フリースペース「したいなぁ〜松戸」&松戸−登校拒否を考える会「ひまわり会」
ホーム代表者と顧問医師のコラム

子どもたちへの見方 2003.11.8

 子どもたちの問題が生じるたびに、子どもたちをどのように指導すればよいかの議論がなされ、いろいろな提言がなされています。その際に議論する人たちは、子どもたちにはいろいろな性格の子どもたちがいることを認めていますが、そこで議論されている内容は、子どもたち全体をどうするかという内容になってしまっています。

 子どもたちへの対応は、個々の子どもに沿った対応が必要なはずです。また、子どもたちもそれを求めています。けれど学校という、多数の子どもを少ない大人で指導しようとするところでは、それは不可能なことです。けれど、おおざっぱにいろいろな性格の子どもたちがいることを想定するだけでなく、もう一歩踏み込んで、現代の子どもたちを今の学校のあり方との関係で見ていくなら、もっと違った対応が出てくると思います。

 それは
A.現在の学校で十分な子どもたち
B.良い子を演じる子どもたち
C.現在の学校に合わない子どもたち
と、子どもたちの心の状態を分けられる(境界は明瞭ではありませんが)と思います。このように子どもたちの心の状態が分けられるのは、子どもに原因があるのではありません。現在の学校のあり方で子どもたちの心が傷つて、その心の傷つき方から、現実に良い子を演じる子どもたちや、現在の学校に合わない子どもたちが生じています。

 多くの子どもたちは、Aの現在の学校で十分な子どもたちです。学校や親からの対応を受け入れて、どんどんのびていく子どもたちです。現在の学校も親も、子どもたちは現在の学校で十分だと思って対応をしています。

 クラスには少数だけどCの特別な場合をのぞいてどんな指導も受け入れられない子どもがいます。学校内や学校外で問題行動を起こすからわかりやすいです。これらの子どもたちは、すでに学校に合わないのですから、そのような子どもを学校に留めておこうという対応自体が無理なのです。

 難しいのは、そして学校側でも理解できないのが、Bの良い子を演じる子どもたちです。普段はとても良い子ども(成績や行動面でも)なのに、大人のいないところでは、または発作的に、思わぬ反社会的行動を行ってしまう子どもたちです。最近の子どもたちを見ていると、この良い子を演じる子どもたちに属する子どもたちが増えてきています。良い子を演じる子どもたちへの学校側の対応について、子どもたちが納得して学校側の対応に従ったと学校側が判断しても、教師や大人の前で納得したように演じている、対応を受け入れたように演じているが、心の奥底では葛藤に苦しんでいる子どもたちです。

私が死んだらこの子はどうなる? 2004.5.14

 不登校引きこもりの子どもの対応を行っていて、母親から「私が死んだらこの子はどうなっちゃうんだろうか?」という言葉を私が聞いた機会はさほど多くありません。私がその言葉を聞いたのは、年長の引きこもりの子どもを持つ母親からでした。ため息をつきながら沈んだ調子で母親から質問を受けたことが、私には何回かあります。

 私が今まで対応してきた中で、子どもが引きこもりの状態で母親が死亡した3ケースを経験していますが、いずれも母親が自殺したケース(原因は子どもの不登校、引きこもりでなく、妻と夫との関係で死を選んでいた)であり、それ以外では母親が一生懸命子どもの対応を続けているケースばかりです。多くの母親は、目の前の子供のことで精一杯で、自分が死んだ後のことを考えている余裕はないようです。

 母親が自殺したケースでも、自殺する前に「私が死んだらこの子はどうなっちゃうんだろうか?」と言った母親はいません。子供の苦しみよりも自分自身の苦しみに耐えかねて死を選択してしまいました。母親が自殺した後も、引きこもりの子供達はそれなりに生活しています。それが良い結果(子どもが元気になる)を導き出すか、悪い結果(子どもが辛い症状を出し続ける)になるか、これからの問題で、今後どうなるのか答えは出ていませんが、現在の所その子供なりに生きていることは事実です。

 ある親の会で「私が死んだらこの子はどうなっちゃうんだろうか?」の話が出たとき、余りよく考えないで、私が経験した症例の話をしてしまいました。今よく考えてみると、母親が「私が死んだらこの子はどうなっちゃうんだろうか?」と話したときには、その母親が 「不登校引きこもりをしている子供が元気になることは、母親にはとても考えられない。母親がとても辛くて、その母親の子供を信頼できない、母親として自分の子供を受け入れられない」 という、その母親が今不安で辛いという意味であり、母親が死んだ結果子供がどうなるのかの結果を、その母親が求めているのではないことに気づきました。

