フリースペース「したいなぁ~松戸」&松戸-登校拒否を考える会「ひまわり会」
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心療内科 赤沼医師のコラム

ホームスタディー制度 週刊金曜日第403号 2002.3.15

 埼玉県志木市は学習意欲がありながら引きこもっている不登校児の自宅に教員を派遣し、自宅で授業する「ホームスタディー制度」を新年度から始める。学ぶ権利を保障し、小中学校に復帰させることが目的で、授業を受ければ出席扱いとする、との記事が新聞に出ていました。

 志木市のこの試みはすばらしいように見えますが、重要な点を見落としている可能性があります。それは「学習意欲がある」と判断する根拠です。きっと子供が勉強したいと言う場合を学習意欲があると指していると思います。その言葉が子供にとって、本心の場合と知識の場合とがあります。引きこもっている子供達が「勉強をしたい」と言った場合、大半は知識からです。本心は学校、又は学校に関連する物で恐怖を感じるから引きこもっています。勉強は学校に関連する物ですから、引きこもっている子供は勉強をしようとはしません。勉強をさせようとすると色々な症状や不適応行動を出してきます。

 現在登校拒否以外の理由で自宅に引きこもっている子供は皆無に近いです。それらの子供達は学校や学校に関連する物に恐怖を感じています。先生、それに類似する人に会うと恐怖を生じます。勉強そのものも恐怖を生じさせる場合が大半です。そのような子供には、学校又は学校に関する物に恐怖を生じさせないようにする必要が有ります。その為の対応を抜きにして、学習を押しつけることは子供の人権侵害になります。学習を拒否している子供への支援とは、学校や学校に関する物に恐怖を感じている子供達の心を癒す対応です。義務教育を受けるかどうかは子供が自分の心の状態から、結果的に自分で決めることです。引きこもりの子供の心の成長のためには、子供は学校に関係しないで成長する必要があります。

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いじめ自殺と親 不登校新聞97号2002年5月1日

 新聞に上越市のいじめ自殺事件の裁判の結果が報じられていました。判決の中で「家庭が防波堤にならなかった」という部分があります。それは自殺した子供の親には過酷な表現です。多くの人もそのようなことを指摘して、子供の自殺で辛い思いをしている親に追い打ちをかけるべきではないと思われいるのではないでしょう。ところが自殺した子供にとっては「家庭が防波堤にならなかった」という事実はとても重大な問題であることを知って欲しいと思います。

 いじめ自殺の原因は、いじめる相手がいたからです。自殺した子供はいじめた相手に計り知れない恨みを感じていたであろうことは遺書の中に書かれています。きっと親はその気持ちを汲んで裁判に訴えたのだろうと思います。今後いじめる子供が出ないように、親がいじめた相手や、いじめを解決できなかった学校を非難し、裁判に訴えるのにはそれなりの意味があります。

 けれど遺書には書かないけれど、自殺した子供は親に対しても計り知れない恨みを抱いていたはずです。それはいじめを受けたが自殺しなかった子供達が、後から振り返って私たちに教えてくれています。いじめを訴えても理解してくれない親、それどころかかえっていじめられている子供を責める親、いじめの場所に押し出す親、いじめだと理解しても表面上の解決だけを行った後いじめの場所に押し出す親、その結果今まで以上に辛いいじめを受ける結果となったことに気づかない親。そのような親の対応で、子供は自分の存在を否定せざるを得なくなり、死を選択しています。

 いじめられている子供にはいじめを解決する能力はありません。親がいじめの場所から子供を安全な家庭に隔離してあげると、いじめはそれ以上続きません。子供が自殺する必要が無くなります。しかし親が子供を安全な家庭に隔離しなかったからと言って、いじめをした相手やいじめを防げなかった学校の責任が減るわけではありません。いじめた相手や学校はそれなりの責任をとる必要があります。それと同時に、親は被害者意識を全面に出すのではなく、親が子供を隔離しようとしなかった、いじめが原因での不登校を認めようとしなかったこと親の問題点をもっとはっきりと指摘して、他の親たちに注意を喚起していくべきだと思います。

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引きこもりの調査 2002.5.9

 不登校新聞97号をあけてびっくりしました。尾木直樹氏のアンケート調査が第一面のトップ記事に載っていたからです。このアンケート調査が普遍性のある調査の結果ならとても意味があることですが、少なくともその調査対象に偏りがあり、普遍性があるとは考えられないから問題だと思うのです。記事によるとその対象者は「全国引きこもりKHJ親の会」の月例参加者を中心にしていると書いてあります。つまりこの調査対象では事実でしょうが、この調査対象外では事実ではないのです。不登校の子供達の対応をしている私の経験とはほど遠い事実です。統計のまやかしに属す物だと思います。

 問題の第一点は前述のように調査対象が偏っていることです。普遍性がなく、この調査結果を不登校の子供達について当てはめると大変な間違いを生じ易いことです。

 問題の第二点は、調査対象の大半が親であるという事実です。引きこもりの子供はそうは考えていないがあることを考慮に入れる必要があることです。また、この調査対象の親達のように考えるから、子供が引きこもりを続けなければならないと言う可能性も考えなければならないと思います。

 問題の第三点は「全国引きこもりKHJ親の会」に関係している人たちを中心とした調査であるから、調査対象の人たち特に親たちは、この調査の前にこの会の考え方をすでに教え込まれている可能性が高いです。対象者達の素直な意見ではなくて、この会の活動結果の影響を強く受けている可能性が高いです。

 これらを踏まえて考えるなら、この調査は一つの事実でしょうが、不登校新聞が何の評価もしないで第一面に記載すべきでなかったと思います。この第一面のトップ記事を読めば多くの人は不登校新聞がこの記事には大きな意味があると肯定的に理解すると思います。それは引きこもりをしている子供達には大変迷惑な話だと思います。できましたら不登校新聞の編集者から、不登校新聞がこの調査の結果を認めていないとの記事を載せられた方が良いと思います。

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いじめと学校 2002.5.20

 「いじめの見極め」は大変に難しい。殴る蹴るなどのはっきりとした暴力が行われた現場を見たなら、その子供はいじめられていると判断ができる。多くの暴力を使ったいじめは人目のつかないところで行われている。激しい暴力を使わないいじめの多くは、長間同士の遊びと区別することが難しい。いじめの現場を見ても、多くの人はいじめとは気づかないし、例え気づくことがあってもいじめであると証明するのは大変に難しい。

 子供に関するいじめとは、周囲の人がいじめの現場を見て見ていじめと思ったときがいじめではなく、子供がいじめられていると思ったとき、または思わなくても他人から辛い思いをさせられている状態であった時、その子供がいじめられていると解釈すべきだ。だから親や先生は子供がいじめられていないかどうかを絶えず注意しておく必要がある。少しでもいじめの可能性がある場合には、いじめの場である学校を休ませて、いじめから隔離してあげる必要がある。

 元来子供は好きこのんでいじめをするのではない。いじめをする子供には何か辛いことがあるから、その辛さをいじめることで解消している。親や先生が子供に辛い思いをさせる場合にはいじめとは言わない。けれど子供とっては、親でも先生でも仲間でも、その子供に辛い思いをさせる限り、そしてその辛くさせられた状態をいじめと言わなくても、心の中では同じ反応が起こっている。子供はその辛さから逃げ出す必要がある。その結果、他の子供をいじめたり、いろいろな問題行動を起こす。いじめる子供も辛かったり、いじめられていたから、いじめを行っている。この悪循環を生じる学校制度を改革しない限り、学校内でのいじめは無くならないことになる。

