限界が有ります。子供達を傷つけないような教育制度が有れば別ですが、それは不可能でしょう。一人でも傷ついた子供達を減らせるという意味での教育改革の議論は必要でしょうが、それは他の至る所で成されています。

 今、心が傷ついた子供達が求めていることは、子供達の立場からの訴えであり、その訴えを素直に聞いて貰えることです。傷ついた子供達の居場所はどう作るかです。それらは現在の日本社会では無視されてきています。登校拒否不登校の子供達を守るためには、傷ついた子供達の立場からの分析と、傷ついた子供達の気持ちから親や学校、社会へ訴え続け、理解して貰う必要があります。

親と子供の関係について 2002.7.17

 登校拒否、不登校、引きこもりなどの辛い状態にある子供と親との関係は、私達大人が常識としてきたものとは大きく違うようです。社会常識を辛い状態の子供に当てはめようとすると、大変な間違いを犯してしまいます。時には常識とは全く逆の対応が、辛い状態の子供を救うことになります。

 一般的に、辛い状態にある子供は、母親に自分の辛い心の癒しを求めています。父親には社会から加わるような圧迫感を感じています。家庭によりその度合いは異なりますが、辛い状態にある子供の家庭ではこの傾向が見られています。

 母親について、子供の苦しみを肌で感じられる母親が多いです。自分の持っている希望や知識と、辛そうにしている子供を助けたいという母性との狭間で、揺れ動く母親が多いです。父親は自分の持っている知識から、外見だけで子供を見ています。子供の思いを肌で感じることは殆どありません。例外も無いわけではないですが、殆ど全ての家庭でこの傾向が生じています。

 子供が登校拒否、不登校、引きこもりになった当初、父親や母親は、自分の持っている希望や知識とは異なる子供の姿を長時間目の前にして、苦しくなるのは当然でしょう。子供に働きかけて、子供を変えようとするのはやむを得ないことです。母親は自分の辛さから父親に助けを求めようとするのも理解できることです。

 けれど母親は、自分達の対応で辛くなる子供の気持ちを感じ取れます。その結果多くの母親は、やがて自分の希望や知識を押さえて子供を守ろうとします。けれど父親にはそれが大変に難しいです。直接又は母親を介して、父親は子供を責めてしまいます。辛い子供をますます辛くしてしまいます。

 父親が子供の問題を解決しようとして全面に出たときには、多くの場合、子供も母親もとても辛くなります。多くの場合、父親の対応は腕力を用いて行われます。母親にも働きかけて、徹底して子供を責めます。それは子供の心をずたずたにするばかりでなく、母親の子供の気持ちを感じ取り守ろうとする能力の母性も働かなくさせてしまいます。

 以上のようなことから、辛い状態にある子供への直接的な対応は、母親に任せるべきだと思います。父親や周囲の人達は、辛い状態の子供を受け入れ易くする母親、辛い状態の子供を支えようとする母親を作るために、母親を守り支えるのが一番良いようです。

キレる子供への偏見? 2002.7.29

 不登校新聞に国立教育政策研究所のキレる子供の成育歴に関する研究が紹介されていました。この報告書に関する記事をみて、私はとても不思議に感じました。それは「キレる」と言う言葉に国立教育政策研究所の偏見を感じたからでした。

 元来キレるとは、癇癪を起こしたことと同じ事です。若い人達は同義語として使っています。しかし、国立政策研究所のキレるとは、癇癪を起こした結果、たまたま社会的に問題になった場合を指しているようです。それは調査対象が、関係機関や学校で問題となったキレた子供の場合だからです。調査対象がキレる子供達の特殊な、偏った一部のキレる子供達になっています。ですから、調査結果も偏った物になっていて、キレる子供達の全てを表していないと思います。

 キレるも癇癪を起こすも、嫌なことに出くわすと直ちに激しい怒りを生じて相手を攻撃することを指しています。つまり、子供だけがキレるのではなく、大人でもキレる人も少なくありません。現在に始まったのではなくて、昔からキレる人も多くいました。いわゆる昔の江戸っ子はキレてばかりいたのでしょう。

 調査法も大変問題が多いです。調査対象の子供達の分類を関係者の主観によるラベル貼りで行われています。分類には客観てきな根拠は全くありません。その結果、調査結果も客観的(統計学的)な根拠は全く無いことになります。その意味のない結論から子供達やその親が責められることは大変に不合理なことだと言えます。