子どもの殺人 2004.6.4

 ある人が私に、「あなたのお子さんが、もし人を殺したら親として許せますか?」と質問をしました。人殺しでなくても、子どもが犯罪を犯すのではないかという心配は、多くの親にとって子育ての際の疑問であり、不安の要因の一つであろうと思います。社会も、子どもにしつけという形でそれを防げと、親に圧力をかけてきています。

 我が子が幼かった頃に関しては、我が子は私を信頼してくれていました。我が子は自分の辛さなど、心の内を全て教えてくれていました。我が子には人を殺したいという願望は無かったです。もしあったときには、その時には子どもは人を殺したいぐらいに辛いのだと判断します。その辛さから子どもを守ることで、人を殺すことを回避します。決して犯罪や殺人をするなとか、犯罪や殺人は悪いことだ、犯罪や殺人をするとお巡りさんに捕まり、厳罰にされるとは言いません。その理由は、ほ乳類に関する限り、ストレスが無ければ同じ種を苦しめたり、殺そうとすることがないからです。これはほ乳類という動物としての本能です。ただし人間の大人は、人間的な要素から犯罪を犯したり、人を殺すことをしてしまいます。

 ほ乳類の子どもに関しては、子ども同士の仲間を求め、その中で社会性を身につけ大人になっていきます。辛いときには親の元に逃げ帰って、辛さを解消して子どもの社会へ戻っていきます。それは人間も同じです。子どもは経験から知識を身につけていきます。失敗から、失敗を回避する方法を身につけます。ですから子どもには失敗を許さなければ成りません。犯罪に関しても子どもにとっては失敗であり、殺人は子どもにとっては大きな失敗です。失敗をいろいろと経験し、回避方法を身につけた子どもは、大きな失敗をしなくなります。

 以上の理由から、子どもが好きこのんで人に迷惑をかけたり、人を殺すことはありません。あったとしたら、それは事故か、子どもに強いストレスがかかっていたからです。もちろん人に迷惑をかけたり、人を殺したりすることは許されませんが、それと同時に、子どもがどんな状態にあって、結果的に犯罪などの人に迷惑をかける行為をしてしまったのか、殺人をしてしまったかを考える必要があります。子どもといえども犯罪や殺人は許されませんが、だからといって厳罰に処するというのも間違っています。犯罪を犯した子どもや、殺人を犯した子どもは、同時に大人社会の被害者だからです。殺人を犯した子ども一人一人についての問題点を子どもの立場で考える必要があります。

 問題は犯罪の被害者になったり、殺された人に関してでしょう。本来なら、犯罪や殺人を犯した子どもの親(必ずしも親には責任が無い場合がありますが、道義的な責任があります。けれど道義的責任を果たせない親には、親が道義的な責任を果たすまで、社会が代わって保証する必要がある)や、社会が被害者を保護するべきだとおもいます。健康保険、介護保険、などと同じように、社会が保証する保険制度はできない物でしょうか?

不登校の定義 2004.07.12

 引きこもりを考えるときには社会的な要素と個人的な要素を考える必要が有ります。

 社会的な要素としては、その人が属する社会常識として認められている社会活動に参加するかどうかの問題です。ですから、社会常識により社会活動の範囲が異なる場合が有ります。例えば親の農業を手伝う場合、親と共同事業として農業をしている場合には社会活動になります。農業を手伝う場合には、人により判断が異なるでしょうが、社会活動とは考えない人が多くなると思います。また、農業は手伝っていないが、青年会活動などに参加している場合にも、社会活動に参加しているかどうかの判断は人によって異なってきますが、社会活動とは言わない人が多いと思います。家事手伝いや、現在は少なくなっていますが、所謂お嫁さん修行は、社会活動に入るかどうかの問題も有ります。

 学校に通学することが社会活動といえるかどうかの問題も有ります。一般に学校に通うことは社会活動と考えられるようですが、学校には通わないが塾には通う場合には社会活動と言えるかどうかの問題も有ります。ホームスクーリングも、見方によっては社会活動と考えても良い場合もあります。また、ホームレスや、厚生施設などに居る人はどのように考えるのかという問題もあります。