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大人の引きこもり 2002.5.27

 最近、大人の引きこもりの相談が目立ってきています。引きこもっている状態を細かいところまではっきりと概念化することは大変に難しいです。相談機関から見ると、引きこもっている子供(親から養われている)の状態には、生理的な用件以外に自分の部屋から出てこないもの、家の中での生活は可能だが家の外には一歩も出ないもの、自分の必要な買い物などの用件の時には外出するが、それ以外の時には家の中だけで生活するもの、外出や遊びに出かけるが就職をしようとしない、しても長続きをしないものなどがあげられます。

 子供たちがこれらの引きこもり状態なる原因として、多くの大人たちは子供たちの性格をあげています。けれど私が見る限り、その性格は決して生まれつき持っていたものではありません。ほとんどすべての例で、この性格は成長の過程で形成されています。周囲の大人の対応のまずさの積み重ねで、子供たちは引きこもらなければならない性格を獲得してしまっています。

 これらの引きこもりの子供達は共通して、何かに反応して、神経症状、精神症状(無気力を含む)を出しています。子供によっては神経症状や精神症状を絶えず出ているものから、普段は全く出さないが、何かの折りに神経症状、精神症状を出すものもあり、親が神経症状、精神症状と気づいていない場合もあります。これらの神経症状、精神症状があるから子供たちは引きこもっていると大人たちや当人も考えている場合も多いです。

 これらの神経症状、精神症状は決して病気ではありません。それは親の対応次第で、これらの症状を出さないようにできるからです。けれど不登校の子供達が出す神経症状、精神症状よりも対応が難しいことも事実です。そのために神経疾患、精神疾患の患者にされている例も多いです。

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仲良し刺傷事件 2002.6.4

 長野県で中一の男子が仲良しの友達をナイフで刺したと言う事件が報道された。その後の学校や父兄の反応は「まさか、なぜ?」、「現時点では把握できなかった」、「人をあやめては行けない」、「ナイフを持っては行けない」など、この種の事件が起きたときの対応はいつも同じである。 型どおりの対応が繰り返されている。

 事件が起こって以後、この事件に触れている新聞記事は殆どない。少ない情報からの推測であるが、今回の事件のポイントは仲良しと見られていたことであろう。加害者の少年は被害者の少年に、一見仲が良いように振る舞うように要求されていたのかも知れない。親からも言葉で、対応で、仲良しのように振る舞うように要求されていたのかも知れない。仲良しのように見えたから、害者からのいじめを我慢するように親や教師から要求されていたのかも知れない。加害者の少年は仲良しのように振る舞わなければならなかったから、自分自身の辛さを誰にもうち明けられなかったのであろう。一生懸命耐えて耐えて、その結果事件を起こしたようである。

 加害者の少年はナイフを用意して被害者を刺している。それは加害者の少年が辛くて辛くて、夢遊病者のようにナイフを用意して、犯罪を起こしている。そこには大人に見られるようなはっきりとした、打算的な、被害者を殺傷しようととする意図はない。潜在意識に支配された行動だったからである。

 いくら加害者の少年を問いただしても大人のような犯罪への因果関係は見つからない。この事件の本質をつかむには、子供の心と大人の心とは大きく異なっていることを踏まえて、考える必要がある。この事件の後の学校や教育委員会のおきまりの対応は、殆ど意味がないか、逆の効果がある可能性があることに気づくべきである。

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登校拒否の子供へのTVゲームのすすめ 2002.6.14

 中年以上の多くの大人は、TVゲームに良い印象を持っていません。それは彼らが、彼らの親や先生たちからTVゲームを否定されて育だったからです。ところが私たちの経験では、子供たちへの癒やしという意味で、TVゲームにはそれなりの長所を持っています。欠点もありますが。

 親に理解してもらえない登校拒否、不登校、引きこもりの子供たちの辛い思いを癒やしてくれるのはTVゲームです。その子供たちの他にぶつけられない怒りを発散させてくれるのもTVゲームです。その子供たちの経験できない世界を経験させてくれるのもTVゲームです。バーチャルの世界で普段経験できない経験をすることができます。バーチャルの世界での経験でも子供たちには実際の経験と同じ効果があります。引きこもっていてもいろいろな経験をすることができます。

 TVゲームにのめりこむことで、登校拒否の子供たちは自分を維持しています。自分たちの心の傷が癒えたときには、子供たちはTVゲームにのめり込むのをやめて常識的な行動をとるようになります。ここで注意して欲しいことは、TVゲームにはまっている子供は必ずしも辛い状態の子供とは限りませんし、大人がTVゲームにのめり込むのとその心の中は異なっていることです。

 親たちは子供が暴力的だったり、残酷なゲームをするのを嫌います。子供がゲームの世界で経験を、実際の行動に移すのではないかと、大人たちは心配します。けれどそれは違います。大きなストレスがかかっていない子供たちは、バーチャルの世界と実生活とをはっきりと区別して行動をします。問題は大きなストレスがかかっている子供たちです。大きなストレスがかかっている子供達は発作的に、または集団心理的に、バーチャルの世界での経験を実際に行ってしまうことがあります。その結果として事件になってしまうこともあります。

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登校拒否?不登校? 2002.6.25

 不登校新聞12月15日号論説を読んで、言葉のすれ違いを改めて感じさせられました。この論説の中では、「登校拒否」、「不登校」という言葉が曖昧に使われています。

 私は、子供が学校へ行かない状態を「不登校」というのはわかりやすいと思います。しかし、保健室へ、カウンセラーの所へ行っている状態を、果たして不登校と言えるのでしょうか?朝なかなか起きてこない。起きてきても学校へ連れて行かなければ学校へ行かない子どもを、「不登校」と言えるかどうかです。一般には、「不登校」は学校へ行かないことを言います。学校へ行っているのに、「不登校」と呼ぶことはできません。学校へ行くことを拒否しているが、親や周囲の圧力から学校へ行っている子どもの状態は、「行き渋り」と呼んだ方がわかりやすいと思います。

 子どもがはっきりとこと「学校へ行かない」と拒否の言葉を言えば、それは登校拒否とわかりやすです。けれども、そのような子どもも親が圧力をかければ学校へ行ってしまいます。周囲の人から見れば登校を拒否しているとは見えません。保健室やスクールカウンセラーの所へ行っている子どもが登校を拒否しているとは見えません。しかし子どもの心の中は、学校へ行きたくないのです。行きたくないのに行かざるを得ないのです。つまり学校へ行き渋っている子どもたちの心のなかは「登校拒否」なのです。

 学校へ行きたがらない子ども、学校へ行っていない子どもは、心の中では、登校を嫌がり、登校を拒否しています。心の中は「登校拒否」なのです。そして、そういう子どもたちの外観が、学校への「行き渋り」であり「不登校」なのです。

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引きこもりは回避行動 2002.7.5

 最近引きこもりが意欲的な行動と考えておられる方が見かけます。その人達は、引きこもりが子供の意思に基づいた、子供の選択した行動と考えておられるようです。

 引きこもっている子供を観察していると、子供にとって嫌なことが無ければ、子供は引きこもらないで普通に生活をします。引きこもっていた子供に、その子供にとって嫌な刺激を与えると、瞬時に反応していろいろな回避行動や症状を出すと共に、その後自分の部屋に閉じこもります。その時の子供の状態はとても不安定です。引きこもっていてもいろいろな神経症状、精神症状を出しています。それは決して意欲的な子供の行動が示す物ではありません。嫌なことから逃げるための、子供の回避行動の姿です。

 引きこもりを良いこととして認めようとすることは正しいと思います。嫌なことを克服できないから、それから逃れて自分を守ろうとする子供の行動は正しいです。その子供が自分を守ろうとする行動を、親や大人が認めようとすることは、子供の命の安全を守るために、とても大切なことです。けれど引きこもりが意欲的な行動か回避行動かを間違えたら、それ以外の対応を間違えることになります。言葉に出して言いませんが、子供の潜在意識の中では、自分が引きこもらざるを得なくしているものを、親や大人が取り除いて欲しいのです。

