フリースペース「したいなぁ〜松戸」&松戸−登校拒否を考える会「ひまわり会」
ホーム代表者と顧問医師のコラム

子どもを理解する 2005/8/12

さもわかったような言い方で申し訳ありません。いわゆる不登校、引きこもりで辛い状態にある子どもと親との関係を観察して、そして子どもの心の構造から推定していることです。

 多くの辛い状態にある子どもは、自分を完全に理解してとは言っていないと思います。多くの辛い状態にある子どもが行動や症状で言っていることは、自分を信じて見守っていて欲しいということだと思います。子どもにとって必要なことは言うから、言うことだけを親はしてくれて、それ以外のことは何もしないで待っていて欲しいと言うことだと思います。子どもが要求しない限り、親は子どもの辛さや不安を共有しなくても良い、また、親が揺れてしまうのも仕方ないけれど、できたら揺れないで、ただ信じて待っていてくれればよいということだと思います。

 子どもが辛さや不安を共有してくれと言った場合には、親は子どもの辛さや不安を共有するために、子どもに付き合わなければならないのですが、その際に子どものすべてを理解できるわけではありません。特に子どもの反応や行動の多くを占める潜在意識については、親は子どもから感じ取るしか方法がありません。それは子どもの要求に応えられているかどうかの不安を、そして子どもの辛さや不安に十分に共感できているかどうかの不安を、新たに親に生じさせます。その不安から、親は揺れ動くことになります。それは仕方がないことだと思います。親はその不安から揺れ動く割合を少なくすればよいだけだと思います。親はその不安から揺れ動く割合を少なくするために、親なりの努力をすればよいだけだと思います。そのためにはパートナーの協力も必要でしょう。そのためにカウンセラーも必要な場合もあります。そのために親の会も上手に使う必要があります。

 子どもは一人一人性格も違うし、経験も違います。親も一人一人皆違います。同じ子どもや親の言葉でも、その言葉の意味合いや背景は皆違います。しかし子どもと親との関係の基本は皆同じのようです。そこさえ十分にふまえて子どもと向き合えば、後は可能な限り子どもを理解すればそれでよいのであり、完全に理解しようとすることが無理なのだと思います。
この子どもと親との基本的な関係を理解すること、子どもを理解することは親の能力の範囲でよいことを、現在子どもの問題で苦しんでいる親に伝えるのが経験者の親の役割だと思います。

こどもの日 2006/5/11

 5月5日は子どもの日でした。子どもの日には、各地で、各家庭で、子どもの成長を祝わう催し物が行われたようです。子どもの健康と成長は、親にとってとても嬉しいものです。親も安心して自分の人生を生きていけますから。自分の子育てに納得ができますから。

多くの親にとって嬉しくない子どもの成長があります。その例として、不登校、引きこもり、家庭内暴力、盗みなどの問題行動があります。これらの子ども達の行動は子どもに問題があり、その問題を正す必要があると、多くの親や大人達は考えています。これらの問題行動を正して親や大人に都合の良いように子ども達を変えることが、子どもの将来のためだと多くの親や大人達は考えています。親や大人達のために都合の良いように子どもを変えるためには、一部の親や大人達は子どもに何をしても良いと考えているようです。

そのために子どもがどれ程苦しんでも、それも子どものためだと考えています。社会的な風潮も、子どものためのしつけと表現されるものなら、大人から見てたいしたことがないと思われる子どもへの暴力や酷い扱いは、社会的に許される傾向にあります。ただし、大人から見てたいしたことがないと思われる子どもへの暴力や酷い扱いは、当の子どもにとって大変に辛いものであることに、大人達は気づいていません。

 それは已然として、長田百合子氏が子どもの意志を無視した脅迫を用いて、不登校や引きこもりの子ども達へ対応し続けることが、おおっぴらに許されています。戸塚宏氏が刑期を終えて出てきて子どもへの体罰を容認する発言をしても、たいした批判も受けないでマスコミで報道されています。子どもに大きな影響を与える石原慎太郎都知事が、体罰を容認する戸塚宏氏を後援していることが、全く問題にされていないという事実もあります。

 今回、杉浦昌子氏による28才の男性を非人道的な扱いから死亡させても、それほど大きな社会問題にならないという事実もあります。その事実の由来は、引きこもりや家庭内暴力をふるう子どもにも、それなりの問題点があるから、ある意味で仕方がないと言うような日本社会における考え方のようです。また、一方では、子どもが辛い目に遭うことを知りながら、子どもをこのような人たちの元に送って、子どもの問題を解決しようとする親が、已然としていることも事実です。