 そのような意味で、社会活動とは社会体制から見て、とても勝手に解釈される言葉です。ですから、現在の引きこもりという概念は社会体制が社会体制の都合で、勝手に作り上げている要素も多くあります。

 個人の問題としては、家の中を含めて、社会の何かに疼く心の傷の存在が有るかどうかが判断の重要な要素です。家の中を含めて、社会の何かに対して、心の傷が絶えず疼く状態では社会活動に参加はできません。家の中や社会の何かに対して、時にしか心の傷が疼かなければ、決まった職業に就職はできませんが、アルバイトなどの、勤務時間に融通の利く職業なら着くことができます。家の中や心の傷が疼かないのに、所謂社会活動に参加していない人たちがいます。それらの人に関しては、それはそれらの人の生き様であり、形の上では社会通念上の引きこもりでしょうが、引きこもりといえない可能性があると思います。ただし、このような考え方は、心の傷の概念が無ければこの判断はできないという問題点があります。また、引きこもりへの対応は、その人の心の傷を見つめながら行うことで、解決への道が開けます。

 私自身は引きこもりの定義として、個人の問題を大切にしています。私の定義は
「社会の何かに疼く心の傷が有り、その心の傷の疼きにより、家の外での生活に何らかの障害を来していること」
です。この定義ですと所謂社会活動をしていても、心の傷が疼いている限り引きこもりになります。別の言い方をすれば、無理して所謂社会活動をしている場合です。

夏合宿に参加して 2004.8.30

 今回は短時間でしたが、世話人会も見せて頂きました。世話人会では不登校と医療のことが話し合われていました。世話人の方々は、不登校は病気ではないと信じていらっしゃいますが、現実に目の前の子どもが病的な症状を出しているときには、そしてその子どもの親が医療を求めているときには、世話人の方々でも医療にその子どもをゆだねざるを得ないのは、自然の成り行きでしょう。そこで、どのような病院が良いかという問題になります。その点も、何人かの世話人の方は、今までの病院の対応の仕方から、紹介できるような病院を見つけ出されているようでした。本当に子ども達のために献身的に努力をなさっていらっしゃる世話人の方の多いのに、頭が下がりました。

不登校に関して医療を変える、医療を受ける側の意見を医療に反映するという、新しい発想が実現しつつあることを知り、とても勇気づけられました。一部の世話人の方々が精神医療の学会に参加なさって、学会の中に新しい風を吹き込んでいらっしゃる事実を、微弱ながら応援していきたいと思います。どんな形であれ、「子どもと精神医療を考える市民の会」が発足して、子どもの立場からの、ユーザーサイドからの医療が実現させるために機能し出し、将来に向かって発展していくと良いなあと思いました。

心を育てる(大人の立場から) 2004.9.20

 心を育てるという言葉には、若干の問題点があります。育てるとは、人が子どもに必要な物を与えて、子どもの成長を待つことや、動植物に飼料や肥料などの必要な物を与えて、動植物が育つのを待つことを指しています。心を育てるとは、子どもを育てる、動植物を育てることに例えて、表現していると思います。けれど、親や大人は、子どもの勉強をさせることができても、勉強すること自体は子ども自身であるように、親や大人は、子どもの心が育つようにし向けることはできても、子どもの心を育てることはできません。子どもの心を育てるのは、子ども自身です。子供達の心は、子供達の置かれている環境との関わりで、自然と育っていく物です。

 心が育っているかどうかの判断の問題も有ります。子どもや動植物が育ったかどうかは、身長や体重、植物ではその大きさなどから、判断できますし、勉強も学力テストなどの方法で計ることができます。けれど、心に関しては、心が育っているかどうかを計る物がないという現実が有ります。子どもでも心が育っている子どももいるでしょうし、大人でも心が育っていない大人もいるでしょう。きっと、大人で心が育っていないと判断される大人がいるから、子どもの内から心を育てて、大人になったら全て人たちの心が育っているようにしたいと願うから、心を育てるという発想が生じているのだと思います。

 現実に心が育っているかどうかの判断する客観的な評価の仕方はありません。心が育っているかどうかは、それぞれの個人の判断に任されています。例えば、Aさんは自分の心は育っていると判断して、Bさんの心は育っていないと判断したとしても、その心が育っていないと判断されたBさんは、自分の心は育っているが、自分の心が育っていないと判断したAさんの心が育っていないと判断する場合も頻繁にあると思います。このように、心が育っているかどうかわからない状態で、子どもの心を育てるというならば、また現在、心の教育という形で子供達の心に必要以上に大人が介入しているために、子供達は大変に苦しくなっています。自然に育つはずの子どもの心さえ育たなくなっている子どもがいます。逆効果になっている子供達がいます。