 子供は潜在意識で何かに反応して、反射的に引きこもっています。今まで子供を責めていた親が子供の引きこもりを認めようとする変化は、子供にとってありがたいことです。引きこもりの子供を認めることは、引きこもる子供に対して、親として最低限必要なことです。けれどそれでも子供が依然として引きこもり続けるという事実は、子供が潜在意識で何かを回避続けていることも知って欲しいと思います。ただし、子供が回避している物を見つけることは大変に難しいのですが。

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教育改革で登校拒否不登校が減らせるか? 2002.7.10

 登校拒否、不登校の子供を減らすために、「教育改革」を正面から論じろと言う意見が有りました。そこで教育改革でどれだけ心が傷ついた子供達を減らせるのか、考えてみたいと思います。

 教育改革は学校制度、学校内での教育の在り方を考えようとする物です。ところが子供の教育環境とは学校ばかりではありません。子供自身が持っている生い立ちや、家庭、社会ばかりでなく、テレビやラジオなども子供の教育に大きな影響を与えます。受験に関しては学校や塾の教育環境が大きな影響を与えますが、子供の人格の形成という意味での教育に関しては、現在の学校の役割はそれほど大きくは有りません。場合によっては足かせになっていることもあります。その足かせになっている部分を改革しようとする教育改革ならある程度教育改革の意味が有ります。

 現在の学校教育が子供達を傷つけている要素の主な物は先生方の学級運営です。現在のように多様性のある子供達を理解できない先生方が、学校を、自分の職場を優先して子供を傷つけています。子供が学校で傷ついているのに、その学校へ子供を押し出す親により、子供はよけい傷ついています。問題は先生や親のあり方であり、教育改革というような、学校のあり方をいじり回しても、その効果には限界が有ります。子供達を傷つけないような教育制度が有れば別ですが、それは不可能でしょう。一人でも傷ついた子供達を減らせるという意味での教育改革の議論は必要でしょうが、それは他の至る所で成されています。

 今、心が傷ついた子供達が求めていることは、子供達の立場からの訴えであり、その訴えを素直に聞いて貰えることです。傷ついた子供達の居場所はどう作るかです。それらは現在の日本社会では無視されてきています。登校拒否不登校の子供達を守るためには、傷ついた子供達の立場からの分析と、傷ついた子供達の気持ちから親や学校、社会へ訴え続け、理解して貰う必要があります。

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親と子供の関係について 2002.7.17

 登校拒否、不登校、引きこもりなどの辛い状態にある子供と親との関係は、私達大人が常識としてきたものとは大きく違うようです。社会常識を辛い状態の子供に当てはめようとすると、大変な間違いを犯してしまいます。時には常識とは全く逆の対応が、辛い状態の子供を救うことになります。

 一般的に、辛い状態にある子供は、母親に自分の辛い心の癒しを求めています。父親には社会から加わるような圧迫感を感じています。家庭によりその度合いは異なりますが、辛い状態にある子供の家庭ではこの傾向が見られています。

 母親について、子供の苦しみを肌で感じられる母親が多いです。自分の持っている希望や知識と、辛そうにしている子供を助けたいという母性との狭間で、揺れ動く母親が多いです。父親は自分の持っている知識から、外見だけで子供を見ています。子供の思いを肌で感じることは殆どありません。例外も無いわけではないですが、殆ど全ての家庭でこの傾向が生じています。

 子供が登校拒否、不登校、引きこもりになった当初、父親や母親は、自分の持っている希望や知識とは異なる子供の姿を長時間目の前にして、苦しくなるのは当然でしょう。子供に働きかけて、子供を変えようとするのはやむを得ないことです。母親は自分の辛さから父親に助けを求めようとするのも理解できることです。

 けれど母親は、自分達の対応で辛くなる子供の気持ちを感じ取れます。その結果多くの母親は、やがて自分の希望や知識を押さえて子供を守ろうとします。けれど父親にはそれが大変に難しいです。直接又は母親を介して、父親は子供を責めてしまいます。辛い子供をますます辛くしてしまいます。

 父親が子供の問題を解決しようとして全面に出たときには、多くの場合、子供も母親もとても辛くなります。多くの場合、父親の対応は腕力を用いて行われます。母親にも働きかけて、徹底して子供を責めます。それは子供の心をずたずたにするばかりでなく、母親の子供の気持ちを感じ取り守ろうとする能力の母性も働かなくさせてしまいます。

 以上のようなことから、辛い状態にある子供への直接的な対応は、母親に任せるべきだと思います。父親や周囲の人達は、辛い状態の子供を受け入れ易くする母親、辛い状態の子供を支えようとする母親を作るために、母親を守り支えるのが一番良いようです。

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キレる子供への偏見? 2002.7.29

 不登校新聞に国立教育政策研究所のキレる子供の成育歴に関する研究が紹介されていました。この報告書に関する記事をみて、私はとても不思議に感じました。それは「キレる」と言う言葉に国立教育政策研究所の偏見を感じたからでした。

 元来キレるとは、癇癪を起こしたことと同じ事です。若い人達は同義語として使っています。しかし、国立政策研究所のキレるとは、癇癪を起こした結果、たまたま社会的に問題になった場合を指しているようです。それは調査対象が、関係機関や学校で問題となったキレた子供の場合だからです。調査対象がキレる子供達の特殊な、偏った一部のキレる子供達になっています。ですから、調査結果も偏った物になっていて、キレる子供達の全てを表していないと思います。

 キレるも癇癪を起こすも、嫌なことに出くわすと直ちに激しい怒りを生じて相手を攻撃することを指しています。つまり、子供だけがキレるのではなく、大人でもキレる人も少なくありません。現在に始まったのではなくて、昔からキレる人も多くいました。いわゆる昔の江戸っ子はキレてばかりいたのでしょう。

 調査法も大変問題が多いです。調査対象の子供達の分類を関係者の主観によるラベル貼りで行われています。分類には客観てきな根拠は全くありません。その結果、調査結果も客観的(統計学的)な根拠は全く無いことになります。その意味のない結論から子供達やその親が責められることは大変に不合理なことだと言えます。

 この様な調査を行わなくても、キレるを癇癪と置き換えれば、キレる子供達の様子は見えてきます。キレる子供達は、何かで心を傷つけられています。その心の傷に触れる物に出くわすと、心の傷が激しく疼いて、その心の傷に触れる物を攻撃します。この心の傷の疼きが酷くて、その結果攻撃が激しいときが、キレた、癇癪を起こしたときです。

 子供の心に傷を付けたのは親かも知れません。先生かも知れません。しかし、この報告書にあるいろいろな要因は、単にキレる子供に関係した因子であり、決して子供の心に傷を付けた物ではありません。日本中の全ての子供は、報告書に掲げられた要因を多かれ少なかれ持っています。そのような意味ではこの調査は全く意味を成さない調査であると言えると思います。

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子供の立場からの教育基本法の改正を望む 2002.8.7

 教育基本法改正の議論が行われています。その内容について詳しいことは分かりませんが、教育をいかに行って、子供達をある方向へ導こうとする物であることにはと変わりがないようです。多くの子供達に関しては、教育基本法で示されるような、子供達を有る方向へ導こうとする教育の在り方が効果的である反面、このような教育法では却って子供達の心が傷つき、マイナスの効果を子供達に与えてしまうことも有ることが議論されているようには思われません。