 多くの大人は信じようとはしませんが、不登校、引きこもり、家庭内暴力、盗みなどの問題行動を起こす子ども達は、その子ども達なりに一生懸命生きています。一生懸命成長しようとしています。けれどこれらの子ども達を受け入れる学校を含めた社会が、これらの子ども達を苦しめています。辛くてどうにもできなくなったから、子ども達は不登校になったり、引きこもったり、家庭内暴力を起こしたり、盗みなどの問題行動を起こしています。子ども達は決して好きこのんで、これらの行動を起こしていません。辛い状態の子ども達が、無意識に自分を守るために行った行動が、結果として大人には都合が悪いだけです。

 大人に都合の悪い子ども達の行動を、大人達は子ども達のためだといって、力で止めさせようとします。辛い状態の子ども達は辛さを解消しようとしてそれらの行動に出ていますから、大人に力でそれらの行動を押さえつけられてしまうと、子ども達はますます辛くなってしまいます。その結果、ますます不登校、引きこもり、家庭内暴力、盗みなどの問題行動の程度が酷くなってしまいます。大人の都合で動いていく社会の中で、その社会の中で心が傷つき辛い状態にある子ども達について、もっと子どもの立場から考える必要があります。

 現在少子化問題が重要な政策になっています。政府の政策は生まれる子供を多くしようとするものです。いくら子どもが生まれても、子どもが成長の過程で心が傷ついて辛くなり、大人になっても社会を支えられないなら、少子化政策の意味がありません。少子化時代だからこそ、大人は一人一人の子どもを大切にして、社会を支えていく大人にしていく必要があります。

 これからの日本を支えていく子ども達、その子ども達を守らなければ、大人達が老いていったとき、誰が大人達を助けてくれるのでしょうか?辛い状態の子ども達の辛さを解決しないで、子ども達を急いで社会に引き出すのでは、辛い状態の子ども達は元気になれません。大人達が余裕のある内に、辛い状態の子どもの辛い心を癒して、元気になって社会に出て貰い、大人達が老いたときに、これらの子ども達に守って貰う必要に、どうして大人達は気づかないのでしょうか?

母親についての子どもの心理 2006/7/3

 奈良県田原本町の自宅に火を付け、母や弟妹を殺害したとして、有名進学校の私立高1年の長男(16)を、長男の立場から考えてみたいと思います。これまでに新聞や週刊誌から得られた長男の供述や長男の文章、両親が離婚している家族関係などを手がかりに、長男の立場から分析してみました。現在までの所警察や所謂専門家は、動機の中心が教育熱心な医師である父親(47)への反発としています。

 確かに長男に勉強を強要して長男を苦しくさせたのは、教育熱心な父親の対応でしたが、それだけで義理の母親と異母兄弟二人を焼死させるようなことはしなかったでしょう。もし、長男が父親を殺したいほど憎かったなら、父親を殺せたはずです。報道によると長男は事件の前日に、父親を殺そうと思ったができなかったと書いてありました。それが事実だったかどうか、私たちには分かりません。辛い状態の子どもが、警察に逮捕されて、隔離されていて、孤立させられているのですから、言葉巧みな尋問官の誘導からその様な発言をした可能性があります。簡単に尋問官が作り上げたストリーに沿っての長男が供述をしてしまった可能性もあります。その様な経過で子どもが口述調書を作られて裁判にかけられた経験を、私たちはしています。

 長男が父を殺したかったと言うことは間違いだと思います。本当に父親を殺したかったなら、刃物などを使って父親を殺せたはずです。また、父親が家にいるときに、家に火を付けたはずです。長男は父親を殺したいほど辛い状態にあったことは間違いないでしょうし、長男を苦しめる父親をどうにかしたかったことは確かでしょう。長男は父親を殺してしまうほど、父親を憎んでいたでしょうが、実際には殺すほどではなかったはずだと、私は思います。