 現在、心とは何かも解っていません。心がどうなっているのかを計る客観的な方法も有りません。その結果、心を育てるということは、社会のニーズに沿った心を作るように、政府のニーズに沿った心を作るように、子どもに働きかけることを意味するようになります。これらのニーズに沿わない心を持った子供達は、心が育っていないと判断されて、こころを育てるという名目から、必要ない介入をされて、子どもの人権を侵害されて、却ってこころを傷つけられて、その子どもとしては不幸な一生を過ごすことになってしまいます。

 現在の社会は、政府は、日本の中で事件が起こらなければよい、社会や政府に逆らう人が出なければよいという方向で動いているようです。そのために、こころの教育、こころを育てるという名目を掲げて、子供達に関わってきています。その社会や政府からの関わりが嫌だと言って逃げだした子供達を、問題児だとのラベルを貼って、治療、又は矯正という名目を掲げて、社会は、政府は、子供達を苦しめる対応を取ってきています。そのようにして苦しめられた子供達は、病気として薬漬けにされたり、施設に収容されたり、犯罪に走って留置されたりしています。

なぜ子どもは働くか 2005.02.01

 人間が働く理由は、生きていくためです。生きていくための物質を手に入れる(経済的な自立)ために働きます。生活に余裕ができて、生きていくための物質を手に入れる必要がなくても、自分の欲望を満足させるために働きます。ただし、どこまでが生きていくためのものか、どこまでが欲望を満足させるためなのか、その区別は大変に難しいです。大人が働く場合には、それでよいと思います。

 現代社会の働くという概念を考えるときには、働く人の要素(身体と心)と働く場所のと関係を考えなければなりません。
1.ある人が働く能力があって、働こうとするときには、その人が働ける場所がある
2.ある人が働く能力があって、働こうとしても、その人が働く場所がない
3.ある人が働く能力があって、働く意欲もあるが、働くこと以外のことにより高い価値を見つけた場合。ただし、この場合には、他人によって経済的に支えられる必要がある。
4.ある人が働く能力はあるが、働こうとする意欲がない(自立心が何かで障害されている。必ずしも育っていないわけではない)場合。
5.ある人の身体的に(未成熟を含めて)働けない、働いてはいけない場合。ただし働く環境を身体的な問題にあわせれば働ける場合がある。

 子どもは親に守られて、成長し、社会性を得て、独立して社会に出ていきます。大人として自立するには、どうしても働かなくてはなりませんし、自立心のある大人になれば働くことに納得がいきます。けれど、大人でも自立心のない大人がいます。そのような大人は、何かの理由で(多くは心に傷を持っていて、それが疼くために)自立心が発揮できないでいます。ただし、大人で自立心がなくても、運良く経済的に働かなくても良い大人もいますし、自立心があって働きたくても、働く場所がない大人もいます。また、自立心があって働いていた大人が、自立心を失い、働かなくなる場合もあります。当然その結果は悲劇になります。

 子どもと大人との境界線上の子どもに関しては難しい問題があります。多くの子どもは自立心を意識しなくても、年齢とともに自立心が成長し、確立してきて、学校を終えた段階(すでに肉体的には成長している)で就職し、労働環境などの子どもの周囲の環境に順応して、心的にも経済的にも自立していきます。又、多くの親も子供にそれを望んでいます。

 子どもと大人との境界線上の子どもが学校を卒業(仕方なく終えることも含めて)しても、就職しない子ども、就職してもすぐにやめてしまいそれ以後就職しない子どもの数が増えて社会問題になっています。それは親や大人たちが、学校を終えた子どもは就職すべきだという常識から生じる問題点です。大人たちはいろいろな理由を付けて、これらの働かない子どもたちを問題視しています。子どもの立場から問題視することは良いのですが、多くの場合、大人の立場から問題視して、子どもに原因を求めてしまっていますから、子どもたちはより苦しくなってしまいます。子どもたちには責任がない場合が多いからです。