 子供達を学校に集めて教育して、有る方向性を持たせ競わせてよい子供は、それでよいのです。けれど学校で教育を受けると悪い子供達、学校を拒否している子供達がいます。そのような子供達を学校へ行かない状態で教育する方法も、一つの教育の方法として認め、それらの子供達の教育の権利をいかに認め、その教育の仕方をしっかりと議論して欲しいと思います。

 以前は学校で教育を受けるのが悪い子供の数は少なかったので、その場しのぎの対応で、そのような子供達を学校へ戻す対応が取られていました。現在それが却ってそのような子供達を苦しめる原因になっています。また、学校で教育を受けるのが悪い子供の数がどんどん増えてきています。そればかりでなく、学校教育が好ましいと考えられる子供達の内でも、実際は学校教育が好ましくなくて、大人の知らないところで拒否反応を起こしている子供達の数も多くなってきています(例えば学校の勉強が楽しいですか?と質問するとはぁ~いと答える子供達でも、その大半は誰にも話さないから本当のことを教えてと言うと、本当は学校へは行きたくない、勉強は嫌いだと言う)。

 学校教育が好ましくない子供の数が増えてきているのは、子供にとって学校生活が楽しくないことがあげられます。先生達から与えられた学校の楽しさは、子供達の立場から見たらさほど楽しい物ではないのです。子供達の中から生じる楽しさを拾い上げて、学校を楽しくするような教育の在り方を考えて欲しいと思います。

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教師は生徒の味方か政府の味方か 2002.8.16

 現在の政府、教育委員会の方向は生徒を信頼する方向とは全く逆の、管理教育であることは事実です。教師がそれを知っているなら、なぜ教師はそれと戦わないのでしょうか?なぜ、政府、教育委員会の言いなりになっているのでしょうか?教師達の政府が悪い、教育委員会が悪いは単に責任転嫁にしかすぎません。

 教師にも生活がかかっていることは解ります。けれど自分の生活のために、子供達を犠牲にしても良いと言うことにはなりません。そして子供達を直に傷つけているのは教師だという事も事実です。殆どの教師は自分達が子供達を傷つけていることすら気づいていません。子供の問題を子供から学ばないで、自分たちの頭の体操から結論を出して子供達に対応しています。その結果子供達はますます辛くなっています。

 教師達の間で問題になる子供は、子供に問題の原因があると考えています。教師自身が子供を信頼しないで、政府の言いなりになり、それでいて政府に責任を転嫁しても子供達は救われません。いくら政府が変わっても、教師自身が子供を信頼しないで、子供の心を知らないで(本の上では知っていますが、多様性のある個々の子供の心を知ろうとしない)教育を行っている限り、また、学校で傷ついた子供達の心が学校で疼くことを知らない限り、傷ついた子供達の数はどれだけ減るか解りません

 傷ついて登校拒否、不登校になった子供やその親たちには、自分達のことで精一杯なのです。自分たちの辛い状態から抜け出すのに精一杯なのです。教師は、ありきたりの知識からではなくて、自らこのような辛い立場にある子供達を子供の立場から理解して、子供達を守る行動に出ない限り、学校へ半強制的に行かされている子供達を守る方法は有りません。教師自ら子供、特に心が傷ついた子供を学び、守る行動に出て、そこでぶつかった教育上の問題点を、教師自ら政府や教育委員会と掛け合うべきだと思います。

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学校基本調査速報 2002.8.20

 文化省から「学校基本調査」速報の発表があった。その中で「不登校状態になった直接のきっかけ」として、学校生活に起因、個人の問題に起因、家庭生活に起因、等を上げている。しかしこれらの不登校のきっかけは何によって起こしているかの分析が成されていない。それは文化省に子供が学校への行き渋っている状態についての認識が無いからである。

 子供が学校へ行き渋っている状態と不登校とは本質的に同じである。その違いは子供が未だ無理してでも学校へ行けるか、全く行けなくなったかの違いである。子供が学校へ行きづらくなっている状態で、無理矢理に学校へ子供を行かせているから、子供の学校生活や家庭生活が乱れてくるのだし、子供の性格がゆがんできている。

 つまり文化省の上げているきっかけとは、子供が不登校になる状態で、不登校を避けるために子供に負担を掛けた結果生じた物である。それは不登校が認められない結果子供達が示している状態である。文化省の分析は、不登校状態の子供の結果生じている子供の状態を不登校のきっかけとしているとてもおかしな分析である。

 「不登校状態が継続している理由」についてもおかしな分析を行っている。不登校状態が継続している理由として文化省は、不安など情緒的混乱、複合、無気力を上げている。これらについてもそれらを起こしている原因の分析が行われていない。これらは子供が不登校状態になっていて、登校刺激を受けたために生じている状態であり、不登校から二次的に生じた状態である。その根本にある、学校へ全く行けない状態なのに、学校へ行かそうとする対応が不登校状態を継続させている理由であるのに、文化省はそのことに全く注目しようとしないのである。

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教師イコール悪について 2002.8.30

 「教師イコール悪」に反対する意見が有ります。一般的には、「教師イコール悪」でないことは誰でも知っていることです。教師も子供達のためにと一生懸命努力をしています。けれど子供達の中には「教師イコール悪」と、潜在意識で感じている子供達が居る理由を是非理解して欲しいと思います。

 登校拒否、不登校の子供の立場から言うなら、子供達の心傷つけて、子供達を登校拒否、不登校の状態にしたのは教師です。その結果登校拒否、不登校の子供達は先生に強い回避行動を取ります。登校拒否、不登校の子供達にとって、「教師イコール悪」と潜在意識で反応してしまうのです。そのような登校拒否、不登校の子供達に「教師イコール悪」ではないと表現すると、登校拒否、不登校の子供達の否定になり、登校拒否不登校の子供達の心を大変に不安定にさせます。登校拒否、不登校の子供達が自分達の問題を解決して元気になったときには、「教師イコール悪」などとは決して言いません。しかし登校拒否、不登校で辛い状態にある子供達へは、「教師イコール悪」と言ってあげて、常識では悪でない教師に回避行動を取っている登校拒否、不登校の子供達の有るがままを認めて上げる必要があります。

 先生の立場から言うなら、先生達は子供達のために良いことをしていると考えて対応しています。その結果子供達の心を傷つけています。子供のために良いことをしているのに、それに応えない子供が悪いとしています。子供の立場で考えられない教師はそれ自体で悪と、子供達は感じてしまうのです。

 子供達の為に一生懸命な先生もいるという議論もあります。けれど殆ど全ての教師が、子供達の立場でなく、教師の立場で、一生懸命心の傷ついた子供達に対応しています。外見上はとても良い先生に見えますが、心が傷ついた子供達には辛さから逃げ出せなくて、ますます心が傷つけられて、目の前の教師は悪魔以上の悪い存在になっています。

 一般的に元気でまだ心が傷ついていない子供達にあてはまる事柄は、登校拒否、不登校の子供達には当てはまらない場合があります。登校拒否、不登校の子供達への対応には、常識に反するような表現が出てきます。これらの常識に反する表現は登校拒否、不登校の子供達にはそれなりに意味があります。それを問題だと感じる人は、登校拒否、不登校を理解していない人だと考えられます。

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小中学校の学力の低下 2002.9.9

 週休二日制になって、問題になっているのが子供達の学力の低下です。親や教師達は無くなった土曜日の分の授業時間や授業内容をどこかで補おうとしています。それが果たして子供の学力の向上になっているかどうかの問題があります。勉強をしたくて補充授業に参加している子供は殆どいません。多くの子供達は遊びたいのだけれど、親からの命令で仕方なく授業に参加しています。親としては遊んでいるよりは増しだという考えでしょうが、それが子供の親に対する不信感を増している事実があります。