 長男が「努力して夢(医者への道)をかなえたい」とか「将来の夢…医者」とか書いています。これらの文章は長男が心底その様に感じていたと言うことではなくて、単に父親から受け継いだ知識です。長男は医者とは何か、未だ良く知らないと思います。医者について一般的な知識はいくらか持っているでしょうが、その知識から医者になろうという意欲は湧いてこないはずです。将来の職業という意識も殆ど無かったでしょう。ただ、父親から医者になれと言われ続けたから、医者になる物だと習慣的に反応しだして、言葉の上で医者になると言っていただけだと思います。よい子を演じていたことからの言葉です。

 父が長男に勉強とテストの成績を求め続けたことは事実のようです。その父親の長男への対応が、長男を苦しめ続けて、高校一年の段階で長男を耐えきれなくさせました。長男は勉強にも、スポーツにも優れていた子どもだったようです。父親からの要求が辛くても、父の要求に見事に答え続けました。「医者になる」と言って、所謂よい子を演じ続けたのです。そして高校一年になって、父親からの要求に応えられなくなってしまったのでしょう。よい子を演じ続けられなくなったという意味です。もっと早く父からの要求に答えられなくなっていたら、もっと早くよい子を演じるのを止めていたら、父も長男を医者にするのを諦めていたかも知れません。長男はもっと違う人生を生きられたと思います。

 父親は極めてよい子を演じ続ける長男に、父親がやっている対応が良いことだと、長男のためになると信じ続けていたと思います。小学校までの長男にやらしたら、見事にやってくれて結果を出してくれました。高校になると父親はもっともっとと欲が出たのだと思います。長男に要求し続ければ父親の求める答えを出してくれると、短絡的に父親は考えたのだと思います。

 「(事件当日の)20日の保護者会で中間試験の成績についてのうそが発覚する」と長男の供述が報道されています。長男が中間試験の成績について嘘を言っていたかどうか、それは分かりません。報道を信じるしかないでしょう。ただ、中間試験の成績発表と事件とが一致していると言うことから、必ずしも偶然とは片づけられないはずです。何か関係はあるはずです。父親が当直で不在の日と言うことから、義理の母親が中間試験の成績を聞きに行くと長男も判断していたはずです。長男としては、母親が成績を聞きに行ってから家に火を付けても良かったはずですし、父親の成績が報告されるまでの間に、家に火を付けても良かった訳です。父親が中間試験の成績を知って長男を叱ったとき、それに反発して家に火を付けても良かったはずです。なぜ母親が寝ている深夜に火を付けたかです。

 それは決して長男の成績が落ちたからではないと思います。長男の成績が落ちたのは、多分学校の勉強について行けなかったのは、よい子を演じるのに限界を生じたからです。よい子を演じようとしても、高校での勉強は長男のよい子を演じる能力の限界を超えていた可能性があります。長男は葛藤状態に陥って苦しんでいたはずです。報道では、父親からの暴力で苦しんでいると友達や周囲の人が言っているとなっていますが、それは長男が勉強をしなくてはならないという思いと、現実に勉強について行けなくなったという事実との間に、葛藤状態にあったということを示しています。

 長男は義理の母親を母親と思っていなかったようです。これからは子どもの心理という立場からの、長男の潜在意識の推論ですが、長男は義理の母親を自分から母親を奪った悪人だと、憎い人だとなっていたはずです。それは子どもにとって、辛ければ辛いほど子どもにとって、母親と子どもが認識する母親の存在が大切だからです。勿論高校一年まで義理の母親に対しても、長男はよい子を演じ続けていました。それが高校に入ったある時点から、よい子を演じるのを放棄しているはずです。報道はされていませんが、長男は義理の母親にも、二人の義母兄弟にも、何か問題行動を始めていたはずです。そして、長男の中間試験の成績を聞きに行くという、母の役割を義理の母が行うことに、長男の怒りが最高に達したのでしょう。長男は二階で寝ている義理の母親に牙を剥きました。

 長男は義理の母親を殺すという意識は無かったはずですが、自分と同じぐらいに苦しめと言う潜在意識からの反応から、階段に火を付けています。どのようにして階段に火を付けたのか分かりませんが(きっと長男が階段に火を付けてから、家が燃え上がるまでにかなりの時間を要したと思います)、長男としては家を全焼させようとした訳ではなくて、二階から降りるのに通らなくてはならない階段に火を付けると言うことで義理の母親に怒りを示しただけです。長男としては、義理の母親が死ぬ必要はなかったはずです。長男の苦しみを癒すことができない義理の母親、自分から大好きな母親を奪った義理の母親、その義理の母親が自分と同じように苦しめという潜在意識からの反応で、階段に火を付けました。長男は二人の義母兄弟には誤ってくれます。しかし、義理の母親と父親には、言葉では誤ることがあるかも知れませんが、心の底からは謝らないでしょう。