 では、なぜ子どもたちが学校を終えても仕事に就かないかを考えてみます。

 その第一は、子どもたちの心に傷があり、働く環境が子どもたちの心の傷を疼かせるからです。それは外見上、自立心がない、働く気がない、働いてもすぐにやめてしまう、と大人たちに理解される形で現れています。大人たちが、子どもの心が育っていないと感じる場合です。子どもたちの表現では、働かなければならないと意識するのですが、働く意欲が出ない、働くことを含めて社会と関わることを考えると辛くなるという事実から働きません。また、働く場合にも無理して働くということになり、長続きしないという現実があります。

 子どもたちの中には、経済的な自立(お金を得る)という理由よりも、自分の存在価値を大切にして、学校を終えてもその子どもらしさを求めるために、就職しない子どもがいます。その子どもなりの生き甲斐のある仕事を探している子どもたちです。それは間違った生き方ではなくて、学校を終えても、その子どもなりの生き方の勉強をしていると考えられます。つまり学生と同じ意味合いです。それは子どもたちが真剣に自分の生き方を考えだしたこと、その子どもを支える親にそれだけの余裕があることが、背景にあります。

良い子を演じる 2005/04/07

教師が児童に強いストレス刺激を与えると、児童は程度の差はありますが、その教師から逃げ出そうとします。逃げ出せないときには、暴れます。暴れられないときには、いろいろな症状を出します。程度の差があることを注意してください。周囲から見ても気づかない場合もあります。

子どもの場合、これらの反応をしないで、所謂良い子を演じる場合があります。なぜ良い子を演じるのか、その点は分かりません。理由はいろいろと考えられますが、脳科学的には不明です。傾向として、良い子であるようにと親から繰り返し対応されている子どもにその傾向が強いです。

良い子を演じる子どもは、良い子を演じなくて良い状況では、反社会的行動をしやすいです。これも子どもを観察した結果の、子どもの傾向です。脳科学的な説明は付きません。

良い子を演じる子どもは先生や親の前ではとても行儀正しいです。模範すぎるぐらいに良い子です。成績も良い場合が多いです。先生のお気に入りの子どもになります。けれど、先生や親のいないところでは反社会的行動、不適応行動をとります。いじめ、ものを壊す、万引きをする、などを行います。

良い子を演じている子どもについて、親や先生から見たら、とてもいじめを起こすとは考えられません。その結果、先生や良い子を演じている子どもの親、大人たちは、いじめられている子どもに問題があると考えてしまいます。

人間、誰でも、自分で見聞きしたことを信じます。自分で経験しないことを信じられません。子どもが良い子を演じてしまうと、周囲の大人はことの本質が分からなくなります。ですから、科学的に考えなければならないのです。

登校拒否、不登校、引きこもり問題に関わる人たちの中には、子育ての経験のない人、不登校の子どもを育てた経験のない人が結構多いです。そのような人は自分の経験の範囲で、自分の知識から、この問題を考えます。ですからそのような人には、登校拒否、不登校、引きこもりの子どもの理解は大変に難しいです。それでいて、登校拒否、不登校、引きこもりを良く知っていると主張しています。

知識か実習か 2005/5/9

 子どもの教育に関して「理屈より体験することが重要だ」と主張する人たちがいます。この言葉を言い直すと「子どもは、理屈を体験にはできないが、体験は理屈にできる」と、なります。勿論例外や、完璧に成立するわけではないですが、子どもに関しては基本的には正しいです。子どもの特徴の一つだと考えられます。そして現在の学校の先生方や教育学者が気づいていないことなのです。

 これは、学校教育においてはとても大切なことです。学校教育とは体育や音楽、図工、家庭科など、実際に体験する時間もあります。けれど、言葉だけで教えられる時間も多いです。国語、算数、理科、社会などの、言葉で教えられた知識は、言葉だけで答えればそれでよいテストなどには役立ちますが、子どもの実生活の中では、子どもの知識はそれだけでは役立ちません。大人になって知識から動けるようになってはじめて、学校で習った知識が実生活の中で役立つようになります。

 校長先生の訓辞、先生のお説教、道徳の時間、命の尊さを教える、これらはすべて知識であり、例え子ども達がその知識を身につけたとしても、質問されればその知識に沿って答えられますが、実生活でその知識を利用することができないのです。それが子どもとしての自然な姿なのです。

 子ども達は教えられたことを実生活で利用できなければ、その知識を用いなければならなくなった状況下で、子ども達はその知識を用いた行動ができません。その結果大人達から、その子どもは非難される、叱られることになります。それは新たにそのような知識を取り込む意欲を奪い去ります。いくら校長先生が良い訓辞をしても、先生がいくら良い説教をしても、道徳の時間にいくら良い道徳を教えても、子ども達は上の空になっていきます。