 補充授業では生徒を集めるために、学校の授業とは違った、魅力的な授業にする試みが行われています。それは子供達にとってとてもありがたいことですが、補充授業が有るために、遊びたくても遊べないということと比べると、やはり子供達には有って欲しくない補充授業だと思われます。補充授業の中で子供達に尋ねると「授業は楽しい」と言います。それは平素の授業より楽しいという意味かも知れません。楽しいと言わなければならないと吹き込まれているのかも知れません。そこで「本当に楽しいの?」と尋ねると「でも遊びたい」と躊躇しながら答える子供が多いことを考える必要が有ります。

 小学生で学力が高いと中学受験には有利でしょう。中学で学力が高いと高校受験には有利でしょう。高校で学力が高いと大学受験に有利でしょう。けれど小学校で学力が高くても中学で学力が高くなるとは限りません。中学校で学力が高くても高校で学力が高くなるとは限りません。小中学校の学力と高校、大学、社会人として学力が必ずしも関係がありません。それよりも、小中学校の学力は優れなくても、高校、大学、社会人と学力が優れた方が、学力をより高められますし、学力を社会の中で生かすには好ましいようです。学力の応用性が高いようです。小中学校の学力を他の国のそれと比較する必要は無いと思います。

 小中学校時代での学力を高めることと、小中学校時代を子供らしく楽しく過ごすことと、どちらがよいかという問題が有ります。小中学校時代に学力を高めることが好ましい子供には学力を高めるような学校のあり方が良いでしょう。小中学校時代を子供らしく楽しく過ごして、高校大学、社会人になって学力を高める方が良いお子さんは、学力を高めるより、小中学校を子供らしく楽しく過ごすべきです。そして、実際には、小中学校で学力を高めた方が良い人はごく一部のように感じます。多くの子供達は、小中学校時代を子供らしく楽しく過ごして、高校、大学、社会人になって必要な学力をつけて実力を発揮した方が、「個人として」は学力をより高められるように思われます。 

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子供は子供の中で育つ 2002.9.19

 「子供は子供の中で育つ」これは事実です。「いろいろな子供がいる学校こそ、育つ場として最高の環境」と言われていますが、最高かどうかは別として、子供達は本質的に学校が好きです。学校にはいろいろな子供がいることは事実です。しかし、学校には教師がいて、子供達を管理しています。管理のために、子供達の子供らしさを奪っています。子供らしさを奪われた子供の集団の中で、子供達は素直には育たない事実に注目する必要が有ります。教師の子供を管理しようとする行為そのものが、子供達を傷つけてしまっている場合がしばしばあります。

 この事実は子供の集団を管理している教師には認められないことでしょう。教師の立場で子供達を見ている限り、教師に都合の良いところだけしか見えてきませんから。子供達は教師の前では目一杯良い子を振る舞っています。それを見て教師は自分の対応に自信を持っています。けれど目一杯良い子を振る舞った子供は、教師の目の届かないところで、教師の前でやったことの全く逆のことをやっています。子供が他の子供を傷つけるという行為を行っています。

 学校が子供らしい子供の集団でしたら、学校復帰は大きな意味が有ります。ところが現実には、教師が管理する子供の集団の学校は、子供の子供らしさ、子供の有るがままを否定する集団であり、子供に枠をはめて、子供の人間らしい成長を阻害させています。元気の良い子供達には、それでも大きな問題を生じませんが、登校拒否、不登校で苦しんでいる子供達には、子供の立場で子供を見ない教師が管理する学校はとても辛い環境なのです。

 教師の立場で登校拒否、不登校の子供の学校復帰を考えても、上記の意味は分からないでしょう。登校拒否不登校の子供の立場から見れば、教師が管理していて、子供の心を傷つけて、辛い状態に追い込んだ学校は、地獄より辛い場所になっています。

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登校拒否、不登校はPTSD 2002.9.26

 登校拒否、不登校は子供のPTSDに求めることができます。登校拒否、不登校を近視眼的に見るのでなく、子供が症状を出していく経過を考えるなら、登校拒否、不登校はPTSDと断言できます。ただし、PTSDで説明しにくい登校拒否、不登校の子供もいることは確か(DSM-IVの分類が不完全なためと考えます)ですが、多くの登校拒否、不登校の子供はPTSDであると言えると思います。

 以下に精神科医の用いるDSM-IVのPTSDの診断基準と登校拒否、不登校の子供との関係を述べてみます。
【309.81 外傷後ストレス障害の診断基準】
A.その人は、以下の2つが伴に認められる解消的な出来事に暴露されたことがある。
(1)実際に又は危うく死ぬ又は重症を負うような出来事を、1度又は数度、または自分または他人の身体の保全に迫る危険を、その人が体験し、目撃し、または直面した。
(2)その人の反応は強い恐怖、無力感または戦慄に関するものである。注:子供の場合はむしろ、まとまりのない又は興奮した行動によって表現されることがある。
B.外傷的な出来事が、以下の1つ(またはそれ以上)の形で再体験され続けている。
(1)出来事の反復的で侵入的で苦痛な想起で、それは心像、思考、又は知覚を含む。注:子供の場合、外傷の主題又は側面を表現する遊びを繰り返すことがある。
(2)出来事についての反復的で苦痛の夢。注:子供の場合は、はっきりとした内容のない恐ろしい夢であることがある。
(3)外傷的な出来事が再び起こっているかのように行動したり、感じたりする(その体験を再体験する感覚、錯覚、幻覚、及び解離性フラッシュバックのエピソードを含む、また、覚醒児又は中毒時に起こるものを含む)。注:小さい子供の場合、外傷特異的な再演が行われることがある。
(4)外傷的出来事の1つの側面を象徴し、又は類似している内的または外的きっかけに暴露された場合に生じる、強い心理的な苦痛。
(5)外傷的出来事の1つの側面を象徴し、又は類似している内的または外的きっかけに暴露された場合の生理的反応性。
C.以下の3つ(又はそれ以上)によって示される、(外傷以前には存在していなかった)外傷と関連した刺激の持続的回避と、全般的反応性の麻痺。
(1)外傷と関連した思考、感情、または会話を回避しようとする努力。
(2)外傷を想起させる活動、場所又は人物を避けようとする努力。
(3)外傷の重要な側面の想起不能。
(4)重要な活動への関心または参加の著しい減退。
(5)他の人から孤立している、または疎遠になっているという感覚。
(6)感情の範囲の縮小(例:愛の感情を持つことができない)。
(7)未来が短縮した感覚(例:仕事、結婚、子供、または正常な一生を期待しない)。
D.(外傷以前には存在していなかった)持続的な覚醒亢進症状で、以下の2つ(またはそれ以上)によって示される。
(1)入眠、または睡眠維持の困難
(2)易刺激性または怒りの爆発
(3)集中困難
(4)過度の警戒心
(5)過剰な驚愕反応
E.障害(基準、およびの症状)の持続期間が1ヶ月以上。
F.障害は、臨床上著しい苦痛または、社会的、職業的または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。
▲該当すれば特定せよ:
急性 症状の持続期間が3ヶ月未満の場合
慢性 症状の持続期間が3ヶ月未満の場合
▲該当すれば特定せよ:
発症遅延 症状の始まりがストレス因子から少なくとも6ヶ月の場合

 登校拒否不登校をPTSDと認められない人々は、この診断基準のA.が認められないからである。それは大人の立場からA.の(1)や(2)が無いと判断しているのであり、子供の立場から言うなら、(1)や(2)の経験をしているのである。大人でも(1)や(2)の経験をしていても、PDSDにならなかったために子供の経験した(1)や(2)がPTSDになるほどのものではないと判断しているだけである。登校拒否不登校の子供達の訴えを丁寧に聞いたり、登校拒否不登校の問題が落ち着いた子供達からは(1)や(2)の経験を聞くことができる。