 長男は自分を苦しめていた父親も憎いはずです。それでも、父親には殺したいと言うほどの怒りは持っていませんでした。報道はされていませんが、父親以上に義理の母親を憎んでいたはずです。長男のよい子を演じることすらできなくなった苦しみから、発作的に、潜在意識からの反応で、長男の一番憎む義理の母親に、単に長男が潜在意識の反応として、攻撃を行ったのが、家の階段に火を付けるという行動になり、義理の母親と二人の兄弟の死になってしまいました。ですから、長男の意識にも、記憶にも、なぜ長男が母親を殺してしまったのか、はっきりとした記憶はなかったと思います。多くの長男の行動は潜在意識からの行動だったからです。

子どもが母親に愛情を感じるとき 2006/11/22

子どもが一番信頼する母親が、登校拒否、不登校の子どもに学校には行かなくて良いと言うことで、登校拒否、不登校の子どもの心の中の葛藤を解消してくれます。安全な場所で、子どもが辛い心を癒そうとする行動を、そのままそれでよいと認めてくれる母親の存在は、子どもにその自分の辛い心を癒そうとする行動に没頭し、それを卒業し、次の何かを求める行動に繋がっていきます。それと同時に、母親の存在は、それだけで辛い子どもの心を癒してくれます。それは母親と子どもとの信頼関係がいかに子どもの心を安定化させて、成長していくことを認めるからです。

ある場所で母親の愛情とは何ですか?との質問がありました。ある母親は時間がたつと分かること、またある母親は信頼だと、また、ある母親はスキンシップで伝わる物だと言いました。これらは当たっています。母親と子どもとの間の愛情とは、母親と子どもとの間の信頼関係と言い換えることができます。その母親と子どもとの信頼関係を高めていく方法は、次の三つになります。

スキンシップ
母親とのスキンシップは、それだけで子どもの心に安心感を与えてくれます。母親とのスキンシップで、子どもの辛い心が消失していきます。子どもが辛ければ辛いほどスキンシップが大切です。抱いてあげること、手を握ってあげること、背中をさすってあげること、一緒に寝てあげること、一緒にお風呂に入ってあげることなどが良いようです。これは母親でなくてもできることですが、母親にしてもらうとその効果はとても強く作用します。

子どもの行動を素直に認めること
子どもの話を丁寧に聞くこと。子どもの行動や反応をそのまま素直に認めることです。大人は一般に、子どもの行動にいろいろな理由付けをして、理解しようとします。その理由付けが正しければそれでも良いのですが、まず正しいことはないです。子どもの行動や反応の大半は、受けた刺激に反射的に反応して行動しているからです。そこには大人の考えるような理由がないからです。

子どもの要求は100%認めること。
子どもが何かを要求するにはそれなりの子どもとしての意味があります。ただし大人にはそれが分かりません。ですから、子どもの要求を信頼して100%かなえてあげることが必要です。ただし、決して100%以上ではいけません。100%以上だと、子どもは親に依存を生じてしまうからです。100%以下では、子どもは親に不信感を持ってしまいます。親の理由として子どもの要求を100%かなえられないときには、子どもと交渉する必要があります。子どもは優しいですから、その交渉の結果を受け入れて納得してくれます。親に対して不信感を持ちません。

100%子どもの要求に応える

子どもの要求が我が儘だ、甘えだと考えられるときの対応について、このことを考えるにはまず最初に子どもの心を知らなければなりません。子どもの心から考える必要があります。大人がこれで100%だと決めても意味がないです。そして子どもの心から考えるなら、「子どもの立場に立つ、子どもの心の沿うとは」から考えることになります。

つまり子どもの要求が親や大人にとって我が儘だ、甘えだと理解されても、それよりも先に、子どもの心はどのようにして要求をしているのか、子どもの心から次のようになります。

子どもの行動は反応の心からの反応か、情動の心からの反応であるから、大人から見て甘えだ、我が儘だと感じられる場合でも、子どもの要求という反応は何かの刺激に素直に反応して生じています。大人と違って、子どもの心からは甘えだ我が儘だという反応の仕方はないです。子どもは与えられた環境に順応して成長をしようとしていますから、大人から甘えだ我が儘だと判断される子どもの要求も、子どもの心から言うなら、与えられた環境に順応して成長するために必要な要求であるという事実があります。