 「子ども達が子ども達の時期に実際に行って欲しい」と、大人達が思う子ども達の行動の仕方は、子ども達に知識で教えるのではなくて、子ども達にいろいろな形での練習で教える必要があります。子ども達への実習の形で教える必要があります。実習が難しい場合には、ロールプレイングという形や、コンピューターを使ったヴァーチャルな世界のなかでの模擬体験という形でも、練習が可能です。是非、このMSGを見られた人は、このことを覚えておいて、実行してください。そうすればそれだけで子ども達との信頼関係ができてきます。

思春期と不登校 2005/5/23

 脳科学的に、登校拒否、不登校は学校で受けた心の傷で、学校や学校に関する物で心の傷が疼くことから生じています。子どもが学校で侵害刺激を受けて辛い思いをしたとき、子どもの周囲にある学校が学校に関する物を恐怖の条件刺激として学習しています。その後、その子どもが学校や学校に関する物に遭遇したとき、子ともは恐怖の条件反射を生じて、とても辛くなります。学校や学校に関する物を回避しようとします。それが登校拒否、不登校です。

 登校拒否、不登校になるためには、学校で心の傷を受けています。その心の傷を受ける受けやすさ、心の傷つき易さに、思春期が影響しているかどうかの証明は大変に難しいです。思春期が不登校に影響する事が絶対にないとは言えないと思います。

 思春期に不登校になっても、それ以前に登校拒否になっている子どもも多いです。つまり、思春期以前にすでに学校で疼く心の傷を持っているのですが、その心の傷のうずきで学校を拒否する要因より、子どもを学校に押し出す要因の方が大きいために、子どもは学校に行き続けていたという意味です。親や先生、大人はこの子どもが無理をして登校している時期に気づきません。

 心の傷が疼きながら学校に行くと、子どもの心は侵害刺激に敏感になっています。他の人では何でもないような侵害刺激で、その子どもの心の傷は深くなっていきます。他の人では何でもないような侵害刺激を繰り返し受けている内に、子どもは心の傷の疼きから全く動けなくなって、不登校になっています。

 その不登校になった時点がたまたま思春期であったという事実だけの可能性が高いでしょう。親や先生、大人が、子どもの思春期の時期に子どもの不登校に気づいたという事実であり、子どもが不登校になる大本の要因はそれよりも前にあることに気づいていないと言う事実だと思います。

経験させる 2006/6/6

 「子供は、早いうちにいろいろな体験・経験をするべき」という意見があります。それは正しいと思います。けれど、元気な子どもなら、親がそのような配慮をしなくても、大人がそのような配慮をしなくても、その子どもなりに環境と関わって、その子どもなりにいろいろな体験や経験をしていきます。その子どもなりに、十分に必要な経験をしていきます。

 人間には知恵があります。子どもの自然な成長を待つばかりでなく、子どもをある方向へ導くことも可能です。そのために親や大人は、子どもに積極的にいろいろな体験や経験をさせることができます。また、子どもの才能を伸ばすために、親や大人が意識的に子どもに、何かの経験をさせる場合があります。その場合、子どもが意図的に経験させられた事柄を克服できたなら、全く問題がありません。克服できないときには、子どもはそれから逃げようとします。そして、逃げられる限り、子どもは逃げ出せた場所で時間を過ごして、機会が来たら克服できなかった事柄に再挑戦しようとします。

 子どもに意図的にある経験をさせる場合、子どもがその経験を克服できなくて逃げようとすると、それを許さない場合が多いです。親や大人は結果を急ぐ場合が多いからです。いったん退いて再挑戦させるという方法を選ぶ場合が少ないからです。それは、子どもが克服するまで、子どもにその経験をさせ続けさせます。

 子どもが克服できない事柄を経験し続けている内に、その事柄を克服できたなら、克服できた喜びで、子どもに大きなエネルギーを与えます。それは新たな挑戦を可能にします。その子どもの能力を高めます。その事柄を克服できないときには、子どもの心は傷ついてしまいます。それを欲求不満性無報酬といいます。しかし、傷ついた子どもの心は見えません。「がんばれ」、「根性だ」と言って、心の傷ついた子どもに挑戦を続けさせます。それはますます子どもの心の傷を深めることになります。

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