 特に、注:の子供の場合はむしろ、まとまりのない又は興奮した行動によって表現されることがある。子供達が辛いことに遭遇したときによく見られ、その結果大人達がPTSDと関係ないと見過ごしていることである。場合によっては、子供が訴えられない、訴えても大人が聞いていない等も考慮する必要がある。この注:の条件は、子供達がいつでも登校拒否、不登校になりうることを説明していると考えられる。

 また診断基準の最後にある、発症遅延症状の始まりがストレス因子から少なくとも6ヶ月の場合が子供では頻繁に見られるために、A.の条件が見落とされやすいのである。
登校拒否、不登校の子供について、B.の(1)(3)(4)(5)を満たすことは、良く経験することである。
登校拒否、不登校の子供について、C.の(1)(2)(3)(4)(5)(6)も良く経験することである。
は殆どの登校拒否、不登校の子供で見られている。

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人は誰のために生きるか 2002.10.7

 心には思考の心と習慣の心と情動の心があります。思考の心と習慣の心は生まれ落ちた後人為的な教育と利害的な目的のための学習から作られてきていますから、テーマの「人は誰のために生きるのでしょう」は情動の心と本能とについて考えればよいと思います。思考の心と習慣の心は、人間が生きるために助けとなる情報を処理するところです。

 本能は生まれ落ちてから生きていくための最小の情報と、子孫を残すための情報が書かれています。情動の心は危険を経験したときにそれを記憶して危険を回避する学習と、本能を発現させるために学習した情報が書かれていきます。それらを総合すると人は動物としては、自分のために生きています。生きて子孫を残すために生きています。死ぬことは考えられていません。女性には子孫を守り育てる能力を持っていますが、男性には有りません。男性には女性を得るための方法が存在しているようです。

 人間には動物にない知識があります。その中に人間は誰のために生きるかの情報を学習して習慣の心に書き込んでいます。それはその人が属する文化に大きく依存します。その文化からの知識の中に、倫理的な、哲学的な、宗教的な、その他の生きる目的が書き込まれます。親子の関係の大部分、恋人、夫婦、国民、これらのこととの関係は習慣の心に有る情報から行われます。

 思考の心はそれらとは全く関係なく、自分の周囲を認知することと、記憶を選択加工して、ある目的を作って生きる反応、時には死ぬための行動を行わせます。思考は全く新しい物を作り出すときに大切な役割を果たします。けれど多くの場合働いていないことが多いようです。思考の心や習慣の心は情動を抑制する作用を行っています。

 これらの三つの心に書き込まれた情報がどのように使われるかは、その人の置かれた状況、その人のどの心が動いているかに関係します。ですから、誰のために生きているか生かされているかの答えはその人の心の中に有る知識によるのであり、またその知識のどの部分が利用されるかによるのであり、一般論としては言えないのです。

 ただ、子供に関しては、習慣の心、思考の心が未発達のことが多いので、子供は自分のために、本能や情動の心に従って、自己中心的に生きていきます。 

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子供の自殺 2002.10.17

 人間の脳の中には自殺するための神経回路はありません。それは普通なら自殺しようとしてもできないことを意味しています。危険から身を守るための神経回路が発達しています。危険から身を守ることができないとき体中にいろいろな辛い症状がでてきます。その辛さから人間だけは死にたいと思うようになります。

 子供の自殺は大人の自殺と異なります。子供では死にたいと言葉で表現することと自殺することとは別です。自殺した子供は、死ぬ直前には表現できないぐらいの辛さで苦しんでいたのだと思います。

 「生きているだけですばらしい」とか、「生きていたら何か良いことがある」と言われても自殺するほど辛い状態に有る子供達には目の前の辛さに耐えるので精一杯なのです。命の電話なども有りますが、電話を掛けられるようでしたら子供は自殺をしません。目の前の辛さに耐えられなくて発作的に死を選んでいます。その時には普通では考えられない状態に子供はなっています。

 子供がとても辛そうにしていて自殺しそうなとき、「生きているだけですばらしい」とか「生きていたら何か良いことがある」と側にいる人が言ったら、子供はきっと自殺してしまうでしょう。「そう、自殺したいの。自殺したいほど辛いのね。」と一緒に泣いてあげられたら、子供は一筋の光明を感じて自殺をしないでしょう。

 自殺をしてはいけないと私たちが言ったとき、「そうだね」と思うような子供は、自殺をしてはいけないと言われなくても自殺をしません。私たち大人は子供に自殺をしてはいけないと言う前に、子供を自殺するほどまで追い込まないことを考える必要があります。自殺をしそうな子供には自殺したい気持ちを受け取ってあげることで自殺は防げそうです。

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精神病が存在する証拠はない 2002.10.24

 小沢牧子さんの論説(2002年10月1日号の不登校新聞)「精神病は病気じゃない」への道は画期的なものです。

 今まで「登校拒否は病気ではない」というコンセンサスはあました。登校拒否不登校とは別に精神病があって、登校拒否不登校の子供達も精神疾患を患うと考えられています。不登校新聞の中でも、不登校と医療のシンポジュウムでも、そして今回の不登校と医療アンケート調査でも、精神疾患が有ることが前提でなされています。一昨年の東京での夏合宿の「不登校と医療の分科会」でも、精神病が存在することを前提に話が進んでいました。けれど小沢さんの論説は、小沢さんの広い経験から、精神病は無いと言い切っています。そればかりか不登校を経験した子供やその親たちの繋がりから、今度は「精神病は病気ではない」という言葉のうねりを起こそうという提起をしています。

 現在精神病の病態はわかってきていても、精神病の原因は見つかっていません。現在の脳科学の発展は、鬱病に関してそれは回避できないストレスへの人間の反応の形だと分かってきています。分裂病(統合失調症)は高度な大脳新皮質の問題なので動物実験が難しいのですが、類人猿の子供でストレスを与えることで、分裂病にそっくりの症状を出させることができます。

 登校拒否不登校の子供達でもストレスを与え続けると分裂病やその他の精神病の症状を出すから、医者にかかると精神病として治療をされてしまいます。けれどその子供のストレスを取り除いて生活をしていると、分裂病などの精神病の症状が消失してしまいます。小沢さんの指摘しているように、ストレスと精神病の症状と密接な関係が有ることがわかります。またストレスを与え続けると精神病の症状が取れなくなることも見られます。

 登校拒否不登校問題を考えるとき、精神病の存在を認める限り、親が踏み込めない医者の領域を作ってしまいます。その結果医者によって精神病にされてしまう子供を作ってしまいます。登校拒否不登校を解決するための問題点が病気に転化されて、登校拒否不登校の問題の解決を難しくしてしまいます。現在の医者は登校拒否不登校の子供に精神病だと言わない場合が多くなってきています。けれど実質的に精神病の薬が投与されており、その薬自体が子供のストレスへの解決能力を奪うばかりでなく、登校拒否不登校の問題点を薬を飲むことに転化させています。子供に薬への依存を生じさせています。

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子供の目線とは 2002.10.31

 子供の目線とは、大人が腰を低くして、自分の目の位置を子供の目の位置に持ってきて、そこで周囲を見ろという意味ではありませが、そのようにする積もりになって、大人の感じ方、知識や判断を用いないで、子供がこう感じているであろうと言うことを、共感という形で、肌で感じ取ることです。こういう状況に置かれると、子供はこうなるという事実を、そのまま認めることです。

 昔から今まで子供達が育ってきた様子、私自身が子供だったときの様子、親として子育てをしてみて、医師として病院内や地域の医療活動の中で、校医として学校へ行ってみて、子供に関して私が強く感じることがあります。それは、「子供達は本質的に意欲に富んでいて、子供なりに何かを求めて動き回っている」という事実を感じることです。「何かを求めて動き回らない子供でも、子供を苦しめているストレスから一時的にでも子供を解放してあげると、何かを求めて動き回り出す」のです。