このような子ども特有の心の反応を考えるなら、子どもの要求に添ってそれを満たしてあげる限り(受容)、決して甘えでも我が儘でもありません。子どもの要求を十分に満たさなければ、子どもは葛藤状態になります。子どもの要求以上の事をすると、それは子どもに依存を生じて、それ以後甘えや我が儘の原因になります。

親や大人が子どもの要求が甘えだ我が儘だと感じられるときには、
(1)子どもを信頼していないこと=子どもの心から子どもを見られないこと
(2)既に子どもが親や大人に依存状態になっていること
(3)子どもが親を信頼できるかどうかテストしている(ここでは述べません)
のどれかになっています。

例えば子どもが何々を買ってと強く主張する(親や大人から見たらだだをこねる姿)場合について、子どもにそれが必要だが、親や大人にそれが理解できない場合、子どもが親や大人に依存関係になっていて親や大人の先回りの対応がないことに不平を言っている場合、親が信頼できるかどうかを子どもがテストしている場合があります。

この三つの内のどれに相当するかで親や大人の対応が異なってきますが、幼い子どもでは多くは親や大人が子どもの心の立場に立っていなくて、親や大人の立場から、自分たちに都合の悪いことを甘えだ、我が儘だと理解している場合が多いです。大きい子どもでは依存関係の場合が見られます。程度は何とも言えません。

辛い状態の子どもでは、その辛さを解消する親の心をテストしている場合が多いです。

子どもの要求の多くは、子どもが必要から親や大人に要求している場合が大半ですから、親が理解できなくても、子どもの要求を100%叶える必要が(受容)あります。学童年齢以下の子どもは親をテストしている場合も多いです。子どもが親を信頼できるようになったら、子どもはテストを止めて、親に我が儘だ、甘えだと言われるような要求をしなくなるでしょう。

それでも親以外の子どもの心が分からない大人には、子どもが甘えから、我が儘から要求をしているから、その子どもの要求を満たそうとしている親を、子どもを甘えさせすぎると判断します。別の言い方をすれば、学童以下の年齢の子どもの要求を100%認めることを、甘えだ我が儘だと理解する大人は、子どもの心が分からない大人だといって間違いないです。

年長の子どもの要求が甘えだ我が儘だと親が感じられる場合、それが依存による物か、それとも子どもの素直な要求か、親をテストしているのか、その判断は大変に難しいです。子どもの心の立場から長年経験して判断するしかないです。ただし辛い状態の子どもからの要求なら、例え親が甘えだ我が儘だと判断しても、それは親をテストしていることが大半です。

発達障害・自閉症・自閉症スペクトラム・トゥーレット症候群・ADHDという概念について

 発達障害と理解される子どもの状態はあります。けれどそれを親や大人が病気として理解すると、問題だとして対応されると、子どもはとても辛くなります。その子どもなりの成長を阻害します。親や周囲の大人としては、発達障害と理解される子どもを普通の子どもにしたいと考えるのは、その大人なりの優しさなのでしょうが、発達障害と理解されてしまう子どもにはとても迷惑な話なのです。

 発達障害と理解される状態はあっても、発達障害と客観的に示すことが出来る脳内の変化は見つかっていません。それは現在の脳科学が証明するのに十分なほどには未発達なのか、それとも脳内にそのような変化が全くないのか、それは分かりません。現時点では脳内に発達障害に相当する変化がないから、発達障害という症候群として考えられています。

 ここで大切なことは、発達障害と理解された子どもが、現在の精神医学による発達障害の対応を受けて(発達障害として対応を受けたための変化がある場合があるが、それに対しても薬が効果を示すという客観的な証拠もない。いわゆる専門家が発達障害という物があると、薬が効くと信じているだけ)大変に辛い状態になり、辛い子ども時代を過ごしているという事実です。その結果も、(私の知る限り)大人になって依然として社会に順応できなくて、辛い一生を送り続けている点です。(私の経験する限り)発達障害と理解されても(私の経験の中には、精神科医からあまりにも酷い発達障害だと見放された子どももいる)、それはその子どもの性格の特徴として、その子どもなりの成長を認めた対応を続けていけば、その子どもなりに社会に順応し、職業を得て、その子どもなりに結婚もして、子どももも育てて、極普通の大人になっていることです。