 この様な調査を行わなくても、キレるを癇癪と置き換えれば、キレる子供達の様子は見えてきます。キレる子供達は、何かで心を傷つけられています。その心の傷に触れる物に出くわすと、心の傷が激しく疼いて、その心の傷に触れる物を攻撃します。この心の傷の疼きが酷くて、その結果攻撃が激しいときが、キレた、癇癪を起こしたときです。

 子供の心に傷を付けたのは親かも知れません。先生かも知れません。しかし、この報告書にあるいろいろな要因は、単にキレる子供に関係した因子であり、決して子供の心に傷を付けた物ではありません。日本中の全ての子供は、報告書に掲げられた要因を多かれ少なかれ持っています。そのような意味ではこの調査は全く意味を成さない調査であると言えると思います。

子供の立場からの教育基本法の改正を望む 2002.8.7

 教育基本法改正の議論が行われています。その内容について詳しいことは分かりませんが、教育をいかに行って、子供達をある方向へ導こうとする物であることにはと変わりがないようです。多くの子供達に関しては、教育基本法で示されるような、子供達を有る方向へ導こうとする教育の在り方が効果的である反面、このような教育法では却って子供達の心が傷つき、マイナスの効果を子供達に与えてしまうことも有ることが議論されているようには思われません。

 子供達を学校に集めて教育して、有る方向性を持たせ競わせてよい子供は、それでよいのです。けれど学校で教育を受けると悪い子供達、学校を拒否している子供達がいます。そのような子供達を学校へ行かない状態で教育する方法も、一つの教育の方法として認め、それらの子供達の教育の権利をいかに認め、その教育の仕方をしっかりと議論して欲しいと思います。

 以前は学校で教育を受けるのが悪い子供の数は少なかったので、その場しのぎの対応で、そのような子供達を学校へ戻す対応が取られていました。現在それが却ってそのような子供達を苦しめる原因になっています。また、学校で教育を受けるのが悪い子供の数がどんどん増えてきています。そればかりでなく、学校教育が好ましいと考えられる子供達の内でも、実際は学校教育が好ましくなくて、大人の知らないところで拒否反応を起こしている子供達の数も多くなってきています(例えば学校の勉強が楽しいですか?と質問するとはぁ〜いと答える子供達でも、その大半は誰にも話さないから本当のことを教えてと言うと、本当は学校へは行きたくない、勉強は嫌いだと言う)。

 学校教育が好ましくない子供の数が増えてきているのは、子供にとって学校生活が楽しくないことがあげられます。先生達から与えられた学校の楽しさは、子供達の立場から見たらさほど楽しい物ではないのです。子供達の中から生じる楽しさを拾い上げて、学校を楽しくするような教育の在り方を考えて欲しいと思います。

教師は生徒の味方か政府の味方か 2002.8.16

 現在の政府、教育委員会の方向は生徒を信頼する方向とは全く逆の、管理教育であることは事実です。教師がそれを知っているなら、なぜ教師はそれと戦わないのでしょうか?なぜ、政府、教育委員会の言いなりになっているのでしょうか?教師達の政府が悪い、教育委員会が悪いは単に責任転嫁にしかすぎません。

 教師にも生活がかかっていることは解ります。けれど自分の生活のために、子供達を犠牲にしても良いと言うことにはなりません。そして子供達を直に傷つけているのは教師だという事も事実です。殆どの教師は自分達が子供達を傷つけていることすら気づいていません。子供の問題を子供から学ばないで、自分たちの頭の体操から結論を出して子供達に対応しています。その結果子供達はますます辛くなっています。

 教師達の間で問題になる子供は、子供に問題の原因があると考えています。教師自身が子供を信頼しないで、政府の言いなりになり、それでいて政府に責任を転嫁しても子供達は救われません。いくら政府が変わっても、教師自身が子供を信頼しないで、子供の心を知らないで(本の上では知っていますが、多様性のある個々の子供の心を知ろうとしない)教育を行っている限り、また、学校で傷ついた子供達の心が学校で疼くことを知らない限り、傷ついた子供達の数はどれだけ減るか解りません

 傷ついて登校拒否、不登校になった子供やその親たちには、自分達のことで精一杯なのです。自分たちの辛い状態から抜け出すのに精一杯なのです。教師は、ありきたりの知識からではなくて、自らこのような辛い立場にある子供達を子供の立場から理解して、子供達を守る行動に出ない限り、学校へ半強制的に行かされている子供達を守る方法は有りません。教師自ら子供、特に心が傷ついた子供を学び、守る行動に出て、そこでぶつかった教育上の問題点を、教師自ら政府や教育委員会と掛け合うべきだと思います。

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