 大人達が子供達にああしろ、こうしろと強要しなくても、子供達は子供達なりに成長して立派な大人として、社会へ出て行っています。大人は、子供達の目線で子供達が何を感じているのかをしっかり把握して、求めている子供には求めている物を与え、拒否している子供には拒否している物を強要しないで、その子供の判断を尊重して、成功をほめ、失敗を許して、子供の成長を見守りさえすれば、子供は自分の周囲についてそれなりの反応を示して、その子供なりに社会性を得て、大人へ向かって伸びています。

 ここで間違えて欲しくないことは、子供にああしろ、こうしろと指図しても良い子供、ああしろ、こうしろと指図すると却ってよくの伸びる子供もいるので、全ての子供に普遍化して、子供達の成長を子供の目線で見る必要は無いことです。元気が良くて、大人の指図で伸びる子供はそれでよいのですが、辛い立場にあって自分を維持するのに精一杯の子供には大人の指図は子供をますます苦しくします。辛くして、子供の心を傷つけていってしまいます。大人の指図で伸びる子供も大人の指図で辛くなる子供も、子供の目線で子供の要求を大人が感じて、子供の判断を大切にしさえすれば、子供は所謂偉人にはなれないけれど、平凡なそれでいて生命力のある大人に向かって成長していきます。

 ところが現実には、大人達の勝手な欲求が子供達を苦しめています。大人達が子供を所謂優れた子供に育てたいと思うのは、大人として当然だと思います。親たちは子供達のことを考えて一生懸命であることには間違いないのですが、自分たちの判断を尊重して、子供の感情を無視して、大人達は子供達へ子供達の嫌がることを押しつけています。大人の押しつける物を嫌がる子供、大人の要求に応えられない子供については、それは子供に問題があると大人達は判断しています。

 大人達と違って、子供達は子供達にとって嫌なことをすることができません。大人は自分の嫌なことでも我慢をしてすることが出来ますが、子供にはそれが出来ないことを大人達は理解しよとはしません。大人は、自分が子供たっだころ嫌なことはすることができなかった事実を忘れています。その結果、大人達は子供達に大きな恐怖を与え、その恐怖からの回避行動として、子供達が嫌がることを子供達に無理矢理にさせています。それをしつけだ、教育だ、と言って美化しています。

 ところが子供達の立場から見れば、嫌なことだからできないのに、大人達から大きな恐怖を与えられて、無理矢理に嫌なことをさせられた結果、心に傷を受けてしまうという現実があります。大人達は自分たちでは良いことをしているつもりでしょうが、結果として子供達を傷つけ続けており、子供達が心の傷から苦しみだしたときには、子供達がおかしいとして子供達に原因を押しつけています。

 子供へのしつけだ、教育だと言って、子供に恐怖を与えて子供が嫌がることを行わせることは、外見上は子供をきちんと管理しているように見えますが、子供の心の中には心の傷が出来て来ることを意味しています。大人が気づかない内にどんどん子供の心の中の傷が増えていき、深まっていき、その結果として所謂問題児を作っています。問題児を作るぐらいなら、その子供にしつけや教育をしない方が良かったはずなのに、大人の立場からしか見ていない大人には、子供の心の中のことが分かりません。

 大人達は大人の立場だけで子供達を見ないで、子供達の心の中をもっと知る必要が有ります。子供の心の中を知るには、子供の目線で、そして自分の肌で子供が何を感じているかを感じ取る必要が有ります。

 子供にはその子供なりに大人になり社会へ出ていく能力を持っています。それを阻害しているのは大人です。特に成果だけを求め続けている教師が、一方で子供達の心を傷つけていることに気づいて欲しいと思います。成果を出せるような子供は、大人が与えればそれを吸収してどんどん成果を出していきます。どのような教師でもそれは難しいことではありません。

 子供がどんどん成果を出していくような子供か、それとも今は癒してあげて、時期を待ってあげるのが良いのかを見極める能力を現在の教師は持っていません。持っていないわけではないのですが、成果を出すことに一生懸命の余り、子供の目線で子供とふれあい、子供の心を知ろうとしない教師が多いという現実が有ります。

 教師の批判をしてもここでは意味がありませんのでこれぐらいにしておきます。親も自分たちの常識や欲に捕らわれて、子供の目線(ありのままの子供の姿をそのまま認めることで、大人の理屈はいらないと言う意味)で子供とふれあい、子供の心を肌で感じ取ってほしいと思います。子供一人一人を理解するのには理屈は入りません。肌で感じ取ればよいのです。子供達は親が頼りです。親に助けて欲しいのです。社会が何であれ、親が子供を支えようとすれば、子供はその子供なりに自分の問題を克服していきますから、子供を信じて、子供を支え続ければよいだいなのですが。

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義務教育が不登校の子供の心を蝕む 2002.11.14

 憲法に義務教育がうたわれています。それは子供が学校へ行く義務ではなくて、子供が学校へ行けるように環境を整えなければならないという大人への義務です。ところが学校関係者は子供を学校へ行かせる義務と理解しているようです。子供が学校または学校に準じるものに通わなければならないと理解しているようです。そこで学校または学校に準じるものに行けるような環境を整えたなら、何が何でも子供をそこへ行かせなければならないと考えているようです。ですから学校関係者は自分たちの思いで(子供の思いとはこうであろうと推量しています。実際は子供の思いとはかけ離れています。)、小手先で今の学校をいじり回し、または学校に準じるものを作って、そこへ子供が行くように不登校の子供に強要しています。

 教育関係者の思いが子供たちの思いを反映していればこの対応でも間違いがありません。現実に今の学校制度で自分をのばせていける子供は多いです。また、学校に準じる機関で元気になる子供もいます。けれどそれでも学校へ行けない不登校の子供が多いばかりでなく、その数が増えてきていることも事実です。それは大人たちの思いが不登校の子供たち思いと違っているからです。大人たちは子供たちの思いを掴んだつもりでいて、その実、不登校の子供の心を掴んでいないからです。

 教育関係者のあらゆる施策でも学校へ行けない不登校の子供が多いと言う事実を、文化省「不登校問題に関する調査研究協力者会議」では親や教育関係者が子供を学校へ行かそうとする対応が不十分だと考えているようですね。親や教育関係者が子供に学校へ行って欲しくてあらゆる対応をした結果でも不登校の子供が学校へ行こうとしないという事実を、どうして認めようとしないのでしょうか?多くの不登校の子供たちにとって、学校復帰の対応をされると状態が悪くなり、より難しい状態になることは、今までの経験からはっきりしています。小学校の低学年では、学校復帰の対応で、かなりの不登校の子供が学校へ一時的には復帰すると思います。けれど後になって、問題がよりいっそう難しい不登校問題になることも、今までの経験からはっきりしています。

 大切なことは学校復帰の対応で不登校の子供が一時的に学校へ復帰することではありません。不登校の子供に関しては、学校復帰の対応が子供の健やかな心での成長を阻害します。教育関係者はせっかく教育環境を整えたのだから学校へ来なさいと言う対応ではなくて、今まで行ったいろいろな施策でも不登校の子供の心を掴みきれないのだから、学校へ行かない生き方を認めるという対応をして欲しいものです。義務教育だから子供が学校へ行っていなければならないと言う施策で不登校の子供の心が蝕まれては、教育の意味が全くなくなるからです。不登校という形に捕らわれないで、子供の心の中を大人の立場でなく、子供の立場で、もっと正確に知って欲しいと思います。