 現在社会に都合の悪い子どもを、その子どものためといって、その子どもを社会に都合の良いように変えるといって、その子どもを苦しめて、その子どもの一生を辛い物にしている現在の医学が公然と存在しています。その子どものためというなら、現在社会に不都合でも、時間がかかっても、その子どもの心と成長に添って、その子どもらしさを育てることが、その結果として社会に順応できる大人になってもらうことが、現在社会に都合の悪い子どもを育てる方法だと、私は主張します。

子どもたちの生きづらさはどこから来るか 2008/9/8

 ある講演会である大学教授が「子どもたちは、学校でも大変ですが、もっと大変なのは消費社会です」と述べました。テレビや雑誌からの情報に振り回される子どもたちの姿を指摘していました。情報に振り回されるから、子どもたちが辛くなると言っていました。

 子どもたちは自分の周囲にある物を、その子どもなりに上手に使って成長をしています。それは情報についても同じです。子どもたちはその子どもなりに上手に情報を利用して成長しています。けれどなぜ情報に振り回される子どもが出てくるのか、その部分の分析がこの講演ではなされていません。この講演では、情報があれば子どもはその情報に振り回されるものだとの前提で話されていました。

 子どもたちが現在の管理された学校では大変だという事実があります。管理、管理で、子どもたちは窒息しそうになっています。子どもたちが自分たちの子どもらしさを放棄して、親の、教師のロボット化しなければならない事実は、子どもにとって子どもとしての成長をやめろと言われるのと同じです。多くの子どもたちはそれでも耐えていますが、一部の子どもたちは、体は生きていても、心を殺してしまっています。そのような子どもたちにとって、学校が心の屠殺場になっています。親や教師や大人たちからはそのようには見えないけれど、一部の子どもたちには学校がとても辛い所になっています。

 辛さの程度に差があっても、子どもたちの辛い心を、学校の中で、学校の外で、子どもたちは癒して、また翌日学校に来て、その子どもなりに一生懸命成長を続けています。けれど辛さの程度が著しくて、学校の中で、学校の外で、その辛い心を十分に癒せなかった子どもが出てきます。そのような子どもたちが身の回りに有り余る情報を利用して、他の子どもたちと遊びに没頭することで、辛い自分たちの心を癒そうとします。そのような子どもたちの姿が、今の大人たちには情報に振り回される子どもの姿として映っています。そして時にはその子どもたちの遊びが他の子どもをいじめるようになる場合があります。

親の思い、子どもの思い(6) 2009/3/16

 引きこもっている子どもが親に
「僕は十分に充電した。家の生活が退屈だし、将来のことを考えて、コンピューターの勉強をしたい。だから専門学校に行きたい」
と真剣な顔をして言いました。そこで親は大喜びで、すぐにコンピューター関係の専門学校の案内書を集めて食卓の上に置いておきました。案内書を見た子どもは、その内容を読んで、父親と学校についての話をしていました。父親も子どもの質問に真剣に答えて、アドバイスをしていました。母親には*月*日に**学校の見学に行くと言って、とても上機嫌でした。

 *月*日が近づいても子どもは一向に学校見学に行く準備をしません。前日は夜中起きてゲームをしていて、明け方になって眠って、当日の朝は起きてきませんでした。母親が起こすと、子どもは
「寝不足で、今日は行けないから、学校に見学の日延べの連絡をして欲しい」
と言って、寝続けました。母親は落胆を押し隠して、学校に今日は行けないからとの電話を入れました。

 子どもの不登校、引きこもりを認められた親でも、学校に行きたい、アルバイトをしたいなどの、子どもが動き出す言葉を発したときには嬉しくなってしまいます。ついつい学校やアルバイトができるような対応をしてしまいます。

 子どもの方は、
「学校に行ってみようかな、アルバイトをしてみようかな」
と思っただけです。まだそこまでエネルギーがたまっていなかったのです。別の見方をすれば、親がどれだけ学校に行って欲しいと思っているか、アルバイトをして欲しいと思っているか、テストをしたと考えても間違いではないです。

子どものありのままを認める

 子どもは自分の持っているエネルギーを精一杯用いて活動をして、自分の能力を高めようとして、心身共に成長しています。それは大人にない、子ども特有の本能です。子どもが元気で生き生きと成長しているときには、子どもは自分の持っているエネルギーから、色々な物に挑戦して、その子どもなりの経験と知識を身につけて、とても力強い大人になっていきます。多くの大人はこのような元気な子どもの姿を、全ての子どもに共通だと考えて、全ての子どもに要求してきます。