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子供は集団でなく個人である 2002.11.25

 子供と大人との大きな相違点は、子供は成長するということである。成長とはきわめて個人的な問題である。子供は家庭という小さな集団の中で成長をしながら、社会と関わってその子供なりに社会性を得ていく。個人として子供が成長を成し遂げたなら、大人になった時点で集団に順応し、もっと大きな集団である国家や人類を守り維持していこうとするようになる。無理矢理に社会を守れ、国家を守れと、強制する必要はない(異論は多いであろうが、子供を心底信頼して対応すると信頼するとこの事実が分かる)。

 家庭は集団であるが、その家庭が属する社会とは別物である。家庭では個人としての子供が尊重されるが、社会では構成要素としての子供として扱われ、個人としての子供して扱われることは少ない。そして多くの子供たちは社会の構成要素の子供として扱われて全く問題がない。大人たちは多くの子供たちが扱われて良いような扱い方をしようとしているし、現実に行ってきている。

 けれど全ての子供たちが社会の構成要素の子供として扱われて良いかというとそれは違う。子供たちの中には社会の構成要素として扱われると、大変に辛くなる子供がいることも事実である。集団の中で心が傷ついた子供たちがそれである。登校拒否、不登校、引きこもりの子供たちである。いじめをする子供、いろいろな暴力行為や社会へ不適応行動に走る子供たちである。また成長の過程で、子供たちは自分と社会との関係を見つめ直そうとする傾向がみられ、その子供の個性を主張し、その際に社会の構成要素の子供として扱われることを拒否する子供が出てくることも事実である。

 国としては、国の方針に従う大人に子供たちを育てようとしている。それは国としての一つの教育の在り方であろうが、教育基本法の改正議論に見られるような集団としての子供のありかたばかりを問題にしていると、前述の集団に属してはいけない子供たちを無理強いして集団に戻そうという議論になってしまう。現実に無理強いして集団に戻そうとした結果、心がよけい傷ついて、ますます集団からはみ出した子供たちが増えてきていることも事実である。それは不登校の子供の増加からもわかる。

 国が多くの子供たちを効率よく子供たちを教育したいのは当然であろう。だけどそれだけが教育の全てではない。全てが全て、国が用意した教育機関で全ての子供を育てるのは不可能である。国が行う教育にそぐわない子供の教育もあって良いはずだ。国が行う教育にそぐわない教育までも国が抱え込まないで、その子供にあった人に任せたほうが効率的であり、その子供の幸福に繋がる。

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大学が役立っていない 2002.12.2

 最近の統計によると、大学卒業生の20%ぐらいが就職しないと言う。また大学卒業生で就職した人の30%ぐらいが3年以内に仕事を止めてしまっている。つまり大学卒業生の半分近く( (100-20)x0.3+20=44 で50%弱 )が就職しないか就職してもすぐに止めているという事実は現在の学校制度が就職に役立つ人が二人に一人しかいないことを意味している。これらの就職しないか就職してもすぐに止めている人たちは、決して社会や職業を否定しているのではない。自分探しをしているか、自分にあった仕事を探しているだけである。仕事に自分をあわせようとはしないのである。そして、しっかり自分に合った物を見つけて社会へ出ていっている。

 子供達は何のために学校へ行っているのであろうか?子供達の内で約二人に一人には、学校は全く役立っていない。多くの学生は学校へ行かされるから学校へ行っている。学校で授業を受けさせられるから、やむを得ず授業を受けている。そこには学生達の意欲的な行動は殆ど見あたらない。それなら、学生の内からしっかりと自分探しをさせて、自分にあった職業を学生の内から探させておく方が子供のためでもあり、親のためでもあり、ひいては社会のためでも有ろう。

 前述のように、現在は学校教育の意味がある人は二人に一人ぐらいしかいない。子供達の半分近くは勉強よりも自分探しや自分にあった職業をしたがっている。この事実は子供達に学校で知識を押し込むより、学生の内から自分らしさを探させた方がよい。現在の登校拒否、不登校、引きこもりのように学校を選択しない子供を無理矢理学校に戻しても、学校が将来意味を持たないことは、今まで述べてきたことで明らかである。登校拒否、不登校、引きこもりの子供達には学校に戻そうという努力よりも、その子供らしさ、その子供にあった職業を見つけさせてあげた方が良いと考えられる。

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家庭では心を癒す 2002.12.9

 不登校新聞12月1日号の論説で、「教育の基本は家庭教育だ」と書かれていました。21世紀の現在、家庭で教えられない教育の範囲は大変に広いです。親も時間的な余裕から、子供の教育などとてもしていれません。その結果、子どもの教育は学校や塾に任せざるを得なくなります。

 学校や塾では、論説の中にあるように、競争が要求されます。競争すれば勝者と敗者が出ます。その敗者の受け入れ先が家庭だという意味だと思います。けれど多くの家庭は、子どもが敗者であることを受け入れられません。敗者の子どもに勝者になることを要求し続けます。ところが全力を出しきって競争した結果敗者になった子どもには、もう競争に参加するエネルギーを持っていません。

 そのような子どもは、一部は競争の場を拒否して家庭に逃げ帰えって、競争の場へ出かけようとはしません。それが登校拒否、不登校です。また、一部の子どもは競争の場には参加しますが、競争そのものには参加しようとはしないで、否定された自分たちの存在を、いろいろな非行行為をする事で満たそうとします。

 家庭が教育の場にならなくても良いと思います。子供達の競争の場である学校や塾で心の傷ついた子供達の癒しの場であるべきだと思います。心が傷ついた子供達の安全な場所であるべきだと思います。家庭が心の傷ついた子供達の安全な場所であるなら、子供達は傷ついた自分の心を家庭で癒して、競争に再挑戦する子どもも出てくるでしょうし、競争しない生き方を選択して、社会へ出ていく子どもも出てくるでしょう。

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学校復帰 2002.12.20

12月15日号の不登校新聞の記事、不登校問題「協力者会議」の中で、相模湖フリースクールの報告で、「学校復帰」と言う言葉がありました。この場合の学校復帰という言葉は、何を意味しているのか触れられていませんでした。不登校とは、子どもが学校へ行かないと言う意味ですから、学校復帰とは、不登校だった子どもが学校へ行きだしたという意味だと思います。不登校だった子どもが学校へ行きだした場合、その学校へ行きだした子どもには、次のような状態が考えられます。

 不登校だった子どもが、不登校になる前の元気な状態で学校へ行きだしたのでしたら、全く問題が無いのですが、今までの私達の経験から、不登校の子どもを不登校になる前の元気な状態に戻すことは、大変に難しくて、多くの場合、不登校の子どもの親でない人達には不可能なことを知っています。

 不登校になる直前の、無理して学校へ行っていた状態で学校へ行きだした場合では、私達の経験の範囲では、そのような子どもは、またすぐに学校で辛い経験をして、不登校になる場合が多いです。また、学校へは行ける状態ではないが、行かないとより辛いことになるから、無理して学校へ行きだした場合では、その子どもが再登校する要因が無くなったとき、いろいろな辛い症状が出て、学校へ行けなくなります。どちらもその際に、それ以前よりももっと強い身体的な、精神的な症状を出す場合が多いです。

 不登校の解決は決して子どもの形の上での学校復帰ではありません。不登校の子どもの、学校で傷ついた心の傷が癒えた状態が、不登校の解決です。子どもの心の傷が癒えたとき、その子どもが学校へ復帰する場合もありますし、学校とは関係しない生き方を選択する場合もあります。ですから、不登校の子どもの形の上からの学校復帰は、見かけ上不登校の解決のように思われますが、子どもの心の中の不登校の解決ではある場合は少なくて、殆どの場合、学校復帰後にもっと難しい不登校問題や引きこもりの問題を生じることになります。

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