 心が辛い状態の子どもは家に引きこもりがちになり、ゲームやテレビ、漫画など、大人から見たら快楽的な物に耽ります。心が辛い状態の子どもでは、このような子どもの姿で精一杯なのです。これ以上を望まれても、子どもはそれ以上の自分からの自発的な活動ができないのです。

 では例えば、不登校の子どもに学校に行けと言ったとき、子どもが学校に行けるから、精一杯ではないと大人は考えますが、子どもは回避行動として学校に行ったのであり、自分のエネルギーから学校に行ったのではありません。子どもは無理をして学校に行きました。無理をしようとしても親の言うことに従えないとき、子どもは荒れたり、病気の症状を出して、ますます。心がより辛くなっています。子どもの心の問題の解決が遅くなります。

 心が辛い状態の子どもについて、そのときの子どもの姿がその子どもにとって精一杯の姿であることを、大人は気づく必要があります。子どもには精一杯でも、その子どもなりに精一杯の活動をして、少しずつエネルギーを蓄えて、もう少し元気な子どもの姿に変わっていきます。その変化の度合いが非常にゆっくりです。場合によっては大人が気づくようになるのに何年かかかるので、多くの大人は子どもがちっとも変わらないと判断しがちです。

子どもの立場からの義務教育

 義務教育とは、子どもが学校に行く義務ではなくて、子どもが教育を受けられるような環境を整える大人の義務です。子どもが教育を受けられる環境として、学校が用意されています。現在の学校は管理と学力をつけることに主眼が置かれていて、ありのままの子ども達のあり方に配慮がされていません。

 現在の学校に合わない子ども達が増えています。それらの子ども達は学校に行かないで、家庭でその子どもなりの学習を求めています。しかし現在の学校は基本的に家庭でのその子どもなりの家庭学習を認めていません。学校に来られないなら、学校に代わる場所に行くことを求めています。学校に行こうとしない子どもを学校に行かせようとするのが義務教育ではありません。

 子どもの学習の場所は学校だけではありません。学校で教える知識が子どもの学習の全てでもありません。子どもは学校で学習しても良いし、家庭でその子どもなりに学習して良いはずです。学校に行こうとしない子ども、学校で学習を希望しない子どもについての義務教育とは、子どもが家庭でその子どもなりに学習できる環境を整えるのが、子どもの立場からの義務教育です。

号令で動く子ども達

 混んでいる電車の中で、高校生ぐらいの子ども達のグループが椅子に座って、わいわいがやがややっていました。引率の大人が「みんな立って、席を譲りましょう。」と言ったところ、子ども達が椅子から立って、通路に立っていた大人達に席を譲りました。私も、他に空いた椅子に掛ける大人がいなかったので、「有り難う」と言って掛けさせてもらいました。

 私の側に掛けたご婦人が「素晴らしい子ども達ですね。このような若者達が居ると思うと、日本の将来が明るいですね」と言いました。私も「そうですね。」と短く答えて、それ以上のことを言いませんでした。その車中にいた大人達は腰掛けられて、子ども達に感謝をしていたでしょう。しかし素晴らしい子どもという評価にどことなく違和感を感じました。

 確かに席を譲らないよりは譲る子どもの方が、私たち大人から見たら好ましい子どもでしょう。しかし自分たちの前に年配の人がいるのに、号令を受けるまで席を譲ろうとしない子ども達を、私は必ずしも誉めるわけにはいかないと感じていたからです。本当に素晴らしい子どもなら、本当に心が優しい子どもなら、号令を掛けられなくても席を譲るはずだと思ったからです。

 運動会などで、号令に従って機敏に動く子ども達を見るのは、頼もしいです。良くここまで練習に耐えて、上手に動けるようになったと感心します。しかし日常生活は別です。指示を受けたらその通りにできることも大切ですが、指示を受けなければ動けない大人がいます。自己中心的で、その人らしい意志がない大人、指示を受けなくては動き出そうとしない大人が世の中に多いように感じます。心が元気な子ども達についてですが、他人に何かを言われる前に、自発的に自分の意志から動くような子供が増えてくれることを願うのは私だけでしょうか?

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